私―――佐伯葵は昔から器用で、大抵のことはすぐにできた。
本当に、大抵のことはすぐにできた。
逆上がりが出来ないとか、縄跳びの二重跳びが出来ないとか言っている子を見ると、いつも思うことがあった。
なんでこの子にはこれが出来ないんだろう。
…本当に不思議に思っていた。
そして、こう思うこと…思ってしまうことの意味を、幼かった私は理解していなかった。
私には妹がいる。
私は大抵のことはすぐに出来たけれども、妹はそうではなかった。
「よく出来る姉、あまり出来ない妹」…と、周りの人たちから比べられることも多かった。
ある時、妹が母に叱られているところを見た。
「お姉ちゃんを見習いなさい。」
…妹は、母からこう言われているところだった。
私は妹と母の間に入って、妹を庇った。
妹は小声で「ありがとう」と言いながら、私にぎこちない笑顔を
この時、私は理解した…理解してしまった。
なんでこの子にはこれが出来ないんだろう。
こう思うこと…思ってしまうことの、意味を。
理解はしたけれども、受け入れることは出来なかった。
理解したことから目を逸らしたまま、私は社会に出た。
就職して、私は誠に…尾崎誠に出会った。
誠は新人教育担当として、入社したばかりの私を確り支えてくれた。
今、私が会社で仕事が出来ているのは、何から何まで誠のおかげだ。
誠は会社の先輩だけれど、私が誠を呼び捨てにしているのには理由がある。
入社してしばらく経って、私も何とか仕事をこなせるようになった頃のことだった。
その頃、誠は仕事で調子を落としていた。
思うように業績を挙げられなくて、焦って、荒れていることが見て取れた。
焦って、荒れている誠を見ていると…入社したばかりの私を支えてくれた誠を見ていると…
…どうしても、
誠とは頻繁に二人きりになり、話し、食事やお酒を一緒にして…セックスもするようになった。
私が、会社の先輩でもある誠を呼び捨てにしているのは、こういうわけだ。
心身共に満ち足りた日々が続いた。
…でも…三ヶ月ほど前から、誠の様子が少しおかしくなり始めた。
…まず以前ほど仕事に熱心じゃなくなってきた。
会社の人と親しく話をすることもなくなったし、飲み会などの誘いも断るようになった。
その飲み会に、私が参加していても、だ。
二人きりにはなってくれるし、その時はお酒も食事も一緒にしてくれて、セックスもしてくれるけど…。
…何だか、そわそわしていて…居心地の悪さを感じているように見えた…。
三ヶ月前、誠に何があったのか?
私は調べた。
…そして私は、黒鉄武蔵という艦娘のことを知った。
その日の夕方、N駅近くのパブに黒鉄武蔵は居た。
壁際の席に座って、一人で酒を飲んでいた。
2メートルはある長身、銀色の髪、褐色の肌。
そして、(おそらく休日に)このパブに居るという事実。
…調べた通りだ。
私は、黒鉄武蔵に向かって歩を進めた。
「相席、よろしいですか?」
「どうぞ。」
私は、武蔵の正面に座った。
「…はじめまして、黒鉄武蔵さん。私は、佐伯葵と申します。」
私が名乗ると、酒を飲む武蔵の動きが一瞬止まった。
「佐伯、葵…はじめまして、ということだったが…貴女の名前には聞き覚えがあるな。」
「…私、誠の…尾崎誠の婚約者です。」
婚約者、というのはハッタリだったけれど…そう言わずにはいられなかった。
「尾崎、誠…ああ、貴女がアイツの…。」
…アイツ?
この私の前で、誠のことを「アイツ」と呼ぶなんて…!
武蔵のグラスを奪って、顔に酒を浴びせてやろうかと思った。
しかしその前に武蔵はグラスをテーブルに置いて…
「アイツと何かあったのか?…まずは、話を伺おうか。」
…武蔵の方が、私に話を促してきた。
「あ…あなた、誠に何をしたの!?」
冷静ではいられないまま、私は武蔵を問い詰めた。
対して武蔵は冷静に…違和感を覚えるほど冷静に答えた。
「…事実だけを言おう。」
「アイツとは、三ヶ月ほど前にここで会って、ホテルでセックスをして、少し話をして…それから一度も会っていないし、連絡も取っていない。」
こ…この
罵倒の言葉が浮かばない。
それでもこの
「貴女の方では何があったのだ。」
武蔵は…また違和感を覚えるほど冷静に、私に問いかけてきた。
武蔵の声は冷静で穏やかだったけれど、武蔵が私に向ける視線は、私を射竦めた。
…な、何なの…?
あなた…誠を…私の誠を寝取ったくせに…悪いのはあなたの方なのに…何でそんな目で私を見据えるの、よ…。
そう思っても、私は気圧されて、抗議の言葉を出せなかった。
気圧されたまま、この三ヶ月の間に誠が変わってしまったことを武蔵に伝えた。
「以前ほど仕事熱心ではなくなったし、貴女以外の同僚と親しくすることもなくなった…か。」
「しかし貴女にとって問題なのは、アイツが貴女と二人きりになった時、居心地が悪そうに見えること…なのだろう?」
「貴女は、アイツが貴女から私に心を移したのではないかと思っているのかもしれないが。」
「その推論は、少々無理がある。」
「で、でもあなた、誠と…寝たんでしょう!?」
「貴女にとって愛情とは、セックス一つで簡単に生成消滅するようなものなのか。」
誤魔化されたような気もしたけれど、反論もしにくい言い方だった。
私が反発出来ずにいると、武蔵はそんな私に構わず話を続けた。
「貴女はこうして私の前に現れる前に、私の名字まで調べ上げた。」
「なら、私とアイツが何度ここで会ったか、何度ホテルに行ったかも調べがついていることだろう。」
「私とアイツは、何度会っていた?」
…実際私は、探偵に依頼して調べてもらっていたし、私自身も動いて調べていた。
探偵さんの報告でも、私自身の調べでも、武蔵と誠が会っていたのは、確かに三ヶ月前のただ一度だけのことだった。
「一度だけ、だっただろう。」
「貴女の雇った調査員が信頼できる者なら、あるいは貴女自身の調べが確かなら、そのはずだ。」
「実際私はアイツとは一度しか会っていないのだからな。」
「私はあの時この店に居たし、今日もこうしてこの店に居る。」
「もしアイツが私とのセックスを望んでいるのなら、ここに来れば何度でもする機会はあった。」
「だがアイツが私と会ったのは、あの日一日だけのことだ。」
「アイツが貴女から私に心を移したという推論は、やはり無理があるように見える。」
「それと…貴女はアイツの浮気相手として、私の存在を特定したが。」
「私以外の女、あるいは艦娘の影は見えたか?」
調査では…少なくともこの三ヶ月の間、誠が私以外に肉体関係を持った相手は、この武蔵だけだった…。
私がこのことを伝えると、武蔵は言った。
「それならアイツは、貴女から私に心を移したどころか。」
「私との浮気を最後に、二度と浮気はしないと心に決めたのかもしれないぞ。」
「あるいは、あの日私とセックスをしたのは初めての、ただ一度の気の迷いというヤツだったのかもしれぬ。」
…ここまで聞いて、私は武蔵の話に違和感を感じた。
武蔵は私の婚約者を寝取った
「…でも、最近の誠は…私と二人きりになっても、何だか居心地が悪そうに見える…。」
私が言うと、武蔵は少し間を空けて…。
「…貴女とアイツが付き合い始めた時、アイツは荒れていたそうだが。」
「え?…ええ…仕事が、上手く行ってなかったみたいで…。」
何故そんな話を?そう思った時、武蔵は言った。
「アイツの仕事が上手く行かなくなった原因は、貴女だ。」
「!!…あ、あなた…!言うに事欠いて…何を!」
「貴女が会社で実績を挙げ続けたことで、アイツは会社での立場を失った。」
「同僚からは、貴女は新たなエース、アイツはかつてのエース…と比べられるようになった。」
「上司からは『佐伯君を見習いたまえ』とまで言われたそうだ。」
「アイツは失った立場を取り戻そうと、無理な仕事を重ねて…。」
「…結果を出すことが出来ず、焦って、荒れていたのだそうだ。」
「アイツの中では、貴女は勝者で…アイツ自身は敗者ということになっている。」
「だから貴女からアイツへの情愛は、勝者から敗者への憐憫に過ぎないのではないか…。」
「貴女と居る時、アイツの心にはこんな疑念が生じてしまうそうだ。」
「…確かに、これはくだらぬ疑念だ。」
「だが、このくだらぬ疑念が居心地の悪さとなって、アイツを苛んでいるのだろう。」
…比べられていた…また…比べられていた…!?
よりによって…誠と…私が…!?
よりによって…私が、勝者で…誠が、敗者…!?
よりによって…私が…私が……!
「わ…私が、私が誠を、誠を下に見ているって言うの!?」
「………。」
私が言うと、武蔵は何を思ってか少し目を細めた。
「馬鹿なこと言わないで!私は、私は誠を下になんか見てないっ!」
「私、誠のためなら何だって出来るわ!」
「誠のためなら、何だってできる!……体だって…セックスだって…!」
誠のためならなんだってできる、私は誠を下になんて見てない!
…私はムキになって捲し立て、言い張った。
でも武蔵はどこまでも、冷酷なほど、冷静に返した。
「貴女はアイツに体を『献上』しているつもりなのかもしれないが。」
「アイツは貴女から体を『下賜』されていると感じているのかもしれん。」
「貴女は勝者でアイツ自身は敗者、という構図がアイツの中にある限り。」
「貴女がアイツのために
「貴女がアイツのために
私は…誰かを見下さずにはいられない人間だと言うの…!?
あのとき、やっぱり私は、妹を見下していたの…!?
そして今、よりにもよって私は、誠を見下していると言うの…!?
私は…私は…!
「でも…私…本当に…本当に…。」
口から言葉は出ていたけれど、その後が続かなかった。
何を言って良いか、わからなくなっていた。
「貴女が勝者、アイツが敗者という構図は、アイツを苛んでいる。」
「…この構図がある限り、貴女の想い、貴女の真実がアイツに伝わることはない。」
想いも真実も伝わらない。
誰も見下してなんていないのに、誰も見下したくなんかないのに。
…信じてもらえない。
……息が苦しい。
誰か…誰か…助けて…。
「…だが視点を変えれば、貴女も敗者だ。」
…敗者…私、が…?
「貴女が会社で実績を挙げ続けたことで、アイツは会社での立場を失った。」
「失った立場を取り戻そうと、アイツは無理な仕事を重ねて自分を追い込んでしまった。」
「アイツは行きずりの
「婚約者であるはずの貴女には、このことを話していない。」
「アイツは、自分が抱える生き辛さを打ち明ける相手として、婚約者である貴女ではなく、行きずりの
「これは、貴女がアイツの婚約者として、ある意味で敗北したということを意味している。」
…私は…誠に、心の内を、辛さを…打ち明けてもらえなかった…。
私は、自分が敗者だということを認めてしまった。
「貴女が勝者、アイツが敗者という『構図』は、アイツだけではなく貴女をも苛んでいる。」
「だが貴女が敗者だという『見方』は、この『構図』を打ち消すことができるのではないか。」
え…?
「勝者という立場は、むしろ貴女を苦しめているようだ。」
「だがここでアイツに対して貴女が、自分は敗者だと示すことができれば。」
「貴女は勝者という立場から降りることができる。」
…この武蔵は…何を言っているの?
どうして…あなたが…私のことを…そんなに…。
「…でも…どうすれば…。」
私は武蔵に問うた。
…この時、私は既に武蔵に屈服していたのだと思う。
私は、縋るように武蔵に問うた。
「このまま貴女がアイツのために何かをしても、何かを与えても。」
「それは敗者に対する勝者の情けに見える。貴女は敗者に対する勝者に見える。」
「ならば、自分は勝者などではないとアイツに示すためには…。」
武蔵はそこまで言うと、テーブルからグラスを取り、酒を一口して、またグラスを置いた。
…自分に言えることはここまでだ。
そう言われたように感じた。
私は…席を立って、店を出た。
私は打ちのめされた。
この世に正義というものがあるのなら、それは私の側にあると思っていた。
でも武蔵との話では、正義がどちらの側にあるかなんて何の意味も無かった。
実際、武蔵は事の是非善悪については何も言わなかった。
ただ、何が私と誠を苛んでいるのかを示しただけだった。
私は武蔵を敵視していた。
でも武蔵は、私に敵視を返さなかった。
武蔵が私に返したのは、私と誠を苛む「何か」に対する「処方箋」。
…言い争いや殴り合いよりも、そのことが私を打ちのめしてしまった。
***********************
夜の会社。
誠は、一人で机に向かっていた。
私は後ろから誠に近づいて…声をかけた。
「残業?」
誠は手を止め、私の方を振り返った。
「…うん…俺としたことが、ドジったよ。」
「…でも、ちょうど終わったところさ。」
私は…椅子に座った誠に、後ろから抱きついた。
「…どうしたんだい?葵。」
「…したいわ。」
「…嬉しいな。それじゃ、どこでしよう?この後ホテルにでも…それとも、俺の家に来るかい?」
「今、ここでしたい。」
「おいおい、ここは会社だぜ?AVじゃないんだから…。」
「今のあなたに、私の求めが拒めるの?」
「?」
「あの店で、武蔵に会ったわ。」
「………!!」
私は誠の虚を突いて、誠を椅子から引き倒し、馬乗りになり、誠の肩を床に押さえつけた。
「あ、葵…何、を…。」
私は強引に誠の唇を奪い、口内を蹂躙した。
口を離してから、私は誠を責めた。
「仕事で、私に追い抜かれて悔しい?」
「あなたを追い抜いた私に、体を許してもらっていることが惨め?」
「ふざけないで!」
「あなたに本音を、気持ちを打ち明けてもらえない私の方が惨めだわ!」
「よりにもよって、行きずりの
もう一度誠の唇を塞いで、解放して、さらに責めた。
「私の方が、絶対に惨めだわ!」
「だから…あなたからの情けを頂戴!」
「慰めて!…体だけでも、慰めてよっ!」
…私は誠の上に跨がって、腰を振っていた。
「な…によ、ちゃん、と…勃って、る、じゃない…っ…んんっ!」
「あ…葵、こ…こんな…ところ、誰かにっ…見られ、たら…お、ほうッ!」
「あっ!あっ!…見られ…たら、な…に…?」
「あなた…が、私の、ものにっ…ならない、なら…あっ!」
「く、ふぅ…ッ!…私が、あなたのものに…なれない、なら…ッ…んんっ!んうぅ!」
「立場、なんて…なんの、意味、も…ああ!」
「余計な、こと…言わ、ない、で…しっかり、私、イかせて…んんっ!」
…私は誠の迸りを自分の中に感じながら、一度果てた。
…いつの間にか、私は四つん這いになっていて、後ろから誠に犯されていた。
「ああ!イイ!イイ!気持ち、いい…ッ!もっと、もっと…犯してッ!め…ちゃくちゃに…して…ッ!」
「…………。」
誠からの言葉は無かった。
時折息を漏らしながら、ひたすら私の後ろで激しく前後していた。
理性を失い、私を犯すことしか頭にないらしい。
…でも…。
「あなたはっ…わたしの…だから!…んんっ!…だから、わたしは…あなたの…だから、だから…あぁぁ!」
「ああ壊して!イかせて、壊して…!んううぅっ!…できるまで…できるまで、出して!…中に、中にぃぃ!」
そのまま誠は私の中に出し続けた。
そのまま私は誠を搾り続けた。
私も、誠も…どれだけの時間か、その間中、人間であることをやめていた。
私は、誠の上に伏していた。
(知らないうちに、また私が上になっていたらしい。)
「あ…おい…葵…。」
弱々しく、誠が口を開いた。
「…俺が…悪かった…けど、こんな所で、こんなことをしたら…葵だって…。」
「なんで…こんな…無茶を…。」
「それは私が、追い詰められた負け犬だからよ。」
「君が…負け犬…?」
「今の私は、負け犬だわ。」
「あなたを行きずりの
「あなたの恋人でありながら、あなたに本音や気持ちを打ち明けてもらえない負け犬。」
「そして、それでもあなたから離れられない負け犬。」
「あなたを私のものにするには、私があなたのものになるには、もうこうするしかない。」
「そんな風に考えてしまうほど、追い詰められた負け犬。」
「…それが、今の私なのよ。」
「どう?…これでもあなたから見て、私は勝者だなんて言えるのかしら?」
「誠…自分が哀れまれてる、なんて思うぐらいなら…あなたこそ私を、哀れんでよ…。」
息を整えてから、誠は応えた。
「…葵、君が何を言おうと、俺は自分が負け犬だと感じてる。」
「でも君が自分自身を負け犬だと感じて、それで俺の哀れみが必要だと言うのなら。」
「…俺も負け犬として、君の要求に応じるよ。」
他人から見れば、傷の舐め合いに過ぎないかも知れない。
でも、こうして誠は私のものになり…私は誠のものになった。
それと、幸いと言うべきか、残念ながらと言うべきか……この日の情事は、露見することはなかった。