第一話:恍惚と絶望の狭間に
0.
「あッ──! んっ……ああっ! い、いやぁっ! ンッ!!」
生ぬるい体温が、口から吐き出されていく。
恍惚の情感は嬌声となって大気を震わせ、私にまとわりつく、『私』の世界を塗り替えていく。
喘ぐたびに、潰された目に針を刺すような痛みが生じるが、今の私にとってはそれすらも、快楽を促す衝動にすぎない。
秘部をほじくる指が止められない。
指と指の間を愛液が滴って、ねとりと白糸を引いている。
膣の内壁が泥のような手触りで、私の指を奥へ奥へと飲み込んでいく。
絶頂のたびに心がひび割れ、そこから欲望が溢れ出す。
とめどない。
気持ちがいい。
身勝手な自慰は、なんと気持ちがいいのでしょうか。
そう、『私』が囁いている。
私は、残っているかすかな理性を必死に繋ぎ止めている。
無駄だと、わかっていながら。
愛液をたっぷり掬った指を、爪先から吸い上げて舐め取り、その蜜の味に舌を鳴らす。
それでも私は、
私は──望みました。
絶頂のたびに、意識の底に、私だったものが押し込められていく。
私だったもの。
人を救うために粉骨砕身働き、人の笑顔と、涙のために戦った私。
泥濘に犯された幼少期から、医学に救われ、対価として青春を捧げ、弱者を救い、権力者に蔑まれ、暴力に弾き出された。
世間から居場所を失い、ただひたすら叶わぬものに手を伸ばし──追い詰められただけの人生。
それが、二十五年。
どんなに辛くても、悲しくても。
私の、私として生きた、二十五年でした。
私の中に入り込んだ何かが、それを押しつぶしていく。
無慈悲に。
邪魔なものをゴミ箱に捨てるように。
私の二十五年を、排泄物のように、意識の底に押し流していく。
潰した虫を丸めたティッシュを流すような、嫌悪感さえ込めて。
私は悲しんだ。
やめてください、そうも叫んだ。
それだけはしてはならないと、やめてくださいと。
だが、それは、私に巣食った『それ』は。
私の声などまるで無視して、あっけなく、私の二十五年をブラック・ボックスへ追いやった。
私は驚いた。
悲しむよりも先に、驚いてしまった。
もちろん、失われゆく人生の姿に、悲しみや怒りがあったが──何より驚いたのは、それが起こしたこと、そのものに。
それを起こせるだけの容量が、私の人生を捨てられるだけの空白が、私の中に存在している事実に驚いていた。
それは、つまり。
誠心誠意、全霊を費やしたはずの私の心中に、私の二十五年の全てを捨てられる余裕があったということだからだ。
そして、
それは、私の中に、外から入り込んだものではなかった。
私の中に、元々、あったものだった。
暗い暗い心の奥底。
意識を向けても、無意識の内でも気づけなかった、深層の領域に。
でも、確かに私の中で息づいていた『それ』は、私が私を失う時を、いまかいまかと待っていただけなのでしょう。
なぜなら、悪魔的な微笑み浮かべ、私の心にすげ変わった『それ』は、私の身体にすんなりと、よく馴染んだからだ。
それに支配された途端、私の身体の隅々まで、とてつもない快楽が押し寄せてきたからだ。
恍惚に沈む理性──私は秘部を掻きむしるのをやめられない。
抵抗などできない。あられもなく、私の『女』の部分から、とめどなく蜜が溢れだしている。
下着を湿らせ、収まり切らない蜜が、ぼたぼたと床にこぼれ落ちる。甘い匂いがたちのぼって、身体中が痙攣し、地面に膝をついた。
立っていられなかった。
私はそこに、腹ばいになって倒れ込んだ。
既に、下半身はスカート全面が黄ばむほどに、びちゃびちゃになっていた。
ぴちゃり、ぴちゃりと水音が立つ。
やはり、人の世の産物とは思えない、理性の鍵を破砕する、甘い匂いが漂っていた。
卑しくも、神の
腰が砕けている。
立ち上がれない。
嫌悪感があった。罪悪感が胸を締め付ける。死にたいほどの羞恥心と背徳感が、かすかな理性に傅いて、意識の底で擦れている。
しかし──私の手は祈りではなく、いっそう激しく自慰行為を続けていた。
開放的な肉欲の逡巡。
気持ちがいい、止められない。
「あっ、あっああああ、あ、あ、あっあッ……あ、あーーーーッッ!!」
身体が跳ねる。
人の言葉ではない声を、吐き出しながら。
海老反りに翻り仰向けになり、大口を開けて、唾液のしたたる舌を口外に放り出す。
弛緩している。
震えている。
気持ちが良かった。
気持ちが良かったのだ。
初めから──生まれた時から、私はこうだったのかと見紛うほどに、私の身体は、新しい『私』を受け入れてしまっていた。
その日から、『私』は。
極限状態にも関わらず、カウンセリングと称し、肉欲を満たすために異性同性を選ばす股を開き、あらゆる快楽を貪り尽くしました。
そして、然るべき対価と言いつつ、その
信仰と愛と狂喜を向けられて、悦に至る『私』。
『私』を巡って殺し合う人々に、その出来事そのものをオカズに、人前で自慰に励み、そのシチュエーション
ああ、と。
私は理解する。
外から入ってきたおぞましいものは、キッカケでしかないのだと。
これが、本来の私なのだと。
肉に溺れ、愛欲にまどろみ、狂喜の渦中にあって、自分だけは安寧を貪る。
それだけを良しとする、獣。
それが『私』なのだと。
それでも、私は願った。
私が私でなくなる前に、最期の瞬間まで、私は『私』の滅びを願った。
救いを求めた。
私の二十五年。
せめてそれが、この世に残ることを祈った。
それが、『私』の手によって消え去るのは、悲しかったから。
『求めよ──されば与えられん』
掠れゆく意識の最中、そんな声が、聞こえた気がした。
枯れ果てた心の奥底、もう、空白の中からすら、私は消えかけている。
ヒトの
それは、大きな男だった。
太くて、逞しい腕だった。
私をふっ、と、優しく抱きしめた。
耳元で囁いた。
──また逢えたね、センセぇ。
懐かしい、声だった。
私は、あたたかな雫が、顎に向かってゆっくりと、頬を伝って落ちていくのを感じている。
それは、優しい……声でした。
1.
──二〇一四年。
海の上であった。
そこに降り注ぐ日差しを遮るものが、雲以外に存在しない。
空に斜めに突き出た鉄塔の先から、めらめらと黒い炎が噴き出していた。
粘り気の強い、油の燃える炎である。
施設全体を通して、油と鉄の臭いが強かった。
それは、大きな基地であった。
荘厳で、無骨な見た目であった。
一見すると、建物が無造作に並び立てられており、さながらひとつの都市をくり抜いたようなスケールを持っていた。
面積の大きい鉄骨を何本も組み上げて、大雑把に、海に深く突き刺して、それは存在した。
海洋油田基地セラフィックス。
二〇一四年のある日、セラピストの殺生院キアラは、ここに降り立った。
日差しの強い日のことであった。
髪を流すほどの、油混じりの風が吹いていた。
殺生院キアラがセラフィックスに降り立った瞬間、彼女たち医療チームを迎える職員たちも、甲板に出ていた職員たちの目も、一斉に彼女に集まった。
否応なくである。
性別も、年齢も関係なくである。
歩くたびに、白衣が翻る。
長い黒髪が潮風に揺らいでいる。
身長が高い。
それでいて、その身体は凹凸をはっきりさせた、豊満な肉体であった。
足音さえもそうである。
艶かしく、ともすれば重そうな女性的部分をゆさりとゆらしながら、しかし上品な足音をさせていた。
美人だ。
掛け値無しに。
顔も、身体も、整っている。
目が横に広く、瞳が大きい。
真摯な、決意のこもった目をしている。
だが、それでいて、瞼が外側に向かって柔らかな曲線を描いている。
見るものに優しさと落ち着きを与えるカタチである。
下唇にみずみずしい色気があった。
肉体を形成する全てのパーツが、人間の美しさの理想像を、下品に堕ち切らないギリギリのバランスで有している肉体であった。
造形美という言葉を、そのままの意味でくり抜いて貼り付けているような女性である。
それだけではない。
何か──特別なものを感じていた。
殺生院キアラを見るものたちは、大きなバックを手に、セラフィックスの上をただ歩く彼女に、言い表せない魅力のようなものを感じていた。
当のキアラは、仕事場と紹介された教会──礼拝堂を、ぽかんと見上げた。
その仕草はまるで少女のようであった。
肉体の持つ艶やかさとのギャップがある。
殺生院キアラがセラフィックスに降り立った、というのは厳密には間違いである。
その手続きに不正があるという話ではない。
彼女は、ここに追い立てられたのだった。
彼女は、聖女であった。
どこであっても、いつであっても。
多くの人に救いをもたらしていた。
無償で。
故に、権力に疎まれた。
故に、暴力に蔑まれた。
だから、追い立てられた。
追い詰められ、追い詰められ、たどり着いた果ての果てが、海の上の、どこの国でもない、ひとつの集落だったのだ。
だが、殺生院キアラの目は絶望を跳ね返す強い輝きを放っていた。
それは、彼女の肉体が持つ、艶やかな輝きとは、まるで別の光である。
決意を秘めている。
覚悟を決めている。
しいていうなら、それは、今こそ命捨てがまるという、武士の覚悟であった。
それを、遠くから見ている男がいた。
大きな男であった。
肩幅ががっしりしていた。
筋肉が大きい。首が太い。
だが、それ以上に体全体の骨格が大きい。
骨そのものが太いのだろうと思えた。
普通の人が着たならば、ダボダボになるだろうサイズの青色の作業服を、きっちり着こなしている。
二枚に重ねた軍手もはめていた。
服も、手も、肌も、髪の毛からも、汗と油の臭いを漂わせる男であった。
しかし、ベタついた肉体のそれに対して、身にまとう空気に爽やかさがあった。
笑っていた。
えくぼの浮かぶ、ほがらかな笑みだった。
子供のようである。
左目に、三本線の縦傷があった。
動物──それも、大型で、爪を持つ肉食獣に引き裂かれたような、仰々しい痕であった。
太い黒い眉毛で、黒目が大きい。
しかし、真黒いそれが、真黒いまま、輝きを放っていた。
ただものではない。
尤も、この男に限らず、セラフィックスに集められた人間は、皆、何かしらでただものではないのだが。
男は、教会の門をくぐる殺生院キアラを見届けて、言った。
──やっと、来たとやねェ、センセぇ。
にやりと、男は笑っていた。
男はぐるりと踵を返して、下層の作業場へと戻っていった。
2.
ある日の昼のことであった。
礼拝堂に、ドタドタと荒々しい足音が入り込んできた。
キアラが入り口を見ると、作業場服を着た男たちが彼のように並んでいた。
みな、身体が大きい。
みな、身体の節々が油で汚れていた。
それを気にするそぶりもない。
明らかに知的階級の人間ではなかった。
労働階級──セラフィックスの中でも、最も身体を酷使する仕事についている者たちである。
男たちは礼拝堂に入るなり、ぞろぞろと広がった。
全員、大小の差はあれど、その表情や動きに、怒りを滲ませていた。
礼拝堂の最前列の一席に、殺生院キアラはいた。
彼女の元に、男がひとり、ずいと躍り出た。
おそらく、この集団における、リーダーだろう。
ヘルメットを被ったままである。
作業場からそのまま抜け出したのだろうか?
「先生、お休み中にすまねぇな」
思いの外、丁寧な物言いであった。
男なりに言葉を選び、発した言葉の丁寧さに、自分で照れてさえいるようである。
キアラが男の顔を見て、はい、と返事を返すと、男はたまらずぺこぺこと頭を下げた。
「かまいませんよ。ちょうど、お昼は食べ終わったところでしたので」
キアラが花咲くように笑うと、男たちのいかつい雰囲気がドロドロと溶けていく。
怒りも苦難もほどけさせる、腕利きセラピスト、殺生院キアラの笑顔である。
それだけで、荒っぽい男達はたじたじであった。
いっそう恥ずかしそうに。
先生よ、と男は言った。
はい? とキアラは首を傾げた。
「俺たちより、ちょっとデカい……目に三本傷のある男が、来なかったかい?」
男は人差し指で、自身の左目を縦に三回、なぞって見せた。
目の色が、左右違う男だ。と付け加える。
紺色の作業服の上着を腰に結んで、こげ茶色のブーツを穿いてるやつさ。
さらに、そう続けた。
男は、あくまで穏やかな口調であった。
殺生院キアラは、セラフィックスのアイドルとも言える存在だった。
差別的階級社会の蔓延るこの小さなコミュニティにおいて、差別なく人に接する唯一の存在と言ってよかった。
男たちにとっても、いや、毎日キツい仕事をこなしている男たちだからこそ、キアラの態度。その希少性は理解していた。
とびきりの別嬪なのはもちろんだが、男たちには、キアラは毎日毎日、多くの人に、解決できるはずのない悩みを投げつけられて、それを真っ直ぐに抱き止めてしまう
だから、いかに荒型に慣れた男たちでも、強気で出れなかった。
キアラはさて、と顔をひねった。
人差し指を顎に当てて、視線を上にもたげる。
少女のような振る舞いであった。
それが、よく似合う。
知りませんわ、とキアラは言った。
とぼけるような演技であるが、困ったような顔は本当に見えた。
男たちは、その一挙手一投足に魅力されていた。
だが、同時に、キアラが嘘をついていることを、なんとなく察していた。
男はちっ、と舌打ちして、踵を返した。
「先生。そいつがもし、礼拝堂に来たら教えてくれねぇか?」
入口の前でそれだけ言うと、男たちは礼拝堂から出ていった。
足音が遠ざかる。
それが消えるのを確認してから、キアラはほっ、と息を吐いた。
「せ、センセぇ? あいつら、行ったかにゃあ?」
礼拝堂の二階から、その男はひょっこり顔を出した。
階段から、キアラを見下ろしていた。
ころころと、子供のような笑顔を浮かべている。
三本線の切り傷が、左目にあった。
左右の目の色が違う。
左目は翡翠色、右目は黒色。
首元まであるだろう黒髪を、オールバック気味に後ろに流しているが、いくつかの髪が束となって跳ねている。
三十代の、前半と言ったところであろうか。
大きな男であった。
紺色の作業服を身にまとい、上着を腰で結んでいた。
たくましい肉体の男であった。
肉付きがいい。脂の乗った肉を纏っていた。
腕の太さ、首の太さが丸太のように太い。
良く灼けた、血の通った赤い肌であった。
男は、キアラの隣までるんるんと歩み寄った。
キアラが立ち上がる。
対面する。
すると、男の顔はキアラの顔のひとつ半ほど上にあった。
ずいぶんと上背がある。
インナーとして、長袖のシャツを着ていた。
それが黒地なのは、油汚れや煤汚れが目立たぬようにであろう。
こげ茶色のごつごつとしたブーツも、頑丈さも含めて、同様の理由で穿いているのだと思える。
「いやー。助かったバイ、センセぇ」
男が言った。
訛りが強い言葉である。
九州訛りであった、日本人だ。
男はあいつら、と続けた。
「あいつら、おいに賭けばしかけよったくせに、集団でイカサマしよるもん。お陰で大負けしたバイ。おいがイカサマしよるやん! って指摘したら、逆ギレしておったてられて……いやぁ、センセぇおらんやったら、おいは今頃、サメの餌やったよ」
にははと、笑えないことを爽やかに笑い飛ばす男であった。
それは、賭け事などにハマりこんだ貴方が悪いんですよ。
それは、貴方が隙だらけのカモに見えたんですよ、きっと。
と思ったが、キアラは言わなかった。
賭け事は、こういう窮屈な世界で、荒っぽい男たちの遊びとしてはありがちなものだった。
そして、彼らの世界の中では、ハメるよりハメられる方が悪いのだ。
常人には些か理解できない世界である。
キアラの中の正義感と照らし合わせても、悪いのはハメた方だと分かってはいる。
だが、こういった普遍的な正義と特定のコミュニティの空気感というのは、得手して食い合わせが悪い。
だから、キアラはそこに関しては何も言わなかった。
しかし、大敗を喫したというこの男を、あの男たちに引き渡せば、どう言う末路を辿るのかはなんとなく察することができたので、とりあえず匿うことにしたのだった。
「もう……今回だけですよ」
キアラが言った。
困ったように口を尖らせた。
男はへへ、と鼻を掻きながら返した。
「ばってん、センセぇは本当に優しか人バイ」
人の話を聞いているのかいないのか。
こちらの表情を汲み取っているのか、そうでないのか。
この男は、キアラから見て、こざっぱりとした唯我独尊の塊のようであった。
3.
礼拝堂にその男が転がり込んできたのは、昼のことであった。
賭け事に負けて追われてる!
捕まったら殺される!
そうわんわんと泣き落とされて、キアラは思わず礼拝堂の二階に男を匿った。
見たことがない男であった。
ここに赴任してから、相当数の患者を分け隔てなく見てきたキアラすら、初めて見る男であった。
もちろん、セラフィックスに勤めるものは多い。
知識階級から労働階級だけではない。
物資の運搬という形で外と繋がりを保つもの。
資金援助を申し立てている、怪しげな組織の偉い人。
なにより、共同開発者に当たるカルデアの職員なども、セラフィックスの仕事には関係するのだから。
母数が多いのならば、その中には、常人ならば精神の迷路に迷い込むような環境にも、平然と適応するような者はいてもおかしくはない。
セラフィックスの所長、副署長などはその良い例であろう。
過酷な環境に身を置くことで、むしろ輝きを増す存在がいることも、今まで散々、いろんな世界を見てきたキアラにはわかっていた。
だから、男の存在を特に不審がることもなかった。
見たことがなくても不思議ではない。
自分の世話にならない人間がいても不思議ではない。
強い人間であるか、あるいは大馬鹿ものか。
それはとにかくとして、この男もそういう、ありふれた特異な人間であるにすぎないのだろう。
自分に危害を加える様子もない。
無邪気そのものに駆け寄ってくる姿。
先程まで大粒の涙を流していたのに、もう心からの笑顔を浮かべる喜怒哀楽の切り替えの良さ。
大型犬のそれのようだった。
尻尾をぶんぶん振って、人懐っこい雰囲気と、それでいてベタベタしない爽やかさ、愛嬌があった。
「センセぇンこつは、おいもしっとーよ」
確か、説教院キアラさんやったろ?
「殺生院キアラです!!」
大口で訂正するキアラに、
ほら、だいたいあっとったバイ!
と男はケラケラ笑っている。
キアラはぐぬ、と思った。
顔には出さなかったが、ずかずかとした物言いを失礼に思っていた。
「おいは……そうやね、みんなにはゴウち呼ばれとるけん、センセぇにもそう呼んでほしかね」
「ゴウ、ですか?」
「猛々しかろ?」
おいに相応しか名前やけんね。
とまたケラケラ。
申し訳ないが、キアラには男に対して猛々しいイメージは全くなかった。
貴方はむしろ、コロコロ笑うので、コロちゃんとか、そんなイメージです、と思った。
口には出さなかったが、表情には出ていた。
ぎこちない微笑みが溢れていた。
男は礼拝堂をぐるんと見上げ回した。
んん、と唸った。
ぐぐっと背伸びをした。
青空の下でするようなそれだった。
「気持ちんよかとこやねぇ〜、ここは」
それはそうである。
ここは、外の世界とは別の空間であることを念頭に作られている。
窓の位置ひとつとっても計算の元に作られているのだ。
差し込む光は暖かく、眩しすぎない程度になるように。
空気は常に清浄されていて、なるべく澄んだものになるようにと。
ここは、セラフィックスの上で、精神のマイった人間たちの逃げ場なのだから。
それでも、セラフィックスが稼働する、重厚な機械音は聴こえてくる。
ぐごごごごごごお、と。
礼拝堂は防音措置がされている。
建物自体が頑丈に作られている。
だが、その微振動そのものを鎮めるほどではない。
それは、セラフィックスの脈動そのものだからだ。
この油田基地が、正常に働く限り止まることはない。
人間で言うところの、心臓のポンプの働きであるからだ。
だが、セラフィックスに従事する精神を病むものたちにとっては、その音は呪いに等しい。
一定のリズムで刻まれる重低音。
時としてはそれだけで、人の精神は狂いそうなほど追い詰められてしまうこともある。
だから、この礼拝堂は、その外観や存在そのものをはじめとして、徹底してセラフィックスにそぐわないものとして建てられていた。
ここにいる間だけでも、せめて心を落ち着かせたい。
キアラのために用意された、というのは言い過ぎであろう。
所長たちが、人への慈悲からそうしたのかは定かではない。
しかし、意図はどうあれ礼拝堂の作り出した空気と、キアラの献身の結果として、ここはちゃんと、セラフィックスの人間にとって、心落ち着ける場になっていた。
「私の力なんて、微々たるものですよ」
「またまた」
みぃーんな、噂しとーよ。
新しくきたセラピストの先生は、えらいべっびんさんやって。
俺たちみたいな労働階級の下っ端にも、ちゃんと目を合わせて話を聞いてくれる、優しい人やってね。
とにかく人気ばい。
あげくん果てに、センセぇに会いに行きたかー言うて、ワザと病んだフリまでしようか言い出すやつまでおるとよ。
「まぁ、それはこまります。その……褒められるのは嬉しいですけど、仮病はダメですよ」
やっぱそげん思うよね?
せやけん、そいつにはおいからもそげん言っとくタイ。
でも、おいも確信したばい。
やっぱり、センセぇが来てから、セラフィックスの空気が柔らかくなったとやなって。
「……そうなんですか?」
そげんやって。
センセぇ、自覚んなかったとや?
かーっ! こら罪作りなおヒトばい。
そげんか可愛い顔もできっとやけんね、そりゃあセンセぇ、老若男女、みんなにモテるたいね。
地獄に仏、ジャガイモ畑に薔薇どころやなかね。
「そ、そうですか、皆さん私のことを、そんなふうに……」
男の言葉に、キアラはちょっと頬を赤く染めて、しかし、迷ったように言い淀んで、目を伏せた。
目線が下に向いて、泳いでいる。
何か、その迷いに心当たりがある動きであった。
「でも、おいはセンセぇの目が好きじゃな」
「目、ですか……?」
キアラがちら、と顔を上げた。
おうよ!
と男は笑う。
「センセぇの目、強かもん。乗り越えてきた目ばしとる。よか事も、わるかこつも、苦しみも悲しみも、ぜぇんぶ乗り越えてきた目ぇしとるばい」
だから、おいはセンセぇの目が好きばい。
まだ全然若かとに、こうしてひと目で、わかるやつにはわからせる。
そういう強い目ぇが、おいは好きじゃけん。
「若……い、いえ。そんなふうに言ってくれた人、あんまり、いませんね。そうですか、私の目が……」
もったいなかねェ。
まぁでも、無理んなかよ。
センセぇ、ちょっと、美人すぎるもん。
良うも悪うも、センセぇの目の光に気づくためにゃあ、ハニートラップが多すぎるばい。
魅力的すぎるもん!
おいも、あとちょ〜っと若かったら、ウッカリのめり込んで、涎を垂らして「へへぇー! キアラさまぁー!!」ってなっとーよ。
「それは言い過ぎですよ!」
大袈裟にキアラを仰ぐフリをするゴウを見て、キアラはクスっと笑った。
ゴウはかっかっかっと笑って、なるなるー! と頭を叩いた。
「おとと、もうこんな時間たい。おいも行かにゃあな。仕事は仕事やけん」
袖をめくって腕時計を見ると、ゴウはバタバタと入口に早歩きした。
入口の前で扉に手を置いてから、思い出したように振り返った。
キアラと、目が合う。
どきりとした。
見返り美人とでも言うべきか、翡翠色の目が細められて、口が、かすかに開いていて、先ほどまでの子供っぽい仕草とは真逆の、とても大人びた印象を受けたのだ。
「また、きてんよかかね? センセぇ」
キアラは一旦ぽかんと口を開けて、それからふるふると口を弛ませて、ふふっ、と笑った。
「ええ、おやすみ時間なら、構いませんよ」
ゴウは、白い歯を見せて笑った。
一転して、童(わらべ)の無邪気さが滲んでいた。
扉を開き、その青空の、光の向こうへと消えていった。
旅立つように。
空気が入れ替わる。
扉が閉じる少しの間に、油の臭いを孕んだ、風熱が礼拝堂に入り込む。
その熱に当てられて。
キアラはよし、っと息をついた。
今日もまた、終わりのない仕事に身をやつすのだ。
切り替えなければ。患者のためにも!
だが、少しだけ、心が軽い気がしていた。
思えば、いつも人の愚痴ばかり聞いている。
面と向かって褒められたのは、久しぶりだった。劣情のない眼で見られたのは、久しぶりだった。
それも、歳上の、身体のたくましい男性に。
よしっ!
喜色に染まり、緩んだ頬に力を入れ直して、キアラはそれを飲み込んだ。
礼拝堂の扉が開く。
ゴウとは全く正反対の、陰湿な気を纏った患者たちが、ぞろぞろと入ってきた。