1.
──また、逢おうね。
最後の言葉でした。
それが、私が聞いた、『彼』の最後の言葉でした。
礼拝堂の扉をくぐり、不自然なほどの光の中に消えていく大きな背中が、最後に見た彼の姿でした。
私にいったん振り返り、楽しさに心震わせる子供のような笑顔を、表情に滲ませて。
待ちに待った遠足にでも行くような、いっそ軽々しい足取りで去っていきました。
彼は、私の前から泡と消えてしまったのです。
二〇一七年、一月。
その日、私はいつものように礼拝堂の中にいました。
診察の間の時間でした。
書類をとるためか、ひと息つくためか、礼拝堂の通路を移動していたと、思います。
仕事は、誓って真面目にやっていました。
それは覚えています。
けれど、まだ、私は。
先日、去年末に、彼が私に投げた言葉に酔いしれていました。
さんざん慰めても収まりきらなかった身体の火照りは、私の骨髄に染み込んでいて、血流にともなって全身隅々と行き渡り、和紙を浸すような心地へ私を誘っていました。
一緒に来ないか、と。
私を真っ直ぐに見据えて、差し伸べられた言葉。
救いの言葉でした。
いいえ。それは決して、言葉だけではなかったでしょう。
彼は、自分の言ったことを、実行する力を持っています。
言葉だけを、情けや憐憫から、囁いたわけではありません。
それは、間違いないです。
彼は本当に、本心から、私に……手を差し伸べたのです。
それは、救いとなって、私の身体だけではなく、私の心に注ぎ込まれたのです。
私がそれを取って返せば、きっと、彼は私の凝り固まった心ごと、簡単に引っこ抜いてしまったでしょう。
軽々と背負って、私は抱き上げられたでしょう。
重力から解放された私の心身は、彼を支柱に空へと投げ出され、身軽で、なんと羽根でも生えたような心地で、自由に世界を飛び回ったでしょう。
あの大きくて、いかにも男性的な、少し油の匂いが染み付いている腕に、私は抱かれていたのかもしれません。
それを望んでいたことは事実です。
確信がありました。
だって、彼は、誰にも入れぬように、誰にも気づかれぬように、幾重にも防壁を張り巡らせた私の心の中に、ひと息に飛び込んできてしまう人でしたから。
私がいちばん欲しかった言葉。
私が一番して欲しかったことを、ことごとく、彼は選んでくれていたのです。
だから、その日はずっと、そのことに想いを馳せていました。
つまり、それが為された時に訪れる、未来にです。
あり得ないと思っていた、あり得ることになった、私の未来です。
私の隣に、彼がいる。
つまらない話をしながら、お昼を共にする姿。
つまらないことで、少しだけ口喧嘩をしてしまう姿。
お互いに愛を確かめ合い、高め合う姿。
暑い時も、寒い時も、窮屈な時も、隣にいる。
彼は、私の手をとって、ずんずん先に歩くんです。
共に、人を救い。
そして、共に、救われる姿。
私の胸は喜びと期待に打ち鳴らされ、私は福音に飾られる祝福へと耳を傾けていたのです。
同時に──あの時、その言葉を受け止めるだけで終わらせてしまったことが、私の心を
反射的に、その手を取ることができなかったのです。
なぜでしょう。
なんでなのでしょうか?
彼の言動は、どこを切りとっても理想でした。
あれほど望んだ言葉のはずで。
あれほど望んだ他者の振る舞いのはずで。
無意識下で私は、ようやく、私以外に
その手を取ることも、その心に抱かれることも。
その時、私は拒絶してしまったのです。
後悔ばかりが巡ります。
逡巡する想いが吐き気となって、身体中から流れ出ていきます。
自らを慰める手が止まらなかったのは、決して快楽を貪る卑しさだけが理由ではありませんでした。
今だって、そうです。
崩れ去る世界の中でも、私の心には彼がいました。
その彼が、今。
『私』とともに、私の中から消えていくのです。
『私』はそこで、ああ、と。
理解しました。
本当に本当に、心の底から。
彼に惹かれていたのだと。
彼に焦がれていたのだと。
彼に捧げる愛のためなら、『私』は泡となっても良かったのだと。
だって──間違いありません。
だって、『私』が私でなくなりゆくこの瞬間ですら、そう思っているのですから。
礼拝堂の閂を開き、獣(ケダモノ)へと落ちた人々を一望する。
私は『私』の持つ恐ろしいまでの女としての蜜を世界にばら撒いていく。
濃い臭いにあてられて、男も、女も、私に釘付けになっていく。
私は、私に向けられる、アレほど嫌だった肉欲を滲ませた視線が、私の肢体に群れ集うのを感じて、粘液をたっぷり含ませた舌なめずりをしていました。
2.
二〇一七年二月。
セラフィックス内部の空気はよろしくなかった。
謎の爆発事故によって、隔絶された空間は、たったひと月で人々を摩耗させるには悪魔的すぎる世界である。
倦怠感が蔓延っていた。
とこを向いても、無気力感と鬱屈した空気が目についた。
人の不安と恐怖が視覚化されているようだった。
どこに行っても人目があった。
まるで、お互いがお互いの動きを監視しているかのような窮屈さである。
意識しなくても常に眼前にヒトがチラつく景色というのは、ヒトの心に予想以上にストレスを齎し、衰弱を促すのだ。
施設の外部に出ることはできない。
障壁なのか、断層なのか、科学的には全くわからない何かが、セラフィックスと外界の繋がりを絶ってしまっていた。
物理的な移動ももちろん、通信機器の発する電波が外に届かない。
電子領域を光速で移動するはずの電子が、セラフィックスの外に発射される途中で何者かにはたき落とされているようだった。
もとよりヘリか船がなければ海に出ることはできないが、青空と蒼海に挟まれているはずのセラフィックスが、今や、空からも海からも忌み嫌われてしまったようだった。
産まれてすぐ、ゴミ箱に打ち捨てられる赤子のように。
今や、セラフィックスは世界に「お前は必要ないのだ」と吐き捨てられ、行き止まりとどん詰まりの狭間に漂う、どうしようも無い孤独の要塞と化していた。
謎の連続爆発は、セラフィックスから、移動手段を徹底して奪っていった。
ヘリを爆破し、船を爆破し、施設移動に使う足そのものが吹き飛んだ。
ヒデヤスにしろ、アルミロにしろ、ベックマンにしろ、何かしらの報告を聞くたびに、破壊の痕跡に指向性を感じていた。
これは、人為的な向きを感じる、
ここから誰も逃さない。
聡いものには、わかるものには、実行犯が暗に、そう伝えているような反自然的な事故であった。
報告を並べ、それを俯瞰して組み直す。
所長であり、アニムスフィアに一任されて、セラフィックスの全てを監督する
アルミロに指示を出し、とにかく情報取集にあたった。
秘匿科学者たちにも指示をだし、事態の解析と究明を急がせた。
スタッフたちは、比較的安全な中央官制室に寄り添った。
不思議なことに、セラフィックスの内部で回す分には、機械類は無事であったのだ。
不思議なことに、セラフィックス内部で循環させる限り、電気はちゃんと、施設内部を巡るのである。
これもまた、おかしなことであった。
もし、テロリストがセラフィックスのスタッフを皆殺しにするつもりなら、まず油田そのものに着火するか、電気系統の破壊を行うだろう。
前者の即死性は言うに及ばずだが、熱力学の恩恵に与らねば生きていけぬ現代人にとって、電気を潰すことは等しく処刑宣告も同じである。
そこから、内部に入り込んだなら糧食兵站を潰すのが筋だ。
空間ごと隔離するなどという大仰な魔術──あるいは科学的テロ行為を前提に敷きながら、スタッフたちの命を生かし、あるがままに生存させている理由がわからない。
電気系統を、通信系統を完全に潰していないにも関わらず、仕掛け人の脅迫の類も要望らしきものも、メールボックスには一切届いていない。
もちろん、アルミロが大量に買い込んでいた食糧も、殆どが無事だ。
かろうじて生かしている。
そうなるように仕向けている。
おそらく、あえて。
それはわかる。
だが、何のために?
考えられるのは、ある種の実験。
あるいは、セラフィックス自身がアニムスフィアに対する──つまり、カルデアに対する人質となっている可能性。
合戦、戦争と例えるなら、これには兵糧攻めの趣きがある。
しかし、事故から一ヶ月が経過しても、外部から得られる情報が皆無であった。
犯人からの声明も、何もない。
次第に、施設内で秩序が生まれた。
あれをしてはダメだ。
あれはするべきだ。
生存のために、あるいは人間であるために。
あるいは、現実逃避のために。
彼らは彼らの中で、法を敷き始めた。
滅びと狂気に向かって。
全ての歯車が噛み合い始めていた。
3.
早足で歩いていた。
足音が強い。
踏みしめるように一歩一歩。
硬いゴム底が硬い廊下と打ちあって、音が遠くに響いている。
その音の伸びを妨げるものがなにもなかった。
空洞に染み込んで飲み込まれる天霧のように、音は静かに小さくなり、廊下の向こうへと消えていった。
歩みを紡ぐのはセラフィックスの副所長、アルミロであった。
三人の魔術学者から、セラフィックスの現状報告を受け取った帰りである。
彼は、事件が起きてから、睡眠を最低限に減らし、いつでも食べれるようにと菓子類を僅かながらにポケットに入れて携帯していた。
歩みに従って揺らぐ、髪の毛先がガサついているのは、ストレスのせいだけではないだろう。
頬は幾分かこけていた。
制服の下に収まった肉は細くなり、肌は白く、血の気がない。
睡眠不足で眼底がくぼみ、そこにシワができて、その上に涙が乾き、古臭い埃が染みるほどであった。
それでも、その目には、まだ力があった。
生きるための力、生き延びようとする輝きである。
予想していたより、事態ははるかに悪かった。
取り残され、孤立したセラフィックス。
『神』から教えられた範疇では、物理的なそれだけだと思っていた。
だが、三人の魔術学者が嬉々として語った説明は常軌を逸していた。
まさか、時間そのものが外部から隔絶するとは思っても見なかった。
今のセラフィックスの時間は、外に比べると牛歩の様相を示している。
魔術科学たちは、それを、意気揚々とアルミロに告げた。
ここにきて歓天喜地に綻ぶ彼らの態度は、無神経を通り越してやはり異常であった。
生命の危機を好天好機と見る姿勢に、アルミロは、魔術師なるものの神経は改めて凡人のそれとはほど遠く、イカれているものだと思い知る。
幸いにして、保存の効く食糧を大量に買い込んでいたのは最適解を踏んでいた。
ヒトとヒトの繋がりを重視して、セラフィックス全体に自分の存在を示していたのも、やはり間違いではないだろう。
だが、三ヶ月が数十年にも間伸びするという事実は、アルミロにとっては受け入れ難い理不尽そのものであった。
カルデアと懇意にある通信士のトラパイン女史に
ヒデヤスは、所長室に篭っている。
もう、ずっとだ。
一般スタッフたちには顔も見せることはない。
アルミロやベックマンたちでさえ、たまに呼び出されては、近況の報告をさせられるだけだ。
そして、どんな報告を受け取っても、ヒデヤスは具体的な指示は何ひとつしなかった。
神妙に目を閉じて、そうか。と言うだけである。
元々からして癇癪の発散に物へあたることを辞さなかったベックマンの態度が、日に日に憤怒と増悪を隠さなくなっていった。
その様子は、彼の隠しきれない暴力性が、完全なる誕生を果たさんと彼の体内をから、その肉を食い破っているようだった。
スタッフ内に秩序を求める提案を最初に出したのも彼だった。
したり顔に混乱を塗り込んだような、その時のベックマンの異様な表情を、アルミロはまだ忘れられない。
アルミロは、その中でもなんとか理性を保っていた。
現実は想定のさらに下。
苦難はより鋭く、苦々しい刃を喉元に突き立てる。
これで命を貫けば、どんなに楽だろうか。
刃に向かって歩き続ければ、それは必然とアルミロの喉を裂き、血の華を咲かせ、それでもまだ歩み続ければやがて命にたどり着き、それを穿ち、彼をこの地獄から解放するだろう。
だが、それだけはできなかった。
いくじなしなのではない。
いや、それは間違いではないが、いくじのなさより責任感が勝っていた。
ただ、アルミロは与えられた責任から逃げる事はできなかったのだ。
もとより自分だけは、この悲劇の到来を知っていたのだ。
回避不可能だったとはいえ、自身の見積りの甘さが招きかねない更なる悲劇から、目を背けることを、彼自身が嫌った。
「アルミロさん!」
「副所長!!」
そして、管制室に集まるスタッフにとって、彼は希望となっていた。
アルミロは爆発が起きてすぐに、各部署の責任者を集めて点呼を行い安否を確認して、次に寝床と食糧をそれぞれに分配した。
通信途絶の報がセラフィックス内を駆け巡った時も、真っ先に「五月のカルデアからの定期連絡」を打ち上げて、ざわつく状況を沈静化してみせた。
テキパキとした動きに、スタッフの多くが感心し、彼を信用した。
それでも、アルミロにとっては眼下の世界は砂塵の城だった。
風が漂うたびに、少しづつ少しづつ外壁が散っていく。
そこにいるだけで、骨が軋むような感覚がある。
アルミロから見るスタッフの面持ち。
そこから溢れ出す内的事情は、緊張と危機が隣に座し、ささいなことが恐怖と不安に煽られて大袈裟な感情を膨らませている。
それを、ヒトとしてなんとか抑えようと、見て見ぬふりをしているように見えた。
恐怖と不安、霧の海原を見えぬ陸地に向かって進むが如し。
先の見えない鬱屈とした環境が、例外なく人びとの体力と精神を消耗させている。
この世界をひとつの風船とするならば、その内部に小さな風船をいくつも膨らませ続けているような状態に見えていた。
負の感情によって膨張しすぎた風船は、やがて、内部から膨れ上がる小さな風船に耐えきれず、内部のバランスが崩壊して破裂するだろう。
その時が、終わりの時だ。
既に、人びとの取り繕う表情には、粉塵舞う地面に落とし続けたガラス板のように、ヒビと土埃が入り込んでしまっている。
あといっかい、強く地面に叩きつければ、粉々に砕けてしまうだろう。
何がキッカケになるのか、予測ができない。
──どうすればいい?
彼は今更ながら、
同時に、理解した。
人びとから人望と信頼、信仰を向けられることが、受け取り手にこれほどの苦痛をもたらすのだということに。
凡人が、人びとの信仰と期待に応えなければならないということが、どれほど常在的に、その心を締め付けるのかを。
星々にその名を刻む、神話を彩る神々に、人間的破綻者が多い理由が、アルミロにはなんとなくわかってしまった。
あのセラピストも、あるいはそうであったのか。
誰にも優しく、誰にも寛容で。
二.三言葉を交わすだけで、人心をとろけさせて泥酔させる、魔性を持つ女性。
その深淵のごとき魔性と天井知らずの善意が組み合わさることで、人の世に行き場を失い、この孤立した小さな世界に追いやられた美しい女性。
健気にも現在、彼女は管制室に本拠地を置いて、それまで以上に懸命に働いていた。
その彼女が、どういう理由か、セラフィックスを更なる地獄に変えることだけは、『神』は教えてくれた。
だから、アルミロは本来、殺生院キアラには謹慎を申し立てるつもりだった。
少なくとも、管制室に赴き、大々的にスタッフと関わらせて診察を行うことは避けたかった。
だが、キアラの天井知らずの善性は、アルミロの提案を突っぱねた。
だが、キアラの深淵のごとき魔性は、セラフィックスのスタッフの心を掌に転がした。
日々不安定に傾く人びとの精神を安定させるため。
そのためにキアラが真剣になることを否定する材料が、アルミロにはなかった。
キアラの診察と癒しを求めるスタッフたちの飢えと渇きを、他のもので満たす方法がなかった。
現時点でさえ、キアラを力づくで隔離してしまうと、スタッフたちの間で暴動が起きそうな空気が生まれていた。
人びとは心からキアラを求め、キアラは求められるままに動いていた。
「アルミロさん! 大変だぁ!!」
作業服を着た男が駆けつけてきた。
顔面蒼白で、息を切らしていた。
「あのセラピストの先生が、倒れちまった!!」
アルミロはいちもにもなく駆け出した。
顔色は青く、血の気が引いていた。
だと言うのに、嫌に脂っこい汗が額に滲んでいる。
それは、中央官制室に突如として現れて、中央に陣取っている、あの、『例の怪物』の近くだった。
4.
心は混乱していた。
頭は混沌にあった。
殺生院キアラは、事件発生からゴウとの話を経て、すぐにセラフィックス内部──中央官制室に向かった。
たどり着いた先で、ベックマンに怒鳴られながら、ほかの医療スタッフと合流して治療にあたっていた。
爆発の影響で、物理的に怪我をしているものも多かった。
幸い医薬品、医療道具はアルミロがたらふく取り寄せていたために、各所に十分に行き届いた。
休む暇はない。
閉所空間の恐怖。
自分がどこにいるのかを見失う恐怖。
それは、いとも簡単に、人の心を迷宮に叩き落とす。
ならば、キアラは懸命に働くしかなかった。
その中で、時たま視線を外して、彼の姿を探した。
──いない。
どこにもいない。
あの大きな身体が、どこにも見えない。
診察を続けるついでに各所に移動して、彼を探し続けた。
だが、どこにも姿は見えなかった。
人に尋ねると、見ていない。と誰もが言った。
──また、逢おうね。
彼の言葉を思い出す。
だから、最初は心配しなかった。
彼は力のある男の人だ。
だから、この状況でも、やるべきことをやっているのだと思っていた。
もしかすると、能天気に、隠れてカードギャンブルに勤しんでいるのかもしれない。
十分にあり得そうな話だ。
だから、一旦思考の隅に彼のことを置いて、キアラは自分にできる全力で治療に当たっていた。
やがて、事故発生から一ヶ月が経とうとしていた。
スタッフたちの心労が溜まりに溜まって、局所的にそれが爆発し始めていた。
苛立ちを持って人に接し、小さな火種が殴り合いの喧嘩に発展することもあった。
副所長のアルミロが忙しなく走り回り、それをことごとく仲裁していた。
彼のいうことならばと、喧嘩していた者たちは拳を収めることがほとんどだった。
だが、それも限界が来ている。
なにより、ここ最近、アーノルド・ベックマンの行動が怪しい。
自分の息のかかった──あるいはかけた、屈強な男たちを周りに侍らせ、小さなコミュニティを作り始めているのだ。
そして、アルミロの目の届かないところで暴力をちらつかせて、食糧や娯楽品の管理と称して、それらをかき集めていた。
もちろん、そんな動きがアルミロにバレないはずもない。
彼らはたびたび顔を突き合わせて、議論し合い、そのまま口論に転じている。
その度にベックマンの取り巻きには、アルミロのやり方に不満を持つ、ごろつきのような男たちが増えていった。
その様子は、セラフィックスの狭い世界にあっという間に不信と不寛容を蔓延させ、濁り固まった負の感情となって、人びとの衰弱した心と結びつこうとしていた。
だから、キアラはもっと懸命に頑張った。
ヒトの話を聞いた。
苦しみを、愚痴を、悲しみを、恐怖を。
攻撃的な言葉も崩いく心も、全てを受け入れて、飲み込んでいった。
真摯に、目を見つめ合わせた。
同性に限定してだが、時には抱きしめることもした。
可能な限りのことを行った。
呼ばれればどこにでも足を運んだ。
必要だと言われれば、笑顔を振りまいた。
そして、あっという間に時間は流れていった。
ある時、さすがに疲れ果てたキアラは、込み上げる寂しさに目を閉じた。
自らの内面に波打つ苦悶の声を聞いた。
会いたい、と心から願った。
彼に逢いたい。
そして、ゴウと仲が良かった作業員の診察の際に、聞いてみた。
彼は、今、どこにいるんでしょうか?
と。
すると、作業員の男は怪訝に顔を歪めた。
誰のことだい、と素っ頓狂な声で尋ねた。
キアラは首を傾げた。
違和感があった、何かがおかしい。
ですから、と続けた。
「ゴウさんが今、どこにいるのか知りませんか?」
──ゴウ?
作業員の男は、首を傾げた。
──誰だい、そりゃあ?
キアラの目が見開かれた。
歯車が噛み合うような音が、どこかから聞こえた気がした。
かちり、
かちりとひとつずつ。
組み上がったそれは、正体を現した。
絶望。
殺生院キアラを、数多の目が見つめていた。
そして、それは。
ずるり、
ずるりと。
キアラの身体の中に、泥のように入り込んできた。