第一話:死と混沌のプレリュード
0.
簡潔に書くならば、地獄が顕現していた。
不安と杞憂を自ら肥え太らせて、一抹の愉悦と好奇の情念が、彼らの手をしなやかに死へと誘った。
今日もまた、人が贄と焚べられていく。
串刺しにされた鉄骨に縛り付けられ、足元から炎で炙られ、抵抗も
人の油が炎の前に、なすすべなく弾けて溶ける臭いは、罪禍を燃料に轟轟と燃え盛る。
濛々立ち昇る黒煙は御霊を連れて天向かうも、既に
吐き気を催す悪臭が如何なる隙も見逃すまいと、所狭しと滑り込み煮詰まり、それが更なる苛立ちと不信を煽り、誰も彼もがそれを忘れるために、我が身の安寧と、この時ばかりの正義に酔いしれている。
正気を失ったものたちにとっては、黒煙の死の味はいかなる欲求と興味をも唆らせた。彼らは苛立ちの代わりに嬉々として焼け死ぬ贄の周りに集い、検討はずれな祈りと怒号を投げ、懺悔を捧げていく。
“助からない“。
というシンプルな絶望は、かくして人間から容易く理性と秩序を奪い去った。
社会性が崩れる時に、特別な音はしない。
ただ、静かに、世界が闇に溶けるように、人々の眼から光は消えていった。
ほんの些細な口論が、人を殺すきっかけとなった。
気づけば、人が、人を殺すことをなんとも思わない集団が出来上がっていた。
セラフィックスの生き残りは、人が、人を殺すことを咎めることのない集団へと変わっていった。
摩耗した倫理に変わって、それが道理とすげ変わった。
体力の無さ、精神の磨耗、面倒ごとに関わりたくないという気持ちは、すなわち生への諦めとなり、この瞬間の安堵を得るために、依存先を求めて彷徨っていく。
くたびれ果て、疲れ果て、先細り、路傍の石ころのように廊下に寝転がる人々を、誰も注意しなくなった。
となりで連れ去られる人がいても、反応すらない。
となりで血が流れても、ああそうか、で終わってしまう。
地獄とはこのことだった。
人が、あらゆるものに無関心になり、無気力になる。
様々な思慮が悪感情と混ざり合い、しかして、一人ひとりが考えることを辞めた時に、地獄というものは舌なめずりをして顔を出すのだ。
命が崖っぷちに立たされた時には、未来に何ら希望を持てない時には、救いを求める気力すら、人は失うのであった。
『もうどうなってもいい』
『どうせ死ぬのだ』
希望は忘却の彼方へと追いやられて、ようやく、誰もが、それを認識する。
それとはすなわち緩慢な死の囁きであり、限りある過去への憧憬、生への執着と喜びであった。
助けはない。
しかし、生きていたい。
生き延びるだけ、地獄の只中にいる時間が延びるだけなのはわかっている。
しかし、どうしようもなく、自分だけは生きていたい。
死苦の解放を望みながら、生苦の繋がりを人々は望んだ。
もう、誰がどうなっても構わない。
ならば、もう、誰が死のうが生きようが、自分さえ無事なら知ったことではない。
自分さえ──
自分さえ──
秩序無き世界に根を降ろす倦怠感は、やがて、人を人たらしめる精神を奪っていく。
そんな中で、未だ前のめりに生に執着する異常な男こそ、アーノルド・ベックマンに他ならなかった。
ベックマンは荒くれ者たちを食糧や娯楽品を餌にまとめ上げ、自身のコミュニティを設立すると、日一日ごとにそれを強靭強固に組み上げていった。
相反する派閥であった副所長のアルミロ派は、アルミロがこの場において、口先三寸の詐欺師に違いないと錯覚した(あるいは、ベックマンがそう仕向けたのだが)スタッフたちの手であっさりと瓦解し、アルミロは、それでも彼を慕う無能者たちと共に、ベックマンによって次の贄とすべく軟禁されていた。
ベックマンの才覚は、この地獄に置いて水を得たよう踊り狂い、磨かれていた。
アルミロを抑えたベックマンは、権威を盤石とせんために、手始めに所長のヒデヤス・アジマを公衆の場に引きずり出し、もっともらしい罪状を叫んで語り、
『そうある』ことを、他でもないスタッフたちに同意させ、その心を統一して、扇動してみせた。
幾人かの命の蜜と引き換えに『掃除屋』の男を抱き込んでいたベックマンは、暴力において比類なき地位を獲得した。
敵対者を排除し、暴力と組織を手に収め、セラフィックスにおける元々の権威者でもあったベックマンに逆らうものは、この時点でいなくなった。
彼は、極限状況下において、人々の辛苦を一手に引き受けた。
その是非は置いとくにせよ、ベックマンのSE.RA.PHでの生活は、他者と距離を置く
やがて、ベックマンの言葉は力を持ち、質量を伴い、その言葉は多くのものにとって、真実であらなければならなくなった。
ベックマンの言葉は、かくあるべし。
誰ともなく、そうあれと行動した。
彼の顔色を伺い、自らの命を護らんと、彼の怒りをなだめるために、誰ともなく、自己を殺して付き従った。
この狭い世界で、ベックマンは『神』に等しい権威を得ていた。
それは、まんまと彼が望んだ人生の構図の具現である。
ベックマンを縛るものは、もはや何もない。
不思議と、管制室に聳え立った謎の怪物質の柱は、自らが獲物を求めることはしなかった。
柱から生える、ぎょろぎょろと蠢く目玉たちも、こちらから手を出さぬ限り微動だにせず、見ている分にはただ、その形をしているだけの醜悪なアンティークにすぎない。
しかし、近づく者は容赦なく、跡形もなく取り込み殺すその性質を、ベックマンは重用した。
彼は、セラフィックスに残る食糧と娯楽品、教会に引きこもったセラピストを除く、全医療スタッフを殺害して薬物を手中に収めた。
そして、『神』の立場にありながら、生物としての欲求を歯止めなく叶えていった。
女性スタッフたちを気分で呼び立てては、誰彼構わず手を出した。
時には荒くれ者たちへの褒美と、たびたび乱交を行なった。
嫌がる女性には気絶寸前まで殴りつけ、あるいは薬物を打って、精神を壊してから挿入した。
口内に、膣内に、顔に、髪に、耳に、目に、腹に、避妊具など一切用いずに、欲望を放ち続けた。
やがて、精神を壊してから扱えば面倒はないと気づき、荒くれ者たちに渡す
妊娠したものは、その手の趣味がある乱暴者に投げやるか、躊躇なく怪物の贄とした。
胎児に対する愛などあろうはずもない。
その未来に、露ほどの期待も愛も持ち得ない。
焦点の合わぬ眼で腹をさする物体の煩わしさに癇癪を起こし、ベックマンはたびたび、その腹をローファーのつま先で思い切り蹴りつけた。
血反吐を吐き、地面に這いずる虫のようなそれを、さらに上から何度も何度も踏みつけて砕いては思うままに嬲り殺した。
起きて、
暴力を振るい、
あるいは殺し、
飯を食べ、
性を貪り、
出すものを出して、
寝る。
それだけが、ベックマンたちを取り巻く日常となった。
それだけが、しかし、ベックマンたちの人生において、かつてないほどに満たされていた瞬間の連続であった。
法のない世界では、暴力、食欲、性欲をあるがままに解放することは堕落とは呼べない。
何ひとつ信じるもののない世界には、正義も悪もなく、人間の剥き出しにされた本能と、ただただ混沌だけがあった。
そう、人の本質は、この面を見れば混沌に違いない。
悲しいことに、ベックマンの才覚は混沌の中でこそ磨かれ、深海に沈むSE.RA.PHにおいて、恒星の如く輝いていた。彼の真の適所は、非日常の中にこそあったのかもしれない。
──教会の扉が開いたのは、その頃だった。
片目を潰され、食糧も碌にないはずの教会に、自ら閂をかけていたセラピストは、どういう理由か瑞々しく豊満な肉体を保ったままだった。
扇状的な視線であった。
ベックマンが記憶するセラピストとは、歩き方から立ち姿まで、余すことなく別人であった。セラピストの皮と肉を被った何かだった。人心を蕩けさせる舌使いで、彼女はベックマンの前に立ち、言葉を述べた。
頬を紅色させ、吐く息はあざとく熱く、言葉は耳に潜り込んで脳に染み入るようで、ベックマンを見据える眼は、悪魔のように微睡んでいる。
「癒して差し上げましょう」
と言った。
「アナタの苦諦が手にとるようです」
と続けた。
そして、おもむろに、スカートを履いたまま、下着を脱ぎ始めた。
遠目でわかるほどに秘部と生地の間に糸を引き、ぐしゃぐしゃになったパンティを指に絡め、秘部を包んでいたはずの底を、押し広げて見せる。
愛液は厚みがあり熱を放ち、黄ばんだ染みとなり、吸収量を超えて収まりきらぬトロついた露が床に、ぽたり、ぽたりと落ちている。
甘い、栗のような匂いが湧き立ち、たちまちのうちにベックマンと、その取り巻きは勃起していた。
「どうか──」
セラピストは、言った。
その言葉が、砂糖菓子を煮詰めたような甘い響きで、空気を震えさせている。
「どうか、この
セラピストが言葉を切ると、男たちは我先に、セラピストに飛びかかった。
床の上にそのまま押し倒して、両脇に構えた二人がかりでセラピストの両腕を押さえつけた。
暴力的な振る舞いに怯えるふりをして、セラピストはいかにもワザとらしく、抵抗のそぶりを見せた。
それが、男たちの加虐心をよりいっそう刺激した。
正面からのしかかったベックマンがスカートを脱がせると、現れた彼女の秘部は、湯立つほどに
前戯が必要ないほどで、それはその通りに、ベックマンの聳り立つ生の逸物を、すんなりと受け入れた。
ぷちぷちと、ほどよい抵抗感がベックマンの脳髄を突き抜けた。
腰が溶けるほどの快楽が、ベックマンの毛先まで突き抜けた。
血が、ベックマンとセラピストの接合部から垂れていた。
「ああ、奪われてしまいましたわ!」
──処女だったのか!
「私の、二十五年間、大事に大事に守り続けてきた“ハジメテ“が、あっ! たくましい肉棒に、あっ! あっ! あっ!!」
ベックマンは夢中で腰を打ちつけた。
既に一度果てていた。にも関わらず、もう何度目かであるが、処女貫通の儀は、未だに格別の興奮をもたらす。
初めてを奪った。男として、雄として、これほど征服感を満たす事象もない。
支配欲は際限なく膨れ上がり、涙を流すセラピストの表情を見るに、暴力欲求へとたちまち結びつき、無意識と意識が肉棒へと集中する。
海綿体に血が流入され、棒はより硬く、長く、太く腫れ上がり、煮えたぎった睾丸が引き締まって、精液がとめどなく作られいくのを実感していた。
そして、この膣の締まりのよさ。
トロけているのに、セラピストの膣内は、ベックマンの男根を容赦なく締め付けてくる。
はやく、それを出してほしいと、それが欲しいのだと、奥の奥が吸い付いてくる。
「あぐうっ! な、なんていい具合だ……何だこれはッ!? セラピストなどと言って、処女だと言って、淫乱め!! そうやって散々遊んでいたんだろ!? この淫売め! この私の種をくれてやろう!! ありがたく……ぐ、も、もう出るぞ! 奥で出すぞ!!」
打ち付ける水音が大きくなる。
それはそのまま快楽の波であった。
よだれをたらし、恍惚に堕ちていくベックマンを見て、セラピストは一層妖艶に笑い、膣を締め、射精を促す。
ベックマンの睾丸がきゅっと引き締まり、縮こまる。
セラピストはダメ押しと、自らの脚をベックマンの腰に回して自らの内部へ強く導き、姿勢を固めた。
一層奥へと導かれ、ベックマンの射精欲は極限まで高まり、貪るように口付けをする。
乱暴で、相手のことなどまるで考えていない、自分勝手なキスであり、それは愛欲ではなく純粋な性欲からなる、交尾的な行為であった。
しかし、セラピストは興奮していた。
いささかの悲しみも、目に浮かべなかった。むしろ、それをされている事実に興奮──狂喜し、ベックマンの舌をこちらから迎え入れ、唾液を大量に含ませて、しっかりと絡めた。
「はい、出してください! んっ! 在らん限りの性を、その内に凝り固まった欲望と心罪の全てを、私に……あっ! あっ! くる!! 欲望が……私の中で脈打って……ああっ!!」
「ぐあっ! あ、あーっ!!」
腰を最奥に打ちつけて固定し、その最後の一雫まで残さず放たんとする。
セラピストの膣内に、ベックマンの人生で最良最多の精子が飲み込まれる。
子宮が精液を飲み干し、ごくごくと音を立てているのが、ベックマンは脳内でわかった。本来男性の逸物では決して届かない位置にあるはずの子宮口が、彼の鈴口に自らの吸い付いて、性を貪っているのを感じていたからだ。
「つ、次は俺だ!!」
「バカヤロウ!! 次は俺だ!!」
ボスであるはずのベックマンを突き飛ばし、男たちが群がる。
膣からずるりと抜け落ちたベックマンは茫然自失しつつも、まだ大きさも太さもそのままに勃起していた。
セラピストはそれから、まる一日変わるがわる、男たちを身勝手に
セラピスト──殺生院キアラは、男たちを犯す心中深層において、真に自己中心的な快楽の泥濘から、恐ろしいほどに冷静な眼で、男たちの様相を観察していた。
ああ──なんて、罪深いのでしょうか。
精液を飲み干したばかりの口で、陰毛を舌先で絡め取りながら、艶やかに笑った。
向けられる『虫』たちの欲望と絶望の熱視線。
自己を満たさんとする、身勝手なまでの乱暴な愛欲に、可愛げさえ覚えていた。
ベックマンはこの日以降、殺生院キアラに心身を沈めていく。
彼女を求るあまり、自己でそうとは思わずとも、彼女のために殺し、犯し始めた。
一方で殺生院キアラはカウンセリングと称し、男女問わず、階級や身分なども一切差別もなく、誰にでも股を開き、狂信を集めていった。
地獄はまだ、始まったばかりであった。
1.
驚愕していた。
せざるを得なかった。
藤丸立香に伝え聞くセラフィックスの記録を辿り、自己認識と照らし合わせるなら、メルトリリスはただただ驚苦しかなかった。
次いで、戦慄する。
次いで、驚愕する。
次いで、混乱した。
思考がまとまらないほどに。
謎だけが堅く結ばれていた。
解(ほど)きうるはずまない、何もかもが違う。
メルトリリスには、藤丸立香の言っていることが、何ひとつ信じられなかった。
カルデアからの救援者、藤丸立香。
SE.RA.PHを取り仕切る上級AIたるBBの策謀で、レイシフト中に随伴するサーヴァントを切り離された彼は、単独で降り立った場所で召喚されていたサーヴァントたちによるバトルロイヤルに巻き込まれ、殺されかけた。
しかし、SE.RA.PHを支配下に置くBBから廃棄されたというアルターエゴ、メルトリリスと契約を交わしこの一難を退けた。
……という設定、流れである。
ここまでは両回に通ずるテンプレートである。
メルトリリスからすれば。
その後、アルターエゴのパッションリップに襲われたり、ロビン・フッドやエリザベート・バートリーなどをBBから差し向けられるも、カルデアから共にきたというガウェインとエミヤ・オルタと合流しこれを撃退。
さらには改心したトリスタンと共に、礼拝堂に陣を敷くウラド三世を撃退し、藤丸たちはSE.RA.PHで唯一のセーフゾーンに腰を落ち着けていた。
電子領域と化したSE.RA.PH内部で、礼拝堂は唯一と言っていいセーフティ・エリアであった。
もっとも、それ自体が『あの女』の罠であることを、メルトリリスは知っている。
だが、肝腎要のその時でなけれは、『あの女』は手を出してこないし、ましてや
礼拝堂には一階に開けた聖堂があり、二階には個室がいくつか存在しており、個々に羽を伸ばすこともできた。
もちろん、それが一種の罠であることを、メルトリリスは知っている。
そこに、職員だった頃の『あの女』の残した記録があることも、当然知っていた。
前週の記憶と違いない。
それを、藤丸立香だけが開いて読めることも。
だから、それを読み取って伝えてきた藤丸立香の言葉が、まるで知らぬことばかり伝えてくる現実に対し、彼女は怪訝に眉を顰めるしかなかったのだ。
知らなかったことだらけであった。
記録書の内容が、記憶と違う。
『一周目』の時は、記録書はもっと淡々とした、セラフィックスと女の変革の記録であった。
閉所環境で集団の倫理が崩壊する様。
秩序が音もなく消え去り、絶望から派生した末法論の聳やかす狂気に従って、コントロールを失う人間たち。
『あの女』が現れ、あっという間に狂信に祀られ、カルト化によって訳もわからずお互いに殺し合う、無法無常の世界が広がっていく過程を、
その中で──視点となるのは、『あの女』がまともから堕ちゆく頃の
大きな男など、いなかった。
一周目には、男たちと席を共にする『あの女』など、いなかった。
メルトリリスの記憶が確かなら、である。
少なくとも、二〇一七年の二月まで、セラフィックスで集団の秩序が保たれていることはなかった。
──何が起こっているの!?
ここに集う者たちの中で、全てをひと通りやり通したのは自分だけのはずだ。
つまり、ある程度の段階に至るまで、イベントの先取りを行い、機先を制すとは行かないまでも、予期し、予防することができるのも、自分だけのはずである。
『あの女』に敗れ、それでも負けたくなくて、失いたくなくて、全てを捧げる覚悟で舞い戻った
強くてニューゲーム……とまではいかないが、おかげさまでことのあらましは知っている。
どこで誰がどう動くのか、わかっている。
この大仕掛けをやらかした女が、誰なのか知っている。
BBが、その本質的には『あの女』に嫌悪──敵意を抱くことを知っている。
だから、メルトリリスは今度こそ、藤丸立香を死なせぬように、立ち回ろうとしていたのだから。
しかし──なんだこれは?
この、あからさまな差異はなんだ?
ここまでも、一周目と比較するなら、多少のズレはあった。
ちょっとした言葉遣いであったり、やりとりであったり、ヴラド三世の生存であったり、遭遇したエネミーの種類であったり……結構違う点が、あるにはある。
しかし、それはあくまで自分が二週目を行うが故のズレであったハズだ。
全てを経験した自分が、また一からやり直しているが故に起こっている変化のはずで、それに導かれる藤丸立香のお人好し度合いが引き出した変化に過ぎない。
そういう理論に紐づけられる、大局にはなんら変化をもたらさない、微細なもの過ぎないと思って気に留めていなかった。
だが──だからこそ。
霊子化する以前のセラフィックスの、過去そのものが変わっていることは、異常極まりない事態に違いない。
──まさか。
メルトリリスは思考する。
私の二週目に気づいたBBが、私への抗体として──あるいはウイルスとして、何かを仕込んだのではないか?
あり得ない話じゃない。
現在、ここは
いかにBBが『あの女』と、深層心理で敵対していても、表立つ感情は頭を垂れなければならないのは事実だ。
ここは、彼女が時間も空間も、物質の有無も、概念すら掌握している世界だ。
だから、彼女が『そうあれ』と望むなら、可能な限り『そうある』世界なのだ。
「…………」
いや、違う。
メルトリリスは悟られぬよう、心中でかぶりを振る。
それだと辻褄が合わない。
霊子領域であるSE.RA.PHでこそ、BBは全能に近い存在ではあるが、現実世界そのものであるセラフィックスは、彼女の世界ではない。
彼女の全能性が、そもそもそれが届かぬ時間的領域を書き換えるなど不可能だ。
さしものムーンセルとて、万全に再現されていても、現状の『出力』では不可能にもほどがある。
ましてや、ここに再現されたものはムーンセルそのものではない。
あくまで模造品だ。
よくできた偽物である。
仮に、ここに座すその擬似ムーンセルが、それを可能──本来の全能をいくばくか行使できる──とするならば、BBをも召喚せしめた『あの女』は、こんな回りくどいことなどせず、とうに願いを叶えているはずだ。
私たちのことなど、歯牙にも掛けないだろう。
あの女にとって、自分以外の知的生命は全て、『虫』なのだから、一考にも値しないはずだ。
人の身上にあるならば、虫の都合など知るはずもなければ、虫の冒険に心躍らすはずもない。
ならば、これは、あの女のせいではない。
BBのせいでもない。
考えられるのは、第三者──?
あの女よりも、BBよりも、もっととんでもない存在が、SE.RA.PHに誘き寄せられている可能性があるのか……?
それも、あり得ない話ではなかった。
『あの女』はそう。自分たちも、そう。
元々はこの世界のものではなく、技術たるムーンセル共々、並行世界のデータを抽出してサルベージし、この世界だからこそ実態を成している。
SE.RA.PHは並行世界を跨ぎ、データを模すことで創造されたものなのだ。
故か、レイシフトの段階で証明し切れる領域ですらなく、BBが藤丸を呼び寄せるためにチートを使わざるを得ないほど、不安定な世界に違いないのだ。
ならば、第三者の介入は、あり得ないとは言い切れなかった。
『あの女』が、並行世界に干渉して、
とりかえしのつかないほど、どうしようもないものが、こちらに手を伸ばしているのだとしたら──?
「…………」
メルトリリスの背を駆け昇るものは、肩を震わせる悪寒であった。その身を痺れさせるものは、確信に似た、不安だった。
だが、と息を吐く。
まちなさい、と自身に言い聞かせる。
落ち着きなさい、メルトリリス。発想が飛躍しすぎよ。
あくまで、自分に言い聞かせる。
まだ、仮定にすぎないわ。と。
自らの中で、いるかもわからない敵を大きくするのは、美しくない行いである。
目に見えぬ不安を増大させ、悪戯に敵を強大にする行為は、まさに、SE.RA.PHに生き残った愚かな人間たちの行いと変わらない。
向き直る、藤丸立香に。
彼は疲弊している。心に染みが広がる。
強く、美しくあらねばと自らに杭を打つ。
そもそも、この記録が捏造されたものではないとは限らない。
そうするとして、わざわざ捏造した理由──があるとすれば、BBがただ、こちらに悪戯な混乱をもたらしたいだけか。
我が母ながら、それでも推理の筋が通ってしまいかねないBBの奔放さが、少し憎い。
だが、記録書とリンクした藤丸立香の疲労は本物だ。彼の吐き出すは息は、熱く、短く、ガサついている。
肩を上下させて、少しでもより良い呼吸をしようともがいている。
膨大な記憶と人間の悪意を処理せんと、脳を働かせて、膨大なカロリーを消費し、額から大粒の汗が流れている。
暗闇から光に投げ出されたばかりの罪人のように、目の焦点がぼやけていた。
「──共感性が高いのは結構だが」
言葉を投げかけたのは、エミヤ・オルタであった。
壁に背を預けて、藤丸を射抜く半開きの目が鋭く金色に光っている。
地の底を揺らすような重低音が、藤丸の意識を振り戻す。
「ここは戦場だ。いき過ぎた共感は躊躇いを生むぞ、ほどほどにしておけ」
刺すような視線に、カミソリのような言葉であった。
それは、ことここに至って成り果てた、自身の成り立ち故の進言か。
だとするならば、それは心あるアドバイスに他ならなかった。
少なくとも藤丸立香という人間は、のしかかる記憶と煩雑な心象の中で、そう感じとった。
藤丸はエミヤに向けて、ありがとう、と言った。
まだ、呼吸は乱れたままだ。
エミヤ・オルタはつまらなさそうに、フン、と鼻を鳴らした。
2.
静かな場所であった。
電脳化したSE.RA.PHの中で、膨大な数のサーヴァントの殺し合いが日々行われる世界で、その部屋は奇妙な静けさと薄寒さで包まれていた。
外では煩雑に積み上げられた太いパイプが、うねるように道を作っている。
ガラクタと瓦礫の山の様相を示していた。
部屋の中にいる三人の科学者は、そこに、とてつもない力を持ったサーヴァントがいることを知っていた。
そこにいるだけで、殺意と暴力を振り撒きながら、舌なめずりをして待ち構えていることを知っていた。
しかし、だから、三人は外に出ないわけではない。
命が惜しいわけではない。
外に出ることになれば、自らの死は決まっている。
だが、それもいいだろうと思っていた。
初めから、それは承知の上でここにいる。
この三人も、ロード・マリスビリーに外道を為すべく選ばれただけに、それぞれ表の世界でただ生きていくことはできない人間であった。
では、何をもって、彼らはここにいるのか?
ひとつは、現実世界の電脳化現象への好奇心があった。
魔術と科学は二〇一七年時点で、地球にありて深海と宇宙の内訳を数式に落とし込み始めている。
宇宙の大きさは九三〇億光年と判明し、その年齢は百三十七億から百三十八億年だというのは宇宙に関心ある者の間では、科学者でなくとも常識である。
海の比率は地球の面積比の七割を占め、地質調査の延長からマントルと繋がるにつれて、圧縮されたレア・メタルが、現代の経済界を破壊する規模でごまんと眠っていることも、明らかになっている。
そんな中で、世界が、人類が肉体そのものを電子化して、しかもそれに魔術的なロジックが組まれたために起こった現象というものは、三人の科学者の知的好奇心、探究心をこれ以上なく刺激した。
日々若返るような心境で、事態の究明にあたった。
もうひとつは、ここがまだ、セラフィックスだった時に巡り合った『神』の存在である。
全能者、超越者、来訪者、異邦人。
彼を体現する言葉は多いが、その本質を指す言葉はまだ見つかっていない。
つまり、三人の科学者は、あの全能の神に対して、まだ理解できることがあるのだ。
世界には、まだまだ未知が眠っている。
生きている限り、それを解き明かしたい。
それを、人の安寧のために。
その奇蹟を、人の未来のために手に入れたい。
それは、未練とも呼べるだろう。
それは、探究者の本能とも呼べるだろう。
三人は、とうの昔に死を覚悟している。
だが、生きれるものなら生きていたい。
そう願っていた。
間違いなく。
彼らもまた、人間なのだ。
死に瀕して、あるはずもないとタカをくくっていた未練や後悔に脚を絡め取られるのも無理はない。
ふ、と丸メガネの女が息を吐く。
諦めのそれであった。
「ダメですね。外にいるサーヴァントは動きません」
「うーむ……願いを叶えるためには、サーヴァント同士の殺し合いを勝ち抜かねばならんだろうに。人間のワシらを殺したところで、点数稼ぎにはならんというに」
「そっちにはまるで興味ないっぽいわね。こうまで執着されると、ハナから願いがないのかしら? もう、あたしらを殺すこと自体に、生きがいを見出してそうだわ」
諦めの色を共有するからか、三人の会話はさりげなく、普通であった。
言葉の抑揚が普段のそれである。
恐怖も不安もなく、世間話でもするような音と色をしていた。
「…………ちょっと、待ってください。サーヴァントが三騎、こちらに向かってきて──いま、戦闘を開始しました!」
「なんと! データを収集できるか!?」
「なんとか」
この扉いちまい越しに、四騎のサーヴァントか戦っている。
人の世にあってはならない殺し合いが行われているのだ。
途端に三人は興奮した。
現実であった。
血液が脈動する。
息に熱がこもる。
手に汗握るとはこのことか。
轟音がここまで届く。
完全に密封された部屋のはずが、戦いの臭いが漂ってくるようだった。
サーヴァントの動きに規則性があった。
四人別々に殺し合うのではなく、後から来た三騎が、元からいた一騎に挑んでいる。
チームアップしている。
これは、戦いの中で強大な一騎を倒すために、三騎が一時的に手を組んでいるのか?
「違うのう。三騎は明らかにコンビネーションが取れておる。多人数と共に戦うことに、慣れておるわい」
つまり、三騎はSE.RA.PHに召喚されたものではない。
ここに召喚されたサーヴァントに理性はない。
BBに目をかけられセンチネルに昇華されている者を除いて、ただ願いのままに暴れ回るしかない破壊者なのだから。
音が、止んだ。
モニターで躍動していた魔力の波形がぴたりと止んだ。
三人の視線が、出入り口に集まる。
がしゅん、と機械音がして、扉が開いた。
「いやー怖かったわ。クー・フーリンて、あんなおっかない顔してたんだなぁ」
「それは違うぞ(仮)マスター。あれはおそらくオルタだろう。少なくともカルデアにいるクー・フーリンはもっと生意気に拗れた顔をしている」
「うむ! 無銘の言う通りよ! 流石はアーチャー……普段からよく見ておるではないか! あれはさしずめバーサーカーのクラスで召喚されたクー・フーリンといったところよのう。本物のクー・フーリンはもうちょっと生意気な顔をしておるぞ(仮)マスターよ!」
「……ちょっとまってくださいまし。アナタ、いつもはツンツンしてるくせに、こういうところで
「……何を言ってるのかさっぱりなんだが。なぁ(仮)マスター」
いや、と男が言った。
「おまえさん方、俺のこと、(仮)マスター(仮)マスター言い過ぎじゃねぇかい?」
いや、たしかに俺は、『(仮)マスター』だけどよう。そう露骨に嫌われると、泣いちゃうぞ、俺でも。
わざとらしくしょげる男に、わっはっはと、アホ毛の剣士が笑いかけた。
意気揚々と、ボロボロの姿で入ってきた三騎。
ひとりは、逆立てた銀髪に鋭い切れ目。
赤と黒を基調とした、肉肉しい身体のラインが浮き出る服を着ている男。
ひとりは、きめ細やかな金髪に、アホ毛を伸ばして、くりくりと大きな目。
わっはっはと大口を開けて豪快に笑う赤鎧の剣士。
ひとりは、なにより目立つオレンジと栗色の中間色の髪色に、狐耳が生えている。
深い青の巫女服モドキを着こなし、やはり腰から尻の間に大きな尻尾を生やしていた。
やはり、三人が三人共、サーヴァント。
しかし、科学者たちの視線と興味を最も集めたのは、その後ろにいる大男であった。
扉をくぐってのそりと入ってきた男。
大きい──太い、男であった。
身長が二メートルをゆうに超えている。
見た目が大きい、人間とは思えぬほど。
だが、男はなにより、存在そのものが大きかった。
それは、物理的な意味でも。
文字通り、存在の規格としても。
身に纏う肉の量が只事ではない。
首が太い。
肩周りの肉が太く、大きい。
首と僧帽筋の境目がわからないほどに大きい。
腕、脚、腰、いずれも丸太を組み合わせたような太さであった。
特筆すべきは手の、掌の大きさであろう。
そこから伸びる指が、岩のように太くてゴツく、握り拳を作ろうものなら顔の大きさと変わらなさそうである。
膨れ上がった上半身から、その力が収束するような腰のくびれを経て、シルエットに独特のひねりを生んでいる。
さながら、それは一千年を生きた大樹のような貫禄がある。
のそりと歩く、その歩みが太い。
接する地面を足の裏に吸い上げて、まとめて持ち上げそうな歩き方だ。
上下に、靴と、黒を基調にした服を着ていた。
上は二の腕の半ばまである半袖に、左胸に黄色い十字花のワンポイントがあった。
服の上からでも、筋肉の凹凸がはっきりと見える。
頭頂部を白いバンダナで覆っていた。
尾の長いそれは、これまたSE.RA.PHの世界に流れるそれとは違う、独特の揺らぎを持っていた。
黒目の大きな、つり目であった。
顔に、肉が削れた傷が、幾つもあった。
痛々しく目立つものが、正面から見て左頬から鼻を貫通して右頬手前まで伸びた傷である。
皮膚が剥がれ、肉の繊維が剥き出しである。
右の頬も同様に、皮が捲れて肉が抉れていた。
右耳が上半分千切れている。
ひと目で、尋常のものではないとわかる外見をしている。
そして、それは見覚えのある感覚を三人にもたらした。
老人はひやっひゃっと笑った。
あんまりにも面白くて、面白くて、とめどない熱が
ひと通り笑い終えると、四人に向き直り、言った。
「ようこそ、『
それを聞いて、呼ばれて。
太い男は、老人を見た。
一瞬目を身広げて、それから緩やかに細めて、困ったような笑みを浮かべた。
爽やかさを感じるが。
やはり太い──笑みであった。