第一話:BLACK & WHITE
1.
歩いていた。
SE.RA.PHのマップを。
ゴウと、その後ろを、トラパインがである。
ガウェインとトリスタンが藤丸を助けに出て少しした後、彼らはベックマンたちに挨拶もなく礼拝堂を後にしていた。
戸惑うトラパインは、震えながらもゴウの後をついていった。
移動に反対することはなかった。
恐怖も不安もあったが、彼女は伸ばされたゴウの手を取った。
彼女は、既に、事の顛末を知っている。
この事件を誰が、何のために起こしたのかを。あのセラフィックスでの惨劇が、なぜ起こったのか、全て『神』によって知らされていた。
つまり、あの礼拝堂こそが、あの礼拝堂にこそ、全ての元凶たる殺生院キアラの居住まいであることを知っていたのである。
礼拝堂を出てすぐトラパインが尋ねた。
襲ってきたNPCたちを薙ぎ倒しながら、飄々と、ゴウは言った。
「そうね。あんままあの場におったら、二人ともヤバかったばい」
揚々とした足取りであった。
豪快に、彼は、迫り来る怪物たちを、張り手一発で薙ぎ倒す。
圧倒的な力だった。
まるで、人とは思えない。
だいぶ数は減ったとは言え、SE.RA.PHの各所では、まだサーヴァント同士の争いは変わらず続いている。
その残滓を漁るためなのか、単なる賑やかしなのか、電子で形成された機械的な怪物たちも、変わらず存在している。
遠くで轟音がするたびに、引き攣るトラパインの身体を、腕を、しかし、ゴウは力強く引っ張って光へと導いた。
熱をもった手だった。
熱くて、分厚い手に引っ張られて、二人は先に進んだ。
「あの……どこに行くんですか……?」
トラパインは聞く。
当然の質問である。
礼拝堂で、トラパインは既に、聞いていた。
この事件の犯人を。
尤もゴウの口から語られる名は、弱々しい彼の感情にふにゃふにゃと、どこか抜けた語感となってトラパインに驚きを与えた。
殺生院キアラ。
そう、あのセラピストである。
限界ギリギリのコミュニティを影から支え、セラフィックスに生き残っていた誰もの希望となっていた女。
心理的な意味で、末期のセラフィックスは彼女の世界であった。
そして、今では直接的な意味でSE.RA.PHはあの女──殺生院キアラの掌握する世界である。
この小さな世界は今、その姿形からして殺生院キアラを模した女性体となり、マリアナ海溝を通り、地球の中心に向かって落ち続けているのだ。
ここは、彼女の胎内である。
なれば、逃げ場はない。
唯一、微かな希望があるとするなら──トラパインが『神』に与えられた知識と照会して導き出せる安全圏は──BBと名乗る自律型AIの麾下に入ることかもしれないが、彼女からの接触は
それをゴウに言うと、
「頼れんよ」
と、鋭い声が返ってきた。
思わず、え、と声をこぼす。
ゴウは続けた。
「BBには頼れんよ、そもそもおいはハナっから彼女に頼る気ぃんなかけん、どげんでんよか」
「ま、待ってください! じゃあ今……私たちはどこに向かってるんですか!?」
「おいは、あんたばカルデアに預けるつもりばい」
「それって……」
ひとりになりたいと言うことなのか?
言葉には出なかったが、反射的に目がそういう色をしていたのか、ゴウはうんと頷いた。
あっけらかんとした応対に、戸惑うしかない。
「どうして……?」
わからない。
ゴウが何を考えているのか。
もっと言うと、あの『神』の目的が──
この特異点を解決し、殺生院キアラを倒すなら、間違いなくカルデアの助力を得た方がいい。
いや、仮にこのゴウが、あの『神』なる男と結託していて、既に独自の『打倒キアラ計画』を始動しているなら話は別だが、ゴウのカラッとした態度は、どうにもそういう計画性を孕んでいるようには見えない。
そもそも、あの『神』は何をしたいのか?
惨劇の前からセラフィックスに降り立ち、ゴウを依代に生活を共にし、トラパインにセラフィックスの惨劇の全てを打ち明け、カルデアに連絡を通したことを実績とトラパインに生き残ることを指示した。
その言葉を信じて地獄を生き抜き、カルデアの救助を確認するにあたって、被せるように『ゴウ』を派遣して、今、自分たちはこうしている。
『神』が何がやりたいのか、こうして並べてみると、まるでわからない。
セラフィックスの惨劇を止めたいわけではなかった。
カルデアを助けるつもりもなさそうで。
特異点解決──つまり、殺生院キアラを倒すことを目的としているとも思えない。
「あん『神』さまはね」
ゴウが言った。
「せんせぇを──殺生院キアラを救いたかとよ」
「────は?」
目を見開いて、トラパインがこぼした。
憤怒が瞬時にわきあがり、通り過ぎていった後の、呆れ果てた呟きである。
無理もない。
あの女を、救う?
あの女をか?
あの、人心を惑わせ、狂気を掌握し、死を振り撒き、地獄を創造したあの女をか?
突如地獄に突き落とされただけの、巻き込まれた名もなき職員たちではなく。
その地獄の中で、懸命に理性を奮い立たせ、命を繋ごうとしたアルミロたちではなく。
人殺しを教唆し、理性を肉欲に溺死させ、贄を選定し、希望を覗かせては絶望に堕ちた他者で腹を満たし、
あの女が、何だと言うんだ。
あの女が、なぜ、救われなければならないのか?
あの女だけが、神の寵愛を授かれる地位に立っているとでも言うのか!?
あの、生きたかっただけの、無惨に死んでいったみんなは、全て『神』の贄だったとでも言うのか!?
「トラパインさん──」
心中深層から滲む嫌悪は、その顔を不気味に歪めていたのだろう。
ゴウは、心配そうに眉を顰めていた。
「その心はいかんよ。その心は、同じばい」
何が同じだと──?
「『あいつが憎いから死んでしまえ』ち、そげん思って人を呪ったら、殺生院キアラやベックマンと、同じ穴の狢ぞ」
────ッ!
下唇を噛み締めた。顔を俯かせた。
その声は、よく通る声であった。
トラパインの耳を通って、腹に溜まり、全身に行き渡る。
声は力を持っていた。
その力は、憎しみから拳を握っていた彼女の手を、優しくほぐして解いた。
「でも、そんなの、あんまりじゃないですか……っ!!」
「うん。それでも、人を呪ったらいかんばい。人を呪いながら生きてちゃいかんとよ。人間はそげんできとらん。そげな生き方ばしよると、
「…………」
よくわからない。
理屈は、通っているのかもわからない。
だけど、妙な説得力があった。
今、トラパインの腹の中には、一瞬で吹き溜まったどろどろがあった。そのどろどろは、誰かに与えられたものではなく、トラパインの内部から生じたものであった。
喩え用のない気持ちではあるが、あえて簡略化するならば、それは負の感情である。
トラパインはベックマンと殺生院キアラの奸計に落ちて、極度のストレスと過剰なまでの『目』に晒されてきた。
助けを求める目である。
セラフィックスの皆々から、希望を──闇からごろりと覗くような──どこか狂気を孕んだ目で睨まれ、囲まれていた。
日常の一挙手一投足を他者に過敏に踏み込まれ、プライベートを失うほど気を遣われる毎日は格別の地獄に他ならない。
ましてや、その『目』は助からない日常を得て刻一刻と身勝手な失望と混ざり始め、やがて攻撃性を帯びてトラパインの心を刺し始めていた。
期待されるという、地獄。
確証もなく、しかし助けを求められる地獄。
アルミロ同様に、彼女もまた、人から願われ、縋りつかれ、祈りを捧げられる苦悩に身を投げていた。
つまりそれは、神の苦悩である。
救い主の苦悩である。
トラパインの震える肩を、やさしく、ゴウは支えた。
熱のある指であった。
鼻を突く匂いがあった。少し、なつかしい、油の匂いである。
それが、トラパインの心に微かな落ち着きの匂いをそそいだ。
心中で波紋となって広がった匂いが、トラパインの腹の中のどろどろを掻き出して霧散させ、メトロノームのような落ち着いたリズムを取り戻させた。
鼓動である、心臓の。
自らの命の証明を、トラパインは思い出した。
顔が落ち着きを取り戻す。
それを見て、ゴウは無邪気に笑った。
まるで、童のように。
「それにね、本当にトラパインさんのこつがどげんでんよかなら、『神』さんじゃて、おいばよこしとらんよ」
「……それは、そうなんでしょうか?」
そげんそげん!
とゴウは笑った。
その態度はどこまでもおおらかで、励まそうとしてくれていた。
「あんひと……ちゅうか神さん? 意外と色々目配せ気配せしてくれよるがかよ。『ひと』がいいち言うか、『かみ』がいいち言うかね」
からころと笑うゴウに、トラパインは無言で、しかし、微かに口角を曲げたのだった。
2.
ゴウとトラパインは、広い場に出た。
足を止めた。
ゴウが膝を折って視線を下げ、むう、と唸った。
そこは荒れていた。
言うまでもなく、SE.RA.PHは電子で形成された世界である。
歩く床は基本的に、正方形的な鋭角のタイルを敷き詰めたようなデザインがずーっと続き、深海を進むにあたって閉ざされた天蓋は呉須色に敷き詰められた一枚天井である。
ここでは物体、あるいは生命体、そしてサーヴァントに至るまでが、死に瀕すると電子空間そのものに分解、吸収され、亡骸が残ると言うことがない。
セラフィックスの惨劇、自己の中に眠る他者の死の忌避感と良心の呵責を薄膜と追いやったのは、可視化された『死』と言う、物理事象と無関係ではない。
背後から覗き込んだトラパインの感想としては、そこは戦闘の跡のようだった。
地面が抉れ、焦げ、瓦礫が乱雑に積み上がり、また、床模様のように、円状に広がる波紋の跡がある。
衝撃波の跡だ。つまり、ここで何か、とてつもない力がぶつかり合って爆発した証拠である。
そんな破壊の跡が、ここにはいくつもあったのだ。
「先ば越されたか……」
ぽつりと、ゴウがつぶやいた。
真剣な声だった。
十中八九、彼はここで何があったのか、ここに何があったのか、あるいは、
「なにか、マズい感じですか……?」
あえて、トラパインは問い詰めなかった。
きっと、答えを尋ねても返ってこないと思っていた。
答えを知ったところで、これは自分にはどうしようもないのだろうと察していたのだ。
今、このSE.RA.PHで、ここまで凄まじい破壊の痕跡を残せるものは、サーヴァントぐらいのもの。
「いや、ここにね、敵にすっと、ちとめんどい子がおるち聞いとったんよ。……おらんちゆーことは、まあ誰かにやられたんかにゃあ?」
「そ、それ、大丈夫なんですか!?」
「だいじょぶだいじょぶ」
ゴウは立ち上がり、す、と踵を返した。
「ほんなりゃ、カルデアに会いにいこかね──ッ!」
ゴウが言葉を切った。
トラパインは飛びかかってきたゴウに抱えられ、その場から飛び去る。
ゴウは腕の中に彼女を抱えたまま、素早く身をころがして膝たちになった。
トラパインが立っていた場所に、暗い穴が空いていた。
二つだ。穴の周囲に回転が加わったことによる熱でできたえぐれた跡が見える。
銃弾──!?
「な──さ、サーヴァントですか!? し、襲撃されたんですか!?」
「……まずかねえ」
ゴウが立ち上がった。
トラパインの前に立った。
そこに、下手人は容赦なく発砲する。
銃声は、三度。
しかし、超音速の弾丸が目標物を貫くより速く、ゴウはトラパインを抱えて下手人の背後に回り込んでいた。
「よりによって、いっちゃん面倒臭いのに見つかってしもうたばい」
ゆっくりと、二人の視線の先に、男が正面を向いた。
黒い──男だった。
上背はそれほどでもないが、全身筋肉質で、短く切り揃えた坊主に近い白髪。迫力のある顔つきである。並々ならぬ修羅場を乗り越えた男のそれだ。
闇に溶け入る中で、ゴテゴテしくも金色に走る装飾の入った服。
足運びを悟らせない、黒いマント状のコートを腰に巻いている。
黒ズボンだ。二人を見下ろす視線が、黒い。
恐ろしい目をしていた。
映るものにとっての死を、その眼に宿している。
それは、何者かによって彼に与えられた『死を与えるための力』であり、それを『自らにも与えるため』の、死の力でもあった。
人間が扱うには、どう見ても大きすぎる拳銃を二丁携えている。
抑止の処刑人。
アラヤの守護者。
人を、より良き世界へと導くために使役される殺戮者。
エミヤ・[オルタ]であった。
3.
さて、
と『神』は言った。
BBスタジオで、充分すぎる一服を過ごした後である。
結局、待てど暮らせどBBは現れなかった。
エミヤたちも、魔術学者たちも、流石のカズラドロップですら、その静けさに違和感を覚え始めた頃であった。
彼は立ち、振り返り、彼方へと歩み出した。
「どこ行くんだよ」
広い背に向かって、尋ねたのは『ゴロー』である。
『神』は足を止めた。
これは、自らの意志で、である。
『我が
と、顔だけを半分振り向いて、『神』は言った。
ヒトの世にある音の響きではなかった。
こちらを見るその眼が、ヒトの眼ではなかった。
光が、混沌の中で渦巻いていたからだ。
うねりをあげて、星々が瞬いては、嗚咽と抵抗の果てに『夜』に飲み込まれて消えている。
夜とは、すなわち絶望であった。
彼の目には、数多の希望が浮かんでは、絶望の前に消えざるをえないという、地獄が現れていた。
何が見えているのか、何を見ているのか──語らずとも語っていた。
その希望が何を示すのか、察したのはエミヤたちであった。
「マスターが危ないのか……!!」
「守護者よ、危機は全てに訪れるぞ。彼らは、ヒトの心が一刻の備えを忘れるのを見逃さぬ。虎視眈々と舌を唾液に浸し、牙を磨き、善悪の見境いさえなく、この世に産まれんと胸を踊らせる。そなたのマスターだけではない。おまえたちにも、この私にすら、
「ワケのわからんことを……」
「おまえさんよ……つまり、今は
「……『ゴロー』? 何を言っている?」
「杓子定規な場面転換、品揃えのいい言葉に、妙に
「──なんだと?」
『ゴロー』の顔が、眼が、嫌悪に歪んでいた。あるいは増悪をたぶんに含ませて、その視線が鋭く『神』を刺す。
『神』は黙っていた。
しかし、振り返った。
「そうだ。これは、幾度も試行し、取り零し間違え続けた世界の
「多世界解釈として派生する時間軸を、変数たる特異点で侵蝕して歪め、時間軸まるごと変奏させたのか……なんてバカなことを……」
「ど、どう言うことなのだ?」
ネロの言葉に、『神』は答えない。
代わりに、答えたのは『ゴロー』であった。
「この世界は、この世界で定義するところの虚数領域に存在する世界ってことだ。正史宇宙から打ち捨てられ削除され、『
「??????」
「それが、膨大なデータになりすぎて『ゴミ箱』の容量からはみ出して、正史宇宙の
「んんん? どう言うことなのだ!? ますますワケがわからんぞ!!」
わかりやすくいうと──
「この世界は