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0.
深夜であった。
セラフィックスの中でも、最低限の電力のみが作動している時間。
夜空の星々と、その光を反射する海のかすかな灯りだけが
人気は、当然ない。
人が生活する娯楽などが無いこともあるが、セラフィックスの仕事はどこを切り取っても激務である。
夜更かしなど言語道断。
海風にせせらぐ音は、海の只中から世界を俯瞰する情景こそは、人の手に負えない自然芸術の顕現ではあるのだが。
ここに勤める者達に、心身を削ってまで、余計な芸術に傾倒する余裕はないのであった。
職員達は、否応なく。
疲れを癒すために、夜の闇に身を沈めなければならない。
だというのに、甲板で蠢くものがあった。
それは、人である。
闇に溶けいるほど深い紺色の作業着を身につけている。
背は、日本人男性の平均より低い。
醜い顔と、醜い身体の男であった。
腫れ上がった脂肪が顔にへばりつき、目がぎょろついている。
さながら自動車に轢かれたカエルのようである。
顔も──おそらくは身体も、皮膚の上に夥しい数の吹き出物が浮かび、全体的にブツブツとして、凹凸あるシルエットである。
口は横に広く、歯はボロボロで、手入れの跡がない。
髪の毛は乱雑に短く、これもまた、フケの多く毛先がボロボロであった。
腹も、必要以上に出ている。
足も短く、腕も短く、ひと目には不摂生の果ての
が、その男は、自身の体躯よりも大きいビニール袋を軽々と抱き上げて、忍者のような軽足でひょうひょうと甲板を移動している。
ただものではなかった。
男の向かう先は──セラフィックスの構造上当たり前だが──海であった。
夜の海に、それは投げ込まれた。
ビニールの袋に詰められているのは、セラフィックスの職員だった、男の死体である。
男は、『掃除屋』であった。
直接的に言えば、始末屋──殺し屋である。
セラフィックスの所長、ヒデヤス・アジマに直接雇われており、彼の命令でセラフィックスに『必要ない』とされた者を、秘密裏に始末する仕事を、ただひとり、請け負っていた。
普段は掃除夫としてセラフィックス内で働いており、廊下をすれ違う誰からも疎まれ、人となりについて気にも止められない存在である。
幼い頃にギャングに拾われ、殺し屋として生き、端金のために人を殺し続けた殺人中毒者。
ひと言で社会不適合のシリアルキラーと言い切るのは容易いが、この男はサイコパスの例に漏れず、最低限の社交性と倫理観を計算できる知性があった。
ヒデヤスの命令には服従を誓い、決して自身の快楽のため
今回殺した男は、セラフィックスの労働者階級の男だった。
大柄で、気風の良く、人当たりのいい男だった。
しかしギャンブル好きで、セラフィックス内でも暇があれば賭け事に勤しんだ。
負け続きで借金を募らせ、ついにはセラフィックスの運用資金にまで手を出そうとしたロクデナシであった。
そこまでなら、殺すまでいかないだろうが、この男は公金横領の実行中に、セラフィックスの禁忌に触れていたのだという。
これは、ヒデヤスに暗殺を命ぜられた時に、隣にいた副所長のアルミロがこぼした言葉から、男が推測したことである。
ヒデヤスは一貫して、ターゲットを「なぜ殺すのか」については語らない。
そして、男もいちいち理由を聞いたりしない。
殺せれば、それでいい。
殺して、金をもらい、食えるならそれでいい。
眼下でどぽん……と水音がする。
覗き込むと、水面がぶくぶくと泡立っていた。
ビニール袋の中の空気が吐き出され、水面に浮いているのだ。
だが、あの男が浮き上がってくることはない。
男の死体はガスがたまらないように、ナイフで喉、腹、股を斬り開いているし、血も相応に抜いてある。
その上で、ビニール袋の中には五〇キロ近い重しを入れている。
仮に、体内にガスが溜まって浮かぼうとしても、ここは大海のど真ん中だ。
プランクトンやら魚の餌になる方が早い。
それでも、『掃除屋』の男は油断なく、気泡が静まるまで見届けた。
まあ、万が一生きていた──生き返るとしても、だ。
一面つるりと特殊合金性の壁をよじ登らない限り、セラフィックスに戻れる方法などない。
北海の海は零下が基本である。
生き返ったところで漂い、その間に凍死するのだ。
『掃除屋』の男は踵を返した。
相変わらず、足音は闇に溶けている。
だから、気づかなかった。
ビニール袋が沈んだ場所から、再び気泡がぷつぷつと湧き立ち、次第に勢いを増していることに。
そして、海中からぬう、と大きな人の手が這い出てきて、セラフィックスの外壁を掴み、沈んだはずの大きな身体を、その手が海面に持ち上げていたことに────
1.
日差しが強かった。
セラフィックスでの労働は、どこを切り取っても重労働と言える。
まず、何をとっても空気が暑い。
暑くて、重いのだ。
セラフィックス自体に日差しを遮るものがないために、この施設は基本、炎天下にそのまま剥き出しである。
そして、鉄製の外皮は熱を溜め込み、必然的に内部の気温を跳ね上げる。
断熱材など雀の涙、汗を拭ってチュンと鳴ければ御の字であった。
だから、外にいても中にいても、ひたすらに暑い。
夏だと、さらに熱風が吹いてかき混ぜるために、余計に。
冬だと、逆に物凄く寒いのだが……。
それはそうとして、基本は暑い。
油田を掘り起こす機械は、ごうごうと音を立てて毎日稼働しているし、地殻を掘るためのエネルギーはとてつもなく大きい。
その迫力は、近くに立っているだけで多大な物理的圧力を感じるほどである。
作業員も、流石に油に直接触れるような真似はしないが、大気に染み込んだそれが、服に肌に、髪の毛に刷り込まれていくのは止められない。
作業場は常に、鉄と火と油の臭いで常に充満している。
もちろん、各階余す事なく冷房も空調も機能はしている。
ただ、下層に降りるごとに、冷房も空調も、その働きは鈍くなり、意味を失うのだ。
排出された冷たい空気はあっという間に熱され、濁った空気が洗浄されて、吐き出された瞬間にはもう濁っているのである。
だから、管制室のような場所でもない限り、油ぎった風が、内外どこにいても生暖かく、頬を撫でるのだ。
それを、朝から晩までやる。
油田を掘るというのは、つまるところ過酷な環境での忍耐勝負なのだ。
"ここに油があるだろう"、という目安をつけたら、油が出てくるまでの距離を予定し、そこに至るまで
予定地を超え、しばらく掘っても油が出なければ、別の場所を掘る。
ひとつ穴を移動させるのに、機械の調整が入る。
人の動きに調整が入るのだ。
大規模でシステマチックな、それでいてアナログな人と、ドリルと、ポンプの移動と差し替えが必要になるというわけだ。
機械を動かす電力も止める労力も馬鹿にならない。
なにせ、セラフィックスは海上に孤立する基地なわけだから、一日に使える電力もちゃんと計算しなければならない。
それなのに、収穫ゼロの日も珍しくもないのだから。
その日も、キアラの元には、礼拝堂には人が詰めかけていた。
当たり前だが、みな、精神がマイっている者ばかりである。
ただし、所属部署も人種も、なんなら母国の言葉さえも、バラバラである。
作業服を着た大男がいる。
事務勤めの線の細い女性もいる。
つまり、その人の趣向、趣味、文化、信じるものもバラバラなのである。
今日に至る人生をマッピングした時に、同じ図面になる人はひとりもいない。
キアラはセラピストだ。
ひとに癒しを与え、道を示すのが仕事である。時に立ち止まらせ、信じるものを思い出させる必要がある。
だから、バラバラの人種の、バラバラな人生を、バラバラな想いを、ひとつひとつ汲み取って、言葉を選ばなければならなかった。
ある人には慰めの言葉でも、ある人にとっては侮辱の言葉となる。
そんなことが、異なる人種間ではザラにあるからだ。
抗うつ剤などの薬ももちろん用意はしているが、それを配る量も考えなくてはならない。
物資の運搬は頻繁には行われないからだ。
ひとりに薬を与え続けて、他の人に薬が行き渡らなくなることは絶対に避けなければならない。
幸いなことに、人の心の機微を、その人の人生や信じるものを察する能力が、殺生院キアラという女性には生まれつき備わっていた。
それも、天賦の才であった。
だから、どこに行っても、どのような相手であっても、殺生院キアラという女性は、患者が相手であれば信頼を得てきたし、頼られてきたのだった。
対面のカウンセリングが終わる。
すっかり夜であった。
仕事が終わると、彼女は礼拝堂の二階の個室に入ってランプを灯し、各書類に目を通す。
キアラもまた、休むことなど許されない現場に身を置いているのである。
最も、キアラ自身はそれを苦だと思わない。
いや、当然、自分に出来ることと、できないことはある。
上述の天賦の才能があっても、物理的にできないことに直面した時は、やはり肩にどっとした疲れと、どうしようもなさがのしかかるのだ。
しかし、キアラの非凡たる所以は、人のために働くという行為自体に、いらぬ苦労を感じるような性分ではないところにもあった。
こつ、
書類を整理する手が止まる。
礼拝堂から、足音が響いた。
新しい患者であろうか。
もう夜だというのに。
診察──相談の時間は終わっている。
消灯の二時間ほど前。
売店なども閉まっていて、皆疲れ果てて、普通は出歩く時間ではない。
緊急の患者だろうか。
精神の均衡は、ある日ある瞬間に、突然崩れる事も多い。
それもおかしな話ではない。
それにしては、礼拝堂にはいってくる足音は軽快で、落ち着いているが……
キアラは念の為に、書類をファイルに戻して、一階に降りていった。
「おこんばんわァ、センセぇ」
降りてきたキアラを確認すると、その男は白い歯を見せて笑った。
大きな男である。
作業着のズボンに、黒のタンクトップ一枚。
仰々しい三本傷の男。
ゴウであった。
2.
「大変やねぇ、センセぇは」
ゴウは、ズカズカと無遠慮に入ってきて、礼拝堂の最前列の椅子に座っていた。
ズボンはいつもの作業着である。
上は黒のタンクトップ。
その上に着る、長袖の作業着は腰に結んでいた。
靴は、軍用っぽい、ごついブーツであった。
風呂にはまだ入っていないのか、それとも、どんなに洗っても肌と服には染み付いてとれないのか、油の臭いが薄っすらと漂わせている。
ゴウは仕方なくとキアラが淹れたコーヒーを、ごくごくと飲んだ。
ひと飲みで目が覚める、カフェインたっぷりのやつだった。
「何か御用ですか、ゴウさん?」
「あ、センセぇ、ちょっと怒っとる? 目尻にこじわがぁいててててっ!?」
キアラはゴウが言い終わる前に、ブーツ越しに足の甲を踏んづけた。
分厚いブーツとはいえ、ヒールの踵で思い切り踏み込めば、べこんと凹んで沈み込む。
「ごめ、ごめんてセンセぇ! 本当に痛かけん、やめてやぁ!」
「いいですか、ゴウさん。女性にそういう事を言ってはいけませんよ」
ぎゅうぎゅうと丹念にかかとを捻った後、キアラはヒールをゴウの足からどけた。
ゴウが、踏まれた足を股の間に持ち上げて、ブーツの上からすりすりと撫でている。
大袈裟だなぁと、キアラは思った。
「それで、何の御用でしょうか?」
「えっ? ……なんじゃろね?」
あっけらかんと言い放った。
その顔には、なんの悪意も他意もない。
目の色が、子供のような朴訥さである。
ただ、顔を見たかっただけ……?
と、キアラの質問に、ゴウ自身が答え見つからず、小さくつぶやいては驚いていた。
キアラはがくりと肩を落とした。
「あ、あ、貴方……全く用もないのに、ここにきたんですか……?」
「えー? えっとお……ん。ちょっと待っとってぇーセンセぇ。いま、理由ば考えるけん」
「……もういいですよ。ふう」
ため息をこぼして、キアラは自分の分のコーヒーに手をつけた。
ずずっと苦味と酸味が身体に染み込んでいく。
「そうそう! 思い出したばい。おいは、センセぇん愚痴ば聞きにきたとよ」
両手を胸の前でぽんと叩いて、ゴウが言った。
「愚痴、ですか……私の?」
とキアラが聞き返した。
うん、とゴウは頷いた。
「センセぇ、いっつも人の愚痴ばっか聞いとりますやん。やけん、センセぇの愚痴は、おいが聞いちゃろうと思ったとよ」
「あらあら、お優しいんですね」
「ぬぬ、センセぇそれ、本気で聞いとらんじゃろ?」
ええ、もちろん。
とキアラは言った。
セラピストとして活動する。
それを、愚痴を聞いていると解釈するのは、間違った例えではない。
セラピストであるキアラの職場が、礼拝堂であることに焦点を当ててみよう。
精神医療と宗教的見地は、ちょっと似たところがある。
どちらも、愚痴の吐き出す場所であるからだ。
宗教というのは、ある側面から見れば、どんなものであれ、その発生にはすべからく愚痴の吐き合いがあったと言える。
例えば日本におけるキリスト教。
江戸時代に農民たちの間で流行った隠れキリシタン。
それがなぜ流行ったのかというと、彼らは祈ることで救われたかったということと、同じ悩みを抱えるものたちで、愚痴を吐きあえる世界を共有できたからだろう。
端的にいうと、弱きものたちの傷の舐め合いである。
「うちのお殿さまは、最近年貢の取り立てが厳しい」
「このままじゃ、おまんまの食い上げだ」
「飢饉でみんな、飢えちまうよ」
「ウチのカミさんが、武士に連れてかれちまった」
普段、絶対に逆らえぬ権力者に対し、内に秘めた憎悪を吐き出し合う。
共感はなによりの慰めなのだ。
その上で、こんなに苦労してるんだから、俺たちは、死んだら天国に行って楽ができるはずだ。
と祈りを捧げていたのである。
それが、積もり積もりすぎた増悪となって暴走する時もあるのだが、まあ、それはそれだ。
あるいは、罪の告白でもあった。
人は、罪を抱えたまま生きることは苦痛である。
だから、正直に罪を告白したものを、全知全能の神は赦し、そのものに天国へのチケットを渡すのだと謳ったのだ。
教会の懺悔室がそれである。
神父に対し、訪れた罪人は誰にも言えない罪を告白する。
神父はそれを黙って聞き、それを問うことも、誰かにバラすこともせず、墓場まで持っていき、神に献上するのだ。
罪を告白できたものは、また、より良い一日を生きることができるようになる。
──と、そんな仕組みである。
もちろん、そんな単純な仕組みですまないことも多々ある。
だが、セラピストが愚痴を聞いている、という例えは、概ね的を得ているものであった。
キアラは、ふふ、と笑った。
微笑みである。
唇に細い指を重ねて、思わずこぼしていた。
それに気を良くしたのか、ゴウはつらつらと語り出した。
センセぇ。
センセぇは、毎日いろんな人の愚痴ば聞きよる。
えらかこつやち思うたい。
ばってん、ばってんよ。
そやったら、センセぇの愚痴は、誰が聞きよるんやって、思ったとたい。
センセぇは、みんなん愚痴ば聞きよる。
すげぇ憎悪の言葉を、毎日浴びよるわけやろ?
それって、キツかこつやろ。
言葉って、ひとつひとつは大したことなかもんでも、積み重なるとおっそろしい力ば生むけんね。
センセぇ、マイっとらんかって、思ったとよ。
訛りが強すぎて、正直ちょっと言葉がわからないところがある。
ただ、心配してくれていることはよくわかった。
真心から。
下心なく。
だから、つい、笑みがこぼれてしまったのだ。
だが、その善意をキチンと受け止めた上で、キアラは言った。
諭すような、優しい口調で。
「ありがとうございます。その気持ちは、とても嬉しいです……でもね、ゴウさん。私はこれでも医者なのですよ。患者とのやりとりには守秘義務があります。誰が、例えどんな殺意や悪意の言葉を吐いていたとしても、私が聞いた以上は、それを他人に話すことはできないんです」
なぜなら、彼らはその憎悪を、私だからこそ吐き出してくれたのだから。
私を信頼してくれているからこそ、吐き出したのだから。
その信頼を、裏切ることはできません。
と付け加えた。
ゴウは目を白黒させていた。
んん、と唸った。
彼の身体から発せられる空気が、しょんぼりだよーと言っていた。
「いやあ、いらん世話やったね。ごめんね、センセぇ」
「いえ、いいんですよ。ありがとうございます、ゴウさん」
貴方のような人が、ちゃんといることがわかっただけでも、救いですから。
「……どゆこと?」
ここでは、みんな、自分のことでいっぱいいっぱいですから。
ああ、なるほどね。
とゴウは頷いた。
セラフィックスに勤める人。
とりわけ、キアラに助けを求める人たちは、視野が狭くなっている。
自分はこんなに苦しいのに。という、何においても「苦しい自分」というものが思考の優先順位を独占してしまい、正常な判断ができなくなっているのだ。
自分、自分、自分。
他者を気にかける心はもちろん、他者に目を配るということが心から抜け落ちるのだ。
だから、それをキアラは『精神の迷路』だと言っているし、精神を病んだ人を、その迷路に迷い込んだ人、と表現する。
だから、ゴウのように、純粋に他人を気遣える人がここにいることが、周りをちゃんと見て行動できる人がいることが、さまざまな意味を含む救いそのものである。
とキアラは言ったのだ。
「センセぇにお墨付きをもらっちまったや。いやぁ、嬉しかねぇ」
とゴウは言った。
照れ照れと頭をかいた。
でも、
とキアラは言った。
ゴウが顔を上げた。
キアラの顔を見た。
菩薩のように柔らかな顔が、そこにあった。
「私だって、たまには褒めてもらいたいし、吐ける愚痴を吐きたくなる時はあります。だから、その時は、お願いしちゃいましょうかしら」
おお、おお。
とゴウの目がきらきらと輝き出した。
感情の動きが単純である。
その単純さが、妙な愛嬌を生んでいる。
複雑さがなにもない、あるのはただ善意だけ。
あるいは、時と場合によっては恨めしくも思うそれだが、この場に於いては好ましかった。
「よかよ、よかよ!」
とゴウは言った。
本当に、人好きな犬のような反応をする男だった。
「ただし、みんなにはナイショですよ」
キアラは、イタズラっぽく人差し指を唇の前に立てて言った。
人によっては欲求を刺激するたまらない仕草であったが、ゴウはあくまで無邪気な笑顔を見せていた。
もちろん、もちろん。
と、ゴウは顔を何度も頷かせた。
2.
不思議な人でした。
私の元に、特に悩みもなく転がり込む男。
別に、それ自体は珍しいことじゃありません。
私にお近づきになりたいだけの男。
私の人生で、そういう男は、これまで何人も見てきました。
ある男は、ばっちり高級そうなスーツを着込んで、花束を用意して、高級車に乗っている。
私が診療所から出るのを見計らって声をかけてきて、紳士の皮を被って、詩的な言葉をペラペラと捲し立て、私が如何に美しいかを懇切丁寧に説明し、自分がどれだけ
だけれども、やはり下心が隠しきれず、語りの最中の視線は、私を舐め回すように上から下へと這いずり回っている。
ある男は、力づくで私をものにしようとした。
武力をちらつかせて脅し、股を開けと、凶器を片手に下衆な笑みを浮かべている。
幸い、私は多少、暴力に屈しない知識と、それを実行するだけの度胸は持ち合わせているので、それを完遂されたことはないのですが。
仮にも、世界を巡って──巡らざるを得ない状況に追い込まれて、武力がものを言う土地や国をも転々としているわけではありませんもの。
だけど、礼拝堂に転がり込む、ハタ迷惑なその男には、最初から下心が感じられませんでした。
それどころか、よくよく見ていると、彼は、私自体にはさして興味がなさそうにも思えるのです。
私の成してきたこと、成せなかったこと。
私という人間が、どのようにしてここにきたのか。
なにが不満なのか、なにが楽しいのか。
興味があるのはそういうことで、私の──はっきり言ってしまえば、女性的特徴には、まるで興味がなさそうなのです。
たまに、思い出したように下品なジョークを口にします。
おっぱいがどうの、お尻がとうのと。
でも、全然詩的に被せたりもしないし、かと言って、そこに愛欲を重ねているようにも聞こえないのです。
子供が、そういう時期に、そういうもので笑ってしまえるような。
面白いから口に出しているだけのような。
例えで言うなら、そう。
彼は子供のようなのです。
──貴方は、辛くないのですか?
ふと、そう聞いたことがあります。
それは、セラフィックスでの生活のこと、仕事のこと。
相変わらず賭けでカモにされて、負けて。
屈強な男たちから逃げ回ることも多いみたいで。
私がそれを庇うのも、すっかり日常の一部のようで。
だから、私はいろんな意味を含めて聞きました。
けれど、彼はその質問の意味自体、よくわかってなさそうに、顔をかしげました。
だって、と。
だって、仕事なんだから、キツいに決まってる。
そう言って、うへぇうへぇと、舌を出して目を閉じて、ワザとキツそうな顔をしました。
すると、彼は。
ゴウさんは、一転してセラフィックスの素晴らしさを語りだすのです。
例えば、食堂がいい。と言います。
セラフィックスの食堂は、言ってしまえば社員食堂です。
知識階級の人たちと労働階級の人たちでは、食べるところが違ったりもしますが、実のところ、別にどちらで食事を摂ってもよかったりします。
私も、たまに利用します。
いつもいつも利用すると、熱っぽい目線がしつこくて、正直嫌になっちゃうんですが。
そして、お値段はお手頃です。
社員食堂的なものの常で、一度に大量にご飯を作るので、単価が安い。
種類も、なるべく飽きがこないように豊富に揃っています。
ゴウは、こんなにいっぱいのご飯を、安く自由に食べれるのだから、それは素晴らしいと言うんです。
そこはその通りだと、私も思いました。
彼は、最近調味料を、違ったものに入れるのが好きだと……そんなことも話します。
例えば、お味噌汁にソースを入れてみたり、卵焼きに、飴を乗せてみたり。
美味しそうなものもあれば、聞いているだけでゲテモノ感溢れるものまであって、それを食べた時の反応も、いちいち再現してくれるのです。
あれは、失敗やった。
あれは、思っとったより美味かった。
あれは、どげん組み合わせやったか、ええと、思い出せんばい。
コロコロと表情が変わって、でも、基本はゴウさんは笑っています。
だからか、私も釣られて、気づいたら笑っています。
ゴウさんは、毎日私に会いにくるわけではありませんでした。
三日、四日と、なにもない時もありました。
でも、それは当たり前の話しで。
彼は患者でもなんでもないので、いちいち来る日と来ない日を、私に教える義務も義理も、ないのですから。
だけど、それに、私がほんの少しだけ、寂しさを覚えることがありました。
礼拝堂というものは、静観な景色であって然るべきです。
ですが、彼がいると、途端に賑やかになります。
元々、私は西欧的な宗教の価値に身を置く人間ではありませんので、多少さわがしくしても、私がとぼけてしまえば、神さまだって、怒ったりしないと思いたいです。
たまに、夜に会いにくる時もありました。
流石に消灯の前ですが、私は手を止めて、一緒にコーヒーを飲みます。
彼は、私の淹れるコーヒーをいたく気に入っているようでした。
別に、特にこだわりのない、普通にお店で買えるものです。
それでも、センセぇがわざわざ淹れてくれるから美味しいのだと、言って聞きません。
私は、ちょっと、嬉しくなります。
それから、彼が椅子に座って、私は机に向かって、書類を片付けている。
彼は、何もしない。
ただ、私をみてたり、みてなかったりします。
何をしているんですか、と私が聞くと。
何もしとらんのよ、と笑って返します。
どこか哲学的なやりとりで、私は好きでした。
朝になる前に彼は帰ります。
私が机に突っ伏して寝てしまっても、彼は私に一切手を出さず、いち枚布団をかけて、黙って去っていました。
彼は、基本的に子供のような情緒ですが、時折、実はものすごい頭が良いんじゃないかと思う時がありました。
このおバカな雰囲気は、ワザと作っているんじゃないかと。
こういう人が、たまにいます。
自ら心に鍵をかけてしまう人。
ワザと道化を演じて、余計な心労を背負わないように立ち回ろうとする人。
時には、人を喜ばせるために、その笑顔のために、自らを貶め続ける人も見たことがあります。
私は、私の活動は、そう言う人たちも、救うためにあるのです。
だから、彼と顔を合わせて話すことも、自然と必然に変わっていったのだと思います。
……最初は。
だけれど、ほんのり熱を持っていました。
その行いそのものに、私が熱を持っていました。
それに気づいたのは、患者のひとりに指摘されたからでした。
──先生は、あの人と、何かあるんですか?
カウンセリングの応答の最中、唐突に投げかけられた質問。
言葉に、強い興味が孕んでいました。
それは、セラフィックスの環境に圧迫され、失意に沈んでいた先程までの彼女の言葉とは違い、軽妙で、私の答えに対するある種の期待が込められてもいました。
首のあたりまで伸ばした髪。
よほど癖っ毛なのか、輪郭にそうように伸びている部分と、外側に跳ねている部分がある。
大きなメガネをかけていて、どことなく鈍臭い空気を纏う、セラフィックスの知識階級、通常事務職員の、普通の女性スタッフでした。
私は、彼女をよく覚えています。
なにせ、彼女は私がセラフィックスに降り立った時に迎えてくれたひとりであり、私が業務にあたった最初期からの患者のひとりだったからです。
あの人とは、誰のことでしょう?
私は、わかっていて、そう聞き返しました。
彼女は、何かを察して、はわわ、と口を弛ませ、すみません、すみませんと、勢いよく謝りました。
すいませんすいません!
私、何言ってんでしょうね、あはは……ひ、ひとさまの、ましてや先生のそういうことに、首突っ込むなんて、あ、あはは……
なんとか誤魔化そうと自嘲する彼女は、しかし、これまでの落ち込んだ振る舞いとは違う、明るさを持っていました。
他人の色恋は蜜の味……と言うことでしょうか。
他人のそれは、人ごとでありながら、なにか、胸がドキドキするような気持ちになることがあります。
世に言うラブコメや恋愛ドラマが流行る理由も、極論それですから。
いや、私にはその気持ちは……うん、よくわかります。
いや、本当に。
私だって、未だに『人魚姫』にときめく程度には、純心ではありますので。
しかし、やはりあれだけの頻度で会っていると、見られてしまうものなのですね。
彼女は現場に降りてくることは滅多にない事務方です。
なのに、ゴウさんの存在をはっきり認識している。
……ということは、もしかすると、セラフィックスの結構なスタッフに、知れ渡っているのでは……?
──先生?
彼女が、私に言いました。
具合が悪いんですか?
と。
なぜ、ですか?
と私は聞き返しました。
だって、顔が真っ赤ですよ。
────ッ!?
思わず両手で顔を覆いました。
すると、彼女はぷ、と吹き出して、
やっぱり、そうなんですね。
と、可愛らしく。してやったりと。
少女のように、くすくすと微笑んだのです。
あらら、してやられましたわ。
私は今度こそ顔を真っ赤にして、あえてニコニコと笑顔になって、言いました。
お元気そうですね、マッキントッシュさん。でも、人にそういう態度をとるのは、あんまりよろしくありませんよ?
それが、彼女にどう映ったのかは言うまでもなく。
顔を引き攣らせて退出した彼女を見届けて、次の患者を呼ぶ前に、私は頬杖を付きました。
実は、指摘された時、胸が小さく痛んだのです。
気持ちが乱れてしまって、それを整えるために、私はふ、と息を吐き出して、お茶を飲んだのでした。