※この作品はR-18です。

少女の見た夢   作:ロウシ

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神の悪戯
幕間:誰も彼もが踊っているのさ。どこのどいつかの掌の上で


0.

 

 

 追い詰めたはずの屋上。

 対峙するのは、男女がひと組。

 片や──むせかえるほどの死臭を身に纏い、上から下まで返り血によって赤く染まった真黒い男。

 沈んだ色の眼であり、もはや形すら定かではない闇色を携えるそれは、放心を経て心身ともに摩耗し尽くし、それでもなお、歩みを止(・)め(・)ら(・)れ(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)哀れな魂の写し身であった。

 

 片や──麗しき僧衣に身を包んだ、神聖魔性溢れる女性である。

 微笑んでいた。

 銃口が突きつけられているのに。

 その銃は、今し方、何人もの無垢の命を奪い尽くし、銃身の熱が冷めやらぬために空気と擦れてはしゅうしゅうと音を立てている。

 

 男は、ここにくるまで、いくつもの屍を生み出していた。それは、女の信者である。迷いなき善意と、文字通りの狂信へとその姿を変えた執着のみを心に、拠り所を護らんと命を曝して信徒たちは男の足越しに縋りついた。

 その歩みを止めんとすべく。

 しかし、誰ひとり武器を持たなかった。

 それは、物質的な意味ではない。

 信徒の物理的武装は、おおよそ一宗教団体には余りある凶暴なものだった。

 マシンガン、ショットガン、手榴弾。

 その身には防弾チョッキを着て、射撃に躊躇いも戸惑いもなかった。扱い慣れている。男の見立てでは、間違いなく信徒たちは銃を打つ訓練を受けていた。

 しかし、男に向けられたものに、殺意や敵意の類はほとんどなかったと言っていい。

 もっと厳密に言えば、「できれば死んで欲しい」と言った切なる想いはあったのだが、殺意の始発点はどこまでも誰であっても『教祖を護りたい』という純粋極まる守護の情である。

 銃を持つ敵対者に対し、列を成して群がる彼らが心に秘めるものはそれであり、それが銃弾となって男に襲いかかったが、その本質は信徒自らの安寧と居場所を護らんとする、虐げられた弱きものたちの願いである。

 

 信徒は自分の命ではなく、女の命を乞うていたのであった。

 

 殺さないでくれ!

 と、銃を撃ちながら叫ぶ彼らの言動はいかにも矛盾している。

 恐怖ゆえの言葉であるが、その恐怖を排除するために、彼らは戸惑いを持たない。躊躇いもない。 

 

 彼女を、殺さないでくれ!

 ひとりひとりを撃ち殺していく。

 

 わたしたちから、彼女を奪わないでくれぇぇ!!

 言葉は、男の胸に響かない。

 血を吐くような言葉であったが、それだけにことここに極まった滑稽さを引き立てているだけであり、もはや常世の光景を鳥瞰して観ることができる男にとって、信徒たちの無垢なる願いは皮肉にも満たない冗談(ジョーク)である。

 彼らの守りたい、護りたい、と言う心は本心からであっても、彼らはそれを成すためには躊躇なく引き金を引き、他者の命を脅かせるのだ。

 終いには、もはや信徒は言葉の体裁を整わせず、吐き出される言葉は猿叫の類となり、男に絡み付いた。

 紛れもない善意から滲み出て派生する、心配と恐怖の感情を煮詰めたものでできていたそれを、しかし男は一蹴する。

 男に心中にあるのは、揺らぐことのない鉄の心。

 その皮膚の下を流れるものは、使命に命を捧げた対価に得られた真黒い血である。

 男の鋭い殺意に、視線に、その双眸が見据える先に、信徒たちは恐れ慄いた。

 男が成そうとすることを、その未来はあってはならない!

 その未来は、信徒たちにとって、この世界を闇に落とさんとする、混沌と悪と夜とが混ざり合った、明日亡き暗黒の使者の悪業の果てである。

 だから、何人倒れても、腕が吹き飛んでも、足を砕かれても、仲間の死骸を踏みつけてでも──男の腕に縋りついた。

 

 ああ、あのヒトを殺さないでおくれ!

 わたしたちの居場所を、奪わないでおくれよ……!!

 

 重石となるべく縋り付く者たちを、しかし、男は容赦なく撃ち殺していった。

 躊躇はなかった。

 何故なら、抑止の理屈の上では、彼らもまた──人の世に必要ない者たちであったからだ。

 人の世に、混乱と災いをもたらすと、抑止に定められたものたちだったからだ。

 それはつまり、人間社会を構成する社会にである。

 それはつまり、人間社会を形成する秩序に、である。

 その心にあるものが、底の底から善意のみであっても、彼らは異端者であり、人類史を長い眼で見た場合、排斥されて然るべき悪魔の眷属たちであった。

 その身体から発信されるシグナルが、喩え優しさだけだと伝えてきても。

 よ(・)り(・)大(・)き(・)な(・)も(・)の(・)から、彼らは人の世に害をもたらす寄生虫だと断ぜられたのだ。

 だから、男に躊躇はなかった。

 だが、少しだけ、願う。

 せめて──光ある世界で息をしなければ。

 まだ、安然とした夜の世界に身を潜めていれば。

 生きるべき世界を探索し、身の丈に合わせていれば、彼らはまだ、生きることだけはできた人々でもあった。

 

 だが、そうはならなかった。

 審判は降った。

 他ならぬ人の意志で。

 男はその執行者にすぎない。

 鉄の心を秘めて、正義の名の下に、引き金を弾(ひ)くのだ。

 

 それは、ある女が創り上げた新興宗教だった。

 世に食いっぱぐれた天才、異才、異能者、異端者を抱え込むカルト教団が、恐るべき速度で世界の勢力図を塗り替えていた。

 新興宗教の肥大化、権力圏への邁進は、途上国あるいは発展国であっても、村々の規模ではありがちな話である。

 が、今回は規模の桁が違った。

 その勢いは、国を跨いでいたのだ。

 人種間の差別やくだらぬ秩序の壁を悠々と乗り越えて、平等と平和の理念が戦争と混沌の大地に侵食し、倒錯した安寧へ染め上げていた。

 熱力学と社会性の上辺だけが成熟し、もはや人間の倫理と多様性が世界を巻き込んで腐り果てるこの時代に、彼らは時代錯誤も甚だしいバベルの塔を打ち建てんとしているのだった。

 ならば、炯々たる正常で、全能なる神の信徒たちが、それを赦せるはずはない。  

 神々に罪と罰を与えられ、それを辛苦を味わいながらも発展させ、世界に調和を齎していた『彼ら』の機嫌を損ねるのは時間の問題であった。

 

 ヒトの──その歴史に置いて、多種多様な人々が手を結び、心身を共感させ飛躍的な発展と成長の先。

 彼らが神の膝下に立たんとしたことに対し、神からの返答は怒りである。神は、『全能の雷』によるバベルの粉砕を行ったのである。

 彼らのような存在は、今の人の世にいてはならない。

 ヒトが全能の神のしもべであり、運命に裏打ちされた歴史を歩まざるを得ない神の麾下においては、彼らはいつだってどこでだって叛逆の徒(ともがら)に違いなかった。

  

 だから、男が派遣された。

 だから、男はここにあるも(・)の(・)たちを、正義の名の下に殺しているのである。

 

 必要とされるものが残り、そうでないものは排他される。

 時代の必然であった。

 それは、かの時代に行われた魔女狩りのようでもある。

 あの頃に比べれば、大々的かつ残忍ではなくなっただけで──現代においても、異端者が社会から弾き出される道理(システム)は、依然存在し得るのだ。

 むしろ、よりシステマチックに集団社会(コミュニティ)が形成される現代だからこそ、夢を見る時代は終わったのだ。 

 科学が宗教に代わり、秩序の道を開拓し、万能の信仰を集めることによって、異端が許容される世界は所詮まやかしに過ぎないことを浮き彫りにしているではないか。

 

 そして──目の前の女が浮かべるものは、あるいは同情の笑みであった。

 

 女は、躊躇なく飛び降りた。

 

 自(・)ら(・)の(・)鉄(・)心(・)を(・)揺(・)る(・)が(・)し(・)た(・)殺(・)人(・)の後である。疲労は男の手足を痺れさせ、止める暇も撃鉄を起こす暇すら無かった。

 女の動きは妙に緩やかだったが、そのタイミングが巧みであった。

 男の心の隙間をするり、するりと抜けて、投身自殺は巧みに行われた。

 女の身体が完全に眼前から消え失せた瞬間、男は自身の心にどす黒い染みが広がるのを実感した。

 

 あれは──いつのことだったろうか?

 その始まりが、いつだったかと言う話だ。

 善を成すために、生きていた。

 犠牲としたもののために、生きていた。

 そのために、人を殺した。

 殺し続けた。

 必要とあらば。

 抑止として、守護者として。

 正義の名の下に。

 殺し続けるうちに、男は気づいた。

 殺す対象が善人か悪人かと言うことは、関係がないということに。

 人の心にある善悪は、その行動として抽出される際に、素直ではない。

 心の情熱と行動の不均衡は、ヒトが善を成すか悪を成すかを、単純に決めるものではないと知った。

 

 だから、こうなった。

 だから、男はここにいる。 

 家族だったヒトをこの手で殺してまで。

 家族だったヒトの子を、この手で……

 最期に、彼女は小さく、泣きながら、「ごめんね」と言っていた。

 男に対する言葉に違いなかった。

 精魂尽き果て、すり潰され、面影は遠く彼方に消えても、彼女は男を自らの家族と理解していた。

 その上で銃を向け、懺悔のように撃たれて死んだ。

 

 男の人生にはよくあることである。 

 友を、恩師を、仲間を、敵を、必要とあらば殺し続けた人生である。

 いつか、こうなることも、心のどこかでは分かっていた。

 その証拠か、涙は流れなかった。

 しかし、男は狼狽えた。

 立っていれないほどに、狼狽えた。

 時には──例え用のないほどの巨悪が、弱者を救う限りない善を生んだ。

 時には──比類なき善意が、取り返しのつかぬ悪へと、人を堕とし続けていた。

 だから、男は自らの正義を妨げるものを殺していた。

 だから、男は誰であれ、立ち塞がる以上は殺し続けてきた。

 

 男は、正義の味方として活動を始めてから、この世を構成するものは善悪ではないと、すぐに気づいていた。

 二元論的な視野で人の世を見ることは、正義か、悪を成すものとしては、嫌悪して然るべきことなのだと悟った。

 

 それでも──男は、自分を変えられなかった。

 それでも、男はやり方を変えられなかった。

 

 だから、彼女を撃ち殺してしまった。

 引き金を弾く指は、いかにも手慣れていて、スムーズにことを成した。

 

 果たして、その後悔の念であろうか。

 代わりと言わんばかりに、男は死にゆく彼らの最期を、心に縫い付けた。

 その上で、それらを虚無に追いやり、向けられる怨痕憤怒を真っ向から抱きしめて、潰し、己が四肢へと縛り上げた。

 それを、重石とした。

 罪人が抱える重石と。

 罪人が償う罰とした。

 やがて、それに耐えきれなくなる時が来る。

 心か、身体が先かはわからない。

 だが、筋骨神経の一本動かせなくなるほどそれが積み上がり、重くなる時が必ず来る。

 その時が、清算の時だと願っていた。

 その時まで、歩き続けるつもりだった。

 

 その渦中で、良心と憧憬はことごとく引き裂かれた。焼き尽くされ、灰となり、心の闇にとうに沈んだ。

 限りなく沈んでいく。

 そのたびに、まだ、底があるのかと、何度も思った。

 人に内在する闇は、段階を踏むが底知れぬ無限であった。

 誰もが持ちうる底冷えするような、残酷な領域に、その心は堕ち続けた。

 あっけないほど、抵抗なく。

 良心と憧憬に与するものが、そこに、溶け入るように、激しく砕けていった。

 それは、理性だった。

 あるいは、感情とも呼べた。

 人間の精神を組み上げる善性が、爆竹のようにパチパチと衝撃に波を立てて、男の中で轢き潰されて、粉々に飛び散っていった。

 感傷に色付ける油絵具たちは、心を縁取るガラス玉の中で、混ざり混ざって鈍(にび)色と成った。

 すなわち、死の色である。

 タチが悪いことに、死の色と化した心の闇は、落ちゆく善性を踏み台に、その肉の外に露出する。

 男は身にも心にも暗黒を纏うようになっていった。

 政府の御名の下に、悪を殺す悪へと転身を遂げた。

 拍手を持って、男の転身は迎え入れられた。   

 正義のためだと、もはや言い訳も叶わぬ心だけが、朽ちた墓標となって男の深層に座している。

 

 それでも、引き金を引く指を囃し立てる悪意に、男は抗った。

 人を殺す──それを勲章の如く誉(ほまれ)に感じる悪意だけは、頑なに突っぱねた。

 それに身を委ねたら、どれだけ楽だったことか。

 殺人者と殺戮者の旗印として、『正義』を掲げることができれば、どれほど救われただろうか。

 自らの行いを、曇りなき眼(まなこ)で正義を宣誓できるなら、どれだけ救われただろうか。

 

 だが、それだけはできなかった。

 一線を超えることだけは、できなかった。

 

 ──あの日までは。

 

 目の前で、女が落ちていく。

 突き落としたのではない。

 銃口は向けていたが、撃てなかった。

 飛び降りる直前まで、女は男へ言葉を紡いでいた。

 それは、愛する者へ優しく悟りかけるような、甘美な音で空気を振るわせた。

 女の言葉は、魔性を孕んでいた。

 女の目つきは、ことここに至って快楽と愉悦によどんでいた。

 

 男のことを、嘲笑う顔をしていた。

 その目の奥で、哀れな童と笑っていた。

 命尽きるこの時。

 命刈り取る死神の訪れ。

 出会った瞬間こそ、この瞬間を期待して待っていた顔だったが、瞬時にそれは色を失い、別の艶色が浮かび上がった。

 

 女は、自ら命を手放した。

 微笑みを浮かべ、目を閉じ、躊躇いなく死の深淵にその身を投げた。

 

 男にはわかっていた。

 その時点で。

 奈落に落ちるのは、女ではない。

 目の前で落ちゆくそれは、己の最後の理性であった。

 贅肉を削ぎ落とした結果、なんともか細く頼りなくなった細枝のような、己がしがみついていた、わずかな、最後の正義感であった。

 積み上げた犠牲者の怨痕が、彼女の魂の犠牲でさえも、女の跡を追いかけるように、手を広げて招く深淵に、呑まれていく。

 落ちた女を、しばらく経って、ふらふらと歩み寄り、目で追った。

 放心のまま、覗き込む。

 女は、地面に横たわっていた。

 物理法則は極めて従順に働いていた。

 彼女の信者が縋り付いていた奇跡など、宇宙法則そのものである、万有引力の普遍性に抗えるはずもない。

 奇跡は起こるはずもなかった。

 つまり、あの女は救世主(キリスト)のように生き返ることもない。

 それも当然。

 あの女は、救世主ではないからだ。

 

 アスファルトに叩きつけられた衝撃で、女は腰から砕けて、上半身と下半身が別れていた。

 身体そのものはかろうじてその原型を保っているが、飛び出した内臓と大量の血液が、なぜか左右対称にき(・)れ(・)い(・)に拡散して、さながらロールシャッハテストのようだった。

 光を失ったその顔だけが、異常なまでに美しかった。

 何の汚れも、血もついていない。

 光はない。

 だが、死人の浮かべる輝きではなかった。

 慈母の笑みを浮かべていた。

 それは、女が自分に向けたものである。

 自己満足の果てに、作られたものだった。

 

 それを見た瞬間に、崩れ去った。

 男を形成していた全てが。

 男をかろうじてここに立たせていた、尊厳が。

 正義が。

 そよぐ風に逆らえぬ綿毛のように、音も立てずに空へと抜け落ちた。

 膝から、へたり込んだ。

 立っていられなかった。

 涙は、出なかった。

 代わりに、涙以外の全てが流れ出た。

 

「ぐ……う……お、ぉっ……」

 

 声が、出なかった。

 言葉にならなかった。

 崩れ落ちた。

 善き人を救うはずだった。

 だが善き人を殺した。

 だが、結果的に悪は死んだ。

 教祖たる女は死に、女が作り上げたカルトは滅んだ。

 人の世を狂わす魔性は、ここに斃れた。

 

 

 

 オレは、間違ったことはしていない。

 正しいことをしたはずだ。

 

 正しいことを……

 

 ………………

 

 言い訳を脳につぶやいて、逃げるように、男は去った。

 

 そして、後日。

 女は、女を教祖と慕っていた信者の残党によって、神へと祭り上げられた。

 男は、建てられた祭壇──犠牲者を弔う為に、国連から造られた形だけの石碑に──信者たちが花と、信仰と、祈りと、愛を捧げているのを見た。 

 涙を流し、それに縋り付く様を見た。

 

 『死の瞬間まで、我らと共にあった、慈しみの聖女』。

 

 

 彼女はこの世界で、そう成ってしまった。

 オレが、殺したせいで。

 彼女はこの世界で恒久の愛と正義となった。

 そして、オレは、永遠(とわ)の罪人となった。

 

 

1.

 

 

 満天の星空であった。

 見上げると、煌めく星々が河のように横たわっている。 

 見下ろすと、海の表面を波に合わせて星の光が揺らめいている。

 頬にあたる風が暖かい。

 夜であるのに、しとやかに吹く風は、まるで陽光に熱されてのぼせているようだ。

 それが充満しているからか、空気そのものの質が違う。

 北海のセラフィックスとも、生まれ育った日本とも違う。  

 視線のずっと先。

 海のずっと先に、うすらぼんやりと島が見える。

 遠巻きに見ても、うっそうと生い茂った森の中に、人の生きる世界を切り拓いて作られた街があるのがわかる。

 南の島。

 いつか、彼女(キアラ)が思い描いた理想(ユメ)の世界。

 

 殺生院キアラは、そこに立っていた。

 

 その世界は、記憶にある自分が夢見た世界そのものであった。

 踏み締める砂の感触。

 身を撫でる風の暖かさ。

 生える木々の数と形ですら、夢で見たそのままである。

 自身の姿は、水着であった。

 しかも、大事な部分を貝殻で装飾されている、露出の多いビキニの水着である。

 まあまあ、なんとハレンチな!

 と身をくねらせるが、当たり前に反応はない。

 

 ならば、とキアラは砂浜を歩いた。

 自分の息に合わせて、星々が瞬いているようだ。

 ゆらゆら、ゆらゆら。

 定まらない光の在り様は、人心を蕩けさせる魔力を孕んでいる。

 記憶に導かれるまま、キアラは歩いた。

 

 やがて、安い作りのホテルが見えた。

 白い石造りの壁。

 雑草の手入れは放り投げられている。

 海風にさらされて、痛みきって黄ばみ、壁も石畳も角が崩れて丸くなっている。

 壁に、窓口はあるが、窓はない。

 吹き抜けの風がそのまま、部屋の中に入ってくる作りである。

 横から入る分には、ベランダと砂浜を隔てるものがない。

 だから、キアラはサンダルのまま、そこに登った。

 戸板を打ち合わせただけの、雑に組み立てられた床が、ぎしり、ぎしりと軋んでいる。

 板の下に支えがないのか、あるいはサビきって折れているのか、不安定に揺らぐ道が、その期待感を高めていく。

   

 その先に、彼はいた。

 

 やっぱり、とキアラは思った。

 彼は、海を正面に構えて、ホテルの部屋を背に向けて、ベランダと砂浜を隔てる階段の上に座っていた。

 その隣に、酒瓶がひとつ。

 グラスが、ふたつ。

 彼は、キアラに目配せをしない。

 だが、自身がここにいることは、とっくにご存知だろう。

 

 歩み寄って、すっ、と横に座った。

 彼の横顔を、キアラは見た。

 

「やあ、センセぇ」

 

 顔を傾けて、にこりと、『ゴウ』は笑いかけた。

 キアラの記憶にあるゴウとは違って、少し、ニヒルな笑みであった。

 

「いい場所ですね」

 

 キアラは、あくまで理性的に言葉を紡いだ。

 ゴウと言葉を交わす瞬間に、たまらぬ情欲が、彼女の肉の裡(うち)にみなぎっていた。

 たちまち秘部を湿らすような快楽が巡った。

 反射的にか、す、とキアラは少し、身体を近づけた。

 ゴウは、嫌がらなかった。

 落ち着き払った態度で、キアラを迎えていた。

 波音だけが、静かに染み渡る。

 さて、なんと口にするべきか。

 

 ゴウは、黙ってグラスに酒を注いだ。

 やはり、中身はにごり酒であった。

 夜の中でも、その色の悪さがはっきりと見てとれる。

 安酒も良いところだろう。

 だが、グラスを渡されて、キアラはそれを嫌がらなかった。

 

「……まずいですわね、やっぱり」

「ああ……だけど、このマズさがよか。こん世界ばよう引き立てるやろ? じゃけん、これでよかとよ、センセぇ」

 

 こくこくと喉に通す液体は、舌を焼くような酸味と、喉を焦がすような苦味があった。

 良い酒ではない。

 だが、静妙さがすなわち神聖な佇まいを人に回勅させるこの世界では、そのマズさは風流と受け入れられよう。

 寄り添えぬ刺激が二律するとき、ギャップとして、それを飲み干す個の存在を、世界に引き立てるのである。

 

「夢に、連れてきてくださったのですね」

 

 ゴウが何者であるか──

 ここがどこであるのか──

 キアラは、その質問をしなかった。

 論ずるに値しないからである。

 仮にも、SA.RA.PHは己の世界である。

 自己に内在する領域に触れることで、ゴウの存在が人界を超越するものであることは、わかっていた。

 全能者。

 あるいは、そうも呼ぶのだろう。

 だから、その手の質問に意味はない。

 ただ、ここにある現実を噛み締める。

 

「それで……私に、何か言いたいことがありそうですね」

 

 ゴウは、うん、と頷いた。

 子供の様な、短く、名残惜しそうな声だった。

 

「センセぇ。あんた、負けるぞ」

 

 ゴウはちびり、と酒を口にする。

 キアラはその言葉を、しっかりと受け止めた。

 艶やかに、目を細めた。

 それでも、星々の瞬きは変わらない。

 

「それは──予言、でしょうか?」

「いや、確定した未来だよ」

 

 口調が変わっていた。

 訛りが消えていた。

 いや、雰囲気が変わっている。

 キアラに向けられる横目の視線が、朗らかで柔らかな空気が、鋭く固く、冷たいものになっている。

 だが、一抹。

 ほんの少しだけ。

 キアラには、そこに、寂しさも含まれているのだと、感じていた。

 

「俺というイレギュラーがいるかは関係なく、おまえは負けるよ」

「言い切るのですね」

 

 もちろん、とゴウは微笑む。

 また、ちびり、と酒を飲んだ。

 キアラも、ちびりと、飲んだ。

 酔いしれるには、なるほど、少し苦すぎる。

 

「この世界の抑止力は、よくできてる」

 

 ゴウは語った。

 それは、キアラの敗因である。

 未来において、カ(・)ル(・)デ(・)ア(・)に(・)負ける理由ではなく、人(・)類(・)に(・)負ける理由。

 

 お(・)ま(・)え(・)が、あるいはよくわからない力の集まりのままであったのなら……きっと、カルデアだろうと抑止力だろうと、負けなかっただろうね。

 だけど、おまえは時間的必然点となった。

 つまり『獣(ビースト)』になってしまった。

 未来において確立しきった存在は、その時点に至るまでは、もうそれ以上の何かにはなれない。

 『獣(ビースト)』のことを、人類悪とも呼ぶそうだが、これに対する抑止力の解釈は目を見張るものがある。

 

 人類悪とは、人類が打ち立てた愛憎極まる歴史の中で生まれた副産物らしいじゃないか。

 つまり、人類史の醜いイ(・)ボ(・)と言うわけだ。

 それを、抑止力は『人類が打ち勝てぬ巨悪』と定めず、『人類が越えるべき巨悪』と定めている。

 もっと言うと、『人類が必ず乗り越えられるもの』と定めているわけだ。

 サーヴァントシステムとやらにおける、冠位(グランド)クラスの召喚を始めとして、ここに、この世界の基盤が『強い人間原理』であることが、神の視座からは見て取れる。

 

 つまり、この世界では光の速度が秒速三〇万キロメートルである理由は、人間が宇宙に存在するためであり、この世界で地球上の酸素濃度が二〇パーセント弱なのは、人間が生存し、繁栄するためということだ。

 最初から、あらゆる事象が『人間の存在』という未来の絶対値を基準に、確約された上で起こり得る。

 道中で人類や世界がどんな危機的状況に陥っても、『人間の存在』が未来の果てに確約されている限り、そこに至るために事象が書き換えられるわけだ。

 それは、ちょうど、神の真言のように。

 神という『果て』が先にあるが故に、あらゆる事象が神の言葉通りに未来へと紡がれるのに、似ているか。

 

「つまり、おまえは絶対に、カルデアには勝てない」

 

 俺がいようがいまいが、それは変わらんよ。

 

「では、なぜ──」

 

 キアラの吐く息が、熱かった。 

 彼女はにごり酒を少し口に含ませた状態で、ずい、とゴウの耳ともに顔を近づけた。

 そして、凡夫ならば、脳を溶かし尽くしてしまう様な甘い声で、言った。

 

「なぜ、ここで、私にそれを……お伝えになられたのでしょうか?」

 

 あるいは、逢い引きを誘う様な扇情さがあった。

 自らが吐く言葉とその熱だけで、キアラは心身共に、濡れそぼっているようだった。

 ゴウは、全く意に介さず。

 鋭い視線を返した。

 

「最後通告だよ」

 

 今ならまだ、俺の力で全てを無かったことにしてやれる。

 おまえも、元の世界に帰す。

 だから、封じ込めたセンセぇを返しなさい。

 

「……イヤですわ」

「子供じみたことを、言うんじゃないよ」

「イヤですよ、もう」

「……妬いてるのかい?」

「……まさか」

「…………」

「…………」

 

 深く、沈む様な静寂。

 ひゅう、と風は変わらない。

 だが、温かな風が、どこか冷たく感じる。

 痛々しいほどに。

 感情が揺れるように、この世界が揺れている。

 ゴウは、ちびり、と残った酒を飲み干して、下の上でその苦味を存分に転がして、飲み込み、勿体ぶった息を吐いた。

 困っているような所作であり、腹を括ったような、暗い表情であった。

 

「どうしてですの?」

 

 キアラは、決して悲しい顔はしていない。

 ただ、その言葉には、多分な苦しみが飲み込まれている。

 

「なんで、わ(・)た(・)し(・)のためには、アナタは動くのに……私のためには、アナタは動いてくださらなかったのですか……?」

 

 吐き出した疑問の答えを、キアラは既に分かりきっている。

 神を信仰しなかった。

 幼き自分は、少なくともわ(・)た(・)し(・)と私を隔てるまでの、共通する私は、神仏を見捨てていた。

 ゴウは、目を閉じている。

 俯いていた。

 キアラの言葉に隠された苦痛をあっけなく読み取って、瞼の裏に想っている。

 真剣に。

 だが、このキアラにとっては、何もかもが遅すぎる神の振る舞いであった。

 

 人間ならば、彼女になんと言葉を返すのか──神である彼は、己に問いかけている。

 

「すまない……と言ったところで、納得はしないだろう」

「ええ、許しませんし。私はやはり、人類をもう、人類として見ることはできませんわ」

「……その気持ちは汲むよ」

 

 露骨に悲しげな声であった。

 ゴウは、くい、と視線を海になげた。

 光の海。

 キアラの視線を誘う動きである。

 キアラは、それを追った。

 夜にまぶされて、世界を閉じ込む空と海は、光り輝いている。

 この世の光景とは思えない、神秘的な世界。

 

「……ひとつだけ、聞いてもよろしいでしょうか」

「なんだい?」

「アナタの、わ(・)た(・)し(・)に対する振る舞いは、全て、神としての演技だったのでしょうか」

 

 ゴウは、はっきりと大きくかぶりを振った。

 まさか、と言った。

 

「俺は、センセぇといる時は、『ゴウ』の意志と感情に身を委ねていたよ」

 

 こいつ(ゴウ)も、腐ってもギャンブル狂いのあらくれもの。

 下層労働階級とはいえ、セラフィックスに勤められる程度には後ろ暗い男さ。

 だが、同時に、愛深い男でもあったのさ。

 だから、俺が依代にできた。

 あんたと寝たいという下心は、もちろんあったさ。

 だが、『ゴウ』という人間は、本当にあんたの瞳の中に沈黙する、心の澱みを見抜いていたよ。

 あんたには理解し難いかもしれないが、下心と本気の心配ってものは、ひとつの人間の中に並び立てるものだ。

 

 あんたを、本気で心配してた。

 

 そして──本気であんたに、恋をし(・)て(・)い(・)た(・)よ。

 

「……そう、ですか」

 

 風が吹いている。

 風が、吹いている。

 星が、瞬いている。

 世界が、そこにある。

 

 殺生院キアラは、確かに夢の世界にいた。

 ひとりの男に、愛を向けられていた。

 

 ゴウは、立ち上がった。

 キアラの正面に立った。

 向き合った。

 見上げる彼は、とても大きい。

 そして、美しい。

 神の魔性。

 それは、キアラがこれから手に入れるものと同類のもの。

 

 だが、神たる者がそこに浮かべる笑みは。

 人懐っこい、子供のような、ゴウの笑みであった。

 

「センセぇ」

 

 言った。

 少し、声が震えている。

 悲しみに。

 

「未来で、また、逢おうね」

 

 訛りのある言葉であった。

 間違いなく、疑いようのなく、それはゴウのものであった。

 

 つ……と、頬をなにかが伝っている。

 

 キアラの目の前に男がいる。

 現実ではない今。

 現在ではない何処か。

 だが、確かにその男は、キアラに対してかけがえのない愛を携えていた。

 

 愛ある世界に生きる、ひとりの人間であった。

 

 

2.

 

 

 目を覚ます。

 泣いていた。

 

 光り輝ける世界の中にいる。

 目覚めたのは、ケバケバしいほどに艶やかで、美しい世界。

 

 頬に伝う涙に、彼女は覚えがない。

 なぜ、温かい涙などが、出ているのか。

 偽の涙を流すことは、腐るほどあった。

 人のためと偽り、虫の信仰を受け取り、虫を破滅させるためだけに、涙を流せるのが自分である。

 

 だが、それは決まって、心の氷が水となって溢れるだけの、冷たく他人行儀な粒である。

 

 今頬を零れ落ちた涙は、ヒトの温もりがあった。

 それは当たり前である。

 自分は世界で唯一の、愛すべき人間なのだから。

 自らのために流す涙には、暖かさはあって然るべしである。

 

 だが、

 だが、違うのだ。

 

 その身をやつす深海に溶け入るように、涙の跡が消えていく。

 それをなぞるように、指先をそっと当てる。

 

 もう、暖かさは消えていた。

 

 だから、彼女はそれを、気のせいだと思うことにした。

 たまたま、あくびでもしたのだろうと。

 

 耳をすませば、騒音。

 目を凝らせば、狂乱。

 舌を湿らせれば、踊り狂う戦士たちの煌めきが味わえる。

 

 その感動は、間違いなく本物である。

 だから、つい、涙が出たのだと。

 百二十七人もの英傑の殺し合い。

 人理と真理に存在を刻む彼らが、亡者の願いに捧げる無用の献身。

 くだらなさすぎて、愛おしい。

 みっともなさすぎて、泣けてくる。

 

 だから、彼女は涙を忘れることにした。

 

 再誕の時は近い。

 産まれることは祝福である。

 

 彼女は、未来に思いを馳せて。

 静かに、静かに微笑んだ。

 

 

3.

 

 

 男は、泣いていた。

 物理的な涙は流していない。

 だが、泣いていた。

 

 そのありさまを眺めて生じるものは、ひたすらに、彼女に対する哀れみであった。

 あるいは、身の内から湧き出る依代の愛情が、男の胸を締め付けている。

 

 心から搾り出されるものがあるならば、それは感情である。

 それが哀しみならば、やはりそれは、涙に違いなかった。

 

 男は静かな目を閉じた。

 

 憐憫。

 祈りを捧げるような涙のしずくが、その目から滴った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その光景を、殺生院キアラと全能の神が見ていた。

 彼らの遥か遠くから、彼らの最も近くで、である。

 

 

 

 

 

 

 

1-5.

 

 

「……初々しいですわね」

 

 口を開いたのは、殺生院キアラである。

 目の前で繰り広げられる、青臭くも純朴な青春奇譚。

 とても、全知全能を素(じ)で征く神との対話とは思えない。

 熱に浮かされている自分の姿は、傍目から見れば、思わず目を伏せたくなるほど恥ずかしいものであった。

 

「だが、この世界を望んだのはおまえだ、殺生院」

 

 そして、この隣に立つ神の冷淡な声である。

 甘気もなく、素振りもなく。 

 ただ、目の前で繰り広げられる青春を淡々と飲み干している。

 むう、とこ(・)の(・)殺生院キアラは、むくれる気持ちであった。

 突き刺す視線を感じて、神はふ、と息を漏らす。

 

「思えば、この時のおまえはど(・)ち(・)ら(・)だったのだ? 殺生院。獣に変生しつつも、この時点ではおまえはまだ、◼️◼️◼️を深層に閉じ込めていた」

「……もちろん、ここにおります私(わたくし)同様に、あそこにおりますのも私(わたくし)なれば」

「『我と彼』の差はないと?」

「全能者さま。お気づきになられていることを、敢えて聞き返すのは悪戯心と飲み込みましょう。しからば、私(わたくし)は質問に意図(こたえ)を孕ませて、質問を返しましょう」

 

 ──この私(わたくし)は、どこの誰でございましょう?

 

「…………!」

「私(わたくし)こそは、魔神柱の、あの……えっと、ゼ……ゼパ……はて、何とおっしゃいましたか、あの虫モドキは」

「さあて、ね。私の知るところではないよ」

「あらあら、冗談ではなく本当に思い出せないんですけれど……まあいいですわ。とにかく、私(わたくし)こそは、その虫モドキが並行世界で最も優れたる殺生院キアラを認識し、この世界の◼️◼️◼️と同期することによって変生されし殺生院キアラにござりますれば……」

「ああ。だから、今、おまえがあ(・)の(・)殺生院キアラを返せば、私もこの世界を見(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)こ(・)と(・)にして、おまえの望む世界のひとつやふたつ、くれてやろうと全能者らしく寛容を示しているつもりなのだが……」

「そのお心には感謝いたしますわ。反吐が出る心地でもありますけれど、ああ、全知全能者とは、なぜ、いかにも、人(・)の心を理解して下さらないのか」

「……なるほど、そうか。『お(・)ま(・)え(・)は(・)誰(・)だ(・)?(・)』と、そういう話か」

「そうです、その通りです。ようやくそこに至って下さりましたか……いえ、こちらの次元まで、ようやく、思考を降(くだ)してくださったと言うべきでしょうか?」

「以前の世界で魔天へ連れて行ったキアラ(おまえ)がいなくとも、殺生院キアラはあの世界に元々いた。そして、魔性菩薩もまた、別に存在している」

「そうです。では、私(わたくし)は一体誰(・)な(・)の(・)で(・)し(・)ょ(・)う(・)ね(・)? セラフィックスの殺生院キアラではなく、魔性菩薩となった殺生院キアラでもない。私はあくまで、セラフィックスの殺生院キアラに魔性菩薩の殺生院キアラを同期することで発(・)生(・)し(・)た(・)、第三の殺生院キアラなのですから」

「なるほど」

 

 と、全能者は頭をもたげた。

 冷ややかな視線で、殺生院キアラを見た。

 

「そのまま、魔性菩薩のコピーでいれば良かったものを……『単独顕現』を権能とする獣(ビースト)に変生し……挙句、境界記録帯へ自らのデータをアルターエゴとして差し込んだ結果……この世界で、セラピストでもなく魔性菩薩でもない、完全なる第三の殺生院キアラと成り果てたのが、おまえか……」

「あら、人ごとのように仰るのですね。随分薄情なこと……私(わたくし)がこうなった責任は、貴方にも、多大なまでに在(あ)ると言うのに……」

「…………」

 

 まるでイタズラっ子のように、柔らかく少女の笑みを、殺生院キアラは浮かべていた。

 神は、それを見て、また、ふ、と息を吐いた。

 

 悩ましい話であった。

 神にとって。

 あるいは、世界──人理にとっても。

 

 当たり前の話であるが、その世界において、そのヒトはただひとりである。

 例えそのヒトのクローンが造られたとして、クローンはクローンという別個体にすぎない。

 例えばある世界では、サーヴァントにすぎないはずのジークフリートが、ホムンクルスに自らの心臓を与え、その力と存在を分け与え、ホムンクルスの命を繋ぐことを行なっている。

 結果としてジークフリートの生命と力を注がれたホムンクルスは、その魔力の高まりと共に身姿がジークフリートに変生するに至るものの、その本質は、あたりまえにジークフリートとは全く別の生命体である。

 しかし、だからと言って境界記録帯からジークフリートが消えたわけではない。

 あの世界では術式としては不可能ではあるが、例えばこの神がその世界でジークフリートを召喚しようとしたならば、それは可能なのである。

 召喚されたジークフリートは全く別ではあるものの、神の全能を持ってすればジークフリートとして、その世界に再び存在させることはできてしまう。

 

 殺生院キアラもまた、並行世界や異世界に個別に存在する。

 そもそもの話が、月の聖杯戦争の世界においても、殺生院キアラはほぼ確実にアンデルセンをパートナーとするのだが、本来は魔性菩薩へ至ることもなく早期脱落する世界線の方が、多いぐらいなのだ。

 

 それぞれの世界に、殺生院キアラはひとりである。

 生者の陰法師たるサーヴァントに限ってはそうとも言えないが、少なくとも生者として確固たる肉と血を保有する殺生院キアラは、ひとつの世界に多くてひとりしか存在し得ない。

 言い換えれば、世界が定めるその人間の定員がひとりなのだ。

 ひとりがふたりいることは、世界の許容量を超越してしまう。

 

 しかし、この世界の殺生院キアラはそ(・)う(・)在(・)っ(・)て(・)し(・)ま(・)っ(・)た(・)。

 本来の世界線──SE.RA.PHの本来の世界において、殺生院キアラがセラピストのキアラをゼパなんとかと共に捨て去った理由は、単に必要無くなったからではないのだ。

 世界の許容量を超えて存在する殺生院キアラを、人理は許さない。

 成体化にあたって、セラピストの殺生院キアラを捨てざるを得なかったのが、あのSE.RA.PHの、獣と成った殺生院キアラなのである。

 

 それが、『ゴウ』の存在する世界においては、全能者と超越者が睨みを利かせていたために、抑止の介入がエミヤ[オルタ]に絞られ、殺生院キアラがブッキングしたまま進んでしまっていた。

 

 と、なれば──それは過去の時間軸において、セラフィックスが存在し得る時間点全てで起こり得る事象と化してしまった。

 

 セラフィックスという過去から未来に向かって経過する時間線に、殺生院キアラという存在がブッキングしていることが、然るべき運命に組み込まれてしまったのだ。

 

「と──いうことは」

「ええ、ご想像の通りでございます。私(わたくし)が、この仮想現実を正史世界に融和さ(・)せ(・)ら(・)れ(・)た(・)理由……当然、抑止の使者に『なんとかしろ』と怒鳴られたからです。いくら私(わたくし)の権能が、物質世界で全能に等しかろうと、人理の許しもなく、身勝手な仮想現実を人理に溶かし込もうとすれば……まあ、出てくるのは人理の裁定者と化した、あのうるさい金ピカの王様でしょうからね」

「…………では、なぜ、彼らに試練じみたことを?」

「それは、まあ──せっかくですから、趣向を凝らしたかったのですよ」

「つまり、趣味か」

 

 指先を口に掠めるように当てて、くすくすと笑う殺生院キアラを見て、神は三度の息を吐いた。

 

 

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