※この作品はR-18です。

少女の見た夢   作:ロウシ

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第二話:蜜の天秤

 

0.

 

 

 アーノルド・ベックマンという人間を評するならば、バランスの悪い人間であると言うべきだろう。

 それは、思想のバランスであり。

 ひいては心身のバランスであり。

 もっと言えば、「彼の中の世界」と「彼の外の世界」のバランスが、である。

 

 ベックマンの思想の根幹にあるものは、権威主義であった。

 ひとより偉いヤツは偉い。

 言葉にすれば馬鹿馬鹿しいほどシンプルな理屈が、彼の価値観の第一にあった。

 世の中には優秀な人間と、そうではない人間がいる。

 賢い人間と、体力がある人間と、学がある人間と、無知無教養な人間がいる。

 世の中で求められているのは、優秀で、賢く、学がある人間であることを、ベックマンは二十数年の短い人生で、あるいはその環境の中で培っていった。

 持つモノと、持たざるモノ。

 自分は前者である。

 と、彼は確信している。

 ベックマンは、自身のことを疑ったことはない。

 どんな状況でも、一度たりとも、一片たりとも。

 自らの振る舞いが積み上げた人間性が、いかにも自己中心的で、実は無知啓蒙の類だと疑ったことは一度もなかった。

 ベックマンの自己分析の帰結は、いかに自分が、極めて優秀な人間であるかの証明式の探索である。

 他者は劣等種──とまでは言わないが、自分より劣る人間であることは、言葉に出すまでもない確信的な事実であったのだ。

 彼の中では。

 

 人生のどの場面でも、そうである。

 仕事が見つからず、ようやくありつけたそこで、人事に嫌われ、疎まれても、ベックマンはその原因を己ではなく外に求め、他者の白い目は劣等感の発露だと決めつけていた。

 ある意味で、究極的にポジティブな男である。

 その根拠も、彼(・)な(・)り(・)には持ち合わせていたのが、彼の運のツキでもあった。

 

 人間──現代社会で最も必要なステイタスは、学歴である。

 これは、ある側面から見るなら間違いではないだろう。

 なぜなら、学歴があればとりあえず、名のある企業に通りがいい。

 学歴があれば、それだけで人々から「コイツはスゴいやつだ」「頭がいい」と敬意を集められる。

 現代社会における、人間の絶対価値のひ(・)と(・)つ(・)に、学歴や職歴があるのは疑いはない。

 履歴書だって、紙面に空白が多いよりは、とにかくハリボテでも良いので実績で埋め尽くした方が、「色々やってきた」感が強く出る。

 

 仕事をクビにされても、自らの自負はだけ守った。

 頑なに自己の尊厳を第一して、守り抜いた。

 家の中でひとりになると、あそこの役員は無能だと自身に言い聞かせた。

 あいつらは、自分の才能を見抜けない間抜けだったと、肩肘を張ってみせた。

 巌のようなプライドは、傷つけられると感じた途端に更なる殻を被り、攻撃性を増し、自己憐憫によってその正当性を剛直にし、よりゴテゴテしく近寄り難いモノへと変質していった。

 

 だから、セラフィックスに採用された時の、ベックマンの喜びようはひとしおであった。 

 国連の、何かしらのお偉い組織に属せるのだ。

 しかも、いきなり所長秘書のポジションである。

 所長のヒデヤス・アジマは顔色のよくわからない気味の悪い男ではあったが、ベックマンのやることにいちいち口出ししてくるタイプではなかった。

 これも、ベックマンのセラフィックスに対する妄信を深めていた。

 自分は有能である。

 そして、ここは、自分の有能を発揮できる天職の場だと自惚れた。

 なぜなら、自分はセラフィックスの所長秘書だ。

 見染められて、ナンバースリーの地位に、いきなり立つことができたからだ。

 

 おあつらえ向きに、セラフィックスには労働階級のような、汗水を流さなければ働きどころのない、彼から言わせれば低脳な連中がこれ見よがしにいる。

 彼らと、自身のポジションの差異を確認するたびに、ベックマンは、その口元にいやらしい笑みが浮かんでたまらなかった。

 

 あのセラピストが来た時、自分が勤める場にふさわしい女が来たと思った。

 遠巻きにも分かる美貌。

 万人に好かれるカリスマ性。

 申し分のない才色兼備が、自らの権威の下にいる現実。

 

 セラフィックスは、ベックマンにとって理想の職場であった。

 自らの才能を認めてくれて。

 自らの仕事を十全に発揮しても良い場所である。

 

 そして、所長たるヒデヤス・アジマにとって、ベックマンのそういう行きすぎた自己愛は、イザと言う時のスケープゴート(生け贄)の理想であった。

 セラフィックスが抱える大小様々な問題が爆発が起こった時、彼のような人材が必要になる。

 ヒデヤスはベックマンの本質を見抜いていた。

 所長秘書の適用は、まさに、そういう性格を見抜いた上でのハリボテ人事であった。

 

 

 

1.

 

 

 暑い日のことだった。

 日差しが強い日であった。

 項垂れるような暑さが、施設の内外に充満している。

 

 日本で言うなら、時期は夏の初め頃。

 波打つ海に運ばれる風が、生暖かく基地の内外の空気をかき混ぜている。

 

 礼拝堂。

 殺生院キアラの部屋である。

 通常、患者たちには絶対立ち入らせない個室。

 部屋の隅を占める机の上には、いくつかの書類がきちんとファイリングされ、木製のブックスタンドに並べられている。

 愛用のコーヒーカップとボールペンが無造作に置かれている以外は、机上はきちんと整理されていた。

 部屋の中も、私物が少ない。

 コートハンガーと、クローゼット。 

 小さめの食器棚と、白い化粧台。

 どれもきちんと片付けされている。

 正真正銘の、キアラの個室であった。

 彼女が仕事を片付ける部屋とは別に、用意されていた寝食の部屋である。

 

 キアラは出入り口の前で、一旦足を止めた。

 彼女は白衣のポケットからハンカチを出し、額に当てて、流れ出る汗を拭き取った。

 しかし、すぐに玉のような汗が浮き出てくる。

 とめどない。自分の身体が、しぼってもしぼっても水が出てくる雑巾か何かのようだった。

 

 手にはお盆を持っていた。

 円形で、木造りの黒いお盆である。

 どこにでも売っていそうなものだ。

 お盆の上に、グラスが二つ。

 大きな氷が二個入ったお茶があった。

 そう、グラスが二つである。

 

 そして、扉を開けて、部屋に入った。

 視線の先に、黒いタンクトップの背中がある。

 大きな背中であった。

 筋骨隆々としていて、やはり、汗だくであった。

 その男は、軍手を嵌め、ドライバーやレンチを片手に、空調装置の修理にかかり切るゴウであった。

 肩にタオルをかけている。

 ズボンは作業用のジャージ。

 靴はいつものゴムブーツ。

 

 ちらと視線を落とすと、ゴウの隣の床、彼の手が伸びる位置に、様々なパーツがある。

 大きさのさまざまなネジ、空調の口、油の付いた管、よくわからない薄い鉄の板、エンジンのようなゴツい機械の塊まであった。

 

 おそらく、パーツごとに区分けしているのだろう。

 それにしても多い。所狭しと並べてある。

 

 ごめんなさい、とキアラは言った。

 二重の意味であった。

 ゴウは作業に夢中なのか、手は動かせど、返事をしなかった。

 キアラはむ、と口を尖らせて、少し呼気を強めた。

 

「あの、ゴウさん。ひと息入れませんか?」

 

 修理に熱中する大きな背中に、キアラの声が届く。強めた呼気に揺らされたのか、キアラの動きに連動するように、コップの中で、からんと氷が揺れた。

 

 ゴウは、ん? と顔を振り向かせた。

 ドライバーのグリップわ口に咥えていた。

 汗と、薄黒い油の張り付いた頬。

 眉間にちょっとしわの集まった、気難しい顔であった。

 

 ドライバーを咥えたまま、ゴウは言う。

 

「センセぇ。やっぱこれ、ダメんごたぁよ」

 

 吐き出されるのは失望……とは言い過ぎだが、申し訳なく、落胆したような声であった。  

 キアラもまた、そうですか……と申し訳なさそうに言った。

 

 空調設備が壊れたのは、昨日の夜のことであった。

 深夜に、いきなりである。

 空調機が突如としてゴリゴリと擦れるような音を立てて、吸い込んだ空気を吐き出さなくなり、途端に部屋の空気が籠ってしまっていた。

 

 冷房も止まってしまい、空気がめぐらずあまりにも暑くなってしまった。 

 それで、キアラは夜中に起きてしまった。

 パジャマが下着丸ごと寝汗でぐっちょりしてしまい、それでありながらすぐに原因に気づいて説明書を片手に、できる限りの修理に勤しんだのだが、結局壊れたまま朝を迎えてしまっていた。

 

 ゆえに、少し寝不足であった。

 着替えも済んでいない。

 そこに、いつもの調子でゴウがやってきた。

 寝ぼけ眼で事情を説明すると、「ああ、やっぱりかぁ」と妙に納得された。

 そのまま修理しちゃるけん、見してみ。

 と言い出したので、プライベートルームまで連れてきて、お任せしていたのだった。

 工具箱を取りにゴウが出て行った後、キアラは自らの──汗が染み込んでぐちょぐちょになった──はしたない格好に気づき、慌てて着替えたのだった。

 

「端末のコイツがイカれたんやのうて、今、セラフィックス全体の空調系がイカれとるんよ。電力電源(ブレーカー)がオチとんのかもしれんとよねー」

 

 困ったばいねぇ。

 ゴウはそう言いながら、こんこんと裏拳で、ほぼ骨だけになった空調機を叩く。

 セラフィックス全体のうだるような暑さは、セラフィックスの機械類全体の不調が原因であった。

 

 ゴウが言うには、お陰で、備品機械類の設備班だけでなく、こうして機械いじりに多少の覚えがあるものまで総動員して、昨晩から各所の修理に当たっているとのことである。

 

 中央官制室と油を掘り出すポンプ、作業場などは別途に電源があるか、予備電源があるためか、例外的にその働きは失われず、特に管制室だけは、まだ涼しさを保っているのだという。

 

「困りましたね……私の仕事は出来るだけ整った環境で行うものなんですが……」

「しょーんなかよ、センセぇ。こいつももう寿命たい。孤立無縁の島ゆえの、トラブルってやつやね」

 

 言いながら、ゴウは肩かけのタオルで額の汗を拭った。

 

 空調機系のトラブルは、今に始まった事ではなかった。

 今回はその限りではなさそうだが、元々油田基地であるセラフィックスは、煙突から巻き上げる炎が漂わせるその空気に、油のねばっこさをおり混ぜている。

 そのためか、基地全体の大気に含まれる分子に不純物が多く、通常の空気より物理的に重いのである。

 それは、ほんのミクロンの差異ではある。

 だが、塵も積もればなんとやら。

 ベタつく空気は物質にへばりつき、だんだんと折り重なる。

 やがて塊となったそれが、隙間に詰まってダマになり、機械類のあちこちに不調をもたらすことが、よくあるのだ。

 

 どんなに完璧に密閉して見せても、粒子的サイズのそれは隙間から内部に入り込み、手の届かないところで累積するのである。

 機械は人間と違って素直であるから、調子が悪くなるとそのまま素直に壊れるのであった。

 

 孤島の上。海の上。

 空調、冷暖房の不調はシャレにならないくせに、割と不可避のアクシデントなのである。

 

 ゴウはキアラからお茶を受け取って、ぐいっと顔を反らせてひと息に飲み干した。

 氷まで綺麗に口にして、がりごりと噛み砕き、その冷たさに目を細めた。

 きくのぉ〜と吐く言葉と共に、白い湯気が沸き立った。

 

 それを、薄く微笑みを貼り付けた顔で、キアラが眺めていた。

 

「どげんしたや、センセぇ?」

 

 俺ん顔に、なんかついとるや?

 顔をかしげる。

 熱っぽい視線が、キアラを見る。

 

「なんでも、ありませんよ。それにしても暑いですね……」

 

 パタパタと手を仰ぐ。

 目を閉じれば、蝉の鳴き声が聞こえそうであった。

 ついでに風鈴が欲しいところである。

 キアラはちらちらとゴウを一瞥しながら、ワザとらしく胸元を引っ張ってぱたぱたと仰いだ。

 ゴウはあつかねー! とケラケラ笑うだけだった。

 むぅ……とキアラは眉を顰めた。

 手強いですね、この人は。と内心思っていた。

 

 あ、とゴウが言った。

 電球のアイコンが頭の上に浮かんでいそうな顔である。

 

「センセぇ。せっかくじゃし、外、出てみんかね?」

 

 どうせ、この暑さならどこんおっても変わらんち。

 とゴウは言った。

 キアラはふっ、と表情を沈めた。

 お茶を口付けて、コクコクと静かに飲んだ。

 そこに、何の色があるのか、傍目からはわからない。

 

「んー……そうですね。個室はお借りするとして、今日の診療は比較的涼しめな施設内でやることにしましょうか」

 

 キアラが自分のコップから口を離して言った。

 まだ、半分ほどお茶が入っている。  

 氷のひとつが茶の中から露出して、からん、ころん、とうち鳴った。

   

 ゴウはくっくっくっ、と笑いを堪えて目を伏せた。

 首ごと傾げていた。

 キアラはむむっ、と。

 私、今おかしいこと言いましたか? と尋ねた。 

 ゴウは顔を見合わせて、

 

「いや、センセぇ、今日ぐらい休みゃあよかとに。ほんと、真面目なんやねぇ」

 

 と感心したように小さく笑った。

 ちょっとからかいの心が覗いている。

 キアラはもう一段、むむっ、とむくれた。

 少しだけ頬を染めて、褒めてます、それ?

 

 と聞いた。

 

「褒めちょるんよ。ほんと、センセぇは天使のようなおヒトばい」

 

 臆面もなくそう言うので、キアラはふふ、と誤魔化しのように笑って見せた。

 

 

2.

 

 

 その男は、セラフィックスの廊下をバタバタと歩いていた。

 ワザと音を立てる歩き方をしていた。

 足先から、手の振り方から、苛立ちが滲み出ていた。

 本人が、それを隠す気がない。

 その仕草と表情が、醸し出す音が、すれちがう人々に「俺の怒りを知れ!」とでも怒号を飛ばしているようだった。

 みな、彼を避けて通っていた。

 全く無意味に、目の端を通り過ぎる他人の示す、それだけの行いにすら──男は無用の苛立ちを覚えていた。

 

 暑い!! ふざけるなっ!!

 

 例に漏れず、男も額から、汗をダラダラと垂れ流していた。

 服の中も、汗でびちゃびちゃだった。

 だが、長袖を着ていた。

 セラフィックスの中でも、知識階級の上位正規スタッフだけが着用する上着である。

 その中でも、彼の着るそれは管理職を示すものだった。

 権威を示した衣である。   

 この暑さの中で、彼は誰に何を言われても、頑なに権威の象徴を脱ごうとはしなかった。

 

 アーノルド・ベックマンであった。

 

 歩みを深めるごとに、比例して怒りが燃え上がる。

 

 暑い暑い、暑いんだよ!!

 全く、労働階級の無能どもめ!

 冷房ぐらい、さっさと直せないのか!?

 設備班とかいう、タダ飯ぐらいの給料泥棒どもめ!    

 いつもは点検がどうのとダラダラ手抜きのような仕事しかしないくせに。

 いざという時にクソの役にも立たないじゃないか!!

 アルミロに訴えて全員解雇にさせてやろうか!?

 ああ、暑い暑い暑い!!

 

 彼は個室に入るなり、目についたゴミ箱を思い切り蹴り飛ばした。

 ゴミ箱は慣性に従って水平に飛び、壁にぶつかると、中身をぶちまけてごろごろと転がった。

 無様なそれを見て湧き上がる暴力衝動は少し収まったが、ベックマンの根本的な苛立ちはまだ鎮まらない。

 

 癇癪を起こしていた。

 思い通りにならない出来事に差し当たると、彼はいつもこうだった。

 

 俺がなぜ、こんな理不尽に遭っているんだ!?

 

 そういう思いが頭だけでなく、身体を支配する。

 次第に、それを人のせいだと解釈する。

 外に悪を求め、自己の怒りの正当化を測る。

 彼は所長の秘書にあたる役職を担っていたが、社会一般の秤と比して、それに相応しい人間であるかは甚だ疑問であった。

 

 最も、そういう性格だからこそ、セラフィックスの所長であるヒデヤス・アジマは彼を秘書に選んだではあるが、その深い選定基準は魔術社会の陰謀が関係しており、人間性含めて凡人の域を出ない彼には分かるはずもないのだが。

 

 短絡的で、沸点が低く、直情的な人間はある意味御し易い。

 このセラフィックスが造られた本来の目的と照らし合わせるなら、ベックマンの性分は、表向きのスタッフたちにそれを悟らせないために、この上なく都合が良かった。

 

 ともあれ、当のアーノルドはそんなことは梅雨知らず。

 個室の冷蔵庫に冷たい飲み物が入っていないことに更なる苛立ちを募らせて、それを求めて食堂近くの自販機へと向かった。

 

 そこで、アーノルドは行列を目にする。

 

 するとまた、彼の中では善悪の測りは激しく揺れ動き、訳もなく苛立ちを募らせた。

 列に並んでいた中でも、特に気の弱そうな職員に歩み寄り、腕を掴んで怒鳴りつけた。

 

 視線が集まる。しかし、怒りの渦中に沈むベックマンには、それがわからない。

 恐々とする職員に理由を聞くと、本来礼拝堂を仕事場としているセラピストが、より涼しい──つまり、より良い環境で仕事にあたるために、食堂に続く道の途中にある多目的室を借りて、仕事を行なっているのだという。

 

 じろりと、ベックマンの目が彼らを見る。

 この行列は、雑多であった。

 事務方から雑用方、一般階級から労働階級までさまざまな人間がいた。

 

 その事実が、アーノルドには面白くなかった。

 なにが、どう言う理由で、とは言えない。

 ただ、募った苛立ちが、彼の脳内で『職員を甘やかしてつけ上がらせているセラピスト』という解釈を脳内で作り出していた。

 要は自分の思い通りになっていない現実を前に、勝手に物語(ストーリー)を組み立て、それを許せない事情と自己完結し、攻撃性を発揮しているのだった。

 

「どきたまえ!!」

 

 そう怒鳴りながら、人混みを掻き分けて部屋に押し入る。

 

 アーノルドの目の前に、カーテンで簡易的に仕切られた診察室が現れた。

 部屋は涼しかった。

 アーノルドはカーテンを乱暴に開いた。

 ジャッ、と金属の擦れる音がした。

 殺生院キアラと、カウンセリングを受けているスタッフが、驚いた表情で彼を見た。

 

「何やってるんだね、キミィ!!?」

 

 キアラを指差しながら言った。

 きゅう、と目の点が小さく引き絞られている。

 唇を尖らせていた。

 

「ここはキミの持ち場ではないはずだ! いったい、誰の許可を得てここを使っているんだ!?」

「それは、副所長のアルミロさんに……」

「口答えするのかね!? この私にっ!? 一介のセラピスト如きがっ!!?」

「……っ!」

 

 有無を言わせぬ暴力的な言いがかりであった。 

 ベックマンは初めから、キアラの話を聞こうとしていない。

 最初から言いくるめてやる、論破してやるぞと言う気持ちが声と態度に現れている。

 患者があわあわと、軽くパニックを起こしていた。

 キアラは内心焦りながらも、負けじとベックマンを睨み返した。

 

 てっきり、自身の剣幕にぽっきり折れるものと侮っていたベックマンは、キアラの予想外の反撃にたじろいだ。

 

「ベックマンさん、貴方の言いたいことはわかります。確かに、私の行いは勝手です。そこは謝ります。……ですが、私は私の仕事をやっているんです! 迷い苦しむ患者を放っては置けません!!」

「だっ、だったらせめて、この行列をなんとかしたまえよ! 通行の邪魔だし、暑苦しい……! !! そ、そうだ! おまえは自分の身勝手でヒトに迷惑をかけてるんだぞ!! セラピストがそんなんでいいと思っているのかね!!?」

 

 勢いは削がれていたが、吐き出したツバは飲み込めない。

 ベックマンは破綻した持論で口撃を続けた。

 おそらく、ベックマン自身が自らの論調の矛盾に気づいてはいるのだが、ここで引き下がる「恥ずかしさ」が恐ろしく、キアラに正論で打ち砕かれつつも、引っ込みがつかなくなってしまったのだ。

 

 キアラがいっそう目に力を入れて、ベックマンを睨み上げた。 

 ベックマンは次の口撃のための言葉を探していた。

 陰険な空気が場を満たしていた。

 

 そこに、

 

「ん──? どげんしたんじゃ、センセぇ?」

 

 ベックマンの背後から、精彩な声がした。

 男の声であった。

 よく通る。

 それが、キアラとベックマンの間を物理的に通り抜けて、不穏な空気を一瞬で剥ぎ取ってしまった。

 

 ベックマンが背後を見た。

 キアラの顔が緩んだ。

 

 大きな男が現れた。

 頬をかく、ゴウであった。

 

 

3.

 

 

「な、なんだねキミは!?」

 

 背後からぬうっと現れたゴウに、ベックマンが後退りながら言った。

 椅子に足を引っ掛けて、転んでしまった。

 尻餅をつくベックマンに手を差し伸べながら、ゴウは、「ゴウです」と端的に答えた。

 

「労働階級のむの……いや、なんだねキミは!? 私の話に、キミのような階級の人間が割り込むんじゃない!!」

 

 ベックマンは差し出された手を掴んで立ち上がりながらも、ゴウに喚き散らす。

 ゴウはきょろ、とベックマンから視線を外した。

 ベックマンは眉を顰めた。

 無視された?

 この私が!?

 

 かっ、と込み上げた怒りに顔が紅潮した。

 ゴウは、ベックマンに視線を戻す。

 血走った目を、その碧眼でじっ、と正面から見下ろした。

 そして、すっ、と人差し指を口の前に立てた。

 

 ただ、それだけ。

 

 しかし、その動きに妙な神々しさがあった。

 やたら手慣れた動きであった。

 

 ただそれだけの動きで、喧騒激しかった多目的室の空気が、その場にいる者の面持ちが、ガラリと入れ替わってしまった。

 患者たちには、あれほど恐ろしく大きく見えていたベックマンが、なんだかとても小さく見えた。

 

「診察室では、お静かに」

 

 ベックマン秘書官?

 

 とゴウは言った。

 それは、訛りが全くなかった。

 ひどく冷淡な声であった。

 氷を削り出して作ったような色と形をしている。

 その目が、じっとりとベックマンを見据えていた。   

 たじろぐベックマンは、思わず視線を背けた。

 しかし、ゴウはまだ、ベックマンを見下ろしている。

 見ているものが違う。

 ゴウの視線は、ベックマンの存在を、直接貫く視線であった。

 

 お前を見ているぞ、こんなにね。

 

 言葉にせずとも、それを伝えていた。

 キアラは対峙して、それを向けられたわけではない。

 ゴウの、普段とは違いすぎる雰囲気。

 視線に孕む光は殺意でも敵意でもなく、いっそ仏のような慈愛ですらある。

 大人びているを通り越して、人間の裡側まで見通す眼をしている。

 ごくり、と喉が鳴った。

 きっと、その矢面に立つベックマンは、背筋が凍っているに違いないと思った。

 

 それほどまでに、場の空気を変えてしまう力が、その時のゴウからは発せられていた。

 ヒトの眼を、意識を惹きつける、芸術のような力である。

 艶やかで、美しく、力強く、超越的な──

 

「ぐ、ぐぐ……わ、私を脅すのかね!?」

「ベックマン秘書官」

 

 ゴウは言った。

 

「着飾る品性すら、自ら削ぐのはおやめなさい」

 

 たじろぎ、言葉選びもままならないベックマンに対し、ゴウは、凛とした声であった。

 諭す言葉を語りかけた。

 すると、ふ、と鼻息を吐いて、場の空気を緩める。

 つ、と視線を持ち上げた。

 出入り口の方を見る。

 流れるように、ゴウの視線がアーノルドから外れた。

 

 ──視線を追いなさい。

 

 それは、ベックマンには無言の叱責であった。

 たちまちベックマンは、言われるがままにそれを追いかけた。

 

「みんな、見ていますよ」

 

 視線の先には、出入り口。

 人が、雑多な人が詰めかけている。

 皆の視線が、ここに集まっていた。

 多くの目が、白い。

 不安と、混乱と、侮蔑の視線である。

 それが、ベックマンに一心に向けられていた。

 

「────ッ!!」

 

 たじろぐ。

 ベックマンの全身から、汗が、思い出したように吹き出した。

 粘り気の強い、焦燥した心情の吐露であった。

 

「わ、私はもともと……の、飲み物を取りに来ただけだ!!」

 

 とベックマンは怒鳴った。

 もはや、その言葉に恐怖を覚えるものはいない。 

 代わりに、ベックマンの声を聞くものが抱くのは、憐れみであった。

 ベックマンは態度のそれまで吐き捨てる。

 しかし、ゴウはにこやかに笑った。

 怒号もヤケもものともせず、あろうことか、その言葉(存在)を受け止めて、感情丸ごと抱きしめてみせた。

 

 大きい──!

 

「そげなんでしたら、おいが食堂に口利きしますけん。つめたーいビールでんコーヒーでん、ベックマンさんのお部屋に持っていくように言っときますたい」

 

 それで、今日ンところはカンベンしてください。

 そう言うなり後頭部を掻き、にこやかに笑って、丁寧に頭を下げた。

 これまでの態度と一変した、素直な謝罪。

 上手いタイミングで、上手いバランスを選んだものだった。

 

 ベックマンは口を固く結んでいた。

 いかにベックマンとはいえ、もう、周りが見えている。

 言葉が出てこない。

 ここで、さらに攻撃的に捲し立てることはできなくもないが、それはベックマンの価値基準で比べても『恥ずかしいこと』であった。

 下手をすれば、セラフィックスでの今後。

 ベックマンは後ろ指を指されて過ごすことになると確信していた。

 ベックマンは、自身の地位を揺らがす危機にはこの上なく敏感なのである。

 ゴウの狙いは、まさにそれであった。

 ベックマンの立場を危ぶめかねない瞬間を、ゴウは切り取って、ぬけぬけと差し出したのだ。

 

 キアラのカウンセリングを受けるスタッフは多い。

 それどころか、過酷な環境に音を上げる者は時間と共に多くなる。

 

 ここでキアラをいじめることがどう言う意味を持つのか。

 ここでみっともなく食い下がり、反論もできないほどボロボロになることがどういう未来を招くのか。

 皮肉にも、それがわからないほどベックマンの地頭は悪くない。

 ならば、それを自らの価値観と秤にかける。

 自身の品性と信用の失墜を天秤にかけるなら、ベックマンの性分が選ぶものは安牌に決まっていた。

 

「ふ、ふん! とにかく、このことは所長に報告しておくからな……! あ、あとお前!」

「ゴウです」

「ゴウか……名前を覚えたからな! 後でちゃんと、私の部屋に冷たい飲み物を持ってくるんだぞ!! 忘れたりしたら許さんからな!!」

 

 吐き捨てて、人盛りの激しい出入り口から逃げるように、その人波と視線にさらされながら、ベックマンは退出した。

 

 その気配が遠ざかり、キアラはようやく、張り詰めた空気を身体から逃した。

 ほっ、と濁り溜まる毒を、キアラは吐き出せたのだ。

 顔を見ると、ゴウが、にひひと笑って返した。

 相変わらず、えくぼの可愛らしい子供のような笑みであった。

 

 キアラは自らの心に熱が灯るのを感じていた。

 きっと、それは、今日この日が特別暑いからではないだろうと思っていた。

 

 

4.

 

 

「あの、すみません。ゴウさん……」

 

 夕方になった。

 診察を終えて、キアラとゴウは多目的室の片付けをしていた。

 ゴウは、あの後いったん自分の仕事場に出て行った。

 彼には彼の仕事がある。

 当然の話であった。

 深く頭を下げてその背を見送り、その後もキアラは診察を続けていた。

 そして、夕方になり、今日は早めにと仕事が終わると、頃合いを見計らったようにゴウが尋ねてきた。

 

「なんがかい?」

 

 とゴウは聞いた。

 目が点になっていた。

 何のことだかわからない。

 なんで、センセぇがあやまるとや?

 全身で疑問を投げかける姿勢であった。

 

「……守ってくださったんですよね」

 

 ぽつりとこぼす。

 しんみりと、空気を震わせた。

 

「……まぁ、そうばい」

 

 ゴウは気恥ずかしそうに頬を掻いた。

 キアラが、天女のような微笑みを浮かべていた。

 その視線から逃れるように、ぷい、とゴウは背を向けた。

 

「おいは、あーいう手合いの転がし方は、なれちょるもんじゃけん。なんてこつなかよ、センセぇ」

 

 偉ぶってる小心者ちゃあ、どこの世界にもおるもんよ。

 と続ける。

 腕を組んで、わざとらしく、けらけら笑う。

 いっそ、それが楽しいことであったかのように。

 

「あん子こそ、センセぇの診察ば受けにゃいかんち、おいは思うとばってんねぇ」

「どうでしょうね……」

 

 そこに関してはキアラも同意である。

 間欠性爆発──つまり、突発的に攻撃性が膨れ上がり、人に当たり散らす症例である。

 起こった出来事に対し、自分の脳内で物語を妄想し組み立て、正当性を持たせ、自分の中では理路整然とした怒りなのだと自己弁護に走り、そ(・)の(・)ヒ(・)ト(・)の(・)な(・)か(・)で(・)は(・)正義感に則った、正しい暴力が振るわれるのだ。

 

 お前がバカだからわからせてやっているのに!

 お前たちがバカだから俺は殴ってでも止めてやっているのに!

 

 と言った理屈が、本人の中で組み上がっている。

 自分は正しく怒っている。

 相手は、怒られて当然のことをしていると、脳内で勝手なストーリーが展開され、勝手に進行して、自己完結がなされるのである。

 

 その精神状態は健全とは言い難い。

 なにせ、それは端的に言って妄想と現実の区別がついていない状態なのだから。

 ナルシズムでは収まりきれない、肥大した自己愛の起こす、障害に他ならない。

 

 極めて不安定な情緒と断言していい。

 ああいう人にこそ、カウンセリングというものは必要なのだと、二人とも思っていた。

 

 それはそれとして、ゴウはベックマンに名前を覚えられてしまった。

 顔も、覚えられただろう。

 こんな大きくて特徴的なヒトを、忘れるわけもない。

 

 キアラは心配であった。

 それは、まずいのではないだろうか。

 この先、セラフィックスでのゴウの立場を予想して、キアラの心中にもやもやとした霧がかかる。

 

 だが、当人はそんな心配などどこ吹く風であった。

 

「そげん心配せんでよかよ、センセぇ。どげな人生でも『縁縁怨怨(えんえんおんおん)』はつきものたい。小人こそ、セコイ恨みばいつまでたってん覚えとるもんち、そう、君子だか老子だかも言っとーけんね」

 

 こげなん、おいの人生を豊かにする肥やしたい。

 ゴウは変わらずケラケラと笑うのであった。

 さらりと言っているが、それは、ヒトの恨みつらみを豊かさにしてしまえる、ある種の悟りの境地である。

 相変わらず、大きなヒトだ、とキアラは思い、

 

「私は──貴方の人生の、何になれてますか?」

 

 つい、出た言葉であった。

 言い終わって、はっとして、手を口で覆った。

 つい、とゴウがキアラを見る。

 眼を見開いていた。

 ごめんなさい、とキアラは頭を下げた。

 ゴウは、にっと口角を広げた。

 笑みの種類を変えた。

 それは、ベックマンに向けていた視線と、少し似た空気を纏っていた。

 

「センセぇは、よかヒトよ。ジャガイモ畑に咲く大輪の──高嶺の華じゃけん」

 

 ゴウは言い終わると、しばらく。

 間を開けて、ぷっ、と吹き出した。

 途端に、ゲラゲラ笑いだす。

 キアラはぽかんとした。

 シリアスな間が、一瞬で崩壊した。

 キアラは改めて、むくれた。

 なんだか、この人にはずっっっっと振り回されている。

 ぷくっとむくれて、でも、ふっと息を吐き出して、それから、小さく笑った。

 

「よかよか! そればいセンセぇ! 笑っとる方がよかよ!!」

 

 ええ、とキアラは言った。

 でも、と付け加えた。

 

「もう夜も遅いですし、音量は低めにしましょうね」

 

 ゴウの笑い声は、ボリュームを下げてお送りされた。

 

 

 5.

 

 

 眠れない。

 キアラの身体が熱を持っていた。

 ベッドの中。指が。快楽へ誘おうと動いていた。

 眠れない──

 眠れない──

 胸が苦しい。

 

 あの後、多目的室で片付けを終えて、その場で解散した。

 さっさとゴウは帰っていった。

 寂しいな、と素直に思った。

 部屋に戻ると、彼の残した匂いが、まだ空気に溶けているのがわかった。

 

 ふと、その原因に、気づいてしまった。

 彼の使っていたタオルが、そこに置いてあったのだ。

 ベッドの上に。

 多目的室に移る前に、荷物をまとめる最中、ポンと置いて、そのまま忘れていたのだ。

 汗で湿っている。

 キアラはそれを、手に取った。 

 じとりと、重さが手にかかる。

 口内に不自然に滲んだ唾液を、こくり、と喉に流し込んだ。

 

 ダメ。

 そんなことは、やってはダメです。

 と、彼女の理性は訴えつつも、身体の反応は真逆を行った。

 鼻の下から覆うように、口に当てた。

 息を吸う。

 油の匂いと、彼の匂いが薄く、混ざり合っている。

 それが、キアラの導きによって、鼻と口からすっ、と体内に潜り込んだ。

 脳が痺れるのを感じた。

 

「ふ……あ、ッ……」

 

 溢れた声は、反射的なものだった。

 肉体の反応。

 理性ではない。

 匂いに誘われて、唾液がより、分泌されている。

 

 イケナイことをしている──

 背徳感が背中をなぞる。

 こんなこと、まるで、自分はヘンタイじゃないか。

 唾液を、タオルに染み込ませた。

 後で、洗うから。

 そう考えていた。

 洗って返せば、わからない。

 噛んだ。 

 不思議と、汗の味としてありがちな塩みがない。

 そこで、さらに、求めるように。

 ちゅう、と啄むように、吸う。

 唇の上に、彼の体液が滲む。

 それを、舌を使って口内に導く。

 

「は……ンッ! く、ふ……ッ!」

 

 弾けるようだった。 

 わからない。

 自分は、何をしているのだ。

 とんでもないことをやっている。 

 脳が痺れている。 

 疲れているんだ、早く、やめないと──

 

 ふと、昼間の彼の姿が過ぎる。

 大人びた視線。

 超越的で、芸術性を伴った彼。

 セクシーだった。

 想いで、胸を締め付けられる。

 興奮しているのが、わかる。

 

 彼を求める。

 彼を求めた。

 そして、この場には今、彼の残滓が手の中にある。

 匂いを嗅ぐのをやめられない。

 彼を感じるのをやめられない。

 吐く息が、熱を持つ。

 頬が熱を持つ。

 下腹のあたりが、きゅっ、と締め付けられている。

 

 それが、恍惚を齎している。

 

 ぽた、と水音がした。

 なんの水音か、キアラにはすぐにわかった。

 

 股の間から、床に向かって、白濁液が一粒、こぼれ落ちた。

 

「…………!」

 

 言葉が出なかった。

 呆然としていた。

 瞳孔が開いているのか。

 は、はっ、と犬の呼吸のような、えづいた息をしている。

 

 キアラは自分が、とてもマズいことをしていると自覚した。

 正確にいうと、背徳感と罪悪感が、ようやく肉欲に優って身体を動かしたのだ。

 

 シャワーを浴びようと浴室に入った。

 乳房が張っていた。

 下着を足に通すと、ねとりと糸を引いているのがわかった。

 

 それを自覚して、また──

 

 

 だから、そうして愛欲鎮まらぬままにベッドに入ると、無意識に手を伸ばし、自らを慰めるのは自明の理であった。

 

 掻き出しても掻き出しても、愛液が指を濡らす。

 思い出したように汗だくのタオルを顔にあてて、彼を想う。

 

 夜は長かった。

 気を失うまでヤり続けた。

 これまでの生の中で、嫌悪し、意地になって凝り固めていたものが、快感と共に一気に解けていくのを、キアラは感じていた。

 

 意識を失うまで、愛欲に従って秘部を攻め続けたキアラは、朝起きてシーツの湿り具合を見て、顔を真っ赤にしたのだった。

 

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