※この作品はR-18です。

少女の見た夢   作:ロウシ

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第三話:魔天航路、神の棺

 

0.

 

 

「外はどうかね? 楽しいかね?」

 

 ふと、『それ』は話しかけられた。

 喋りかけながら、サングラスの老人はタイピングの手を止めることもしない。

 なんの作業をしているのか、凝視するモニターは、タイピングに合わせてあくせくと文字列や数列を並べては消していく。

 老人の脳は、恐ろしい速度でそれらを処理していた。タイプするキーの音が、まるで、ひとつの音楽器のように打ち鳴っている。

 

 『天体室』の制御部屋は狭い。

 だから、その小さな──ともすれば煩わしいガチャガチャ音は、反響して残滓となり、思うよりも甲高く部屋内に居座るのである。

 その微かな振動に耳を傾けているのか、そこから何を咀嚼しているのか。

 用意された椅子に背を預ける『それ』は、思いの外、機嫌の良い俯きを返した。

 

 『それ』は、老人たちのことが嫌いではなかった。

 『それ』とは即ち、セラフィックスに二〇一四年から降臨し、ヒトに紛れて寝食を共にする、気まぐれな『全能の神』である。

 何処の次元から訪れた全能者。

 深淵の闇をヒト型に押し固めた、現世と隔絶する『超越者(ビヨンダー)』。

 この世界における『根源接続者(全知全能者)』と分類を等しくする超越者と同じ空間にいながら、老人の語りかけは実に気さくであった。

 

 『超越者(全能者)』が近くに在りながら、恐れもなく、敬いもない態度は畏れ知らずという次元のハナシではない。

 全能者の機嫌に関わらず、神の在り方の常が機能するならば、生意気を聞く老人の口は裂け、舌は溶け、いつ、眼が弾けてもおかしくはないのだ。

 

 だが、その気安さは『超越者(全能者』にとっては、どうやら好ましかった。

 

 この老人は、無知啓蒙の輩ではない。

 わかっていて、こうしている。

 こういう態度を、わかっていても、あるいはやめられないのだ。

 老人は生まれ持って、こ(・)う(・)だった。

 あるいは、長きにわたる非人道不可逆の生に堕ちる中で、こ(・)う(・)育ってしまったのだろう。

 

 ならば、老人の振る舞いは『そ(・)う(・)在(・)る(・)』にすぎない自然体。

 ヒトに生まれ、育ち、ここに在りしものが、『そ(・)う(・)あ(・)れ(・)か(・)し(・)』と振る舞うことを、どうも、この神は好んでいるのである。

 

 だから、『超越者』もまた、老人たちには本人──本神なりに、気さくなつもりであった。老人たちと相対する神は、常に、往来でたまたま出会った、億年来の友の態度を現していた。

 

 『超越者(ビヨンダー)』の人間態は、大きな身体であった。

 これは、元々依代にしているという人間の規格(サイズ)のせいなのか。

 はたまた『超越者(ビヨンダー)』そのものの人間態が元からこうなのかはわからない。

 立ち上がれば、身長は二メートルに近い。

 胸板が分厚く、そこから腰回りに降って肉体がシュッとしまっている。

 無駄な脂肪がなかった。

 胴体から尻にかけてのシルエットが、瓢箪のくびれのような、削り取ったばかりの彫刻のような、荒荒しく無機的な美しさを誇っていた。

 胸より上を見る。

 首が太い。

 肩周りが大きく、丸い。

 腕が太かった。

 手が分厚く、指もしっかり肉付きがいい。

 手の甲の皮膚がザラついていて、滑らかで、赤ん坊のそれのようであった。

 脚も太い。

 やはり太くて、長い。

 そう、全体的に、四肢が長く、故に肉付きの良さも相まってしなやかな肢体である。

 身体は大きい。

 雄々しさすらある。

 見るからに骨が太くて肉が大きく、頑丈なのであるが、おしなべてマッシブな印象より、しなりのある竹のような美しさが先行する。

 超一流のスポーツマン……ボディビルダーや、ヘビィ級のボクサーのようである。

 

 その顔は、どちらかといえば美形のそれであった。

 端正な顔立ちである。

 呼吸があるのかそもそも怪しいが、魔性の色香をただよわせている。

 目元が引き締まって、やはり怪しい光を宿している。耳から顎先までが、引き絞られたような骨格であった。

 目鼻立ちが高く、西洋人的なハンサムフェイスに、心を伏したような落ち着いた雰囲気。

 どこか非人間的な達観を揃えた微笑みを、薄く貼り付けることを常とする顔であった。

 

 頬を撫でる指が、しなやかにうねっている。ひとつひとつの動きが、どこか艶かしい。

 

 身体の節々から、その微かな仕草からすら、妙な色気が見てとれる。

 ありえないはずの太く大きな肉体から、ありえないはずの細く、美しい四肢の先端を持っているからだろうか。

 太く大きいが、動きはことごとく細くしなやかであるからだろうか。

 矛盾する肉体美は、ひとえに『それ』──彼が、この世の存在でないことを端的に現していた。

 

 髪が靡いている。

 室内に風は吹いていないのに。

 癖っ毛なのか、特に手入れなどしていなさそうだが、毛先が束ねられて、くるくると巻かれて裏返っていた。

 髪の毛は四方八方にうねっていな、各々に意思があるかのようだ。

 

 彼は、椅子の背にもたれかかり、体重を預けていた。

 椅子が軋んでいる。

 どうやら、その身体には見た目相応の質量はありそうだった。

 男の仕草のひとつひとつが、科学者たる老人たちには注視する事柄である。

 

 彼は、顔を上向きにして、首をのばしていた。

 あるがままに心を任せている。

 身体から力を抜いている。

 傍目に見れば、人間とすればリラックスした状態であった。

 彼にも、重力はきちんと働いているのか。

 これは、彼もまた、この宇宙では重力という法則には従って生きねばならないということか。

 それとも、あえて重力という、この世の絶対法則のひとつに従っているだけなのかはわからない。

 その様子。

 確信できることがひとつだけある。

 三人の科学者に対して、彼は、なんの警戒心も抱いていないということだ。

 

「楽しいよ」

 

 彼は、そう答えた。

 視線を合わせない。

 感情が乗っていない言葉であった。

 杓子定規な返しである。

 とりあえずはね──そう前置きしているようであった。

 事実、その後に「ただし」と付け足した。

 

「セラフィックスに従事している私は、あくまで宿主に主権を委ねている。思慮も感情も、己が世界に発する力すらも、表にある限り──私の意図は組まれておらんよ」

 

 そうかね、と老人は言った。

 

 セラフィックスの所長、ヒデヤス・アジマが直々に選抜した中でも、飛び抜けた能力を持つ三人の科学者たちは、セラフィックスの中では費用も時間も気にせず、自由に研究することを許されていた。

 

 だが、セラフィックスの中を、自由に行き来できるわけではなかった。

 行ける部屋が決まっていた。

 基本的に、『天体室』と、寝床。

 他に、セラフィックスの中にいくつか存在する隠し部屋である研究室。

 食料などの貯蔵庫に、わずかに仕切られたプライベートルーム。

 自由に行き来できるのは、このわずか数部屋だけであった。

 その僅かな移動ですら、何かしらの監視の目が外れることはない。

 広間の食堂を使うことも許されてはいなかった。

 表に出ることなど言語道断であった。

 関われるのは所長のヒデヤス、副所長のアルミロ、そして『掃除屋』男だけ。

 一般職員との接触自体、完全に禁止されていた。

 

 もし破れば、対価を払わねばならない。 

 それは、自身の命である。

 セラフィックスに紛れ込んでいる『掃除屋』に暗殺され、その日の内に、遺体は海に沈められ、サメの餌となるだろう。

 

 だから、三人の研究者たちは、陽の光を浴びるということと無縁の生活を余儀なくされている。

 もう何年も、シャバの空気を吸っていない。

 まるで隠形(いんぎょう)に生きるものたちであった。健康に生きるならば、人間の生活に陽光の存在は欠かせない。

 何年も限られたスペースにしか生活圏がないというのは、普通の人間ならば気が狂ってしまいそうな環境である。

 

 たが、彼らは尋常のものではなかった。

 その力が、ではなく、その心が。

 あるいは、その思考が。

 

 だが、狂気に身をやつして神に弓引く愚を嬉々として遂行ながらも、彼らは良心と理性をも兼ね備えてもいる。

 それに苦しむような童心は持ち合わせていなくとも、矛盾した性質に足を止め、思考する程度の倫理は持っていた。

 

「ほう。ヒトの言動に身を委ね、世に紛れ、ヒトとして振る舞うことを良しとするのか」

「……この世界ではどうかわからぬが、神とは存外、ヒトの傍(かたわら)に『在る』ものよ」

「『神はわたしたちと共におられる』……マタイ福音書か。まさか、その言葉がそのままの意味とは」

「心ここにあらざれば、見えるものも見えぬもの。そなたらように、なまじ頭が廻る故に、真意から遠ざかるのも已むなし」

「ひやっひゃっ! では、ワシらの悪業もすべからく神の世の既知で在るか! ならば──ワシらの地獄行きは既定事項かね?」

「情状酌量の余地を求むなら『天秤の神(ティーミス)』へ祈りを捧ぐがいい。私は審判を降す権(・)限(・)は(・)持たぬのよ」

「……すまんのう。忘れてもらえんだろうか」

「吐いたツバは飲めぬよ。ましてや、神に投げた言葉であるなら……なおのことよ」

「…………」

 

 感傷からこぼれた言葉だった。

 迂闊極まる態度を、神は優しく諭してのけた。

 

「そうじゃのう。まあ、後悔と無念を垂れ流してでも先に進むのが、ヒトというものよ」

「よく喋る」

「楽しいからのう」

 

 粗雑に吐き捨てるそれは、しかして人の世の真理でもあった。

 ぐるんと、神は老人に顔を向けた。

 碧眼が、ゆらり、ゆらりと光を漂わせる。

 

 それを見て、老人はひゃっひゃっと笑った。

 彼を──まるで恐れていない。

 再三語るが、彼は、全能の神である。

 おそらくは、全知全能に等しいレベルの。

 言葉はたおやかで態度は柔和でありながら、その実、その場に在るだけで剥き出しの神性で空間を満たす、極めて無遠慮な神である。

 

 しかし、それを前にしてなお、三人の科学者たちは、変わらぬ自分であり続けていた。

 

 死ぬ覚悟ができているのである。

 いつ、死んでも良い。

 どう取り繕おうと、命を踏み躙る仕事をしているのだから。奇跡を大義名分に、人の尊厳を奪う科学を起こしているのだから。

 いつ、巡り巡って自分の番が来ても良い。

 三人は、度合いの違いはあれど、死に対して潔さを持っていた。

 

 今日死ぬ覚悟が、いつだってあるのだ。

 だから、神の力を前にしても、自分を見失わないのである。

 

 そして、神たる男にとっては、三人の科学者の、まさにそういうところが好きなのであった。

 この神は気まぐれであった。

 『彼女』の願い受け入れて君臨こそしたが、そ(・)の(・)時(・)が来るまでは、今回も奔放に振る舞う気なのだ。

 

 ヒトを理解し、ヒトを愛してもいる。

 だが、心の奥底では、ヒトの世で『神の身勝手(全能)』を押し通すことを、屁とも思っていない輩であった。

 

 本来、彼らに取って、ヒトというものは下等生物である。

 神の、神に生まれた故の傲慢。

 生物としての規格の差異。

 神の傲慢は、しかして自らの力から滲み出る自負故の驕りであり、それ故にヒトの世では正常であった。

 

 だからこそ神は、自身の類型であり、同じように『大罪』を抱えて地獄に堕ちゆくヒトを、懸命に愛でるのである。

 無遠慮で、

 無配慮で、

 こちらの土俵に土足で踏み上がるような輩を、神々は好んでいた。

 

 反骨精神と暴力性にあふれ、自立心が強く。

 しかし、冷静で冷酷な人間が好きであった。

 ある種の哀しみを理解しつつ、好奇心に負けて道を踏み外す愚か者も大好きだ。

 どの世界においても、文明社会を紐解くと、示し合わせたように現れる、歴史的大馬鹿野郎が大好物であった。

 

 落ちていた石や骨を武器とした、最初の猿を愛する。

 『大魔王(サターン)』に騙されて智恵の実を齧り、楽園を去ったヒトを愛する。

 剣を、鉄砲を、ミサイルを、核兵器を作り出し。

 挙句、とうとう宇宙の神秘を暴き、全知全能の神を、世界から追放した人間の叡智を愛でるので在る。

 幼子がテストの点数を見せびらかし、その頭を「よくやった」と撫でるように、優しく。

 

 その帰結が繁栄か終末かの差はどちらでもいい。

 人間が人間の本質を発揮すればするほど、愛しさは増していくのだから。

 

 それが、多くのヒトとカミの世界を創造し、自ら滅ぼしてきた『全能の神』の、ひとつの結論であった。

 そういう大馬鹿こそ、人々の文明社会に一層強い輝きと彩りを与えるものだと、その神は知っていた。

 

「ただ──」

 

 神は言った。

 これは、つまらなさそうに。

 

「思っていたよりも、ケンカがない。もっと──血気盛んな漢(おとこ)共が、これだけいるのだから……自由気のままに血を見るものかと期待はしていた」

「血が好きかね?」

「好きだ」

「神らしいのう」

「男だからな」

「ヤダ、ぜんっぜんわかんないワ」

「というより……この次元の神に、性別……あるんですね…………」

 

 セラフィックスに勤める労働階級の男たち。

 それは、多くが脛に傷を持っていた。

 皆全てそうではない。

 が、総じて血の気の多く、喧嘩っ早い性格である。

 

 賭け事が好きで、

 力が有り余っていて、  

 酒とタバコが好きで、

 他者に、躊躇なく暴力を振るえるような人間が多かった。

 

 そういう人間が孤立した空間に集まると、自然と諍いが絶えず、派手な喧嘩が起きる。

 いわれなき暴力から身を守るため、あるいは自らの力を他者に見せびらかすために、派閥が生まれる。

 

 それは、次第に独自のコミュニティで結束し、対立を深め、さながらマフィアもどきのようになり、それぞれがあくどいことを平気でしだすのが人間の常なのだが──セラフィックスには不思議と、それがなかった。

 

「例の、セラピストかね?」

 

 サングラスの老人が聞いた。

 そうだ、と神は答えた。

 

「殺生院キアラの天性は驚くべきものと言わざるを得まい」

 

 ぎしり、と椅子が軋んだ。

 背を丸め、深く座っていた。

 指を組み合わせて、神はそこに顎を預けて、前屈みになった。

 その顔に、言葉とは裏腹の微笑が浮かんでいる。

 流し目が、淫鬱な感情をいじらしく吐き出している。

 飲み込まれそうなほどセクシャルで、見ているだけで、その深淵に引きずり込まれそうだった。

 

 その眼が何を見ているか。

 過去か、未来か。

 ひとつわかることは、神の視線の先にいるものが、セラピストの齎す平穏ではないということだ。

 

 ならば、このセラフィックスの何を見ているのか。神の視座からのみ、視えるものがあるのだ。

 つまり、神が降臨した理由。

 セラピストに携わるなんらかよ絶望を予想する。

 神の意識を割くほどの、ま(・)だ(・)訪れぬ未来に対する失望か──希望か?

 

「殺生院キアラは、面白い」

 

 人間社会が熟すと、ヒトの願いを聞き入れたかのように現れる超常者。

 ヒトの世に、避けられぬ革命を齎す運命の担い手。

 救世主(メサイヤ)か、悪魔(サターン)か。

 殺生院キアラはそういう人間である。

 そういう未来を確約されている。

 いずれ、どちらかに振り切れる。

 人界に留まらない怪物性。

 この世界を形成する「何者か」に、そうあれかしと望まれたもの。

 

「ほほぅ……そのセラピストが、なにか……キリストの生まれ変わりだとでも言うのかね?」

「あるいは」

 

 と、神は言った。

 

「彼女の未来は決まっている。それすなわち、彼女の限界は定まりし贄の末路。渇望、故にそれ以上にはなれぬ悲哀。自らへの信仰で、自らの限界を定めうる。ヒトの持ちうる神への愚論を、彼女は取り返しのつかぬ次元で認識しておるのよ」

 

 ……それほどかね? 

 と老人が聞くと、

 神は、目を閉じて。

 

 神に至るが限度。

 と答えた。

 

「セラフィックスにおいて、新たなる神の誕生は近い。しかし、それは神を超克することはなし。自らの生まれを定めるが故に、自由意志を運命論で縛り上げる敬虔な神の使徒に留まる」

 

 猿回しの猿は、どんなに老獪利発になろうとも、猿のレベルを超えられぬ道理。

 

 『この世は我が世、永久(とこしえ)に──』。

 

 それが、神の世界の基本。

 そして、ヒトが神に至る際に、ゴール地点と見紛う真理。

 

 神の尺度(スケール)ともなれば、そ(・)こ(・)が始まりだというのに。

 

 『超越者(ビヨンダー)』の言葉は、首をもたげるそぶりがある。

 艶かしく、鬱々とした情感を孕んでいた。

 

 

1.

 

 

 歩いている。

 早足で。

 礼拝堂までの道のりを。

 アルミロという、男が。

 セラフィックスの副所長であった。

 

 ことの顛末は聞いていた。

 アルミロの行動と決断は早かった。

 先日の、アーノルド・ベックマンが起こした喧騒である。

 彼が、多目的室で診察を行っていたセラピストの元に詰めかけて、一悶着あったことだ。

 多くのスタッフが目撃していたために、どちらに非があるのか、証言を集めるのは簡単であった。

 是非の明白は極まりないが、ベックマンはちゃんと報告をしに来たし、セラピストと患者が結果的に、多目的室とその近辺を占領する形になってしまったという意見も、頷けないわけではない。

 なにより、セラピストの進言を聞き入れ、室内診察の許可を出したのは、アルミロである。

 

 裁決は両成敗。

 そう決めていた。

 その形が一番、収まりがいい。

 既に、管制室に立ち寄って、ベックマンには話を付けていた。

 とはいえ、性格を考えるなら、直接注意すればベックマンの心象は拗れると思い、ベックマンには書簡として渡した。 

 彼はしぶしぶながらも裁決を受け入れたらしい。ぶつぶつと文句を呟きながらも、ではあるが。

 

 暴力に晒されたセラピストには、直接会って謝罪を入れたほうがいい。

 礼拝堂まで、言伝ではなく自らの足で赴くのに、二つの理由があった。

 ひとつは、アルミロはキアラに誠意を伝えるため。キアラの様子が気になっていた。

 

 アルミロは、キアラのことを好いていたのだ。

 これは、単純にそのままの理由。

 キアラは好ましい人間だ。

 異性としても、人間としても。

 彼女の元にいる。

 話をする。

 話を聞いてもらう。

 すると、心が安らぐのだ。

 心の底に硬く、凝り固まった毒が、柔らかくほぐされて外に出ていく。

 カウンセリングはもちろん、世間話でもそうだった。

 だから、キアラと話をするときは、なるべく顔を合わせた状態で行いたかったのだった。

 

 近づくたびに、早足になっていた。

 はやる心が先んじている。

 カンカンカンと、床を打つ靴音の感覚が短くなる。

 湧き上がる焦りと、それを抑えんとする落ち着きが交互に出ているのであった。

 

 そして、もうひとつの理由。

 アルミロが気になっているのは、むしろこっちの方だ。

 未知はこっちだ。

 ひょっとしなくても、大きな危険性を孕んでいる。

 

 ここしばらくずっと、キアラと親しくしているセラフィックスのスタッフがいた。

 労働階級の、大きな男だ。

 キアラがベックマンを口撃の末に退けたのも、この男がきっかけだと多くの職員から言質を取れた。

 その男の特徴と名前を聞き、個人的に礼を述べるべきだと判断して、スタッフリストを探った。

 

 そして──ゴウという男が、リストにいないことに気づいたのだ。

 

 何度も目を通した。

 デジタルのリストを隅々まで検索してから、資料室に赴いてアナログの資料まで引っ張り出した。

 だが、何度見ても、どれを見ても、いない。

 セラフィックスのどこにも、『ゴウ』などという人間はいなかったのだ。

 廃棄した者たちの資料も掘り出したが、結果は同じ。

 名前の一部分ですら、ゴウという文字が引っかかることはなかった。

 

 先日、アルミロは密かに『掃除屋』とコンタクトを取った。

 リスクを承知の上で。

 全て飲み込み、覚悟し、金とタバコを握らせて、聞いた。

 

 かつて、お前が始末したセラフィックスのスタッフに、目に三本傷のある大男はいるか?

 

 と。

 知らない、と『掃除屋』の男は答えた。

 そこで、アルミロは確信を得た。

 得体の知れない恐怖に、胸がざわついた。

 訝しむ『掃除屋』の男にご苦労、と、掠れた声がでた。

 男の胸ポケットに折り曲げた金束をねじ込んで、顔を青ざめさせて部屋に戻った。

 

 ベッドに倒れこみ、うつ伏せて頭を抱えた。

 粘っこい汗が止まらなかった。

 所長に報告すべき案件だ。

 しかし、かぶりを振った。

 自分の頭で考えられる、ゴウという男の正体。

 一番ありそうなのは、他の『君主(ロード)』からの刺客。

 セラフィックスの、本来の研究に対する牽制か、工作か。セラフィックスの本来の目的は、一般的な国際社会はおろか、他の時計塔の『君主』たちには絶対に知られてはならないものである。

 

 表向きを油田基地としているのも、海上に孤立させている立地も、アニムスフィアがその秘匿性を鑑みて、ていのいい隠れ蓑にと実行した計画の産物である。

 

 だが、人の口に戸は建てられないのが道理だ。魔術師の世界ならばなおのこと。

 秘匿を旨にする彼らではあるが、他人の神秘の暴露は、そのままその魔術系統の失墜を意味する。

 時計塔の『君主』には、他者の神秘を分解して解読し、世間にばら撒いて回る『略奪公』の名で知られる恐ろしい魔術師がいるというのも、アルミロが独自に調べて、当たりついたことだった。

 

 どこかから漏洩した情報が、他の『君主(ロード)』の手に渡ったのだろう。

 だから、セラフィックスの破壊工作のために、ゴウという男が派遣されたのだとアルミロは思ったのだ。

 これが表向きの国際機関の刺客ならば、リストに名前を載せないなどのケアレスミスをするはずがない。

 なんのメリットもないのだから当然である。

 

 セラフィックスの労働階級の人間は、荒くれ者たちが多い。

 『掃除屋』の男もそうだが、元は木っ端微魔術師であったり、ギャングに所属していたり、後ろ暗い経歴を持つものも多いのだ。

 だから、そういった雰囲気の男がひとり、労働階級のスタッフに、しれっと紛れ込むのは容易いことなのかも知れない。

 ああいう世界では、他人の過去の詮索を行わないのは暗黙の了解だ。

 下手に人の過去に干渉しようものなら、いつ、首の上にギロチンか浮かび、いつ、それが落ちてくるかわからないからだ。

 

 だが、これは見過ごせない!

 その日、朝早くに起きて、アルミロは深呼吸をした。

 深く深く息を吸って、肺の中の酸素を全て吐き出すつもりで長く息を吐いた。

 

 冷静に。

 冷静にならなければ。

 

 ここで所長に伝えるのは危険が大きい。

 なぜなら、我々にも『掃除屋』にも気づかれずにセラフィックスに侵入している凄腕だ。

 役職の動きは把握している可能性がある。

 早い話、深夜の今、自分がこの部屋から出ても、所長の個室にたどり着けない可能性が高い。

 そのまま帰らぬ人となる可能性が、高いのだ。

 

 悩んだ。

 悩んだ。

 胃薬を流し込んだ。

 唐突に迫り来る死の予感に、内臓が悲鳴を上げていた。

 

 悩み抜いた末に、アルミロはゴウという男と、話をしてみることにした。

 聞けば、ゴウという男は、労働階級としてまじめに従事していることは事実だと、他のスタッフから言質が取れていた。 

 

 『明るくて、話がわかる、訛りの強いお調子者』。

 

 印象を総括すればこんなところだ。

 キアラにも、ゴウは毎日毎日会っているわけではなかった。

 仕事はちゃんとやって、休み時間や終業後に礼拝堂に来ているのだ。

 その生真面目さが演技である可能性は、もちろん高い。

 だが、その生真面目さから、話の通じない輩ではないと思うしかなかった。

 だから、せめてキアラの前で話しを切り出そうと考えた。

 

 工作員──ゴウにとっても、自分の存在は秘密裏でなければなるまい。

 ならば、多人数にそれと知られることを恐れるはずだ。

 キアラや患者の元でこれをチラつかせれば、暴力沙汰ではなく話し合いの席につけるのではないかと考えたのだ。

 実に甘っちょろい考えであった。

 だが、その生き様が優等生であるアルミロには、このぐらいが限界だった。

  

 これでも、精一杯考えての決断と行動であった。

 

 

2.

 

 

 礼拝堂に近づくたびに、汗が滲み出た。

 足がもつれるようだった。

 自身に降り注ぐ重力がおかしくなってしまったのか、一歩踏み出すごとに、地面がぐらついているように思えた。

 

 そして、礼拝堂の前に立ち、その扉に手をかけた。

 

 そこで──

 

 

「やぁやぁ副所長さま。センセぇは今お昼休み中ですぜ?」

 

 

 背後から届いた声に、心臓が跳ね上がった。

 額からぶわりと汗が滲んだ。

 それが頬を伝って顎に滴るまで十分な間を開けて、アルミロがゆっくり振り返った。

 

 大きな男が立っていた。

 

 口元に、不気味な笑みを浮かべていた。

 目に、爪で引っ掻いたような三本傷があった。

 

 まぁ──

 

 と、その男が言った。

 口調がまるで違う、空気を凍り付かせるような、恐ろしい声であった。

 

「おまえが会いに来たのは、わ(・)た(・)し(・)なのだろうがね──」

 

 声が変わった。

 声そのものが。

 雰囲気も、変わっていた。

 お調子者──? どこが?

 

 息が凍りそうになる。

 ゴウに見つめられている。 

 自分以外の時間が、止まっているようだった。

 

 アルミロは、心臓を握りつぶされる思いであった。

 

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