0.
熱い──
皮膚が熱い。
肉が熱い。
流れる血が、熱い。
手のひらに溢れるものが熱い。
拾い上げる、溢れるものが熱い。
こぼれ落ち、慌てて拾い上げた内臓が熱い。
命の熱、命の火。
喉にせり上がる血液で、気道が焼ける。
痛みが脳を焼く、熱い。
こんなものが、常日頃、ヒトの体内にあったなんて。
思う暇もない。力が抜けて、血溜まりの中に倒れる。
おれの上に、男がのしかかる。
おれを刺した男。
おれには、それを跳ね除ける力がもうない。
手足に力が入らない。
腹にも。
筋肉も脂肪も、健も切られている。
既に、何度も刺されている。
身体が動かない。
神経が途切れて、痛みに負けている。
グロテスクに溢れる内臓があたたかい。
視界が黒ずんでいく。
身体が、急速に冷たくなっている──
ナイフで刺された。
刺したまま、横薙ぎに腹を切られてしまった。
気づいた時には、男が身体ごとぶつかってきていた。
脇腹にナイフをきっちりねじ込まれ、肉を、内臓をえぐられていた。
のしかかった男をあらん限りの力で突き飛ばし、痛みにうめき声をあげる。
そいつは醜く顔を歪めて立ち上がり、うずくまるおれの横腹に蹴りを入れた。
身体が転がって、仰向けになる。
そこに、胸の上。
また、ナイフが突き立てられる。
顔が跳ねる、鼻と口から血が溢れる。
頭にぐ、と血がのぼる。
息が荒い。
目が、ぐりっと丸く見開かれた。
男はおれにまたがって、今度こそ逃げられない様にしてから、また、腹にナイフを落としてきた。
その次のひと刺しから、ワザと急所を外してきた。
少しずつ少しずつ刺して、バタフライナイフでおれの命をほじっていく。
おれは抵抗できなかった。
一発目で急所を刺されたからだ。
背後から、音もなかった。
下手人は、この醜い男は手慣れていた。
殺しに。
命を奪うことに。
こう見えて、おれも、かなり修羅場は潜っているつもりだった。
だが、全く反応できなかった。
だから、躱わせなかった。
ひとつだけ言い訳するなら、おれは茫然としていたからだ。
刺される瞬間まで、おれは、セラフィックスにある秘密に意識を奪われていた。
おぞましい実験。
金を、どこからかくすねられないかと、探し当てたものは非人道の極地。
ヒトの命を使い潰す、人体実験の証拠。
たまたま、捨てられた資料が処分されきっていなかったのだ。
拾い上げたそれを片手に、セラフィックスの地図をひろげて、組み合わせた。
マッピングを行なって──資料の通りに発見した。
セラフィックスの中心部にある、不自然な空白地帯だった。
尋ねても、誰も、それに気づいていなかった。
仲間の誰に聞いても、初めて知ったと言われた。
まあ、おれたちは所詮、労働階級で脛に傷持ちのはぐれもの。
そんなにアタマがいいわけでもない。
でも、おれはそうじゃなかった。
だから、気づいてしまった。
だから、好奇心から。
証拠をたどって、たどり着いてしまった。
その末路が、これだ。
おれはもう死ぬ。
ナイフで滅多刺しにされ、捻じられたことで血管に酸素が入ってしまった。
出血が激しい。
既に、四肢が痺れて動かない。
内臓も踏みつけられた。
呼吸に血の泡が混じっている。
誰かに──
死ぬ間際に、おれは肉親の誰も思い出せなかった。
父も母もろくでなしだった。
兄も親戚もクズばかりだった。
大切なひとが、おれにはいなかった。
いや、かつてはいたけれど、父や母の姦計に落とされて消えていった。
もう、誰も残っていなかったんだ。
だからか、おれが最期に思ったのは。
おれ自身が驚くほど、純然たる正義感だった。
誰かに──伝えなきゃ。
セラフィックスの真実を。
この、悪魔の実験を。
止めなきゃ。
この悪魔の実験を、止めなきゃ!
おれのように、騙され、使い潰される子供たちのために。
手を伸ばす。
空虚に。
虚空に。
誰かに、つかんで欲しかった。
寒い、寒い。
おれの最期の無意識を反映して、指先が小刻みに震えている。
それでも、おれは手を伸ばした。
それでも、おれは、救いを求めた。
おれは、初めて。
何か──偉大なるものに手を伸ばした。
おれは、
神さま──
仏さま──
誰でもいい。
聞いてくれ。
助けてくれ。
救ってくれ。
おれ以外の、ひとを。
無辜で無力な子供たちを。
セラフィックスのひとたちを。
あいつら、いいやつらなんだよ。
おれなんかより、いいやつらなんだ。
神さま、神さま。
おれ、初めて、あんたに祈るよ。
どうか、みんなを救ってください。
おれのいのちをつかっていいから。
虚空へ伸ばすその指が、ナイフで切り飛ばされた。
おれの手から、それで、力が抜けた。
ぱたりと堕ちて、それきり。
そこから、何も感じることはできなかった。
血色の視界。
血のあたたかさ。
見下ろす、下卑た男の歪んだ笑顔。
振り下ろされるナイフの輝き。
おれなんかに優しくしてくれた、仲間たちの顔。
それが、おれが最期に見た景色。
地獄の中で、おれは。
ただ、無駄に命を失った。
──求めよ。
声が、聞こえた。
暗闇の中で、その声は、イヤにはっきりと。
男の声だった。
──望めよ。
おれは、もう、望んだよ。
おれは、声にこたえる。
おれは、もう、願ったよ。
おれ以外のひとを、救ってくれと。
──汝は望んだ。
──汝は求めた。
汝は神に願い望んだ。
汝は神に救いを求めた。
汝は対価を払った。
──されば、
されば?
──されば、与えられん。
救いを、力を。
汝にその資格ありて。
救世の主たりえる、凡夫にありて。
故に、その魂に我が全能の権威を。
故に、その肉体に、我が全知の御霊を降ろさん。
おれは、その声を聞いた。
闇の世界に堕ちゆくおれは、なにか大きなものに掬い上げられた。
身体が、光と熱に包まれるのを感じた。
黒い光。黒い炎だった。
炎が、おれの身体を焼き尽くす。
骨まで粉々に溶けた。
そして、おれというものが消え去った。
そして、残ったくろい炎が集まって、おれを形作った。
おれは目を覚ました。
水の中だった。
しょっぱい、塩水だ。
無我夢中で手足を動かして、袋を破った。
重石を跳ね除けて、縄をちぎって、がむしゃらに昇った。
水面に上がった。
呼吸に苦しみながらも手を伸ばすと、冷たい柱に触れた。
おれは、生き返った。
あの、月の出ていた夜のことだ。
全能の神によって。
おれは炎に包まれて、二度目の生を得た。
おれは、神の炎に身体を作られた。
もう、人間とは言えないかもしれないが、蘇生を果たしたのだ。
神は、おれの中にいた。
神は言った。
『手を貸して欲しい』と。
ありがとう、と言って。
おれは尋ねた。
「何をしたら、よかとですか?」
神は、言った。
きっと、眉を顰める様な表情で。
──殺生院キアラを、救うのだ。
と。
1.
おいと、一緒に来るかい、センセぇ?
キアラがそう言われたのは、夜風が吹き抜ける、寒い日のことであった。
海洋油田基地セラフィックス。
二〇一六年、十二月のことであった。
北海を基点とするセラフィックスの冬は、ことさら冷たい世界となって現れていた。
風が寒いのではなく、漂うその空気が冷たいのである。
そのため、暖房器具はもちろんのこと、油田基地として稼働するための電力消費量もバカにならないレベルであった。
甲板に出れば、否応なく、口から吐く息が自然と白くなる。
世界の色が違っていた。
冬というのは、セラフィックスにおいては外界のそれ以上に違う世界だった。
室内にいてすら、夏や秋のそれとはまるで違う。
薙ぐ風は強く、鉄板鉄柱を叩き、跳ね返る。冬は、セラフィックスの空と海の間に一枚の、寒冷の天幕を敷いていた。
その中で寒さは累積するのか、気温は日を跨ぐごとに下がりゆく。
朝、目が覚めるたびに、新しい冬が訪れるようであった。
外の空気を浴びた状態で瞬きをする。
そのたびに、目の淵に溜まっている見えない水分が薄く凍りつき、きらきらと星屑のように砕けて、煌めいてさえいた。
「寒いのう、センセぇ」
礼拝堂の中。
今日の診療を終え、キアラがひと息入れた後、やはりタイミング良くゴウは現れた。
その身を震わせながら、肘を交差した手で支えている。
礼拝堂の扉をきいきいと、静かに開けた。
流石にタンクトップではない。
半袖ではあるのだが。
そりゃ寒いだろうと言う格好に従って、その大きな身体が縮こまっていた。
いつもは、生命力をみなぎらせて熱を発している身体が、叱られた子供のように消沈している。
だからといって、ゴウに元気がないとか、そういうわけでも、そういう動きでもない。
礼拝堂の扉は静かに開けること。
これは、キアラとの約束であった。
もはや、ゴウがそこに入ること自体が手慣れすぎて、日常のルーティンになってしまった故の、静かで──ごく自然な動きであった。
「あらあら。診察はもう、終わりですよ」
それを、キアラは冗談めかして迎え入れた。
立ち上がり、正面に歩き寄る。
こうして並ぶと、身長差が愕然とあった。
キアラも女性の身としては高身長の部類であるが、ゴウはそもそも人間として高身長の部類である。
並ぶと、頭ひとつ分以上に差があった。
だから、ゴウはまず、キアラの動きに合わせて視線を下げた。
むむ、と下唇を尖らせて、
「そいつは困ったバイ。今日こそハラん調子が悪か気がすっけん、診てもらおうち思うたとやけどなァ〜」
困ったような顔ではあるが、紡ぐ言葉は飄々とした情緒に溢れていた。
その雰囲気が、寒冷の世界に花を咲かせる。
ふたりの隙間に、じりじりと火が灯る。
ある点を超えると、柔らかげな光熱が、ぱあっと、キアラとの間にある隙間を輝きで埋め尽くす。
この、ゴウが自然に発揮する光。
よくわからない人間力が、よくわからないから、不思議で不思議で、キアラは好きであった。
お互いに、ひと間を開けた。
あたたかさにのぼせたように、頬に熱を上げる。
そして、どちらともなく。
ふふ、と笑みをこぼした。
熱が、す、と吐き出される。
吐き出された熱は、
どちらかが、釣られて笑う。
どちらから笑いだしたかわからない。
それは構わなかった。
ふふ、ふふふ。
へへ、へへへっ。
どちらも、ちょっと初々しく、照れくさそうであった。
キアラは、熱にのぼせている自覚があった。
だが、それでいいのだと思っていた。
「私の専門は精神ですよ。ですが、せっかくですので、内科に行きたいなら特別に紹介状を書いてあげましょう!」
「ちょ……んもー! センセぇも、大概いじのわるかヒトやねぇ。おいはここに来る理由を、来るたびに、いっしょうけんめいに考えちょるとばってん……」
「理由をつけて診療を受けに来るんじゃあ、本末転倒ですよ」
「ど正論やね。いやーマイったバイ」
あっさり負けを認めて頭を掻く。
言いながら、ゴウは、ずかずかと歩いて最前列の席に着いた。
すとん、と器用に、その身体を席に収める。
そこに、す、とコーヒーの入ったカップが差し出される。
キアラからである。
微笑みをブレンドして、優しさと親愛に黒い水面が白と混ざり、茶色になって揺れていた。
それを、ゴウはありがとうと、言葉と笑みを返しながら受け取る。
どういたしまして、とキアラは少し、得意げになって微笑む。
お互い、慣れたものだった。
もう、二年が経つ。
その日以降か。
出会い頭はずっと、こういうコミニュケートを取っているのは。
「いやぁ……寒かねぇ、センセぇ」
呟くゴウは、鼻水を垂らしながら、ずずっとコーヒーを啜っている。
言うまでもなくホットコーヒーである。
キアラが淹れた、彼女にとっては二杯目の、濃いものを飲んでいた。
ミルクや砂糖を入れて、まろやかさと酸味のバランスがいい。
茶色の水面から、湯気が沸き立つほど熱い。
対して、キアラのカップに揺らぐコーヒーは、それ以上にミルクと砂糖がたっぷり入っていた。
疲れた身体には、とにかく糖分である。
目が覚めるねぇ。とゴウが言う。
「ここにおると、一年がはやかねぇ」
それに関しては同意であった。
もう、二年だ。
キアラのセラフィックスでの日々は、忙しくも充実していた。
下心はあれど、スタッフも患者も真っ当に接してくれる。
日々患者の数は増えていくし、投与分配する薬の量は増えている。
鬱々とした空気は着々と積み上がり、微かな喧騒があちこちに燻っていた。
それでも、アルミロやゴウが目を光らせているおかげか、問題なくここまでこれていた。
彼らとお昼を共にする。
おやすみ時間に集まって、くだらないことをだべり合う。
一対一。
ふたりきりの世界。
にやぁ、先生。
彼が話を振ってくる。
キアラがそれに、二、三ほど所感を述べると、けらけらと笑い声がする。
そういう流れが出来上がっていた。
次第に、他のスタッフたちの目から、キアラを見る眼から、やましさや下劣の色が薄まっていくのを感じていた。
性のシンボルとしてではなく。
生まれついてしまった部分だけではなく。
彼ら彼女らは、殺生院キアラという、二十五年の人生で組み上がった、ひとりの人間を見始めていた。
親愛と、信頼。
そこに、ひと握りの下心。
初々しさに、馴れ馴れしさ。
普通の、異性との距離。
普通の、同性との距離。
それが嬉しい。
そして、嬉しいことは、楽しいことは。
時の歩みを早めるものだ。
だから、この二年は光陰矢の如し。
取り返しのつかない、素晴らしい二年だった。
「センセぇは」
と、ゴウが切り出した。
「いつまで、ここにおるとやろうね?」
キアラはうん、と頭を捻った。
考えたことがないことであった。
そもそもが、社会や世界から追い出されて、追い立てられて、ようやく辿り着いた果てが、このセラフィックスである。
二〇一四年にここに降り立って以来、ここから出ること自体、キアラは考えたことがなかった。
とにかく、今は目の前の仕事に全力で取り組む。
ようやく腰を落ち着けられた、いるべき場所に報いる。
私を受け入れてくれる世界を愛する。
そういう姿勢で挑んだ二年間であった。
「ゴウさんは、どこかに行っちゃうんですか?」
おそらく、本人も意図しないほど、幼い言い方であった。
言葉の
しっとりとした熱が、体内から湧き上がっている。
下腹が疼いていた。
ゴウは、キアラに向き直って、あっさりと──しかし、驚くほど妖艶に目を細めて──うん、と頷いた。
え? と細長い指の隙間から、キアラの驚きがこぼれた。
細い息が、更に引き絞られる。
思わず、口から吐き出た言葉だった。
思わず締め上げられた感情であった。
彼がいない未来。
それは、考えたこともない未来であった。
「おいは、
ここに骨ば埋める気はなかよ。
そう言った。
そげな物好きやなか。
続ける。
カネはちーっとも貯まっとらんばってん、まぁそれはしょーんなかね。
くわばらくわばら。
おいは、まだ。
やりてぇことも、見たかもんも、たくさんあるけんね。
だから、来年にゃあ、ここを辞めようち思っとるとよ。
「やりたいこと、ですか……」
見たいもの──ですか。
例えば、どんなものなんですか?
「藻」
「……も?」
うん、それ。
と言った。
ゴウは、両手を前に出して、それを大きな動きで左右に広げた。
指先の動きが、視線を誘導するようにしなっている。
長い指であった。
それは、指揮者の振る舞いで、手慣れた様に絵図をなぞり始めた。
ゴウは、自身の脳内に広がる
「アメリカの、西海岸だか、東海岸だかにね、センセぇ。夜になると、光る藻が浮き上がる海があるち聞いたとよ」
月の光を食って、食い切れない光を外に出しとるんよね。
それが、海面ば覆い尽くすほどに広がるとよね。
日本の秋景色……蛍の光のように。
そいが、夜風に揺らされて、波に踊って、どんぶらこ、どんぶらこ。
空を見上げると、雲の隙間から星々が煌めいとる。
下を見ても、波打つ星の輝きが敷き詰められとる。
星の狭間に、夜に抱えられて、おいがおるんよ。
おいは、安っぽいホテルの、安っぽいベランダでそれば見ちょる。
手には、安っぽいにごり酒を、ヒビの入ったグラスに泳がせとる。
ホテルも、酒も、安もんでよか。
光り輝ける世界を肴に飲む酒は、安もんに限るけんね。
そいが、例え、舌を焼くほどマズくても。
舌を蕩かすほどウマくとも。
それはそれで風流たい。
その世界に、自分がおるち思うだけでよかとよ。
それ以外は、全て引き立て役。
そこでは、
その瞬間、おいは世界に必要な存在として、そこにおるんよ。
目ぇつぶってみんか、センセぇ。
見えるがか?
おいの、想うちょる世界が。
「…………」
キアラは目を閉じて、思い描く。
ふわりと、それが瞼の裏に浮かんでくる。
光の海。
光の粒が、海面に寄り添って、波に揺らいでいる。
幻想的な光景であった。
なぜか、それは、いやにリアルに思い描けた。
それを見る自分がいた。
自分の目が、空にあった。
空から、
想像上の景色ではある。
しかし、そこに立つ自身の息遣いすら感じられた。
暖かい波風が、頬を撫でる優しさを感じられた。
つい、うっとりとしてしまうような心地であった。
だけど、
「きっと、綺麗なんでしょうね」
ようやく吐き出せた言葉に、複雑な感情が混ざっていた。
目を開いて、細めて、困ったように笑ってしまった。
そういう世界を夢見ることは、もう何年もないことだった。
人のために生きていくために。
ある意味で、殺生院キアラのここまで歩んだ二十五年は、人を許し、人を人であると認めるための人生であった。
ある意味でがむしゃらになって、前だけを見続けていた。
余計なものを見ないように。
余計なことを考えぬように。
立ち止まれば、夢とロマンスに足を絡め取られれば、きっと、自分の中で今も這いずって離れない自身の過去が追いすがり、ヒトに失望してしまうと恐れていた。
だからこそ、いつまでもいつまでも、童話の世界のような、甘ったるくも切ないロマンスに恋焦がれている。
切り離せない渇望が、彼女にはあった。
この生き方をしている限り、手に入らないと知るからこそ、人並みの愛と欲望に身を投げ入れてみたかった。
だから、
「そやね。おいと、一緒に来るかい、センセぇ?」
その言葉は、鳴り止まぬ歓声のごとく、キアラの心に飛来した。
どきりと、心臓が高鳴った。
それは、考えたこともない未来であった。
「えっ、えっ……?」
言葉が出てこない。
言葉が出てこない。
困ってしまっていた。
ずるい。
欲しい言葉を、
欲しい言葉であった。
それは、キアラが人生をかけて、一番欲しかった言葉に値するものだった。
幼い頃の自分。
苦しみの中にあった。
助けて欲しかった。
外に、連れ出して欲しかった。
誰もが、私に言葉だけを与えた。
だけど、私が欲しかったのは、言葉じゃない。
私を崇める言葉はいらない。
私を憐れむ言葉はいらない。
私を励ます言葉はいらない。
私が欲しかったものは、私の手をとって、力強く、「さあ出かけよう」と手を引いてくれる人だったのだから。
私の世界を砕ききって、泡と消える私の輪郭を、それでも縁取るような、強い人だったのだから。
「センセぇも、女でひとつ。これまで色々と、ままならんことも多かったやろうて」
ばってん、おいがおると、違うぞ。
大きくて、強そうで……実際強うて、表に向こう傷のある男が、後ろで睨みば効かせちょる。
そいは、でかかぞ。
それまでセンセぇが「女だから」で通らんかったことが、いくつかは通るようになるぞ。
間違いなく。
そんで、おいは、楽しか。
センセぇの言葉は楽しか。
たまにおっかないとこが楽しか。
思うたことを、よかれと思うたらどんどんやり出すとこが見てて楽しか。
意外と遠慮んなかこつ言うてくるんが楽しか。
たまに、上の空になっちょるんが見とって微笑ましか。
真剣な目がカッコよか。
センセぇの淹れてくれるコーヒーばいつでん飲めるんは、よかことじゃ。
なんじゃ、メリットしかなかのう。
お互いwin-winの関係ばい。
いや、おいが貰いすぎかな?
傍目からは美女と野獣やもんね。
でも、その分。
センセぇが足りんとこがあるんやったら、おいが勇んで出ていっちゃる。
崖が深すぎて向こう岸に跳べん言うなら、おいが抱えて跳んでっちゃる。
そんぐらいは、しちゃあよ。
どげんや、センセぇ。
おいと一緒に、世界ば回らんか?
「…………」
センセぇ?
「………………もう!」
吐き出されたものは、強い怒りを孕んだ言葉であった。
顔を真っ赤にしていた。
予想外の反応に、ゴウはふお!? と片眉を吊り上げた。
しかして、しゅんとうなだれたキアラの顔は、無言で口を尖らせていた。
「せ、センセぇ? おいは、もしかして……いらんこつば言うたかや?」
ううん、と、キアラは言葉ではなく、態度で伝えてきた。
喜びではあった。
しかし、違うんです。とも言っている。
やはり、言葉ではなかった。
顔を上げた。
──笑っていた。
心から。
慈母の笑みではなかった。
ごまかしの喜びでもなかった。
見惚れるほどの美しさと、幼さを秘めていた。
ただ、殺生院キアラは、心のままに。
心のままの想いが、その顔を作っていた。
海洋油田基地セラフィックス。
二〇一六年、十二月二十九日。
寒い日のことであった。
月明かりが、見えない日のことであった。
2.
ゴウは、いた。
神として。
飄々とした陽気さは無い。
妖艶な空気を纏い、自らの内包する世界の末端を五感から滲み出し、そこに、ひとつの大河の量感が現れていた。
神に対峙するものがいた。
それは、人間であった。
セラフィックスのスタッフ。
女性である。
「要訣は、これにてお仕舞い」
鋭い声であった。
その眼が魔力を秘めていた。
壁色の瞳は、怪しく光る宝石を幾何学的に削っていった、黄金装飾の
その眼光に包まれて、あるいは恐れたあまりか、女性は言葉もなく、唾を飲みこむのも忘れて、何度も何度も頷いた。
「きみは、何があっても生き延びることだけを、考えなさい」
きみは、生きなければならない。
例え、何を犠牲にしても。
危機を感じたら、逃げなさい。
誰かを差し出しても構わない。
暴力の前兆は臭いでわかる。
ヒトの、感情は入り乱れる。
思想は支配され、思考性のある破滅が淡々とコミュニティを犯すだろう。
あの女によって。
渦中にて分からぬとも、私の
だから、それがわかったら逃げなさい。
あの女から離れなさい。
真っ先に。
何を置いても、キミは逃げなさい。
生き延びることがキミの使命だ。
私はここに、神の名と力をもって、きみに生き延びることを命ずる。
未来に命を繋いでほしい。
……まあ、死にたいと想うなら。
きみの意志を尊重し、私は無理強いはしないがね。
とにかくきみは、二〇一七年から二〇三〇年まで、セラフィックスで生き延びることだけを考えなさい。
生き延びて、カルデアと通信することを。
アルミロは、小型の食糧保管庫をいくつも備えた。
食糧も医薬品も、娯楽道具ですら大量に仕入れた。
自身の人脈を、セラフィックスの隅々まで行き届かせた。
いずれも最善手、彼は素晴らしい。
だが、これ以上は彼に望めぬ。
しかして、彼の尽力にあって想定より──本来のSE.RA.PHよりも時間は稼げる。
極めて賢い判断だ。
極めて勇猛な行動だ。
だが、悲しいかな。
彼は凡夫だ。
少なくとも、あの女に比べれば。
それは、きみも知るところだろう。
魔術師の世界においては論外に等しい。
ヒトの上に立つにせよ、いかんせん見積もりが甘い。
時層のズレたセラフィックスは、二〇三〇年まで
都合十七年、孤立した世界で暴力の蔓延を抑えるには、彼の用意した蓄えでは到底足りまい。
ましてや──あの女の信仰の拡大は、抑えられぬのだ。
彼だからではない。
誰もが。
この私を除いて。
まあ、時間層そのものが基底時間からズレることなど、定命の者に想定しろと言う方が、酷な話ではあるがね。
極論だが、私はこのセラフィックスの中で、この天変地異から生き延びなければならないのは
きみだけが、カルデアと連絡を取れるからだ。
だから、きみに対して。
私は事件のほぼ全容を教えた。
解決までの展開を分解し、そこにあるひとりひとりの功罪を問い立てるならば、最たる巧者はきみに違いない。
にもかかわらず、きみは事件に関わることなく死んでしまう。
それは、ある意味幸福の死ではあるが……
きみがそれを望まぬことは、今、言質を取った。
では、私は神として──直接の救いは与えられぬが、助言をするぐらいは赦されよう。
事件中に、私ではキミを護れない。
事件中は、私はただのひとりを除いて、誰ひとり助けることはできぬのだ。
残酷な未来だ。
全能者の協定。
我らの世界を秩序立たせる要因が、ヒトを救わぬ忌憚悪因。
ヒトの世を救わぬ神など、死して当然の道理よ。
しかして、神がそれを破れば、招かれるは世界の死である。
故に、私はきみを救えぬ。
故に、言葉を託す。
一切の遠慮なく。
冷酷非道な行いだと、我ながらに思うよ。
この話を最初にした時の、金魚のように口をパクパクさせ、茫然自失するきみの顔は、正直な話が面白かったと思っている。
だが、きみは私の力を理解した。
神の全能を、あの女の力を受け入れた。
その顔を見るに、覚悟も決まっているようだ。
だから私は安心して、明日を迎えられる。
神の言葉を夢忘れるなかれ。
神はそこにあらずとも、傍にある。
それを忘れぬならば──私からきみへのささやかな教唆ぐらいは、赦されるかもしれぬのでね。
???──二〇一七?
その男は、時間の外側にいた。
遥か高みから、時間軸を俯瞰している。
ある起点から派生する
高度を下げるにつれ、降り立つ世界を絞っていく。
世界、時間、面、点。
さらに焦点を絞る。
ひとりの人間に注ぐように。
単一次元に浮かぶ、単一の存在の宇宙。
その時間点に目当てのピンを挿して、『男』は降り立つために。
道中、いくつかの時間点で同時に、宝石に魂を移し在る、いかつい顔の年配の男に何者かと問い詰められ、いらぬ問答をするハメになった。
聞くところによると、彼はこの次元層に居並ぶ並行宇宙を管理監督する、調停者のようなものであるらしい。
降り立つ男とは似たような立場であった。
だからか、つい、苦労話に花を咲かせてしまい、ついついどの時間点でも、予定より長居をしてしまっていた。
宝石の翁と別れ、降りるべき世界と時間の面を定めた。
視界に現れる、漂白された地表。
微かな生命の息吹を極点から感じる以外、生でも死でもない世界と化している。
そこに存在する、重なり合う虚構の領域を目指す。
ゼロ以下の蜜質を持たぬ虚数も、『男』にとっては意味がない。
そこに在るならば、正数か虚数かの違いは、等しくただ世界を構成する一面に過ぎない。
『男』という個の存在に対し、
宇宙はあまりにも狭く。
あまりにもわかりやすく。
そして──小さいからだ。
その途中、隣り合う時間層から、それを感じる。
背筋を這い上る恐怖。
これ見よがしに昇り揺らめく黒。
時間に根付く、暗黒の炎。
闇の天幕──すなわち、『深淵』であった。
それは、『男』にはよく知る『深淵』であった。
世界が傾き、
神々にとり、畏怖の対象に違いなかった。
この世界にはないハズのものであった。
あってはならぬもの。
驚愕と同時に、不安が押し寄せた。
足を止めた。
恐る恐る、その世界を、時間層ごとに分解して鳥瞰する。
『深淵』は、ヒトに紛れていた。
一瞥された。
わずかな瞬間、『深淵』は確かにこちらを見ていた。
やっぱり……と頭に手を当てる。
『男』は唸り、覚悟した。
自らの死をも、である。
時間軸を手のひらに転がすと、川のように伸びた時間線を摘み上げる。
過去から未来に跨って、根付く『深淵』を指でツツいた。
範囲、西暦二〇〇七年から、二〇三〇年。
ただし、基底時間の流れがズレている。
泡沫状の特異点。
これは、宇宙に内在されるパターンか。
すなわち、神の生誕と死が起きている。
それは、『男』には無視できない事象であった。いったん気を落ち着かせ、『男』は踵を返す。
先ほどの宝石の翁の元へ飛んだ。
降り立つべき世界の前に、確認すべきことができたと、テーブルの向かいに立ってその旨を伝える。
しぶしぶながら、翁にその世界に降りる承認をもらい、その世界と、特異的二〇三〇年に向けて、着陸すべく体勢を整えた。
降り行く最中だった。
もう、特異点が目視できる距離の頃。
気づかれぬ様にと量子領域を通ったにもかかわらず、吹き飛んできた三つの霊子体と、『男』はぶつかった。
交通事故ならぬ、霊体事故である。
『男』にとり、量子領域で情報物質の激突事故は日常茶飯事ではあるが、ぶつかった三つが三つとも、並々ならぬ意志を持つ、魂の模倣であることは珍しいことだった。
『男』の太い体に弾き飛ばされた、狐耳の少女(?)の魂が頭を抑えている。
真紅の少女が驚嘆に喚き、揺らいでいた。
血の色の男は警戒と茫然の中間で立ちすくむ。
量子世界で、彼らは出会った。
『男』もまた、神に等しい存在であった。
もちうる全能を使わずとも、事態のややこしさを把握する。
算出された面倒のあまり、『男』は頭を掻いた。
『男』の優れた勘は、並々ならぬ事態を予期していた。