※この作品はR-18です。

音楽泥棒の告白   作:ずゆ


原作:ブルーアーカイブ
タグ:R-18 清澄アキラ
清澄アキラと先生と一台のピアノにまつわる話。
先生への独自解釈を含みます。
本作品はpixivにも投稿しています。

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音楽泥棒の告白

音楽泥棒の告白

 

   〇

 

 レコードをかける。

 綺麗な音楽が流れてくる。

 落ち着いたピアノに重なるように、ジャズテイストのサックスが被さる。コインが落ちるような音や、ガラスが割れるような音もする。レコードノイズも音楽になる。

 私はもう音楽をやめた。それなのにまだ、音楽を聴くと胸が痛い。

 

   ◇

 

夜鷹

第一章

 

   〇

 

 十七歳の夏に、清澄アキラは二度目の恋に落ちた。轟音と共に降りしきる雷のような、荒々しく鮮烈な恋だった。それは幻想曲を奏でる音楽堂を貫き、豪勢な油絵の絵画を灰も残さず焼き尽くし、古書館の蔵書を一つ残らず消し飛ばした。

 

   〇

 

 二度目の恋を迎える数ヶ月前に、彼女は人生で初めての恋に落ちた。初恋の相手は「先生」と呼ばれる年上の男だ。出会い方はあまり平凡とは言えないものだったが、いずれにせよ彼女はそこで十数年生きてきて初めて恋に落ち、それに伴ういくつかの感情を初めて知ることになった。

 そして今度は偶然聴いてしまった、その彼の奏でるピアノの旋律に恋をした。彼の音楽は彼女の音楽観、ひいては芸術観に至るまで、全てを悉く塗り潰し、全く異なったものに捻じ曲げてしまう力があった。こんなに美しいものは、この世界中を探しても二つと無いだろう。聴いた瞬間、彼女はそう確信した。

 

   〇

 

 二十一時頃に、清澄アキラはシャーレのオフィスビルに侵入した。連邦生徒会の管理する建物ともなると流石に一筋縄ではいかない警備が敷かれていたが、慈愛の怪盗の名を持つ彼女に破れないほどではなかった。

 堂々と一階から入り、階段を駆け上り目的のフロアまで移動する。昼間は生徒の出入りもあるのだろうが、この時間ともなるとひっそりとしていた。

 彼女の目的は、その階層に運び込まれたであろうピアノにあった。そのピアノは決して高価なものでもなければ、盗品でもない。入手経路に違法な手続きがあった訳でもない。どういう訳か、この建物に関わる何者かがピアノを正規の方法で購入し、この階のどこかに置いた。名義が連邦生徒会なのかシャーレなのか、はたまた先生なのかすら分からないが、用途不明の未知のピアノは、清澄アキラの好奇心を大いに刺激した。つまり彼女は慈愛の怪盗としてではなく、清澄アキラとして、そして個人的な興味を原動力にして、そのピアノについて調べようとしていた。

 

   〇

 

 鍵盤を鳴らす音を彼女の耳は聞き逃さなかった。Dの音をきっかけに、続けざまに数度、確かめるように音が鳴った。たどたどしい演奏だったが、グリーグの朝を弾いていた。

 息を殺し、足音もより一層潜めて彼女は音の出所を探った。ある部屋の前までたどり着いて、扉のガラス越しに部屋を覗き見ると、彼女はひどく驚いた。思わず声が漏れそうになり慌てて抑えた。

 ピアノを演奏していたのは、先生だった。彼は立ったままで鍵盤を撫でるように触り、そしていくつかを沈めて音を確かめていた。背を向けているせいで彼がどのような表情でピアノを見ているのかは分からない。ピアノを買ったのは彼なのだろうか?

 アキラがしばらく眺めていると、彼は椅子を引いて座り、ピアノに向き合った。幾ばくかの完璧な沈黙の後、彼はピアノを弾き始めた。『朝』の続きではない、アキラも知らない曲だった。

 彼が演奏し始めてすぐに、彼女は極めて自然に恋に落ちた。檸檬が木から落ちるように、一直線にストンと落ちた。地に落ちた檸檬は潰れ、果汁が血液のように飛び散り、アキラの胸中に鈍い痛みが訪れた。

 

   〇

 

 ストリートピアノのようだ、とアキラ彼の演奏を解釈した。不特定多数が街中で聴き、楽しむための大衆音楽的演奏だった。途中から聴くことや、途中で聴くのをやめてしまうことはそれほど気にしない。そもそも素通りされたって構わない。そこにはそういった気楽さと、ある種の解放感があり、聴く人の心を和らげる力があった。

 もしここが街中なら、この演奏はまた異なった聴こえ方になるのだろう、とアキラは思った。通行人の会話や、雑踏、車のクラクションも彼の音楽の一部に巻き込まれ、一度だけのスペシャル・アレンジへと姿を変える。

 もし彼女に音楽的知識と経験がなければ、恋とは別種の低音火傷のような胸の痛みは無かっただろう。しかしピアノの心得のある人間であれば、彼の音楽は絶望に変わるかもしれない。彼は努力で到達できる領域をとっくに超えた場所でピアノを弾いていた。あんな演奏は誰にでもできるものではない。先天的な素晴らしい音楽的素養と後天的に獲得した圧倒的な技術は、非才の人間の前では余りに高すぎる壁になり得る。そしてまず間違いないのは、彼はピアノを楽しんで弾いていた。芸術を楽しむというのがどれだけの才能か、往古来今ありとあらゆる芸術を学んできたアキラはよく知っていた。

 アキラはどうして、と唇を噛み締めた。どうしてこれほどの芸術が、この場だけで留まっているのか、と思うと、舌を噛みちぎってしまそうになった。

 激烈な感情の動きは、現実への認識を疎かにする。アキラはよろけて壁に手をついてしまった。大きな音を立てた訳ではなかったが、無音の廊下で鳴った音に彼が気づくには十分だった。

「誰かいるの?」と彼は振り返って言った。

 アキラは咄嗟に身を翻し壁に寄り彼から隠れた。

「……アキラ?」

 聞いて彼女は驚いた。猫の夜目のように目が見開いた。気づかれてしまった以上隠れる意味も無いと悟り、彼女は申し訳なさそうに姿を現した。

「……どうして、私だと?」とアキラは聞いた。

潜入先で彼女の存在を看破した者は数少ない。姿も見ずに彼女だと断定されたのは、これまで一度も無かった。

「足音がしな過ぎたから」

 

   〇

 

 意図的ではなかったにせよ盗み聴きしてしまったことについて彼女が謝罪すると、彼はあっさりと許した。そもそも怒っていないという風だった。

「ピアノ、お上手でした。あまりの素晴らしさに眩んでしまいました」

「……ありがとう」と彼は言った。「随分昔だけど、弾いてたんだ」

「このピアノは先生が?」

「いや、それが分からないんだ」と彼は言った。

「分からない?」

「私が買った訳じゃなくて、匿名で送られてきたんだ。危険物のチェックだけして、受け取ったんだけど……」

「匿名でピアノが」

 そのピアノは新品ではなく、むしろかなり古ぼけていた。年季が入っているのを感じるが、丁寧に手入れされてきたのだろう、機能面の不自由は無いように見受けられた。

「昔使ってたピアノと同じ型番なんだ」と彼は懐かしそうに言った。「やめちゃってから久しいから、忘れてた」

「先生は、どうしてピアノをやめたのですか?」アキラは気になっていたことを聞いた。

 あれほどの実力があれば、プロになる道もあったはずだ。彼がピアノをやめてしまったのは、音楽史の教科書のページを数枚減らすほどの大損失のように思えた。

「うーん」と彼は言った。「その話は、また今度しよう。もう遅いからまた今度おいで。駅まで送っていくよ」

「ですが……」

 アキラとしては彼の話以上に優先すべきことは無かったのだが、彼の時間を奪ってしまうことを考えて引き下がることにした。

「では、今日の所はお暇させて頂きます。先生に見つかってしまいましたしね」

「次は正門からおいで。これ、入館証」

 彼はポケットから白いカードを取り出すと、そのままアキラに手渡した。

「よろしいのですか? 私は……七囚人なのですよ?」

「七囚人であっても、私の大切な生徒であることに変わりはないよ」

 

   〇

 

 そのままの恰好では電車に乗れないだろうからと、彼は上着を持ってきて彼女に羽織らせた。夏と言えど夜風は涼しく、上着が遮って丁度良い気候だった。

「次来る時に返してくれればいいからね」

「次は、先生のお話を聞かせて頂けますか?」

「きっとね」と彼は言った。

 

   ◇

 

花おとし

第二章

 

   〇

 

 全てが始まったのは、その年の春の終りだった。アキラは覚束ない足取りで家まで帰ると、衣服も着たままでベッドに倒れ込んだ。呼吸は酷い熱病を患ったように熱く、心臓は今にも肋骨を飛び出してしまいそうなほど暴れていた。うつ伏せになり、部屋の電気もつけず、彼女はそのまま股の間に手を伸ばした。

 股は自然に濡れていて、押し付けるとショーツの湿り気が手に伝わった。衣服を汚してしまわないよう、残りかすのような理性を働かせて、下着を以外の全ての服を脱いだ。本能を抑えていた枷が全て無くなってしまうと、彼女は躊躇いもなく、物欲しそうに痙攣する自身の秘部を慰め始めた。

 自分は普通か少ない方で、決して強い方ではないだろう、と彼女は自分の性欲について認識していた。自慰についても、実際にした回数よりも小説で読んだ回数の方が多いかもしれない。性欲について頭を悩ませたことはほとんど無かったし、必要があれば事務的に慰める程度だった。

 大抵は一度絶頂を迎えれば倦怠感や満足感が綯交ぜになった眠気が訪れて、そのままそこで服を直すのが彼女のいつもだったのだが、今日に限っては一度の絶頂では満足できなかった。むしろ一度目の絶頂は呼び水のように、彼女の身体に次の快楽を求めさせた。そして彼女は本能のままに、不慣れな手つきで自分の膣をまさぐった。薄ピンク色のショーツはべっとりと愛液に濡れ、クロッチは濃い色へ変色している。辛うじて彼女の足に引っかかっているだけで、下着としての意味は一切果たしていない。

 彼女には潜在的なマゾヒズムがあった。服を脱ぐときに下着を残したのは、彼女がこうなった原因である先生に襲われる妄想に没頭するためであり、結果として脱がされてしまうのも彼女の欲求だった。

“……うん、もちろん。みんな大切な生徒だよ”

 およそ一時間前、彼に言われた言葉だ。

その言葉は劇薬のようだった。薬は酷い狭心を引き起こし、脳裏に焼き付き、そして副作用的に彼女に理不尽な性欲を植え付けた。そういったものに耐性の無い彼女にとって、それは致死の毒薬足り得た。結果として幸運にも死は免れたものの、彼女は心と身体の全てを彼に奪われてしまった。

 二度目の絶頂を迎えても、火照った身体が冷める気配はなかった、部屋には甘ったるいレモンケーキのような匂いが充満していて、二度目の絶頂の時に潮を吹いたせいでベッドも濡れてしまっていた。

 彼女は今この場面を彼に目撃されることについて妄想を膨らませた。偶然この家に迷い込んだ彼が扉を開け、この部屋の惨状を目撃してしまうことについて。現実的にはこの隠れ家的に存在するこの家を見つけることはほとんど不可能と言ってよく、もし仮に偶然見つけたとしても頑丈な鍵が施されているからそんなことはあり得ないのだが、好都合にもそういったことを考える理性は、ここまでの自慰でぐずぐずに溶けてしまっていた。

「アキラ」と妄想の中の彼は言った。驚きと落胆の混ざったような声色だった。

 彼女は彼に見つかったことに驚き、咄嗟に身体を隠そうとする。この部屋の状況を見れば、今までここで激しい自慰が繰り広げられていたことは火を見るより明らかだが、裸体を見られるのはやはり恥ずかしかった。彼女がブランケットで身体を隠すより先に、彼の手が華奢な彼女の腕を掴んだ。

「私の声を聴きながら慰めてたんだ?」彼は彼女の腕をどかし、彼女の秘部に目を向けた。

 月明かりに照らされて半透明の液体で濡れている彼女の秘部が彼の目にさらされる。彼女は何も言えず、こくりと小さく頷いた。

「アキラは悪い子だね」

 彼はそう言うと、真っ直ぐに手を伸ばし、彼女の膣に指先を挿れた。実際に彼女の膣に入ったのは彼女の指であり、妄想する彼のものよりも細く、骨ばっていない。

 そこから先は、ひたすらに彼に責め立てられる妄想が続いた。性行為に不慣れな彼女が、彼の手に平の上で何度も絶頂させられた。下品に潮を吹き、獣のような喘ぎ声を漏らした。最後まで彼の余裕が崩れることはなく、対照的に行為が終わった時、彼女は陸に打ち上げられた魚のようになっていた。

 

   〇

 

 どうやら昨晩は自慰に疲れたまま眠ってしまったようで、彼女は裸で目を覚ました。ベッドはしっとりと濡れていて、部屋は賞味期限切れのケーキのような匂いで充満していた。それから予定よりも五日早く生理が訪れた。生物的な話をするのであれば、身体は彼の番になることを求めていて、その準備を急いで始めていることになる。

 窓を開けて換気し、タンスから出した服を着た。それから酷い有様になってしまった寝具を取り払って洗濯機にかける。乱れたものを元通りに片付け終えると、もうすぐ十時になろうとしている所だった。

 

   〇

 

 簡単に朝食を済ませてから、彼女は着替えて街へ繰り出した。一晩経って少しは冷えた頭で考えると、彼女は初恋の相手についてほとんど何も知らないことに気が付いた。《シャーレの先生》にまつわる噂は数えきれないが、どれも所詮は噂話に過ぎず、確かな情報はほとんどない。彼は一体何者なのだろうか?

 図書館で彼について調べてみたが、それらしい情報は掴めなかった。新聞のバックナンバーにはシャーレの活躍が報道されているものがいくつもあるものの、それらは事件の経緯とシャーレの介入について語るばかりで、彼女の求めているような情報は載っていない。

 情報誌は定期的に彼にまつわるゴシップや噂を取り上げて真相に迫ったようなフリをしていたが、要約すれば事実か無実か分からないということだった。

彼は何者なのだ? 彼女の疑問は強まるばかりだった。これだけ矢面に立っているのに、彼の素顔が見えてこない。そして彼のミステリアスは、彼女の好奇心を大いに刺激した。

 

   〇

 

 諦めて家へ戻ろうとしていた途中で、偶然運輸会社の倉庫の側を通りかかった。シャッターが開きっぱなしになっていて、大量のダンボールとそれを運ぶための道具が乱雑に置かれていた。彼女の目を引いたのは、今まさにトラックに積み込まれようとしているピアノだった。遠巻きに見て、かなり古い品だと分かった。

「へぇ、これ、シャーレに運ぶんですか」とドライバーの男が言った。

 シャーレ? 聞いた途端、彼女は目の色を変えてフェンスを飛び越えた。鮮やかな身のこなしはほとんど無音で倉庫に侵入した。無数の雑音に溢れた街中においては、全くの無音だったと言ってもいい。

「ああ、連邦生徒会の考えることはよく分からん」おそらく荷物の管理をしている男がそう答えた。

 彼女は倉庫の物陰に身を隠し、その一部始終を見ていた。ピアノはトラックの中で脚を固定され、いくつかの緩衝材に包まれるとトラックごと倉庫から出て行った。見送り終えると、残った男はまた別の荷物の仕分けに向かった。

 シャーレにピアノを運び込む? 彼女は彼のことがより分からなくなった。彼や彼の活動にピアノが必要になるとは思えなかったし、仮に必要だとしても、おそらく中古の、とりたて有名でもない型番よりも安価で質のいい新品を買えばいいように思えた。

 彼女はあのピアノについて調べなければならなかった。そうしなければ彼女の好奇心は向かう場所を失って、空中で破裂してしまうかもしれなかった。好きな人を窓際の席から目で追ってしまうように、極めて自然な現象として、彼女は彼とそのピアノに纏わる情報を求めていた。

 

   ◇

 

檸檬再爆発

第三章

 

   〇

 

 家に戻り、心を落ち着けるためにレコードをかけた。ガーナーのミスティを聴きながら、丁寧に紅茶の茶葉を摘まみ、数分かけて紅茶を淹れた。

 彼女の脳はいくらか混乱していたが、事態の一つ一つを取り出してみて見ればそれほど複雑な状況ではない。どういう訳かシャーレは古びたあのピアノを必要とし、そしてそのシャーレは偶然にも昨晩彼女が恋に落ちた男の組織だったというだけだ。

 そして彼女のやるべきこともまたシンプルだった。あのピアノについて調べる。そのためにはシャーレに潜入する必要がある。

 もう一度彼に会えると思うと胸が躍った。会えなくてもいい。遠巻きに姿を見ることを想像するだけでも、腹の下に生温い蜂蜜のような性欲が溶けだしていくのが分かった。

 

   〇

 

 シャーレの部室が入ったビルは、一階から七階までが連邦生徒会の役所となっている。営業は全て午前九時から午後五時までだ。各階層を繋ぐのは大きなエレベーターが二台と、建物の西に設置された非常階段の二つ。エレベーターは使えないから、階段で移動することを前提に計画を練る。行政サービスを提供する施設にピアノを運び込む意味もないだろうから、ピアノはその上のシャーレ部室階のどこかに搬入されている。

 シャーレの部室内がどうなっているのかについては、連邦生徒会の公式ホームページには載っていなかった。それなりの手法を使えば調べられないことはないだろうが、彼のプライベートを勝手に覗き見るように思えて気が進まない。今回は慈愛の怪盗として盗みを働く訳でもないから、事前情報はあまり無くても問題は無いだろうと自分を納得させ、彼女は夜が訪れるのを待つことにした。

 

   〇

 

 ティーカップを濯ぎ、レコードから針を上げる。夜が来たのだ。彼女は一直線にシャーレに向かい、そしてそこで彼の音楽を聴いた。二度目の恋は予定調和的に訪れた。

 

   〇

 

 終電も近い時間の電車は空いていて、彼女は彼から借りた上着を深く羽織って席の一つにこぢんまりと座っていた。車窓から見えるD.U.の広告塔がネオンライトのようにぼんやりと明るく光っている。地に足が着いていないような感覚だった。電車のアナウンスが知らせる駅の名前や乗り換えの情報は身体をすり抜けて、お陰で彼女は駅を一つ乗り過ごすことになった。

 次の電車まで二十分以上空いてしまうから、彼女は仕方なく線路沿いの道を歩いて帰った。車が横切るエンジン音、遮断機が降りる音、夜風が街路樹を揺らす音、今の彼女にはそれら全てが少しずつずれて聴こえていた。

 人は恋に落ちると──相手が人であるにせよ、芸術であるにせよ──身体の機能が上手く動かせなくなってしまう。自分の身体を何者かが分解して、別の人間がそれをもう一度組み立てたような具合だ。そしてそういった身体の不具合があったとしても、違和感を抱くのは身体ではなく、身体を通じて認識する世界となる。コントラストが激しく、全ての音が反響している。風すら触れてしまうし、路傍の石の匂いまでする。しかし実際にはそんなことは微塵もない。彼女はまたしても身体の制御権を奪われてしまった。幸か不幸か、二回とも先生に。 

青年期

 

   〇

 

 私の次に弾いた少女が、そのピアノコンクールで優勝した。

 彼女は親に無理矢理ピアノを習わされていたけど、実力は確かなものだった。

 私はピアノを弾くのが好きだったけど、審査員は私の自由な演奏は嫌いだったようで微妙な点数を付けた。

 音楽のきっかけは何だっただろう。でも終わりはきっと、あの時だった。

 

   ◇

 

ブレードランナ―

第四章

 

   〇

 

 彼女の家の二階には上等なピアノがあって、彼が弾いていたものよりも音の弾みは数段と良かった。ピアノに限った話ではないが、値段を上げれば上げるほど、音は美しく素直で弾きやすくなる。勿論それは、一音一音を取り出して見れば、という話でしかないが。

 彼女は何度も、覚えている限り彼の弾いていたメロディを演奏した。白紙の楽譜にメモ書きのように旋律を書き出し、記憶との差を埋めるために繰り返し弾いた。

 がさつな音が部屋中に鳴り響き、彼女は手を止めた。彼の演奏をこれっぽっちも再現できない自分に絶望し、両の手で殴るように鍵盤を叩いた。

 何もかもが違った。彼が持っていた木漏れ日のような温かさや、潮風のような気楽さはどこにもなく、陰鬱な雨の窓のような演奏だけが手元にはあった。彼女の音楽は、彼のレプリカでしかない。メロディを完璧に覚えていないことを加味しても、彼との音楽的素養の差は歴然だった。

 彼女が絶望したのは、決して自分にピアノの才が無かったことについてではない。己の指で試してみてようやくその片鱗を見ることができるほどの彼の異常なほどの才能が、今は誰からの脚光も浴びることもなく、ただ夜の部屋の中で完結してしまっていることについてだった。完璧な絶望と言っても良かった。

 

   〇

 

 翌日の昼下がりに、彼女は街の楽器屋をいくつか巡って八冊の楽譜集を買った。

 彼の弾いていた曲について載っていそうなものを選んではみたものの、どれもハズレだった。そもそもとしてその楽譜集に収録されていたものの中で、彼女が知らない曲は一曲もなかった。近代までのクラシックで有名なものはほとんど全て知っているつもりだったし、実際に彼女にはかなりの音楽知識の蓄えがあった。その彼女が知らないとなると、最も高い可能性は、あの曲は彼の創作である、という可能性だ。

 まさか、と彼女は思った。あの美しい音符の並びは彼の美しい心の中から生み出されているのだろうか。

それ自体に違和感を抱くことはない。むしろ美しい心から美しいメロディが生まれることは道理に即しているように思えた。

しかし、もし仮にそうであれば、つまり、彼が偉大な音楽家のそれと遜色ない作曲のセンスを持ち合わせているとすれば、彼が音楽をやめたことは音楽史の教科書のページを数枚減らす程度の損失では留まらない。音楽と言う芸術の、数年分の後退である。

 

   〇

 

 予告状でない手紙を書くのは何年振りだっただろうか。暗号にして記す必要も、指紋を始めとしたあらゆる情報を付随させないよう気を遣う必要もない。しかし、彼に手紙を書くのは混迷を極めた。長い間、ある意味ではずっと独りぼっちだった彼女は他者とのコミュニケーションの取り方が分からなくなっていたのだ。

お陰で明後日の夜に話がしたい、と書くだけで一時間もペンを握ることになってしまった。

 

   ◇

 

ラベンダー

第五章

 

   〇

 

「いらっしゃい、アキラ」

 彼は窓際に咲いたラベンダーの鉢植えに霧吹きを掛けていた。彼女の訪れを察知すると、その手を止めた。

「今日こそお話を聞かせて頂けますか?」

「ゆっくり話そう?」と彼は言った。

 何せ私は明日も明後日も休みで、夜は更けてもいないのだからね、と付け加えた。

 紅茶で良い? と彼に尋ねられ、彼女ははいと小さく頷いた。彼はゆっくりと食器棚からカップを取り出し、そして湯を沸かし、彼女の分の紅茶と自分用のコーヒーを淹れた。一連の動作はまるで流麗なダンスを踊っているように見えた。ソーサーが机に置かれた音で一度幕を閉じ、彼が一口啜る時間を幕間として、次の舞台が始まった。彼の口から語られたのは、彼の青年期の記憶だった。

 

   〇

 

「気楽な音楽」というのが彼の演奏に対する審査員の評価だった。それからというもの、ピアノを弾く度に審査員の言葉が後ろ髪を引っ張るように聞こえてくる気がした。いつしか、彼にとって音楽は大して面白くないものに変わってしまって、それに伴ってピアノへの興味も消えていった。幸い音楽をやめても、有人関係やその他の色々は良好だったから何か日常に不都合が生じたということもなかった。そのコンクールから一年が経った頃には、家の蔵にピアノがあることなんてすっかり気にも留めなくなっていた。

 だから彼の元に匿名でピアノを送りたい、と手紙が来た時にはとても驚いた。送られてきたピアノの型番は昔弾いていたものと同じだったし、いくつかの古傷もそういえばあった気がする。深い懐かしさと小さな胸の痛みがあった。

 もうピアノを弾くことなんてない、と彼は思っていた。しかし数年振りに鍵盤を叩いた時の胸に染みこんでくるような音色を聴くと、例え不格好であっても、もう一度弾かない訳にはいかなかった。

 

   〇

 

「あの曲、先生のオリジナルですか?」

「いや」と彼は顎に人差し指を乗せながら言った。「誰かに教えて貰ったんだ。誰だったか、もう思い出せないし、完璧には弾けないけど」

「私は、貴方が音楽をやめてしまったことがとても悲しいのです。もう一度鍵盤に指を乗せる気はありませんか?」

 彼は一度カップを置き、それから彼女の目を真っ直ぐに見て答えた。

「自分の作品を認められたい、自分の作品を愛したい、でも全部今更に思えてしまう」彼の声色にはある種の諦観が感じられた。

「他の誰も認めなくても」と彼女は言った。「私は貴方のピアノを愛しています。あの演奏を聴いてから、上手く身体が動かせないのです。どうか一度だけ、あの曲を終わりまで弾いて頂けませんか」

 彼はうーん、と悩んだ顔をしていた。 

朱夏期

 

   〇

 

 ひょんなことから先生になった。

 先生であり続けるというのは、正しくあり続けるのと同じだ。

 そして正しくあり続けるのは、メロディが綺麗であり続けるのと同じくらい難しい。

 私自身何が正しいのか分からない癖に、正しくあろうとずっと藻掻いている。

 

   ◇

 

創作

第六章

 

   〇

 

「例えばアキラは、私がピアノを弾くために必要なら、そのマントを渡してくれる?」

「……? ええ、必要でしたら、勿論」彼女は若干戸惑いながらもそう答えた。

「マントだけじゃない。服も君も全て欲しいって言っても?」

「先生がそう言うのでしたら、はい」彼女は頬を染めながら言った。

「つまりね、私は一旦自由になりたんだ。一旦全部忘れないと、あの頃どうやってピアノを弾いていたのか思い出せない気がする」

「そのために必要であれば、私は喜んで全てを差し出します」

「君のそのルビーみたいな瞳ごと全部欲しい。初めて私の音楽を認めてくれた。君が好きだ」

 彼女は彼に抱き寄せられて、そのまま身体を預けた。ふわりと持ち上げられると、彼にお姫様抱っこされて奥の部屋に運ばれていく。休憩室、と書かれたプレートを提げたその扉は、二人が入るとガチャンと音を立てて閉まった。

 

   〇

 

 その夜の内に、今度こそ彼女は全てを奪われてしまった。処女から髪の毛一本に至るまで、何もかも。暴力的な快楽が流し込まれるだけの行為が終わった時、彼女はベッドの上でのびてしまっていた。怪盗業をする上で体力をつけたつもりになっていたが、彼の執拗な責めに付き合ったせいで一時間も保たずに尽きてしまった。体力が尽きて抵抗できなくなってからは、彼にされるがままにされ、身体の隅々まで支配されるような感覚が実に二時間以上続いた。

 

   〇

 

 翌朝、窓から差し込む朝日に当てられて彼女は目を覚ました。裸のままベッドに寝かされていて、先に起きた彼が掛けてくれたのであろうブランケットを二枚羽織っていた。

 コンコンと軽いノックの音がして、扉の向こうから彼の声がした。

「起きた? 着替えは私の着ていないやつと、下着は……流石に女性物はないから勝手に洗濯したのを置いてあるから。嫌だったらごめんね」

「……いえ」と彼女はその扉の方を向いて言った。「わざわざありがとうございます」

 ベッドサイドのチェストの上に、彼の服と昨日履いていた下着が丁寧に畳まれて置いてあった。汚れた下着を彼にまじまじと見られ、挙句洗濯されてしまった事実について考えると茹で上がるような恥ずかしさがあったが、なるべく無視してそれを履いた。彼のズボンとシャツはオーバーサイズで、ベルトで結構きつくウエストを締め、所々で布を結ぶことで何とか地面を引きずることなく着こなすことができた。そういうファッションと言えば納得できるかもしれない程度には。

 

   〇

 

 しばらく躊躇ってからドアを開けると、彼は昨日訪れた時のようにラベンダーに水をやっていた。まだ朝日は昇りかけで、シャーレから見下ろすD.U.も車の往来はそれほど多くなかった。

「おはよう」と彼は言った。

「おはようございます」

 彼が余りにも変わらない調子で言うものだから、彼女は段々と昨日の夜のことに確信が持てなくなっていった。

「朝食を作る気分じゃないから、しばらくしたら近くのカフェにモーニングを食べに行こうと思うんだ」と彼は言った。「一緒に行く?」

「はい、是非」と彼女はほとんど無意識に答えた。

「うん。ああ、でも。その前にシャワーを浴びた方がいいよね」

 そういえば身体は汗をかいたまま眠ったときのようにベタベタとしていて、髪も乱れている。

昨日は激しかったから、という彼の言葉で彼女は昨晩のことを思い出して目を逸らした。足が震え、腰が抜けてしまいそうな恥ずかしさだった。

 

   〇

 

 シャワーを浴びて出ると、洗面所には新しい上着が置かれていた。流石に下着まで新しくとはいかなかったようだが、彼の気遣いに触れると、温かいスープを飲んだときのような思いになる。他人とのまともな──どこからがまともで、どこからそうでないのか彼女にはよく分からなかったが──接触は、彼女の氷のような孤独を少しずつ溶かしていった。

 

   〇

 

 髪を乾かしてから彼と共に街へ繰り出した。恋に落ちた相手の隣で見る世界は、いつもより色めいて見えた。小説や映画の中の出来事だった恋や愛は、実態となって彼女の身に降りかかっている。度数の合わないメガネをかけたような感じだ、と彼女は思った。

 彼はトーストとスクランブルエッグのセットにコーヒーを付けて、彼女はコーヒーを紅茶に変えたものを注文した。

「昨日の話の続きなんだけど」と彼は切り出した。

「はい」

「あの曲、メロディは覚えてるんだ。章ごとに分ければまだ弾ける。でも通してとなると結構練習しないといけないと思う」

「弾いて下さるんですか?」

「練習に付き合ってくれる?」

 

   ◇

 

模倣犯

第七章

 

   〇

 

 シャーレに戻る途中で楽器屋に寄り、白紙の楽譜を買った。彼はピアノを弾きながらその楽譜に曲の旋律を書き写していった。彼の字はお世辞にも綺麗とは言えないものだったが、そういう部分的な欠点すら彼の魅力を引き立たせているように彼女には映った。

「気になっていたのですが、曲のタイトルは何と言うのですか?」

「なんだっけ」と彼は一度ペンを上げて、斜め上を眺めながら言った。「忘れちゃった」

 一時間もしない内に楽譜は出来上がった。通しで見てみても、やはりそれ程難しい曲ではない。テンポの揺れも少なく、音の飛びも緩やかだ。しかし、と彼女は思う。真似て弾いてみれば分かる。この曲を余すことなく表現し切ることができるのは、プロのピアニストにも中々いない。実際に、彼女がこの譜面通りに弾いたとして、それが魅力的な演奏にはならないという自覚があった。

 

   〇

 

 電話がかかってきて、彼は一旦離席した。その間に彼女が試しに弾いてみると、ピアノは彼女が考えていたよりもずっと素直に音を鳴らした。古くはあるが、きっと前の持ち主は相当念入りに手入れをしていたのだろう。

 彼の座っていた椅子に座り、彼の音楽を模倣する。しかし真似し切るには技量が足りず、思っていた通り中途半端な音楽になってしまった。

 ガコン、という音が直支柱の辺りからした。何かの鍵が外れるような音だ。ピアノの下に潜って見ると、支柱の一部が箱になって飛び出していた。箱?

 明かにピアノには不必要な部品だ。彼女が手を触れるとそれは簡単に抜け、10センチの立方体の木の箱が取り出せた。箱が収まっていた部分は暗くてよく見えない。ポケット懐中電灯を取り出して照らすと、どうやら箱は奇妙な装置のようなもので固定されていたらしい事が分かった。機械的なものではなく、からくりのような仕組みだ。

 箱は随分と埃っぽく、払っている内にむせてしまった。それから丁寧に蓋を開けた。

「手紙?」

 その木箱の中に入っていたのは、洋封筒にフラワーレースのシーリングスタンプで封のされた古い手紙だった。裏を返して見て、彼女は目を見開いた。宛先に書かれていたのは彼の名前だった。

 

   〇

 

 丁度そこで彼が帰ってきて、彼女は少し興奮気味に一部始終を説明した。

「ピアノの中に手紙が」と彼も驚いた顔をしていた。

「はい。あの曲を最後まで弾いたら作動するようなからくりが仕組まれているのかもしれません」

「面白いね」

彼は彼女から箱と手紙を受け取ると、ピアノの下に潜り込んでそれを嵌め込んだ。再度ガコンと音を立てると、箱はそこでもう一度固定された。

「あの手紙の宛名は私だったからね。私が弾いて読まないと、差出人に失礼だ」

 彼は顎を引いて笑った。

 

   ◇

 

夏の匂い

第八章

 

   〇

 

 彼女がコーヒーと紅茶を淹れて彼に少し休憩しようと提案したことで、ようやく彼はピアノから手を離した。九時頃から今に至るまで、実に三時間も弾き続けていた。

「そろそろお昼を食べないとね」

「どこかへ行きますか?」

「そうだね、散歩がてら」

 カップを洗って、少し休憩して彼と共に散歩に出かけた。春葉原の坂を上り、神社で野良猫を追いかけ、途中で見かけた店に入って昼食をとることにした。小説にすればつまらない時間かもしれないが、日記にすれば随分と面白い時間だった。

 洋食の料理店で彼はオムライスを食べながら言った。

「実を言えば、今すぐ帰ってピアノが弾きたい。こんな気分は十年振りだ」

 彼女は嬉しくなって微笑んだ。

 

   〇

 

 完璧になるまで一人で弾きたいと言って、彼女はピアノが置いてある部屋から追い出されてしまった。完璧にしてから披露したいと言われれば、彼女に拒否権は無かった。

 彼女は三時間ほどシャーレの執務室で過ごすことになった。ヘミングウェイの老人と海を読みながら、時々椅子を傾けて、扉の向こうから途切れ途切れに聴こえるピアノの音色を感じる。

 完成したから来て欲しいと彼に呼び出されたのは、彼女が丁度読み終えた頃だった。夏至に近かったが空はもうすっかり暗くなっていた。

 

   〇

 

 夏の田舎の景色のようだった。縁側に座って風鈴の音を聴くような、穏やかで暑い夏の昼間が、その曲を聴いて彼女がイメージした景色だった。蝉が鳴いていて、庭でスイカが冷やされている。夏木立が風に揺れている。

 景色に対して、それ程詳細に感想を抱く必要というのは、そもそもとしてない。忙しい日々の中では忘れてしまうものだし、人生にとって必要不可欠な一日でもないような、大したことのないもの。

 その景色も彼の音楽も、必要不可欠でないからこそ、彼女はそれが猛烈に欲しかった。心の底にしまって、ふとした瞬間に思い出したかった。音楽とは、芸術とはそういうものなのだ。彼女はそこに創作の根底を見た気がした。

 

   〇

 

 最後の一音を伸ばしきってから、ピアノはもう一度ガコンと音を立てた。今度はそのまま箱を床に落とした。一度引き抜いた影響で緩んでいたのだろう。

 彼は箱を手に取ると、中の手紙を取り出し、椅子に座って読み始めた。彼女は彼が読み終えるまで、じっとその姿を見ていた。 

幼年期

 

   〇

 

 私にピアノの弾き方を教えてくれた人がいた。

 私よりずっと上手くて、私よりずっと多くのことを知っていた。

 夏の終わりに、私に楽譜を渡したのを最後にその人はいなくなってしまった。

 初めてきらきら星を弾けた時、その人が凄く褒めてくれた。音楽のきっかけはそれだった。

 

   ◇

 

月明かり

第九章

 

   〇

 

 手紙には随分と昔のことが書いてあった。差出人の名前は無かったが何となく分かった。私にピアノの弾き方を教えてくれた人だ、と彼が言った。

「では、そのピアノを贈ったのも?」

「おそらくは」と彼は釈然としないといった表情で言った。

 音楽を続けていますか、それとも、全く別のことをしていますか。どちらでも構いません。何か熱中できることを見つけられているならば、それ以上に幸せなことなんてありません。手紙にはそう綴られている。

「認めてくれる人はいたんだ。忘れちゃってただけでね」

「私やその方以外にも、きっと沢山います。コンクールを聴いていた方の中にもきっと」

「そうだといいね」と彼は笑った。

 

   ◇

 

心亡れ

第十章

 

   〇

 

「ピアノを続けるつもりはないよ」彼はコーヒーの入ったカップに角砂糖を入れながら言った。「たまには弾くかもしれないけど」

「残念です」と彼女は言った。

「先生になった時、本当は逃げてるんじゃないかって自分を疑ってたんだ。もしピアノを続けていたら、先生にはなっていなかったかもしれないって」

 彼はコーヒーに映る自分を見ていた。

「でも、例えあのコンクールがなくても、私はどこかで音楽をやめていたと思う。どこかで絶対、音楽では心が満たしきれないことに気づくんだ」

「先生、という仕事なら満たされると?」

「そうとも言えるし、そうじゃないともいえる。多分満たされないから夢中になれるんだ。難しくて、面倒な仕事だけど、これが天職だと思う」

「先生がそう仰るなら、きっとそうなのでしょう」彼女は少し残念そうに紅茶に映る自分を見た。

「それにね」と彼は言った。「先生にならなかったら、アキラにも出会えなかっただろうから」


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