※この作品はR-18です。

僕を止めて下さい   作:架空線

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32.盲目の冬

 目覚ましが鳴った。仕事の時間だ。屍体のように眠ったあと、肉体を置き去りにして魂だけ目覚めてしまったかのようなハンパない重さが全身に満ちていた。この完全とも言える重さが肉体とは実は死なのだということを生きながら確信できる刹那の時だ。しばしば訪れる、心臓の音さえ聴こえない気がするこの状態は僕にとっての幻の故郷とも言える。こんな朝は特に。

 屍体の重さの中で昨日の清水センセとの会話を反芻する。この偽りの屍体から魂の根を引き抜いて、いずれ本物に置換されることを約束してくれたその言葉を。

 

 融けそうだ。このまま融けて腐り果ててしまいたい。

 

 愛とは狂気と、それによる自我の消失なのだろうか。僕は清水センセの気違いじみた僕への献身を想い、胸がいっぱいになるのを感じた。僕の胸中は何でいっぱいになっているのだろう? 期待か? 罪悪感か? 感謝か? またそのすべてか?

 

 そういえば…彼は今、まだ僕の部屋にいるのか?

 

 重い重い首を倒し、ようやく薄目を開けて部屋を見渡した。冬の朝はまだ暗く、部屋の中もまだ暗くて誰がどこに居るのかよく見えてこない。メガネも無いので更になにもわからなかった。電気を消した覚えがないのに気づいた。きっと清水センセが消したのだろう。ベッドの隣には誰の気配もない。昨日の佐伯陸に引き続き、清水センセもあっさりと帰ったのかも知れない。30分ほど自分の重みと格闘した後、やっとの思いで僕は身体を起こしてベッドの縁に腰掛けることが出来た。かといって頭を起こすまでにはいかない。そのままの姿勢で更に20分。渾身の力を振り絞った指でケータイを取る。

 

「おはようございます。岡本です。すみません、体調が悪くて、はい、30分ほど遅れます…はい…はい…すみません」

 

 手探りでメガネのツルを掴んだ。電話を切った後の部屋には物音も気配もない。メガネを掛けて少し目が慣れた薄暗い部屋を眺めた。清水センセは仕事に行ったのだろう。僕よりずっとタフだ。僕の意識が無くなってすぐなのか、それとも明け方に出て行ったのかはわからないが、今此処に居ないことに安心した。泣きながら僕の隣で寝ていられたとしたらただただ落胆しただろう。昨日もそうだった。パニクって、すがりついて、子供のように泣いて、僕に怯えて。そんな人間に誰が期待するだろう。“どうすればいいのかわかんない”だって? 今更なぜそんなこと言えるのか逆に聞きたかった。

 狂人役の舞台役者みたいな清水センセしか見たことがなかった僕の頬に最後に触れた指。あれが初めて見る清水センセの本来の自然な仕草だった。彼がようやく僕が「あなたをこの上なく必要としている」ということに気がついてくれたからだろう。僕こそが「どうしたらいい?」と言いたかったのだ。ずっと。

 だが、本当は僕のほうがどうかしてる、と昨日の自分の告白が再び脳裏を横切った。嘘をついて拉致した挙句、最低最悪の上映会に僕を縛り付け、絶望と吐き気の淵に叩き込んだ狂人をここまで必要とするなんて。己の、死への絶対的とも言える飢えの深さを思い知る気がした。死への飢餓。なんて矛盾した観念! 僕こそが心底イカれてる。その僕だからこそ清水センセの嵐のような狂気に呼応した。いや、すでに渇望している。違う、それを佳彦に見捨てられて以来ずっと渇望してきたのだ。その結果、どんな人間とも関わってはいけないという僕の禁忌は彼は彼の存在の前にもろくも崩れ去った。僕に意識を向けるすべての人を追い払ってきた僕が、奇跡的に彼だけは巻き込んでもいいと思っているらしいことがそれを証明している。そうだ。なぜなら彼だけが、その禁忌もろともこの僕をこの世から最速で葬ってくれるのだから。死神の力が発動する前に死神の依代である僕をこの世から消し去る。彼は僕にとって英雄であり救世主であり殺人者である。隣人への愛で罪を犯してくださるのだ。まるで律法に背いて安息日に病人を癒やしたキリストみたいに。そして僕をこの世から消すことで世界をも救済する。なぜなら僕という死神に関わってきた人たち、そして今後関わるであろう人たちの命を救ってくれるのだから。

 

 だから、それは罪じゃない。罪じゃないんだ。僕はいつの間にか膝の上で拳を握っていた。もし清水センセが僕のために法の番人に捕まるようなことが有るとするなら。そう思うと怖気が走った。僕のたった一つの望みを叶えてくれるあの人を裁判官などに裁かせるわけにはいかないのだ。絶対に。佳彦だって、もしこれが犯罪にならなければ僕を殺すことに躊躇はなかったろう。僕だけを殺したいならば、だが。

 あの時の、佳彦と僕の、苦悶と悲壮とも言える決意が心によみがえる。殺したい佳彦、死にたい僕。もう少しで開くはずの死の扉の鍵と鍵穴。扉を開く殆どすべての条件がそこに整っていて、僕らを静かに待っていた。ああ、だがそれは叶わなかった。

 法が僕と彼の間に立ちはだかった。佳彦は恐怖と僕への怒りと後悔に震えながらその扉に背を向けた。僕は佳彦を唆し、その行為がどれだけ罪深いかをその直後に悟った。僕らは深い悲しみと絶望の中でその扉を拒絶し、そしてそれはどこかへ隠れもう見ることはなかった、そう、あの狂った警察医が現れるまで。失くしたはずの鍵と扉。サバトみたいな凄惨な儀式の後、それは突如として現れたのだ、僕の目の前に。

 

 悲鳴のような思考と記憶の中で、僕は今が朝であることを忘れていた。いつの間にか部屋の中がぼんやりとした朝の光で視界を取り戻していた。それに不意に気づいた僕は、自然に現実的な思考に立ち返っていた。それは、僕がただ無策に殺されるだけではダメなのだ、ということ。清水センセが罪に問われないよう、警察にも誰にも疑われないように細心の注意を払い、計画的に僕が〈自然に〉いなくならなければならないこと。僕がどこかで誰にも知られずひっそりと生きているという前提で、誰にも気づかれないようにひっそりと死に、清水センセは表面上、僕の消息になにも関わりなく生き永らえる。そのような類の計画のもと僕は殺されなければならない。だがもし、そのような対策をしたとしても万が一清水先生が警察に捕まって罪に問われたときには、これは岡本裕本人の意志であり、殺人ではなく自殺幇助であるという確実な証拠を残さなければならない。清水センセの罪を軽くするために。

 これは彼に早急に確認しなければならないことだった。もし清水センセがシリアルキラーのサイコパスだったら、日常に紛れ、誰も気づかないような殺害方法を考えて罪の意識もなく実行するのだろうが…どうも彼の場合、無策になにかを引き起こしている風なのは否めない。事実、勝算もなく僕を拉致したり、激情にかられて僕に告白したり、パニクって僕の部屋の前でオロオロ待っていたりと、到底それはサイコパスとは思えない。よしんばこれらの行動がすべて清水センセによって計算された何かの謀略であるなら、僕はまだそれを見抜けていないし、清水センセは稀代の謀略家で名優と言えるであろう。

 なにか策があるのだろうか? 世間を紛糾させずに僕をすんなりとあの世に送りだしてくれるなにかの策が?

 

 現実的な思考が立ち上がり動き出すと同時に身体がようやく目覚めたようだった。洗面所に移動し歯を磨き服を着替える。その間もずっと考えていた。僕がごく自然にこの世から消える算段についてを。

 

 仕事場に着くと、未解決で放置されていたかのようだったあの事件のことで持ちきりだった。先日の、車中の凍死自殺屍体がやってきて以来、すっかり忘れていた…忘れたかったので。

 

「岡本くん! 岡本くん!」

 

 朝からハイテンションの鈴木さんの声が非現実に片足突っ込んでる僕の側頭部にワンワン響いてうるさい。微熱が沸いてくる。

 

「久殿山の身元不明遺体、DNA鑑定送れ、だって!」

 

 秋の山林の老女の腐乱屍体の身元が分かりそうだと。

 いまさらここで、か。このタイミングであの人が。気が遠くなりそうだった。虚無と優しさのサンタ・ムエルタ。鈴木さんの声が次第に遠くなっていった。

 

 ハイな鈴木さんの語る経緯はこうだった。

 ここの県の比較的大きめの市町村、といっても8万人くらいの中堅の自治体で、僕の棲むこの中核市からはやや遠い方に入るのだが、そこの町外れの小さな一軒屋に親子が暮らしていた。派遣の清掃会社や警備員など、1年か2年ごとに息子は職場を転々とし、父親が年金ぐらしになってしばらくすると、失業を切っ掛けにニートになっていた。父親は70代で大腸がんで死亡。家族が二人になってもニートのままの息子に食事を作り、洗濯をし、買い物に行き、小遣いをやる母親に、息子はしばしば暴力を振るった。

 今年の秋頃に異臭がすると近所からクレームが来た。そして異臭はすぐになくなった。週に2〜3回は買い物に行く母親の姿が最近見えないと地域の民生委員が訪ねてきた時は、息子が出てきて、母は最近叔母の家に行っていて、しばらく逗留するみたいなので居ない、と答えた。

(あれ? 篠原さんて妹さんいたっけね?)

(最近息子がたまにスーパーに買い物に来てるよね)

 そんな話がご近所の噂に持ち上がるようになった初冬のころ、訪問した民生委員も何度も門前払いを食らっているうちに、タダ事ではないかもしれないという認識に変わり、市の福祉事務所に通報する。篠原さんのお宅に何回行っても奥さんに会えない、と。

 福祉事務所が調査訪問すると、息子は「泊まりでいない」「叔母の連絡先は知らない」の一点張りでお話しにならない。ここで近年出来た『高齢者虐待防止法』という法律が発動する。『高齢者の福祉に業務上又は職務上関係のある者は、高齢者虐待を発見しやすい立場にあることを自覚し、高齢者虐待の早期発見に努めなければならない。また、国及び地方公共団体が講ずる高齢者虐待の防止のための啓発活動及び高齢者虐待を受けた高齢者の保護のための施策に協力するよう努める必要がある(第5条)』わけで、ここの民生委員は適切な対処をした、ということになる。

 市が警察の立ち会いのもと、立ち入り調査に踏み切るも安否確認が出来ない。なにしろ居ないのだ。そして立ち入り調査の後に、本人の生存確認が取れない年金が停止。警察の調べで篠原さんとこにはやはり妹はいない、という結論。息子は黙秘し続けて口を開く様子もない。さあ、奥さんはどこにいるのか?

 

「ということでさぁ、県内の身元不明者の捜索ということになったんだよね。そんで、県内の身元不明遺体のDNA鑑定の突き合わせも始まったというわけ。でもさぁ、この件、うちの遺体ってかなり当てはまってない?」

 

 その時点で僕の脳裏には、あの時の彼女の囁くような声がいっぱいに反響していた。

 

―しっかりやんなさい

 

 ああ、これは息子に言ってたのか。自分がこの世からいなくなれば、彼は自立してくれるだろう…と。だが、そんな母親の意図に反して、息子は年金が停められないように母親の死を世間から隠そうとした。腐敗が進んでしまったために近所で異臭騒ぎが起き、ついに家に隠しておけなくなり、あの山へ遺棄することを思い立った。

 

「マジ、可能性高いよね」

「資料は?」

「朝イチで教授が送ったよ」

「良かった…」

 

 思わず言葉に出た。いまあの遺体に触れたらどうなるかと思うと身震いがする。

 

「いや、ホント。歯科照合も整形外科もまったく反応なかったしね。迷宮入りになるかって思ってたよ」

 

 僕の“良かった”は鈴木さんによって通常の解釈に納まった。

 

「まだ可能性、でしょ?」

「いやいや、ほぼほぼ正解なんじゃない?」

「だといいですね」

「だよねぇ。そうだといいなぁ」

 

 朝から職場で、解剖もないのに希死願望がフツフツと湧き上がってくる。それをどうにかするすべがない。席を立って、静かにゆっくりとトイレに逃げ込んだ。個室のドアをそっと閉める。落下するように便座に座り込んだ。丈夫なロープさえあれば。ここで僕が下がれるのに! でも死ねない! それでは死ねないんだ。背中を丸めて顔を両手で覆う。耐えられない。清水センセ……早く来て。

 限界です。僕の息の根を止めて下さい。今すぐ。そしてこれはあなたが私に死を下さろうとしているのでしょうか? サンタ・ムエルテよ。それならば骸骨の聖母よ、僕の後ろに立ち、両手で抱きしめてくれないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




〈近況〉

 ご閲覧ありがとうございます。1年以上更新できず本当にすみません。昨年の始めは近い身内が重い病気に掛かっていたことが判明し、そのことでひたすら忙しく、気持ちの余裕もなく看病しておりましたが、同じ年の夏に、今度は別の身内が突然自分の力であの世に逝ってしまい、一族が茫然自失となり、そのショックで闘病中の身内が容体が悪化し、3〜4年は持つはずの予定が、2ヶ月も経たないうちに亡くなってしまいました。それが10月。

 長編の小説を2本書きました。1本は完結して、もう1本は更新中のこの物語。二人の身内が、2つのそれぞれの小説の重要な登場人物と同じ病気、同じ死に方で2ヶ月の間に亡くなりました。自意識過剰かとも思いますが、このような同時性に罪悪感と戦慄が長いこと支配しておりました。続きが書けるのかな・・・と本気で思ってました。誰かに命令されて書いているわけではない、書かなければ死ぬわけでもない、ただの好きで書いてる責任のカケラもない素人の小説なんていつでもやめようと思えばやめてしまえる。そんな中で、最高にネガティブな理由でブレーキがかかり、その日以来タイヤもエンジンも無傷なのに到底走り出せる気がしなかった。

 でも書いたよね結局。これはあとがきだもの。いつ復活したんだっけ? 忘れそうなので備忘録として書きます。今年の『ID: INVADED』ってアニメがめちゃくちゃ良い出来で3月に完結したんだけど、そのOPの『ミスターフィクサー』が無性に気に入って、アニメが終わった後もずっとループしてyoutubeで聴いてた。ずっとずっとずっと聴いてるうちになぜか書いてました。アニメの中身も歌詞の中身もネガティブな部分に深いところで共感したのかもしれない。いくらポジティブになろうなんてしても出来るもんじゃない。だってある意味ジョン・ウォーカーみたいな“人◯し”でしょう?君は。裕の恐怖を身を持って体験した。これは自己否定せずに生きていけるとは到底思えない。何故書き始められたのか正直よくわからないのです。もし同じようなことがまた起こっても私は書き続けるんだろうか? コレに関して引いたカードが『吊された男』だった。ユグドラシルの木で自分を吊り、グングニルの槍で自らを突き刺し、九日九夜にわたってその激痛に耐え続けろと。

 この罪悪感と戦慄を耐え続けろと。そうすれば叡智を手に入れ、その後に君は自らの魂に奉仕するようになる。私の好きな詩人(敢えて詩人と言う)吉本隆明がいみじくも語った物書き論「自分が書いたものが多くの人を傷つけたり死に追いやったりすることがあるかもしれないという罪業意識を常に持っている。」というのがあるが、彼だけではなく物書きというのは様々な角度でこんなことを思っている、のかも知れない。こんな覚悟持ちたくないし、趣味で書いたものがクリエイトされる世界など要らない。『Re:CREATERS』の恐怖は少しでも物語を紡いだものなら感じるはずである。あれはそういうリアルな物語なのです(あ、IDもこれもあおきえい監督のだな。あおきえい恐るべし)。

 で、もうなんかね。罪業も戦慄も後悔も罪悪感もなにもかもここに詰め込んでいこうかなって。だってそれ以外に供養の方法が見つからない。グダグダです。それでも書くんだなお前は、ってことしか見えてこないのです。そんな中、不思議と体調だけはなんとか回復し始めてます。疫病対策でビタミンDを5000IU毎日飲んでるのが良かったらしいです。細胞の異常増殖を抑制するらしい。また免疫を上げる。これは身内の病気で調べた成果です。

 最後に、感想を下さったhashibeさま、朝焼さま、再開にお力を貸してくださり、本当に感謝です。また更新できるようがんばります。
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