プリウスは無事に清水邸に到着し、再び、僕は清水センセの家の居間のソファに座っていた。キッチンでチンという音がした。清水センセが湯気の立った何かと缶ビールをトレーに乗せて戻って来た。
「結局今日もチャーハンなんだ。◯◯駅と大学の間に餃子の松華川ってあるの知ってる?」
「消火栓? 消防署の食堂ですか?」
「面白いこと言うね。いやさ、松の木の松に中華の華に川で松華川。中国の川の名前らしいよ」
「いえ、知りません」
「この前言った美味しい中華の店なんだけどさ。餃子より僕はチャーハンの方が美味しいって思ってる餃子屋さん。僕が餃子に興味がないだけで、水餃子の名店でね……確かに消火栓だね。あの時はここに行こうってほんとに思ってたんだよ。どうしようもなくなって通り過ぎちゃったけど。あ、水持ってくるね。消火栓だから水ってわけじゃないよ」
変な言い訳のあとであの時と同じピッチャ―とグラスが前に置かれた。自分で注いで一口飲んだ。清水センセはプシュと缶の栓を開け、これはノンアルコールだから、と僕にわざわざ断った。
「だって、裕くんの前では酔っ払えないからさ。どうせ弱いし。あぁ…もう9時過ぎてるじゃん。時間が経つの早すぎるって」
酔っていてもあまり変わりはないだろうと傍から見ていて思うが、本人は気がついていないのかも知れない。清水センセは前と同じでむしゃむしゃとチャーハンを食べている。緊張感と食欲は別物らしい。
食事が終わり、ゴミをキッチンに片付けたあと、清水センセはマグカップのコーヒーを持って居間に帰ってきた。薪ストーブがパチパチいっている。前回と同じ位置に二人で座った。話し合う前の変な緊張でしばらく互いに目も見れないでいたが、そのうち清水センセは口の重い僕をチラッと見ると、自分から切り出した。
「話があるんだよね?」
「はい」
「聞かせて欲しいんだけど」
「……そうですよね。すみません」
僕はうつむいたまま話し始めた。
「電話でも言いましたけど、3ヶ月くらい前に解剖した身元不明の遺体の件で、その遺体は自殺だったんですけど、あの、自殺には見えないんですが、僕にはもうわかってて、で、今朝になって同僚から新展開を聞かされて、えっと、身元がわかるかも知れないって。その解剖の時にですね、遺体から“自分のせいで誰かが破滅する”って感覚が伝わって来て。強い恐怖も一緒に」
またしどろもどろになった。この事件の話はまともに順序立てて話せないみたいだ。
「どんな人なの? そのご遺体は」
「80歳位の女性です。腐乱屍体で○×山の山林で発見されて、頚椎が折れてて。でも遺棄なんです」
「どこかで自殺した遺体を誰かが運んだってこと?」
「はい。それでその方は死ぬときに『ちゃんとやんなさい』って言ってて」
「誰に言ってるの、その人」
「多分、自分の屍体を遺棄した息子に。私が生きてるからちゃんとしないんだって。年金が止まれば自分で働くようになるって」
「だから、自分で自分を息子から取り上げたってことか」
「ええ。でも息子は母親が生きてることにして年金をもらい続けた。そのために母親の屍体を遺棄したんです、多分。そんな話を今朝聞かされて、そしたらまた声が頭の中にリフレインしてきて」
「君は自殺の屍体を解剖するたびにそんな風に声を聞くの?」
「ええ。自殺の屍体は黙ってくれないんです」
「自殺リトマス紙、か」
「頭がおかしくなって、発作が起きて、そのあと死にたくなるんです」
「そっか」
「僕もいつも危惧しています。僕のせいで誰かが破滅する、って。彼女とおんなじ恐怖です。そして彼女は狂気という蛮勇を振り絞ってあちら側に飛んだんです。飛べた彼女が羨ましくて羨ましくて気が狂いそうになった。優しいんです。彼女はとても優しくて弱くて、だからこそ狂ってしまえたんです。じゃ、なんで僕は死を望みながらまだここで生きているのかって。なんで生きている人を損ない続けている僕はこの人みたいに自分を消し去ろうと決意してないんだろうって。そう思うと……もう、どうしようもなくなってしまって」
「だろうね」
「その上、清水センセと会ってから、僕は本当に死ねるかも、という期待で気が狂いそうになって、四六時中そのことばかり考えてましたから、もうその事件の詳細を聞かされただけで、死にたい願望がはちきれそうに膨らんでしまって」
「それで僕に電話を?」
「そおっとトイレに行って、落ち着こうとしたけど無理で、トイレの中で携帯掛けてました。そんな電話してもしょうがないってわかってたんですが、清水センセしか話せる人がいないもんですから……」
「うん、そうだろうね」
「でも、先生は緊急オペで繋がらなくて」
「ああ、そん時は救急の事故の検査と処置に入ってた。事務の人が昼に君の伝言くれた時にゾッとしたよ。なにか悪いことが起きたんじゃないかって。だってそんなことがなければ、あんなことした僕に電話なんかしないって思って」
「だいたい合ってます。大混乱でしたから。でも、先生が緊急オペしてるって聞いた途端、なにか、とてつもなく申し訳ない気持ちになって」
「だから、それは違うって、言ったよね?」
清水センセは確かめるように言った。何度言ったらわかってくれるんだという焦燥が滲んでいる。しかし僕は敢えてそれを無視した。
「自分のことだけでいっぱいだった煮えた頭に冷水を浴びせられたっていうか。だって、世の中の役に立って、特殊なスキルを駆使して人の命を繋いでるんですよ、先生は。世の中にとって高い価値があるし、僕だけのものなんかじゃないんだ」
言っているうちに僕は自分でも予期せぬことを口走っていた。僕だけのものじゃない? 当たり前だ。なんで僕はそんなことを言っているんだろう。
「ああ、そんなこと電話でも言ってたね。僕は自分が出来ることをしてお金を稼いでいるだけなんだけど。給料分の責任と義務は果たす。それに君がいない時間を紛らわせられる。一石二鳥だ」
だがあなたはその日常に溶け込んでいた。僕が知らない清水センセを皆が必要としていた。その自然さに比べて僕は明らかに異質だった。不意に俯瞰で見えた僕の姿は。
「もちろん倫理とか熱意の話をしているわけじゃないんです。そんなものハナから僕にもないし。でも需要を満たしている。大勢の生きたい人たちの需要をです。僕はたった一人に過ぎません」
「確かに大勢の需要は有り難い。君からの電話を受けるための電話代や、君を送り迎えする自動車のガソリン代を僕に供給してくれるからね。君を見つけるまでの長い過酷な生活を支えてくれたのはその需要だ。ほんとに僕は心からみんなに感謝してるよ。そのおかげで今、君の前に僕は座っていられる。全部君のためだ。いいかい? 君の幸せだけが僕の望みなんだ。」
「殺されたいなんて、僕が望まなければ良いだけです」
不意に清水センセの言葉が途切れた。ここまで、最短距離で話が進んでいるのが奇跡的だった。微かに僕は苛立っていた。だから言えた。言えないかと思っていたが、あっさりと僕は今朝の結論を話していた。意味不明の微かな苛立ちを僕は自分でも不思議に思った。清水センセは黙ってマグカップに口をつけた。
「僕はもう、あの動画の中の中学生の裕ではなくなっているんだと思います。仕方なく生きているふりを続けた結果、行きがかりでしょうが生者の社会を理解させられる羽目になったんです。時は経って、いまや僕はもう社会人です。イビツでとても偏った狂人ですが、スレスレのところでなぜか社会に属せてます。自殺の屍体を見るたびに発狂して死にたくなる狂人の僕はついさっきまでわからなかったんです。本当に殺してくれるって言ったあなたの、日常を垣間見るまでは」
がっかりしてくれたら良い。がっかりして僕を見損なってくれたら良い。あなたが執着するような屍体じゃない、間違ってる、と。僕の裏切りとも言える告白を聴きながら、清水センセは反論もせずただうつむいていた。しかし僕の言葉が途切れるのを見計らったように顔を上げ、マグカップをテーブルにそっと置くと、清水センセは大変穏やかに答えた。
「それで君が幸福なら」
あっけないほど平穏に僕の言いたいことが受け入れられた瞬間、なぜか頭のがしびれるような怖ろしさがやってきた。この感じを僕はどこかで味わったことがある。もう二度と味わいたくないと誓いたくなるようなこの怖気を、僕はかつて絶望の中で聞いた気がした。怖いのはなぜだろうと尋ねれば、それは失ったから、と答える気がした。悲しくていてもたってもいられないほどの喪失……僕は答えを知っていながら、知らないふりをしているようだった。だが僕は意図とは裏腹に、追いすがって、そして思い出したようにまた捨てようとしている。“して欲しい”ことを“してあげる”と言われたら、“しないで下さい”となり、“しないようにする”と言われたらそれに慄く。この思いは矛盾に満ち溢れていた。
「すみません。あの時は本当に約束して欲しかったんです、先生が殺してくれるかどうか。本当にあの人に拒絶されてからずっとずっと願ってたんです。僕は異常者です。死にたくない人は沢山居て、自分が自殺したい人もそれなりにいるけど、自分を殺して欲しいなんてそんな願望を持っている人間なんて滅多にいない異常者です。しかも屍体しか興味がない、心も身体も感覚も普通の人間とは全く違う。でも今日まで僕は先生も僕と同じくらい異常な人だと思ってました。お互い、この世に存在しているのが不思議なくらいの異常だって……」
僕は止まらなくなった。畳み掛けるのは罪悪感なんだろうか? それとも耐えられないほど虚ろななにかを埋めたいのか、僕にもわからなかった。
「すみませんが、僕が出会ってからの先生の行動も言動も本当に異常でしたから。だから僕は相討ちみたいにあなたを巻き込めるって、きっと無意識にどこかで思ってた。この世から零れ落ちそうな異常者と破綻者が出会って鍵と鍵穴みたいに互いを必要としていて、その奇跡に僕は発狂しそうになりました。後先考えずに僕を殺してくれと気がついたら叫んでいた。でもそれは違った……」
「それが今日言いたかったこと? 裕くん」
「はい、そうです。今日の電話で僕は気がついたんです。それは清水先生の一面なんだってことに」
「へぇ……」
清水センセはまた微笑んだ。そして口元を手で覆うと、少し首を傾げた。どういう意味かはわからなかった。とても失礼なことを繰り返し言ったので、少しは怒って見損なって欲しいのに。見損なわれて……そして……そのあと僕はどうするの?
「今日、僕はたったの一人で、先生を必要としている生きたい皆んなは大勢いるんだって気がついたんです。僕はたった一人でも先生を破滅させるほどのことを望んでいる。でも、生きたい人たちは大勢で先生を求め、感謝して対価を払ってくれる人たちです、今までも、そしてこれからも。どちらの役割が社会にとって大事かわかるでしょう? 僕だって人に殺人を依頼して法を犯させるような非道を望んでなんかいないで、普通に死ぬまで法医学者として解剖して少しでも社会の役に立ったほうがきっとマシなんです。それを考えたら我慢できると思うんです。いや、我慢しなきゃなんないと思うんです。いつでも先生が殺してくれるっていう保険があるなら、出来るかも知れない。それであなたが殺人の罪で社会から抹殺されることが阻止できるんなら……」
「君が苦しまなければ、それで良いよ」
僕の言葉を遮り、微笑みながら清水センセはそう言ってうなずいた。その言葉に更に頭の芯まで恐怖で痺れていくのがわかった。異常に饒舌な僕の提案を清水センセが受け入れてくれればくれるほど。座っているのに平衡感覚がおかしい。“あなたの保険があれば僕は苦しまずに仕事を全う出来ます”。僕はここで“出来ます”と言い切らなければならない。たとえもし出来なくても、そう断言するべきだ、と。
「それは、やってみないと……わかりませんが」
だが、ここでも目的とは裏腹に、僕の口からは、そのような覚悟はなぜか出てこなかった。
「その通りだね。で、耐えられる?」
「やってみないと」
「これから君は何回も何十回も自殺の屍体を解剖すると思うけど?」
「ええ、やってみないと」
「そうだね。やってみないとわからない。理論的だ。科学的だよね。なんだって実験してみないとわからない。今までのエビデンスは僕がいつでも君を殺せるという保険で相殺できるという仮説に基づく結論だ。じゃあやってみようか。でもなぜ、そんな我慢してまで僕の人生の責任を取ろうとするの?」
「当たり前じゃないですか。僕一人のために先生の人生が犠牲になるのが間違っているからです。今日電話して僕はようやくそれに気がついたんです。当たり前なことなのに、異常な僕はさっきまで全く気づけませんでした。人の人生は一人のためだけに有ってはいけないんじゃないかって。先生は自分で気づいてないんでしょ? 僕以外の日常も大事だっていうことにです。患者さんの処置のこと、すごく熱心に話して、心配して、心も身体もそれのために時間を割いてた。それが本来の清水先生なんじゃないかって。そんな期待されてる優秀な医師に僕は自分を殺してくれって当たり前のようにお願いしたんですよ! 僕なんかを人生を賭けて救おうとする先生も先生です! 僕達はもう10代のモラトリアムなんかじゃないんだって、僕は気づいた、でも遅すぎて、馬鹿なんじゃないかって」
これが苛立ちの原因かと、僕は言ってみて気がついた。僕の無邪気で幼稚な渇望をいとも簡単に満たそうとする清水センセに苛立っていたということなのか。訳のわからない恐怖を押し殺して、無理に無理を重ねて大人になろうとしている僕にはその清水センセは救世主であるし、同時に苛立たしかったのか。
「だから、本当にすみません。自分のことしか全く考えてない、ただの自己中の異常者の願いでした。最悪だ。自分で最悪と思えてるのが精一杯の良心です。これも先生が僕の願いを受け入れてくれたからわかったことです。さっきまで僕はなんと中学生だったみたいです。でも先生のお陰でこの5時間ほどの間に13年分の成長を遂げられました。ありがとうございます」
それを聞いた清水センセはうなだれて、メガネの下から両手で顔を覆った。何を考えているのかわからなくて、僕は黙った。メガネがぽとりと彼の膝に落ちた。清水センセはゆっくりと手を顔から離し、メガネの左右のツルをそれぞれ両手の指で挟んで、掛け直すこともなくじっと見つめながら口を開いた。
「その自己中の君が僕の人生の目的なのに、どうしたもんだか……まだ足りないんだなぁ。まぁ、そうだよね。こんな短い時間で僕を信じろって方が無理だ。しょうがない、それは。だって君と僕、出会ってまだ三日しか経ってない。僕の13年は僕だけのものだ。そうそう。そうだよね。僕にとって当たり前なことを君は知る由もないし、僕もまだほんのちょっとしか見せちゃいないんだよな。そんな時に医者の仕事の話なんかするんじゃなかった。鶴が『機織ってるところは決して見ないで下さい』って言った気持ちがわかるよ。僕だって出来るもんなら解剖か検視だけして生きて行きたいさ。でもそれじゃあ君を探せなかったんだ。ヒマもカネも無いのに、名前しかわからない動画の中の君を探せるわけ無いだろう? 人を生かすことに僕は意味なんか感じてないんだ!」
そう断言すると清水センセはメガネを掛け直し、そして僕を見据えた。
「それでもそれが出来たのは全部君を探す為だってはっきりわかってたからだよ。君がそれを信じてくれるまで僕の気持ちと考えを全部見せればいいか? そうしたら君は僕がどんな人間でどんなに君だけが“大事か”ってことを今よりもっとわかってくれるんだろうか。だって僕のために君が苦しみを我慢するなんてどんな本末転倒なんだ。有り得ない。そんなこと絶対にしちゃいけないことなんだよ。それははっきりと僕の不幸でもあるんだってことを、君にちゃんとわかって欲しいんだよ。君は僕が君以外の人を大事にしてるって勘違いしてるけど、僕は君のためにそうしてる。この仕事でミスは許されないし、仕事を全うできなければ下手すりゃ医療訴訟を起こされたり解雇もある。でも勤務できれば収入は安定するし、医者としての信頼が厚ければ尚さら自由が利きやすい。仕事が正確で早ければ忙しい中でも君を探す時間が出来た。君のためのお金と時間を作るためだと思えば何だって出来る。とりあえず君が昼にも言ってた『犯罪者になる』っていうことだけど、あのときも言ってたよね、僕。もちろん捕まらないようには考えるさ。完全犯罪を目指すよ。君のためならどこまでも努力できる。僕が捕まらないことで裕くんが安心するならどんなことでも出来る。結構大変だとは思うけど。だって君の死体を僕は失いたくないからね。君が許してくれるならエンバーミングしてずっと一緒に居たいって思ってるから」
その言葉で胸の中がズキッと疼いた。得体の知れない空虚がなにかで埋め合わされていく痛みだった。さっきからずっと感じていた怖気、それが消えたかけた。駄目だ! 僕はわかっている! これを埋め合わされては振り出しに戻ってしまう!
「アメリカに行ってから、法医学だけじゃなくて最新のエンバーミングの練習もしてた。もちろん日本でも大学生の頃から勉強してるけど、渡米してたあの時期は人生でいちばん精神を病んでいて医者が出来なくなることも考えた。アメリカで再就職して葬儀屋に勤めることも視野に入れてたからね。万が一、君に会えた時にこそ役に立つけど、あんまりそのことを考えたくはなかった。この前も言ったけど、アメリカに行ったのは君をなんとかして忘れたかったから、なんだから。でも今はその自分を褒めたいよ。僕のエンバーミングがどれほど上達したか見て欲しい。君の美意識には合わないかも知れないけど」
屍体の話が出ると、僕はそのことで頭がいっぱいになった。逃避なのかもしれない。やっぱり腐敗が嫌いなんだな、清水センセは、だが、それでいいと僕は素直にそう思った。僕とは違う屍体観と美学、でもそれもひとつの死への回答だ。紛れもなく、この世ではほぼ語り合うことのない死への憧れ。それなのになぜか僕はこの人にずっと世間の代弁をしている。生者の世界の法をなぜ僕がこの人に説いているのか、なぜ屍体の話をしていないのか、自分でも困惑するくらい頭の中はカオスだった。
「話を戻すと、つまり死体遺棄はしたくない。そんなすぐに捕まるようなヘマをしなければいい。捕まったところでどうせ死刑になんかならないだろうね。殺人を立証出来るかどうかだ。出来なければ死体損壊とか、通報の義務を怠ったとかの軽犯罪法違反、あ、法的条件を満たしてない屍体を防腐処理するのも屍体損壊に当たるのだけど。結果は、殺人を立証できなければ、せいぜい医師免許を剥奪されて、何年かぶち込まれる程度の話だ。立証されて殺人罪で死刑でも構わないけどね。逮捕されて、君の屍体が司法に奪われて取り戻すすべがないのなら、僕はもう生きている意味がないんだからね。だから釈放された後に医師免許なんて要らない。野垂れ死ねば良い。それこそ自殺しちゃうかもしれない。でも僕は屍体の君とできるだけ長く暮らしたい。それが今の僕の最高の望みだ。それがダメだったら君が幸せに屍体に戻れたらそれでいいかな、とも思ってるんだ。そんなこんなに本気とか、覚悟とか、そういうのはないよ。僕には『それ以外ない』。それしか出来ないし、考えたことがない。だから覚悟も要らないし本気になる必要もないんだ」
その自然さが僕を慄然とさせた。大人になろうとしている僕のほうが間違っている、とさえ思ってしまえるだけの想いに僕は押し流されそうになった。例えるなら、あるはずのない宝剣を持っている人が、あるはずのないその鞘を偶然に見つけ、そこにただ剣を収めるだけのごくごく自然で、あってはならない奇跡なのだ。その奇跡を、僕の今日付けの結論によって拒絶する。それをまぎれもない正解だと誰が証明出来るだろうか。すでに壊れかけているこの人の精神に僕はとどめを刺すようなことをしているのではないだろうか? むしろ、僕自身ではなくこの人の幸福のために僕は屍体として人生を捧げるべきなのではないかとさえ。
「そうですよ。先生が僕を殺してくれるって言ってくれたこと、僕は本当に救われたんです。あんな非道い動画を見せられて凄まじい不快とトラウマの渦に飲み込まれていたのに、あなたの言葉はその最悪な感覚を突き抜けて僕に届いてしまった。僕を静寂に戻してくれると言ったあなたの言葉に僕はどうしようもないほど心を奪われてしまった。それ、それでもそれに甘えて自分のために人の、あ、あなたの人生を台無しにはできないです」
そんなことを言いながら、 葛藤に引き裂かれるというのはこういうことを言うのだろうと、僕は震え始めた自分の話す唇を感じながら思った。震えは再び現れた怖気が具体化したものだろう。僕はある一点のことを指摘しなければならなかった。どうしても。だって、隆は今、寺岡さんと一緒に自分の望んだ幸福の形を育んでいる。僕じゃなきゃダメなことなんて、ない。
不意に幸村さんの顔を思い出した。僕の気持ちを一切理解していない彼がいつも僕に迫る“生きろ”という迷惑なメッセージを、今僕が自分でリフレインしているこのネジ曲がった皮肉にたった今気がついたから。嘲笑が溢れてきた。僕は唖然とした。清水センセに止まらない主張を続けられるのはこのテキストを過去に言われ続けたせいだったのかと。
「パニックを起こして、ぼ、僕の部屋に押しかけてきた先生を僕は、実際待ち望んでた。で、でもパニックではなく確信で、許しではなくて殺意で僕を訪ねて欲しかったと、あの日は先生に、心底、あき、呆れてました。だ、だけど最後にあなたは、ぼ、ぼ、僕に、あ、ありえないことを誓ってくれた。犯罪者になろうが、社会的に抹殺されようが、僕のために僕を殺してくれる、そんな、そんな約束をしてくれたあなたに、僕は感謝してもし足りません。でも、でも、僕のいなくなった世界で生きる意味がないなんて、そ、そんなこと、を、言うべきではないんです。だって、あ、あ、あなたはまだ、僕を殺したあとの世界をし、し、し、知らないでしょう? その、その世界にい、い意味があああるかないかなんて、あなたはまだ知らないじゃないか。それ以前に、万が一ぼ、僕が生きながらにして幸せになったとしたら、せん、せ、先生がは、は、は、犯罪を犯す意味なっなんてないんです!」
何を話してもどもることなんて今までなかった。まるで泣き出しそうな声だった。僕は自分の口を手の平で塞ぎ、清水センセから顔を逸らした。腹の底から自分自身を嘲りながらも、自分の言ったことに追い詰められてわななく唇をこの人に見られたくないと思った。追い詰めたのは自分だ。何も知らなかった中学生の僕に戻りたいとさえ思った。あの時の僕なら、「殺してあげるよ」と言われて、なんの屈託もなく「してください」と即座に言えただろう。でももう言えないんだ。あの無邪気で考え無しな自分はもういない。そして無邪気さが美徳でないことだってあると今の僕は言えてしまうのだろう。法医学者になってから何百もの解剖した屍体とそれにまつわる事件を知った。この世では屍体はただの屍体ではなく、社会の中で生者達と織りなされた1枚の物語であり、僕はいつも屍体だけではなく、その織りなす糸をメスで断ちきろうともがいた。屍体を死の世界に返したかった。だけどそれは非常に困難な作業であることだけがこの仕事の中でわかってきたことだった。その経験は僕の動かしがたい欲望と昨日まで切り離されていた。しかし今日、それはこの数時間でいつの間にか繋がっていた。と、同時にすべての大人たちが僕に発していた無意味なメッセージの意味を理解する。今まで渇望していたなにもかもがその景色の中で裏返って見えるくらい。わかってなかった。わかっていなかったのか!
殺されたくて殺させたくなくて、その激しい葛藤で滑稽なくらい震えている。恥ずかしさで目が合わせられない。すると今までソファから身を乗り出していた清水センセがガックリと顔を伏せ、呟いた。
「君は、優しすぎるよ、裕くん」
そう言う間もなく、先生は眼鏡を取るとその腕で両目を隠した。両肩が震えていて、それが嗚咽だとわかるのに、僕は少し時間がかかった。
〈あとがきと近況〉
King Gnuの三文小説を聴きながら頑張って駄作の続きを執筆中の架空線です。『僕を止めて下さい』には1章につき35話づつ書くという縛りプレイがあるのをご存知でしょうか?(←え) するってぇとこのあと新章に突入するんでしょうか。序破急ではなく起承転結系猟奇小説だったのですか。感動です。てことはあと35話あるんでしょうかそうでしょうそうでしょうよ。
薬剤をヤメた後の頭のおかしいのは余り変わっておりませんが、頭のおかしいことに慣れていくものですね。日常バンザイです。しかし、やめるとまた症状がぶり返してくるのも確かで、また貧血になっております。しかし貧血でも頭がおかしいので、以前よりほぼ気にならないww 深刻さの90%以上をどこかに投げ捨てて来ちゃったみたいです。ヒャッハー! 書ければいいんです! 12月に2回更新出来た! ああ〜もうそれで良いんだ〜!
それよりも来期の2021冬アニメやばないですか。ログホラ2期って……嬉しすぎて死にそう。葦原先生が療養から復活してワートリが連載再開した時と同じくらい爆上げしました。そのワートリの2期も冬アニメ放映で、2本合わせて脳死の恋人が生き返ったくらいの気持ちです。そのほか転スラとかDr.STONEとかリゼロとかはたらく細胞とかその他色々な2期で私の時間が埋め尽くされそうな勢いで誠に恐ろしい。
そして今回も少数精鋭の勇者の皆さま、ご閲覧ありがとうございます。救われております。