※この作品はR-18です。

僕を止めて下さい   作:架空線

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もう終わらせてくれと懇願したことを
微かに覚えている
いまがどう幸せか
現実が戻ってきたのか
これが夢なのか
深く考えることも
いつのまにかなくなった

恐怖と笑いと快楽と世界の不思議
少しだけ気が狂ってる気もするよ
それも幻かもな
始まったものは終わる
永遠はただそこに在る





第4章 うつつ
א.後悔と嫌悪


 優しい。昔、誰かにもそんなこと言われた気がした。寺岡さん、だったっけ。

 

「違いますよ。優しいことなんか言ってません。論理的に矛盾してないだけです。先生は、僕が先生のことわかってないって言いますけど、僕のことも先生はきっとわかってないんです。もっとよく知ったら、きっと幻滅しますよ。僕は優しくなんかないから」

 

 そうは言ってみたものの、誰よりも僕のことを理解されてることがこの問題の最大の難点だった。清水センセはひとしきり泣いて、メガネをテーブルに置き、ティッシュで涙を拭くと何度も鼻をかんだ。そしてかすれた声で僕に言った。

 

「優しくなんか、なくていいんだよ、それでも。屍体に人格なんか求めてない。君だってそうでしょ?」

「ええ、その通りです」

「それでも君を優しいって思っても良いんだよ。実際そう思っちゃったんだから」

「それが間違いでも?」

「うん。僕が感じたことが、僕の中でだけ正しいんだよ」

「僕と実際会って、こうやって話して、先生はがっかりしませんか?」

「がっかりしたかった、かな。動画の中の君を見て自分が感じたことは妄想だったのかって、実物の裕くんでがっかりしたかった。動画で見た裕くんの大人になった実物を見ても、僕の心は一切変わりませんでした、なんてそんな都合の良い現実あると思う? 僕は裕くんを探すのをやめられなかったけど、たまに辛くて辛くてどうにかなりそうなときには、会ったら理想と現実のギャップで気持ちが無くなっちゃえばいいと思ってた。そう思うことで自分を慰めてたと思うよ。でも現実は過酷なもんだよね。見つけた時の方がもっと辛かったから。ガッカリもさせてくれないって逆に絶望したくらいね。だって前にも言ったでしょう? 全く気持ちが変わらなかったんだから。むしろ強くなった。それで会ったら楽になるのかと思ったらもっと辛い。今、本当に辛い。嬉しくて辛いし、自分の気持が伝わらなくなってて辛い。自分が非道いことしちゃったのも辛いし、君が辛い思いでここまで生きてきたっていうのが本当なのもとても辛い。結論は好きすぎて気が狂いそうなのは変わらない。もっと好きになってる」

 

 そしてメガネのレンズの内側に付いた涙の飛沫を、新しいティッシュを取り丁寧に拭いて掛け直した。

 

「随分と関わったんだね、興味もないはずの生きている人たちと、君は。たぶん思いも掛けず深くまでね。あの日の中学生の君とは違うっていうのはよくわかったよ。優しすぎるゆえに理解しようとしたってこともよくわかった。それと同じように僕のこともこんなに優しく考えてくれるんだ、きっと……そうだね、屍体に意志なんかないから。たったひとつの君の願いは“死とその静寂”それだけなんだから。でもそれは見失われてしまった。君は見失ったまま、生者のフリをしてここまで生きてきたって言ったよね。関わってきた誰かしら大勢のために。それは大変な努力と諦めの日々だったんじゃないかな…って思うとね…深い傷を抱えて、それでもこうやって真面目に社会に関わって生きてきた君を思うと……切なくてなんか泣いちゃった。参るよ」

 

 自分の葛藤が他人の口から整然と語られるのを聞いているうちに、なぜか嘲笑と震えが鳴りを潜めていった。清水センセがどうやって理解するのかわからないが、こんな気持ちは寺岡さんに共感覚の分析をされたとき以来だろう。僕が慄きながら自分を嘲笑っているのに、それを彼が同情し嗚咽するほど悲しんでいる。それっていうのは彼が僕よりも僕を肯定的に理解しているということだろう。一歩先回りされているような僅かな悔しさはすぐさま自嘲に変わった。

 

「真面目じゃありませんよ。屍体に寄っかかってどうにか日々をしのいでる穀潰しですから」

「口が悪いな」

「事実です」

 

 それを聞くと清水センセは苦笑した。

 

「裕くんは案外、皮肉の効いたことを言うよね。辛辣」

「事実って人によっては辛辣に聞こえるようですね。よく言われます」

「優しいのにな。ツンデレかな」

 

 またツンデレと言われた。みな、僕の何を基準にそれを判断するんだろうかと訝しく思う。

 

「さて、と。どうしようかな。僕はどうすればいいんだろうか。整理すると、裕くんは『殺してほしいけれど、それは現実的な選択ではないから、殺される可能性だけ残して今まで通り頑張ってみる。もしかしたら頑張れるかも知れない』、という感じの理解でいいのかな? 間違ってたら訂正して」

 

 まさに簡潔に言うとそういうことなので、僕の要領を得ない話をよくこんな風にまとめられたな、と感心した。

 

「はい、その通りです」

「あと、これだけ言っておくけど、僕がどう生きようと僕のしたいようにするからね。悔いのない人生を生きたいから。それだけはわかって」

「そう、ですか」

 

 清水センセは佐伯陸と同じようなことを言った。幸村さんとも同じだけど。

 

「君にもそうして欲しいんだけどな。悔いのない人生を送って欲しい」

「悔い、しかないですけどね、今のところ」

「だから不幸だって言ってるんだよ?」

「僕の悔いのない人生は、人生を終わらせることですから。人生の中で生きてるふりしてる時点で悔いです」

「じゃあなんで悔いを生きようとするの!?」

「仕方ないです。そういうものですから、生きるって」

「僕はイヤだ」

「前に言われたことがあります。『この世というものは自分の好きになんかならない。思いもかけないところで自分の望みもしないことが起きて、鉄の塊みたいに炉に投げ込まれて叩かれて勝手に形を変えられていく』って。でもそういうもんだと僕も思います。実際そうだったし」

「それでも僕は諦めたくはない。諦めなかったお陰でこうやって君に巡り逢えた。君だって、君を本当に殺せる人間に会えたじゃないか。違うかい?」

「他人を犯罪者にしてまで叶えて良い願いなんてあってはいけないんですよ。それに僕がここまで来れたのは、勝手に周りに突き飛ばされたり引っ張られたり転がされたりしてです。自分の意志なんかほとんどないですから」

「君は殺してくれなかったあの男を恨んでたんじゃないの?」

「恨んでました。でも、今はもういいです」

「なんで?」

「あなたがすべてを投げ打って僕を殺してくれるって言ってくれたから」

「当たり前だよ」

「あの人が出来なかったことを、清水先生が全うしてくれたから、だと思います」

「当たり前だよ!」

「自殺の屍体で発狂するのはなぜなんだろうって、初めて先生の家に行って動画を見せられて帰ってきた日に考えたんです。当時のいろんなことを思い出した。あの最低な動画のおかげですが」

 

 清水センセが嫌そうな顔で僕から目をそらすのを見ながら、僕は続けた。

 

「僕は最初あの本を見せられた時、発狂なんかしなかった」

「“あの本”ね」

「そうです。僕が頭がおかしくなるのは僕へと向けられた本当の殺意が僕の人生から永遠に失われたことだったって、僕はあの日思い出したんです。中学生の僕は混乱しすぎていてなにが原因でおかしくなるのかわかってなかった」

「君が愛してたのはあの男の殺意だったということ?」

「たぶん。でもそれを愛というのかはわかりません。でもあの殺意を宿した手に首を絞められた時の至福を僕は忘れられなかったんです。それが失われたことを絶望していたと気づかずに」

「じゃあ、君はいま、君はあの本を見ても発狂しないっていうの?」

「もしかしたら、その可能性があるって」

「君を大学の駐輪場に送っていった時に、君にプレゼントがあるって言ったの、覚えてる?」

 

 清水センセの顔が嫉妬で歪んでいる。以前も聞いたことのある冷酷なひびきの声に嫌な予感がした。覚えている。だが僕は首を横に振った。

 

「そうか。じゃあ、今、それをあげる。見ればいい!」

 

 清水センセはいきなり立ち上がると、猛然と隣の部屋のドアを開けてその奥に消えていった。1分と掛からぬ間にあれが僕のもとに再びやってくるのだ。すべてを始めたあの忌まわしい写真集が。それを拒絶する理由はもうどこにもなかった。僕がどうなろうと、起きたことだけが現実なのだから。

 

 ―Suicidium cadavereー 

 

 黒い表紙に細い白抜きでその文字が浮き出ていた。懐かしい。ゾッとするほど懐かしかった。清水センセの手が僕の胸元にそれを突き出した。一瞬の躊躇。本の角で彼は僕の胸元を突いた。それに煽られるように僕は震える両手でそれを掴んでいた。

 

「何年ぶり?」

「……覚えて、ません」

「思い出の本でしょ? あげるよ。これから全部始まったんでしょ? 例の発作も」

「ほ……発作?」

 

 この人はなにを発作と言っているんだろう? あのことを本当にわかって言っているんだろうか。あの夜も同じことを言った。

 

「しらばっくれなくていいよ。知ってるから。あの男が言ってたって。『僕と別れてから自殺屍体の画像を見ただけで性欲が衝き上げてくる発作に苦しんでる』って」

「し、知りません」

「本屋のAさんが全部教えてくれたよ」

「な、な、なにをですか!?」

「僕はあの動画の上映イベントのあと、Aさんから聞いたんだ。君を売ったあの男からAさんが聞いた話をね」

 

 どういうことなのだろう? なぜ佳彦が佳彦と別れた後のことを知ってるのだろう? ものすごい速さで思考を巡らせながら急に僕は思い出した。自暴自棄だった寺岡さんが僕の実験の画像をもらいに図書館に行き、佳彦に会ってるということを。

 

「Aさんとあの男が上映会後の感想を互いに話したって聞いた。君がそれ以降どうなったかという話題になって、あの男は君が壊れちゃったと言ったって。それは僕も聞いた。でもどんなふうに壊れたか、そこまではあいつは僕には言わなかった。でもAさんにはこんな風に言ったって。『自殺屍体の写真を見るだけで発作のような強烈な性的興奮が起きて、自分ではどうしようもないほどおかしくなる。首を絞めて落とさないと止まれない』って。自分と別れてから、自分に抱かれたいのに会えないから、だから自分以外誰もあの子を救えないって言ってたって。『だって他でもない僕に抱かれたくて苦しんでるから』って。知り合いの誰かがその発作を治療してるみたいだけど、どうせ治んないだろうね、と言ってたらしいよ」

 

 激しい羞恥で身体が固まっていた。清水センセがあの夜、それを知っていると聞いた時と同じように。

 寺岡さんは僕が聞いたよりももっと詳細に佳彦に状況を説明したのかも知れない。よくよく考えてみれば、あのとき自暴自棄だった寺岡さんは隆と僕の出会いの原点である変態司書に会ってみたかったのは当然といえた。佳彦は隆と乱交パーティみたいのに参加して一緒に同じ子を犯したりしていたと言っていた。それを寺岡さんが多分聞いていて、佳彦にも嫉妬のような感情を抱いていたのかも知れなかった。もしくは、この男が狂った岡本裕をもう一度小島隆から奪い返せば、寺岡さんは最愛の男と結ばれるかも知れない、と考えて接触していたとしても不思議はない。策士の寺岡さんならそう言う誘導も可能なはずだった。あの時はそんなこと思いも付かなかったけど。その佳彦は嬉しそうだった、と。恍惚としていた、と言っていた。それは生きてる人間に興味がなくて好きも嫌いもわからない僕が、誰にでも首を絞められて射精する僕が、他の誰でもないこの自分に抱かれたくておかしくなったと佳彦が思ったからなのだった。

 

「君の言う発作って、頭がおかしくなるって、そのことだよね?」

 

 答えたくない。

 

「君をこの目で見たあの日、僕の脳内で自殺リトマス紙と発作がつながったんだ。君はその特異体質を自殺の鑑別に使ってる。そしてそのたびに性的な衝動で苦しむ。それも僕の苦痛の原因の一つだった。それが“自殺リトマス紙”の正体でしょ? 」

 

 微かに頷いていた。言葉にしたくなかった。

 

「君の苦痛を終わらせたい。でも僕の殺意は君を自由に出来るのかな。君の嫌いな性欲から」

 

 それが終わるのだろうか? もしも今から行われるであろう実験が失敗した時、僕はあの発作をこの人に曝すことになる。清水先生あなたでは無理でした、という宣告と共に。幸村さんに監禁されたタイヤ倉庫の悪夢のような時間に現実の失望を重ねて嫉妬まみれにした最悪の時間が来る。様々な実験をしてきた。誰に首を絞められても射精するか、人たらしの大学教授に抱かれたら気持ちよく成れるのか、恋人が高校生になってもまだ性欲を感じることが出来るか、自殺の画像で性欲に取り憑かれた時にミントと保冷剤でそれが緩和されるか、自殺と他殺の写真をきれいに分けられるのか、どれだけエロいことをされてもその気にならないか、そして今から行われる、殺意を保険にして自殺画像を見ても発作が起きないかどうか。新しい実験ファイルがこれから追加される。発作が治癒するのか、振り出しに戻るのか、どちらにしてもその先は見えない。

 

「表紙を、開いたら? 君が何を愛したのかがわかるんじゃないの?」

 

 その声は思いがけなく優しく響いた。自分の敗北の可能性をわかって、それでもこの人は嫉妬をバネに、僕の現在地を測ってくれるのだ、と僕は感じた。この発作を見る前から苦痛だとわかってくれる人は他にいるんだろうか。それはそれで稀有なことではないかと思うと、僕は羞恥に閉ざされた口を開いた。

 

「あの……先生は……僕の発作が出たら……僕の首を絞めて落とせますか?」

 

 実験を始めることが前提の問い。だが、それを確認しないと。

 

「なぜ?」

「発作が治まるから、です」

「落とせるよ。でも君は頸動脈洞症候群でしょう?」

「はい。それで死んでしまったらその時はそういう病気だったって、供述して下さい」

「ああ、そうするよ。でも僕は仮にも医者だからね。AEDもあるし、β遮断薬とかエフェドリンも用意がある。意識を落とすのなら鎮静剤という手もあるんだよ。内視鏡の検査では普通に使う薬剤で僕はよくわかってる。今君を死なせないから、絶対に」

「そうですね。こんな状況では死なない方が良いです。お願いします」

 

 そう言いながらふと僕は思った。失神した僕をこの人はどうするのだろうか、と。いままで一度も性的な接近をしてこない清水センセを僕の経験から“有り得ない”と思うのは当然のことと言える。僕に気づかれずに犯せるのは失神して鎮静剤でも投与すれば出来なくはない。佳彦と同じことをしたい、あの動画を見てそう望んでいる可能性も無くはない。それとも死んだようになった僕を芸術を鑑賞するかのようにただ眺めて恍惚とするだけなんだろうか? 場違いな好奇心というのはわかっている。でも僕はどうしてもそれを確かめずにはいられなくなった。

 

「あの……先生は、失神した僕をどうするんですか?」

「どうするって? そうだね。とりあえず問題が起きなければ、目が覚めるまでバイタルを確認していると思うよ」

「なんで……犯さないんですか?」

 

 それを聞いた清水センセの目から、凄まじい怒気が放たれた。

 

「あいつと一緒にするな!」

 

 そう怒鳴ると同時にソファの座面を拳で殴りつけた。怒りでしばらく呼吸が乱れて収まらないようだった。

 

「すみません」

 

 思わず写真集を抱きかかえていた。すぐに僕が謝ると清水センセは慌てて目をつぶり、長い深呼吸を繰り返した。少ししてから彼は目を開いた。

 

「ねぇ、なんでそんなこと言ったの?」

 

 そう訊いてくる彼の声は上辺だけ冷静さを帯びていた。

 

「すみませんでした。でも、好きと言われて犯されなかったことがないから」

「酷い話だ」

「不思議だったんです。なぜ先生は僕を犯さないのかって」

「僕は屍体を性的な目で見たことがない。だからだよ、あの男が許せなかったのは!」

「あの人は殺したかったし、殺して犯したかったんです。犯しながら殺したかったのかも知れません。ということは先生はネクロフィリアじゃないんですね」

「君もだよね」

「そうです。では、先生には性欲はあるんですか?」

 

 今までいつでも出来るタイミングはいくらでもあったのに、たった一度抱きしめられただけで、いつまでたっても犯されないのを僕は不思議に思っていた。屍体に性的なものを感じないなら、僕を犯す必要がないのだ。それは驚きだった。では清水センセは何で欲情するんだろう?

 

「性欲は嫌いだよ」

「嫌い?」

「ああ、大嫌いだ。虫唾が走る」

「珍しいですね」

「そう? 君もだよね」

「はい。僕以外に性欲が嫌いな人を始めて見ました」

 

 だが、清水センセは急に口を閉ざした。顔がこわばっているように思えた。

 

「やめてくれないかな。僕にその話をさせないで欲しいんだけど」

「わかりました。すみません」

「君のせいじゃないよ」

「僕の動画のせいですか?」

「それもあるけど、もっとこれは根深いんだ」

「そうですか」

 

 怒気が薄れた後の強張った清水センセの顔は少し白くなっているようにも思えた。血の気が引いているのかも知れない。

 

「辛そうですね」

「わかるんだ」

「ええ。顔色が白っぽく変わりましたから」

「気分が悪い」

「大丈夫ですか?」

「実験中じゃないの? 本を開きたくなくて先延ばしにしてるの?」

「違います。実験の結果にちゃんと対応して欲しいので、不調は回復してからの方がいいかと」

「ああ、そうだね。君の言うとおりだ。都合よく僕は体調が悪くなったわけだ」

「そういうわけではないです」

 

 そんなことを言っているうちに、清水センセは本当にソファに横たわっていった。

 

「ああ……くそっ」

「本当に大丈夫なんですか?」

 

 顔をしかめたまま、答えはなかった。

 

「持病とか」

「持病、みたいなもの、かな」

「あるなら薬取って来ましょうか?」

「ああ……お願いしようかな。隣の部屋の仕事カバンの中にソラナックスがあるから」

「はい。取ってきます」

「黒い、革のヤツね。中にミンティアのケースがあるからそれ持ってきて」

「わかりました」

 

 思わず黒い本を抱えたまま立ち上がっていたが、気がついてテーブルに置いた。

 ソラナックス。ベンゾジアゼピン系の抗不安薬でパニック障害やウツとか不眠症の薬だ。隣の部屋は寝室だった。デスクの前に椅子があり、その上に黒いカバンが乗っていた。ミンティアのケースを探す。

 

「これですか」

 

 見つかったブルーのケースを清水センセに渡す。

 

「水くれる? コップ、裕くんのでいい?」

「ええ、構いませんが」

 

 ミンティアのケースの中からはミントではなく錠剤のシートが出てきた。コップに水を注ぎテーブルの上に置いた。

 

「最近これもあんまり効かなくって」

 

 清水センセは横になったままシートから錠剤を押し出し口に入れると、少し起き上がり、テーブルからコップを取り、ダルそうに一口飲んだ。

 

「昨日もこれ飲んで、結局パニックが治まらないから君んちへ行っちゃったんだよね」

「そうだったんですか」

「頓服なのに。連用とかよくないんだけど」

「治まるといいですね」

「さあね」

 

 コップをゴトンとテーブルに放ると、ドサッと雑に倒れた。“さあね”には変に自暴自棄な感じがした。

 

「治まりそうにないですか?」

「地雷を踏んだのは君だ」

「あの、どこに埋まってるかわからないから“地雷”って言うんですよ」

「…ああ、そうかもね。君が踏んだのに僕が爆死してる時点で地雷じゃないかもね」

「死んだんですか?」

「ある意味、死んでる部分もある」

「なにがあったんですか」

「トラウマってやつだろ、正真正銘の、自分でも未だに信じられないくらいのヤツ」

 

 彼は意外なことを言った。中学生の僕のような経験をしたのだろうか。

 

「トラウマですか」

「ははっ…人から言われると嘲笑っちゃうもんだね。誰にも言ったこと無いから、新鮮だよ」

「僕のトラウマはバラ撒いたのに?」

「…バラ撒いたのは…あの男だよ!」

「そうでしたね。先生はバラ撒けるようにしただけです」

 

 話しているうちに、清水センセが一方的に自分の恥部を知っている不平等に遅まきながら不満が生じてきた。そして、トラウマが原因の性欲への嫌悪は、なにか純粋ではない気がした。つまりトラウマがなければ嫌いにならなかったんじゃないかという理屈が成り立つ。それ以前に、好きなのに性欲が無いなんていうキレイ事は僕の酷すぎる性体験上とても疑わしくも思えた。隆の語った勃起と友情の境界についての見解が僕の理解に影響を与えている可能性はあるけれど。今は清水センセにいきなりそんなこと言えるような雰囲気では決して無い。それでこんなふうに言ってみた。

 

「だけど、少なくとも先生は僕の最低の恥辱を知っていて、僕にはなにもない。それはなんだか不公平じゃないですかね?」

 

 清水センセの挙動が止まった。目だけが僕の居る方と反対に泳いだ。

 

「……いつからそう思ってた?」

「たった今、ですが」

「裕くん、僕は君に全戦全敗なんだけどね! 好きになっちゃった時点で!」

「それでトントンだと?」

 

 清水センセは口元をへの字にして難しい顔をして黙った。沈黙しながらも怒りは燻ってるみたいで、奥歯を噛んでいるのが咀嚼筋の動きでわかった。長い間の末に、チッと舌打ちの音が聞こえた。そしてゆっくりこちらに首を回して僕を睨みつけると、僕と目が合った。目が合うと清水センセは急に仕方ないというように、はぁ、と溜息をついた。

 

「そうか……わかったよ。じゃあ互いの信頼関係のために、特別に君にだけは教えるよ。仕方ないな。言ったことないんだよ。思い出したくないから」

「誰にも言いません」

「有り難いよ。せいぜい秘密にしといてよ」

「ええ、それは」

「これ以上具合が悪くなったら、君が介抱してよ」

「はい」

「……言いたくないな」

「言ったほうが良いです。良いと思います」

「なぜ?」

「この件に関してこんなに具合が悪くなるのでしたら、言わないデータはあるけど、誰かに言ったデータは無いから必要だと思います。先生の弱点もわかってたほうが今後のためにも良いと思いますし」

「ああ、そうだね。理論的だ。優しいのか優しくないのかわかんなくなったけど」

「だから言ったでしょ」

「そうだね。水」

「は?」

「みず」

 

 取って、ということなんだろう。さっきのコップに水を半分ほど注いでから倒れたままの清水センセに渡そうとした。

 

「はい、これ取れます?」

 

 そう言いながら見ると、清水センセの手の上にはいつの間にか例の錠剤が2個乗っていた。僕が止める間もなく口に放り込んだかと思うと、その手が僕の手からコップをもぎ取り、口の端からソファに水がこぼれるのも構わずに飲み干した。

 

「ちょっとそれ、用量大丈夫ですか?」

 

 慌てて訊いた。

 

「効かないから増やしただけだよ」

「今日は何錠飲んでるんですか?」

「だって君が話せって言ったんだよ? こんな話するときに何錠飲むべきかは本人にしかわからないよね」

「意識が無くなるとかありませんか?」

「多少朦朧とした方が良いと思うよ。そしたら話しやすいと思うけど?」

「そんなだったら、もう無理しないで下さい」

 

 さすがにこんなことをされると、いくら不服でも心配になってきた。すると、なぜか清水センセは微かに笑った。

 

「だって、話せって、裕くんが一応僕のこと思って言ってくれてるってことだよね」

「ええ、まあ」

「気分悪いのにちょっと幸せな気分になった」

「え」

「それに、考えてみたら僕への個人的な興味なんてそうそうないでしょ?」

「ええ、まあ」

「だよね。だから、裕くんが話して欲しい時を逃すなんて出来ない」

「それで大丈夫なんですか?」

「それは知らない」

 

 そう言うと清水センセの身体がダンゴムシのようにソファの上で丸くなり、外したメガネを床に落とし、そしてそのまま動かなくなった。防御姿勢の彼に声を掛けるのをためらっている間、どれくらい経ったかわからないが、薬が効きすぎて意識がなくなっているのかも知れないと思い、落ちている彼のメガネを危険回避のために拾ってテーブルに乗せ、声を掛けた。

 

「意識、あります?」

「あるよー。心配したぁ?」

 

 答えがすぐに返ってきたのでホッとした。いつもより語尾が伸びている。

 

「ええ、ODで昏睡してるとか、ありそうなんで」

「心配してくれたんだぁ。嬉しいなぁ。なんかもうよくわかんないんだけど、いいんじゃない? 薬が効いて来たのかもー」

 

 防御姿勢が少し緩み、そしてまたフッとほほえんだ。

 

「4錠でこれかぁ。寝ちゃったらごめんねぇ」

「いや、その時はそれでいいですよ」

「良いのかぁ。じゃあ話すかなぁ……どこから話そうかなぁ」

 

 薬が効いて来てるらしいのが口調の変化に出てるように思い、少し安堵した。少し間があった後、清水センセは話し始めた。

 

「えーっ……とねぇ、僕はぁ、小3……の頃からぁ……」

 

 そして、上がっていた口角がスッと下がった。

 

「母親にね、犯されてた」

 

 一瞬思考が停止したのちに、軽い吐き気がした。その事実と、僕がこれを言わせようとしていたそのことと。

 

 




〈あとがきと近況〉

 少数精鋭の暗黒小説好きの皆さま、あけましておめでとうございます。昨年中はお世話になりました。本年もよろしくお願い致します。
 2021年の年明け1月から投稿できるのをありがたく思っております。お分かりの通り4章に突入致しました。数字が底をつき、今回からヘブライ文字で1.2.3.4…話を打っていきます。アレイスター・クローリーのトート・タロット見て以来のヘブライ数字です。クローリー大好きなんでこれも有りということで。
 精神状況はあまり良くないですが、そう言う時に逃避行動として、この暗黒小説執筆が役に立つのかと改めて思う次第です。仕事したくない病に罹っているのは、貧血が再発してるのと、昨年の疲労と寒いからでしょうか。何もしたくない。書いてるけど。最近、清水先生のセリフがCV神谷浩史で聞こえてくる病気も併発してるんですがどうにかなんないでしょうか。それと、あめふらし画伯からお借りした『宝石の国』1〜11巻を1日で読んでから、更に執筆が進んでこうやって更新できる運びとなりました。良い物語は創作意欲を掻き立てるものです。お礼に『呪術廻戦』0〜14巻を貸し出す運びとなりました。良いバーターだ。共に最新刊の地獄を行こう!
 では、本年もご閲覧感謝です!
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