清水センセは半開きの口のまま、自分の言ったことに半ば呆然となっていた。
「は……言っちゃったよ……マジかぁ……」
「すみませんでした。もう……もう無理……しないで下さい」
一気にのしかかってくる罪悪感に僕はその場で負けていた。この際、負けたほうが良いと思った。
「とりあえず、言えたことは評価する……自分を」
「ならいいんですが、これ以上は」
「すごいなぁ、生きてる人間に興味のない君が同情してくれてるの?」
「ええ、さすがに」
とはいえ、なにを言っていいか、それ以上掛ける言葉が見つからない。あの時は非道いと思った佐伯陸の母親がちょっとだけマシに見えてくる。
「ほんと? すごいな…じゃあ、もっと話せば、もっと興味持ってくれる?」
「え…それ、大丈夫なんですか?」
「いやさぁ、いま、なにがなんだかよくわかんないし。どうせ力が入んないから君の実験は今は出来ないよ。どのみち話せるのは薬が効いてる間の期間限定だから」
「ソラナックスってこんな風になるんですか」
「さあ、知らない。プラセボでもいいじゃない? これ、短時間しか効かないしさ」
そう言うと清水センセは呼吸することを思い出したように、大きく息を吸って、大きい溜息みたいに吐いた。
「前はもっと強いのも飲んでるから、これくらいは大丈夫だよ。もともと僕はそんなに身体が丈夫じゃなくてさぁ、小さい頃からすぐ疲れてダウンしたり、よく熱を出したりして、すぐ病院。薬もよく飲まされてた。こうやってぐったりしてると、なんかその頃のことを思い出すよ。小学校の頃は学校から帰ると、疲れて1時間くらい昼寝してた。人見知りで引っ込み思案だったから、学校ってさぁ、沢山いるじゃないクラスメイト。自分の好き嫌いに関わらず地域が一緒ってだけで狭っ苦しい箱の中に詰め込まれるってさぁ、どう思う? こっちは知らない人とコミュニケーション取るだけで、いっぱいいっぱいなんだよ。それもたった2年でクラス替えしやがって……ようやく慣れたなぁって思ったら殆どメンバー取っ替えられて、またその日から0から関係値積まなきゃなんないって、ほぼほぼ賽の河原じゃない?」
自分に全く興味のなかったことを訊かれてもよくわからなかった。だが、一旦話し始めると、意外にも彼の饒舌さが戻ってき始めていた。しかしこの小学校のエピソードってどういう脱線なんだろうか? このまま母親の話をしないで終わる可能性もあるな、と思ったが、僕の相槌も待たずに、清水センセの話は続いて行った。
「3年でそのクラス替えになって、新学期の1日目フラフラになって帰ってきてさぁ、1人だけしゃべれた子とも離れ離れでものすごく絶望感があって、その日もいつもの通り、自分の部屋に直行してベッドに倒れこんで。ものすごく疲れてたんだよねぇ。そしたら、しばらくして母がそっと部屋に入ってきた」
脱線ではなかった。清水センセのいつもの前置きだった。話しながら饒舌になりかけた清水センセの声が、囁くようなかすれた声になっていった。
「寝たフリしてると、母親が僕の顔を覗きこんでんだよねぇ。そしたらさぁ、ズボンが下ろされたの。えっ? って思うじゃない? そしたらさ、パンツも下ろしたんだよね。もうさ、怖くなっちゃってさ、目も開けらんないで言ったの。『僕、おねしょしてないよ』って。そしたらさぁ、『知ってるから、黙ってなさい』って。低い声で耳元で囁くんだよねぇ。怒らせると怖いからさぁ、黙るしかないでしょ。でさぁ、そっからいきなりだよ。アレ咥えられた。もう、びっくりして、も、『汚いからダメ』って、身体丸めて、言ってもさぁ、母親は『いいの。黙ってなさい。気持ちよくなるから』って。それからのことはよく覚えてない。このことは誰にも言っちゃダメ、と言われたのだけは覚えてる。でもそれ1回じゃ済まなかった。その日から、どれくらいの頻度か覚えてないけど、ずっと続いたよね」
「ひどいですね」
思ったことがそのまま思わず口から出た。
「言いなりだったね。元々、怖くて逆らえなかったから。犯される前からずっと過保護で過干渉で、悪い影響があるとかで好きに友達も作らせてもらえなかった。幼稚園の頃は悪ガキなんかと遊んでるのなんて言語道断で、そのあと監禁されてた。殴られたりはしなかったけど。じゃあ悪ガキじゃなければいいかっていうと、女の子と話してるのもだめ。今考えればあれは母の嫉妬だったのかな。でも他の家のことは知らないから、そういうもんだと思ってた。そのうち近所やクラスの子から、あそこのうちの子と遊ぶと大変だって無視されるようになってた。僕をいじめると母がものすごい剣幕で怒鳴りこんでいくから、いじめられはしないけど、みんな無視。それで一人遊びが上手になってったね。だから感情や挙動を失った生きてないものがどんどん好きになっていった。僕に反応する人たちと仲良くしたらどうせ母親に排斥されて嫌な思いをして居なくなってしまう。皆にも申し訳なかったし、そういうことがあるたびに母親に恨みがつのるし、だったら、僕に反応しない、母親の気にならないものを愛でようって、虫の死骸とか、カエルの死骸とか、集めたり拾ったりしてた。母に見つかると怒られて捨てられてたよ。遊ぶ友達が居ないからいつも図書館とか、自分の部屋で本や漫画を読んでた。母の言うことを聞いてると猫かわいがりしてくれる優しい母、気に入らないと激怒する母が交代で現れて、どうしていいかわからずに、母親の顔色を伺って、甘えるふりだけ上手くなってた。でも、それでも母親のことは好きだったんだ……犯される前までは」
死骸と本。僕と同じものが好きだった清水センセの少年期。でもその理由は少し異なるのかも知れない。僕は誰かと遊びたいと思ったことがない。清水センセはそれを禁じられた中で、次第に嗜好が傾いていった。だから僕に興味を持った。生きながら死んでるから。僕が生きてるものに興味がないと知ってはいなかっただろうに、母親はもういないのに、怒られないように傷つけないように自分に反応しない僕を無意識に選んだのだとしたら。
「どっかの男と不倫でもしてくれたほうがマシだったんじゃないかって思うよ。きっとその日も人肌が恋しくなったんじゃないかな。女子も性欲の強い人は我慢できないって言うし。親父とはセックスレスだったんじゃないかなぁ。でもさぁ、子供を性の対象にするって、駄目でしょ、おかしいでしょ。それはさ、ダメなんだよ」
「ええ、そうですね」
だが、彼女は人肌が恋しいだけじゃなかっただろうと思えた。これは、母親の独占欲を超えた自分の息子へのネジ曲がった恋情ではないのか。清水センセは気づいてないのだろうか。いや、気づいていても認めたくないだろう。自分の母が、仮にそうだったとして……と想像すらしたくなかった。
「別にうちはお金がないわけじゃなくて、家もまあまあ大きくて、おかげで私立の東京の医大に行かせてもらえたし、世間的に言えば中流の上くらいの家だったけど、母親はお見合いで結婚したみたいでさ、あんまり父親が好きじゃなかったんだろうね。お互いに笑い合っているのを見たことがないし。大手の銀行マンで堅い仕事だったから、暮らすのには困らないから結婚したけど、みたいなことを実家の親とかと電話で話してるのは記憶に残ってるなぁ。今なら父親も仕事が忙しすぎて疲れてたんだろうって想像はフツーに出来るけど、子供じゃわかんないよね。だって母や僕にも通りいっぺんのやりとりしかしてくれなかったしなぁ。メシ、風呂、晩酌、寝る、勉強しろ、ママの言うこと聞け。子供心に、よそよそしい父親だなって思ってた。もしかしたらずっと母以外の誰かと不倫とかしてたのかも知れない。好きな女の人との隠し子とかね。僕にわからないだけで、母は気がついてたかもだし。もう二人共死んじゃったから、本当のところは全然わからないけど……でもあなたの言いつけ通りママの言うこと聞いてたら、僕はあなたの替わりをさせられましたって。最悪だよ」
父親は僕の家の方が居なかったかも知れない。メシ、風呂、晩酌、寝る、勉強しろ、ママの言うこと聞け、すらなかった。うちの母親はあの夫で満足しているのだろうか。それとも僕が知らないところでまっとうなコミュニケーションを取っているんだろうか、僕が知らないだけで。
物語の半ばでも僕の性的トラウマより清水センセの方がはるかに深刻に思えた。母親もすでにノイローゼとか、もっとヤバい精神状態であった気がする。父親から娘への近親相姦はよく聞くが、母からその気の全く無い息子への過干渉や過保護以上の性的な関係というのは、余り聞いたことがない。
「僕が母親の“男”になったその日から僕は母親を失ったって思った。もう二度と母というものは自分の人生に戻ってこないんだなぁって。僕に女の顔して忍び寄ってくる知らない頭のおかしな人、っていうか。その日から人生が不可逆的に変わり果た感覚になった。だから小学校の4、5年の頃のことはあんまり記憶がないんだ。普段の生活の記憶もあんまりない。ひたすら恥ずかしくて重苦しい秘密の時間の感覚だけが残ってるだけの居た堪れない年月だったね。拒絶できない母がそっと部屋に入ってくるその絶望感の中で、行為が気持ちよくなっても終わった後の嫌悪感が凄まじかったし、気持よくなくてもその時間がひたすら辛かった。その関係が母親が死ぬまで続いた」
「え……どれだけ続いたんですか」
死ぬまでという言葉にゾッとした。それはどれほどの月日の長さだったのか?
「前にも言った気がするけど、僕の母親は早くに死んだって」
そんなことは聞いても忘れてしまっていた。
「小6の冬だったな。学校から帰ったら母がリビングに倒れててさ。発見したのも僕でさ。呼んでも揺り動かしても起きなくて、手を触ったらもう人間の体温じゃなかったんだよね。その瞬間、僕はこれは非常事態だって震えた。咄嗟によく家に来てた母方の祖母の家に電話した。お母さんが倒れてて、冷たくなってるって言うと、祖母は、『すぐに119に掛けて救急車呼ぶから、電話切って待ってなさい、おばあちゃんもすぐ行くから!』って言ってくれた。でも一人で待ってるのは長かったなぁ。救急車が来て、玄関で救急隊員の人を見たら、ホッとしたせいかそこで座り込んで動けなくなった。その後、警察も来て、僕にいろいろ聞いてきた。祖母もそのあと来て僕の面倒を見てくれた。でも母親はそのまま運ばれなかった」
典型的な異状死体。まさか自殺だったら、と思うと、その先は聞きたくない。
「検視じゃ済まなかった。それは僕が医学生になってから父親から聞き出したんだけど。母は若かったし、僕が知る限り特に通院もしてなかったからね。でも、自覚症状無くても高血圧だったりしたのかなぁ。祖父は僕が幼稚園の頃に脳出血で亡くなったらしいから、遺伝もあったかもしれないけどねぇ。僕が帰ってきたとき玄関の鍵は開いたままだったし、盗まれたものがないかどうか、怨恨の線とか警察が父親に調べさせたとか言ってたな。でも特にそういうのは無くて、結論は内因性急死だよ。警察は事件性が無いって。司法解剖は病的なクモ膜下出血だったらしいよ」
自殺ではなかったようでホッとした。クモ膜下出血は、病的出血と外傷による出血とがある。病的なものの多くは脳動脈瘤の破裂によるものだが、外傷性の場合、多くは転倒などによる頭部の打撲や殴打の衝撃で脳挫傷に伴って生じるし、まれに潜在的な動脈瘤が外的な衝撃で破裂することもある。
「そんなんで、葬式まで周りも落ち着かなくて、大人たちがバタバタしている中で僕は何も出来なくて茫然としてた。でも僕の中はショックと安堵の2つの気持ちで引き裂かれてた。母が死んでしまったショック、母からもういやらしいことをされなくなって、父親に内緒にしてなきゃいけない絶望感が消えた安堵、そのふたつ。母親が死んでホッとしている自分が許せなかったけど、母を憎んでたのは事実で、父にも母にもおどおどしなくていいって思うとその開放感はすごかったんだ。そして、これは、母に天罰が下ったと思うようにした。僕のせいで母が死んだと思いたくなかった。どこかで、母がおかしくなったのは自分のせいかも知れないって、思ってたから。なぜ、イヤだって、一度も言えなかったのかって」
「だって、怖かったんでしょう? 無理ですよ」
理不尽な自責の念が未だに彼を蝕んでいるのだろう。子どもというのはそういうものだと、虐待児の解剖の授業で講師が言っていた気がする。
「頭ではわかってるけどね。気持ちに整理が着いてはいないよ。ただね、お通夜で動かない母の屍体を見てたら、失ったものがようやく帰ってきた、っていう矛盾した感情がこみ上げてきたんだ。死んでしまって喪ったと同時に、死んでおとなしくなって僕に非道いことしなくなった母は、僕にとって安心な母親に戻ったって。そう思ったらわんわん泣けてきて、でももう生きた母は帰ってこなくて悲しくて泣いて、もう何がなんだかわけがわからないまんま、死んだ母親の隣で今までの苦痛を吐き出すかのように泣いて泣いて。だから、元々の性癖もあるけど、屍体が安心感と復活の象徴なのかもね、僕にとって。変な話だけれど」
清水センセの二面性の奇妙さの原因が少しわかった気がした。出来事の気持ち悪さと失われたものが大きすぎて聞いている僕の吐き気はずっと続いていた。こういうのを胸糞が悪い、というのかも知れない。佐伯陸の告白もひどい事件だったが、清水センセの体験も目に余る非道さだった。そして僕に同情する気持ちもわかる気がした。
「結局、それで性欲への嫌悪感で虫唾が走る不自由な心と身体になった。で、母のせいで女には興味がなくて、特に年上の女性とセックス関係のものには特にトラウマが刺激される。オナニーも気持ち悪くてする気になれない。性癖もあってどんどん屍体の虜になっていって、男性の屍体しか見たくなくなって、ある日君を知って、君しか見えなくなって、それで今に至るってわけ」
そこまで一気に言うと、清水センセは吐き出しきったような虚脱した顔になった。止まった言葉をそのままにして、なにか遠くの記憶を思い出しているように、ここを見ていない眼になっていた。僕はなんと言って良いのかわからないし、この余韻を破ることもする気にはならなかった。
「君だから話せたんだろうな。一生話せると思ってなかったから、こんな気持ち悪い話をさ。まさかここで話すことになるなんて思ってなかったよ。頭がぼーっとしてる」
ボーッとしたまま、清水センセは付け足した。ボーッとしている清水センセに申し訳ないと思いながら、僕は途中から気がついた矛盾をどうしても聞き正したくて、しばらくしてその余韻を破った。
「そんなトラウマ持ってるのに、僕の動画、よく編集できましたね」
「君の動画じゃなかったら、初日でギブアップしてたさ、確実にね」
ボーッとしたまま、当たり前だ、わかってるでしょ?とでも言わんばかりの調子で、清水センセはゆっくりと確信に満ちて答えた。
「動画の中の性欲への嫌悪は、あの男に対する憤りと嫉妬、そして君への愛と君を知ることが出来た感謝に変わったから。錬金術みたいだね。とはいえ昇華するまでの間に気が狂いそうになったし、その時に僕の精神や心はそれなりに壊れてる気はする。でも、壊れたお陰で、母から食らった好きなものに対する抑圧や我慢も一緒に崩れ去ったみたいだったから、身心が壊れるのもアリだなって思うんだ。壊れたから今がある。それは否定できないな」
ポジティブなのかおかしいのかなんなのかよくわからない前向きな発言なので、あまりよく理解できない。だが、僕に対する何のためらいもない熱狂的なアプローチは、壊れた結果そうなったということだけはわかった。清水センセの言動は、“しばしば真理を口走る狂人”というような、ギリシャ悲劇かシェークスピアなんかに出てきそうな、例えば、目を潰されて追放され復讐に囚われて気の触れた前王、的なものを感じる。正味、気が触れてるのからだろう。毎度毎度新鮮に感じる狂気だ。想いをそのまま口にすることの躊躇が微塵もない。普通じゃ考えられないだろう。僕ですら母や隆の教えを守って「言わなくて良いことは言わない」ようにしてるのに。だからといって僕がまともである保証もないが。
「まぁ、僕も酷すぎる性行為と人生の理不尽にまみれたからこの仕事に就けたということも感じてますので、同じような錬金術なのかも知れないですね。とにかく先生がなんで僕を犯さないのかずっと不思議でした。例のあの人も、その他の人も、勝手に僕の首を絞めて犯していくので、すごく清水先生は我慢強いのかなって」
「え、あの男以外にも?」
「はい。中学の時」
「ひどすぎる」
「みんな淋しいんです。死ぬほど淋しいんで、言いなりの僕を抱くんですが、報われなくて可哀想です」
「そうだね。母親もたぶん死ぬほど淋しかったんだろうよね。言いなりの僕を抱いてた。それで心は埋まったのかな…」
「たぶん、もっと淋しくなるんですよ」
「ほんとに不倫してくれたらよかったのに……君は淋しくないんだね」
「はい。屍体は淋しくないです」
「良かった」
「でも、周りの淋しい人たちを更に淋しくさせてるようなので…それは心苦しいです」
「それはみんなの勝手だよ。君のせいじゃない」
「そう言って頂けると安心します」
それを聞くと清水センセは気持ちよさそうに微笑んだ。
「君に安心をあげられて嬉しいよ。気持ち悪い話にも沢山共感してくれたよね。まさかこんな日が来るなんて」
「言いたくないくらい嫌なことを根掘り葉掘り訊いてしまって、すみません。こんな辛いことだったなんてわからなくて」
「根掘り葉掘り…人に興味のない君に根掘り葉掘り…こんな幸せなことあるのかな?」
「セカンドレイプみたいになってしまってませんか?」
「そりゃ、最初は辛かったけど、今は言えてよかったって思ってる。裕くんが僕に興味を持ってくれてるなんて…頑張った甲斐があったよ。幸せでまた泣いちゃいそうだよ」
「無理に頑張らせたんでしょうか。やっぱりすみません。辛かったですよね」
「ううん、謝らないで。僕さ、変だと思うかも知れないけど、今、初めて、母親から酷いことされて良かった、って、思ってる…」
「え?」
「君に話してって言われて、真剣に聞いてくれて、その上同情までしてくれて……これってどれだけ特別なことなんだろうって」
「いや、あの、僕は結構酷いことしたと思うんですが」
だんだん、清水センセの顔が恍惚としてくるのがわかった。
「違う…違うんだよ…どうしよう……僕の中の最悪な記憶が、僕の心を喜びで満たすための道具として機能してるんだよ? どういうこと?」
「それは盛り過ぎでは…?」
「憎しみを手離せるなら盛り過ぎでも勘違いでも構わない」
清水センセは真顔になり、拳を握りしめた。
「心と身体をめちゃくちゃにされたんだよ。実の母親に人生を押し潰されたんだよ。そう思ってたのに…許すつもりなんかこれっぽっちも無かったのに! それが母からの最大のプレゼントだったとしたら、僕はたった今、救われるんじゃない? ねえ、裕くん? 君の関心を数十分僕にくれた母の行為は、それだけで許されていいって思えたら? 僕の憎しみと恨みと罪悪感を君の同情と関心と引き換えに出来たんだとしたら? 僕は救われるんじゃない? ねえ、裕くん! ねえ…ゆうくん…」
最後には消え入りそうな声が掠れていた。その後に両手が顔を覆った。両肩が震えて、清水センセは再び違う嗚咽の中に溺れていった。長い長い絶望だったろう。その残酷な日々の意味を作り変えられる可能性を僕のような無関心な死人に託し、小学生のように泣きじゃくっている清水センセの声の切なさに、胸が痛んだ。その秤に乗るような価値が僕にあるのか、と。
実験は中止になった。清水センセの薬は抜けそうにもないし、薬よりもなによりも、僕のせいで二十年の桎梏と深い傷を初めて吐露する羽目になったことが、そしてその前に話した、清水センセのトラウマの件でもう忘れかけてるくらいの、「僕が清水センセを犯罪者にしたくないので僕はもう殺してくれって言いません」宣言の葛藤と疲弊、そして実験を始めるきっかけになったあの写真集と佳彦のバラした自殺リトマス紙の話によるショック状態で、今日のお互いのキャパがいっぱいいっぱい以上になっていたのが主な理由だ(当たり前だ)。出来事として、この要素は3ヶ月かそれ以上の期間のエピソードに相当するだろう、一晩で経験するような内容では到底ない、と、ソファに横たわったまま起きられない清水センセと話して同意した。
「何が起きたかは頭ではわかってるんだけどさ、取り敢えず整理がつくまで時間くれない?」
それは僕も同じだ。
「ええ、もちろんです。僕にも時間が必要ですし。とにかく寝たほうが良いです。お互い、ですが」
「ああ、そうだね。もう…2時過ぎたし。僕はもう動けないからソファで寝るよ。となると君を家まで送ってあげられないから、深夜タクシーを呼ぶか、うちに泊まるか2択になるけど、どうする? タクシー代は僕が出すからお金のことは気にしないで」
「深夜割増ですよ。いくらくらいになりますか?」
「前に新年会で深夜タクシー使ったなぁ。いくらだったかなぁ。5〜6千円だったと思うけど?」
「それはあまりにも申し訳ないです」
割増料金もさることながら、泊まってもいいと思わせるのは、清水センセは添い寝してくれとか、朝まで犯したいとか、どこかの誰かさん達のようなことは強要しないということだ。またもやタクシーで帰るという選択肢を僕にくれるとは、今までの人間関係にはない要素でもある。寝静まった後に、気づかれないように僕の寝顔を夜が明けるまで眺めてるという可能性はあるが。それは僕がわからなければどうでもいい。とにかく泥のように疲れて眠い。タクシーを待って、マンションまで帰ったら3時を過ぎる。
「別にタクシー代なんて気を遣わなくていいんだよ? あ、帰る前にお願い。使っちゃって悪いんだけど、僕の寝室の押入れから羽布団持ってきてくれないかな? 一番右の上にクリーム色のがあるから。あと、僕のベッドに枕があるからそれと」
「了解です」
言われたように持ってきた羽布団を清水センセの上に掛け、枕を頭の下に押し込む。小さい頃、こんな風に母がしてくれた記憶が役に立つ。
「も少し頭上げて下さい」
「ふふ…裕くんに世話してもらってる。ありがと。嬉しくて気が遠くなりそう」
「そうですか。気が遠くなればすぐに眠れそうでなによりです。別にこれくらいはしますよ。あと、よろしければ泊まらせてもらってもいいですか?」
「泊まってくれるの? いいの? ほんとにいいの? 怖くないの? 無理しないでよ? 僕は何もしないけど…今日は特になにも出来ないけど」
「ええ、知ってます。もう、疲れて眠くて立ってるのも辛いので」
「わかった。君は僕のベッドで寝てくれればいいよ。さっきの押し入れに客用の枕があるから、君はそれ使って」
「はい、すみません。泊まります」
「トイレは玄関に行く廊下ね。洗面所はトイレの手前のドア。お客用の歯ブラシは洗面所の鏡を開けると左にあるよ。勝手に出して使って。パジャマ要る?」
「いえ、Tシャツとトランクスで寝ます。疲れてるのにいろいろすみません」
「いいよ。泊まってくれるんでしょ? 明日の朝起きたら君がまだ居るんでしょ? もう何も言うこと無いよ」
「じゃあ、寝る支度します。お言葉に甘えて歯ブラシ貰います。電気は?」
「ああ、リモコンあるから、ここに。寝室に行く時にでも消してって」
「はい」
「じゃ、おやすみ。朝は寝たいだけ寝てて。水は勝手に汲んで飲んで」
「そうします。おやすみなさい」
洗面所から帰ってくると、ソファの方からすすり泣く音がした。二十年分のカタルシス。そんなすぐには終わるわけはないだろう。布団を頭までかぶっているので顔は見えない。ティッシュの箱を取って、清水センセの手の届く床に置いた。
「ティッシュの箱、ここに置きます」
テーブルの上の照明のリモコンを切る。暗がりの中でかすかに声がした。
「…ありがと」
「いえ」
「…ごめん」
「いえ」
寝室のドアを閉めた。そのうち嗚咽の音がドアの隙間から漏れてきた。大人が子供のように泣くのを聞くのは、いつも切ない。
〈近況とあとがき〉
節分前まではしばらくキマってたんですが、立春から反動で落ちてました。来るよね、あれだけ派手にアッパーだったらさ。再発した貧血も手伝って、長時間歩いて吐くとか、疲れて胃に負担が来て吐くとか、なにかと月一で吐いてました。彼岸を過ぎたあたりで体調が戻ってきたので、書く欲情も再燃してます。頭のイカれたイケメン黒縁メガネドクター(岸谷新羅風味)がどんなふうに気が触れてるかを書くのが快感でたまりません。ま、若干自分と似たところはあるんですがね。私のほうがずっとヤンデレだと思われますが。
最近の執筆用BGMはBINをyoutubeで次々再生して聞いてます。いくらでも書ける。この前、コメダ珈琲で飲んだ“小豆小町 桜”という、ミルクティにつぶあんを入れたのが大変お気に入りで、自宅で作って飲んでます。紅茶の渋味と小豆の甘さとわずかの渋味がマッチして美味しゅうございます。
それにしても夜遅くまで寝られないのが悩みです。そんなんで今日も2時にUPです。本日もご閲覧ありがとうございます。