遠いところでブオォォォンという騒音が聞こえている。何の音かわからないまま、寝ぼけた頭で聞くとも無く聞いていた。ここはどこだっけ? いま何時なんだろう? あの音なんの音? 眠い。寝起きはいつも悪い。
だんだん目が覚めてくるに従って、意識と記憶が戻ってきた。ああ…清水センセの家だっけ。泊まってもやっぱり何も起きなかったな。泥のように眠っていたので何かが起きてもわからなかったけど。膀胱がかなりいっぱいになっているのに気づく。そろそろ我慢ができなくなってくる前にトイレに行かねば、と、仕方なく動かない身体を起こした。ホントは屍体は起きないのにな…今日もまた起きてしまった。
メガネを掛けて寝室のドアを開けると、ソファには清水センセの姿はなかった。居間の窓の外はもう明るい。壁の時計を見ると9時ちょっと過ぎを指している。案外早く起きたんだな、とぼーっと考えながら、昨日教えてもらったトイレへの順路へ向かうと、ブオォォォンという騒音が大きくなった。
Tシャツとトランクスのままで廊下に出ると、洗面所のドアが半開きになっていて騒音はそこから聞こえていた。ドライヤーの音だろうと気がつく。清水センセもそこにいるであろう。風呂にでも入ったのだろうか。動けるようになっているんだな、と、ちょっと安心した。驚かせないように開いている扉をノックし、ドアから顔だけ出して、上半身裸で濡れた髪を熱風で乾かしている清水センセに朝の挨拶をした。
「おはようございます」
「裕くん…」
せっかくびっくりさせないようにしたのに、清水センセは驚いたような声で振り向いた。メガネをかけていない。騒音が途切れた。
「思ったより早起き」
「自然に目が覚めました」
清水センセは僕を眺めたまま茫然としている。いつの間にかドライヤーを持つ手がだらんと垂れ下がっている。急に膀胱が逼迫してきた。
「あの、トイレに起きたんで、トイレ借ります」
「あ…ああ、使って」
急いで洗面所の隣のドアを開けた。用を足してホッとしていると、再びドライヤーの音が聞こえてきた。すっかり目が覚めてしまったので、このまま起きようと思った。
寝室に戻り、昨日脱いだ服を着終わる頃には、清水センセは頭を乾かし終わったのか、トランクスの上にバスタオルを羽織って寝室に入ってきた。着替えをしにきたようだった。ベッドに腰掛けている僕を見てまたちょっと驚いたような顔をする。
「本当に朝起きたら君が居るんだね」
「はい」
「おはよう」
「おはようございます」
「朝ごはん食べる?」
「どちらでも」
清水センセは僕に背を向けてクローゼットの中をゴソゴソし、次々と着替えを床に積んでいった。その動きでバスタオルが肩からスルッと床に落ちると、その右の肩甲骨から肩の方向にかけて、濃いピンク色の彗星が尾を引いたような10cmくらいの創傷があった。この色だとそんなに古くない傷のように見える。肌が白いのでその色は目立った。
「シャワー浴びてた。昨日そのまま寝ちゃったから。寒い寒い」
清水センセは僕に背を向けたまま急いで厚手の茶色のズボンを穿き、長袖Tシャツを手に取った。それを着る前に僕は彗星状の傷について質問した。
「背中の傷、何ですか?」
「ああ、見えた? 何だと思う?」
「近くで見てもいいですか?」
「え…良いけど…」
珍しい傷だ。擦過傷に似ているが輪郭がはっきりしている。えぐられているのにそれほど深くない。生きている人間の背中をこんなに近接で観察したのは、殺し屋の穂苅さんの背中に彫ってあった暁斎の髑髏以来だろう。傷を間近で眺めていると、いつの間にか清水センセの顔が真っ赤になっていた。
「ゆ…裕くん…近い」
清水センセらしからぬ発言に違和感を覚えつつ、見慣れない傷跡を観察しながら答えた。
「先生から抱きしめられた時のほうが0距離でフルコンタクトだったんですが」
「いや、あの……君に…裸をマジマジと見られるのって…照れるな…」
「僕以外の人にマジマジ見られても照れないのでしたら」
「うん…照れない」
「で、これはなんですか? どこかで見たような気もするんですが。火傷みたいだけど…こんなところに火傷するシチュエーションってなんでしょうか。擦過傷ですかね? 擦過にしては深いし。あれ? まさか…銃創?」
「当たり。さすがだね、裕くん」
今度は僕がびっくりした。一体なにがあったんだ?
「なんでこんなことに?」
「アメリカで」
「撃たれた…んですか?」
「うん、流れ弾なんだけどね。僕を狙ったんじゃなくて、犯人が乱射した銃の弾が背中をかすってこんなになっちゃった。かすっただけでこの傷だ。銃ってスゴいよね」
「事件に巻き込まれたってことですか?」
「法医学の研修してた大学の構内で銃の乱射事件があったんだ。犯人の近くにいた人たちは無関係でもみんな巻き込まれたんだよ。僕もたまたま通りがかっただけ。音を聞いてもすぐに銃の発砲だってわからなくて逃げ遅れたんだ。聞き慣れた音じゃないからね。もう着ていい?」
珍しいので、もう少し観察したくなった。
「あの、触ってみてもいいですか?」
「えっ? 触るの?」
「あんまり見れない傷なので、後学のために手触りを知りたいな、と」
「マジか……勉強熱心だね。学問のためなら照れてるわけにもいかないか」
いいよ、と言われたので傷の縁に沿って指を滑らせる。一瞬、清水センセの肩がピクッと動いた。
「手が冷たかったですか、すみません」
「いや、ちょっと、あの、なんか裕くんが積極的に触ってると思うと…もうドキドキしちゃって…心臓に良くないよ…」
「すみません。銃創は貫通はたまにありますが、こんな大きな擦過銃創はあまりなくて……しかも生きてるから瘢痕化してるし」
「ごめん、大変残念だけど、そろそろ着ていいかな? 寒くて」
「あ、すみません。もう十分です。どうぞ」
日本人には実際の銃撃音などわからないだろう。アメリカの一般市民が銃で命を落とす数は毎年1万人以上になる。1日で100人銃で死んでいると言われている(そのうちの60%は銃による自殺らしいが)。清水センセは長袖Tシャツの上に厚いタートルネックの白っぽいセーターを被った。僕にはちょうどいい室温だが、普通の人は寒いんだろう。
「犯人は学生で、薬物をやってたらしい。コカインだったっけ。妄想が嵩じて、自分が殺される前に周りを殺さなきゃって思ったそうでさ。不幸中の幸いは、射撃が下手だったことと準備した弾数が少なかったことだね。あと、警察が割とすぐ駆けつけてくれたのも大きかったな。負傷者は10人以上出たけど、死んだのは1人だけで、その負傷者の一人が僕」
「銃で撃たれるって、どんな感じですか?」
再びベッドに腰掛けて、僕は清水センセに尋ねた。日本で銃で撃たれた人に直接話を聞けることはそうそうない。銃で撃たれて死んでないことが条件だし、日本では警察や自衛隊や猟友会の他には例の組の人以外ほぼ銃は持っていない。
「熱いね。とにかく灼熱の何かが押し付けられた感じだった。何が起きたか瞬間的にはわからなくて、どこかからパーンパーンって音がするんだ。逃げてきた人たちが口々に『逃げろ! 銃で撃たれる! あいつ基地外だ!』って叫んでるのを聞いても、自分に何が起きたのかパニクっててわからないんだよね。とにかく逃げていく人たちと同じ方向に慌てて逃げた。誰かが、僕の腕を掴んで、血が出てる! 肩も背中も真っ赤だ!って教えてくれて。だけど背中だから自分じゃどうなってるかわかんないじゃない? ウソだろ?って撃たれたって認めたくなかったね。でも右腕は上がらないし、左手で肩を触ると指に血が付いてきて、血を認識するとだんだんフラフラしてきて熱さが痛さに変わってきて、動けなくなって、もしかしてほんとに撃たれたのかなって、その時初めて思ったよ。そのうちにパトカーの音がして警察が来て、すぐに犯人が確保されたみたいで、地べたにうずくまってる僕を警官が見つけて、すぐに救急車で搬送された。入院先の病院で、もう少しずれてたら心臓とか肺に当たってる高さだったって言われて、ここで命拾いするのかって…なんか不思議な気分になったね」
清水センセは遠くを見るような目で当時を思い出しながら、冗談にならないようなトラウマ体験を割と淡々と話した。
「結構目立つのかな? 自分の背中だから見れなくてさ。受傷直後の画像は見せてもらったけど、レーザー治療のお陰で治っても拘縮しなかったんでそのまま放っておいてる。右肩関節のROMにも問題なし」
ROMとは“Range Of Motion”、関節可動域のことだ。『10年ROMってろ』のROMではない。関節が柔軟に動けばROMは問題なし。角度や方向によって運動制限があればROM制限あり、などとカルテに書かれる。ROM制限を引き起こす原因として、疼痛、拘縮、筋収縮、脱臼、関節内遊離体など様々なものがあるが、外傷の瘢痕が関節のROM制限になることもある。清水センセの擦過銃創は肩関節に影響の出る場所だったので、瘢痕化しないようにレーザーで治療してくれたということになる。
「まだピンク色ではっきり見えます。確かにケロイドにも瘢痕拘縮にもなってませんね。3年位前ですか?」
「それくらいになるかなぁ」
「トラウマですよね、そんな珍しい経験」
自分もトラウマだらけだが、清水センセも相当の遭遇率である。
「それがそんなになってない、んだろうなぁ」
「そうなんですか?」
「映画とかドラマの銃撃シーンとかもPTSDも出ないしねぇ。フラッシュバックもないし。多分、犯人の顔も撃ってるところも見えないまま、いつの間にか撃たれてたから、恐怖心が出るヒマがなかったっていうか、傷も血もその時ははっきり見えてないしね」
「パニックにはなったんですよね?」
「何が起きてるかわからなくてパニクってるんで、戦慄した感覚じゃないんだ。混乱っていうかさ」
「そういうもんなんですね」
「僕はね。近くで撃たれたり、犯人の顔をハッキリ見てたら、かなり残ったかも。あと、死んでもいいかなって、どっか思ってたからかな、あの頃は。逆に死ななかったことの解釈に困ったというか…こんな状態で生きてることの意味ってあるのかって思ってたから。今ならはっきりとわかるけどね」
そして、なにかに気がついたように僕に言った。
「あ、ちなみにこの銃弾は一般的な9mmパラベラム弾」
「日本の警察と同じ口径ですね、9mmパラベラムの方が威力が高いですけど」
「朝ごはん抜きでいい?」
銃弾の話と同じ口調で全く違うカテゴリーの質問が投げられた。
「あ、ええ、僕はかまいません」
「昨日の今日で、さすがに食欲がなくてさ」
そのあと二人で居間に移動して水分補給した。僕は水、清水センセはカフェオレで。あの初めて会った夜に、パクパク独りでチャーハンを食べていた清水センセの場違いな食欲はなんだったんだろうか、と疑問が湧いたが、彼の母親の問題はあの日の緊張と狂気を遥かに凌駕する深刻さだったんだとそれで理解できた。
カフェオレを飲み終わる頃に清水センセが窓の外を眩しそうに見た。晴れている。今年は雪が少なくて、ほとんど積もっていない。
「気晴らしに散歩しようか? 隣のメモリアルパーク。好きでしょ?」
「ええ。好きです」
「僕も好き。休みの日は独りでよくぶらぶら歩いてるよ。少し歩いたらお腹もすくかな」
二人でアウターを羽織って玄関を出た。午前中の冬の冷気が心地好かった。
風はなく、日なたは日差しがほんのり暖かかった。霊園の裏門から入って行くと、東屋があり、その奥の広い整地に墓石が思った通り規則正しく並んでいた。遠くにチラホラと2、3人の墓参の姿が見えるが、それ以外はほとんどの区画に人はいなかった。納骨の団体もないし、法要も見えなかった。
静かだ。
僕達はアウターのポケットに手をツッコんで、並んでその間をゆっくり歩いて行った。足元には芝生が敷き詰められていて、薄茶色に冬枯れしていた。すべて同じ規格の横長の墓石が並んでいるので、目線を遮るものは木立しか無く、視界が広かった。遠くに山並みが見える。乾燥している空気は透明で、山の稜線が青空にくっきりとした境界を作っていた。時々どこかでカラスが鳴いている。
「アメリカもとうとう土葬より火葬の方がパーセンテージを上回ったってね」
「ああ、そうなんですか。火葬が増えてる話は聞いてましたけど」
「火葬の場合、墓じゃなくて散骨も多いね。墓地にバラ園なんかがあって、そこに皆が遺灰を撒いていくんだ」
「遺灰は有害な六価クロムが生成されるので、散骨の場合、還元剤で無害化処理するっていうのを聞いたことあります」
「六価クロムね。すべての遺骨に生成されるわけでもないらしいよ。散骨代行サービスで六価クロムの検出してから処理するかしないか決めるって」
「火葬って大量の燃料が必要ですよね。車が1ヶ月に排出する二酸化炭素量を一体の火葬で排出するし。アメリカの人口で火葬が主流になったら環境に悪そうです」
「ああ、まぁそう言うよね。ダイオキシンなんかの排出量も火葬場は4位だっていうから。でもダイオキシンの発生源って副葬品を一緒に燃やすかららしいけど」
「そう言う意味で、環境負荷的にも火葬は“持続可能な目標”ではないと思いますね」
「まぁ、そうかも。君って結構細かいこと考えてるね」
「そうですか? 屍体のことならなんでもずっと考えてます」
「まぁそうだよね。僕はあるときから考えることが“君のことが90%、他の屍体についてが10%”くらいになってるから、メタな屍体についての細かいことを考える時間が減ったのかもね」
「そうなんですか」
「そうですよ」
それから僕達はなぜか、最もエコロジーな埋葬方法について話し合った。樹木葬、海への散骨、鳥葬、好きなものへの知識量がそれなりに拮抗しているので、互いの思考の穴を指摘しながら話が進んでいく。まぁ、墓地で話すこととしては極めて理想的だろう。
「…鳥葬は日本のどこで可能かってことだよ。衛生的なこと考えるとさ」
「少なくとも、チベットではあの高地で屍体が腐りにくいから行えてるんでしょうし。高地で屍体が腐りにくいから土葬が地域性に合わないわけですから」
「日本の山間部では現実的にどうだろうね。地中で腐敗するから土葬だったんでしょ。だいたい日本に屍体を完食してくれるような猛禽類っていたっけ?」
「確かに猛禽類はもっと増やさないとですね。でも増やせばネズミやカラスやヒヨドリの害は副次的に解消されて、ある意味一石二鳥な気もしないではないです」
「鳥からついばまれた屍体の潰乱の様子は割と好きなんだけどな。腐敗していくより好感度は高いよ」
「多分、合理性で言えば鳥よりバクテリアや細菌の腐敗のスピードを上げて、コンポスト化するのが一番なんですよ」
「それ、シアトルでマジで法制化されるんだってよ。『ナチュラルでオーガニックな還元』って。君の理想が将に実現されるってことだよ。森林の育成に使用されるって話だから」
「本当ですか!? 良いですね。アメリカ人って合理性を実現できるのが本当に羨ましいです」
「評価高いね! 君のナチュラリスト的な発想の源が知りたいよ」
九相図が嫌いな清水センセが苦笑した。ナチュラリストVS.アーティストの論戦になってきそうだ。
「エンバーミングの防腐剤も土壌汚染の原因になってるらしいですし」
「それはアメリカで結構問題視されてた。だから最近はホルマリンを使わないエンバーミング保全液ってのが開発されてる。とにかく土葬は減り続けてるね。それでスウェーデンじゃあフリーズドライ葬ってのが開発されたみたい。液体窒素で凍結粉砕だって」
「寒い国の発想ですね。ところで液体窒素ってどうやって製造するんでしょうかね? そこで過剰な電力とか使ってたら余り意味が無いですけど」
「環境問題でよくある矛盾ってやつだね。電気自動車のバッテリー製造時のCO2の排出量が、ガソリン車の製造時より大きくなるってアレね。それと、コンポスト葬と違ってこちらの埋葬後の遺体は、土中で完全に分解されるまでに数十年かかるらしいから、まだ改良が必要かと思うね」
「とにかく死んだら食物連鎖の輪に入りたいって思います。コンポスト葬は現実的で良いですね。それだけのためにアメリカに移住したいくらいです。でも英語が死ぬほど苦手なんでどうすればいいんでしょうかね。面倒なんでいっそサバンナでハイエナとかライオンに食われたいですよ。僕はシンプルが一番だと思うんで」
「それは現代社会で最も贅沢な死に方だよ、裕くん」
「まぁ、それは知ってます」
それを聞いて清水センセは意外そうな顔で僕の顔を見た。
「一応わかってるんだ、自分で」
「ええ、まぁ。ナチュラリスト以上にリアリストなんで」
「え? リアリストなの?」
「少なくともこんな社会不適合者のくせにどうにか自分好みの就職してる時点で現実主義者だと自負してます」
「確かに。ニートになっててもおかしくないもんね。なんか君って意外に妙な図太さがあるよね」
「屍体だから死ぬ恐怖にまつわる感覚が無いから、ではないかと」
「そりゃそうだ」
清水センセはそう言うと嬉しそうに笑った。
「楽しいな」
「ええ」
「独りじゃなかったことがなかったから、こうやって誰かと二人で晴れた日の墓地を散歩しながら屍体の埋葬について語り合ってるなんて、こんな日が来ると思ってなかった」
「それは僕も思ってます」
「……迷惑じゃない?」
「迷惑ではないです。興味のあることをこうやって語り合うことが僕もなかったので、それが楽しいかどうか知りませんでしたが」
「僕は高校、大学の頃にサブカル好きな仲間がいたんで、ほんの少しだけこれのシュミレーションがあった。でも、そこにはガチの屍体愛好家がいなかったのと、男子学生特有のセクシャルな嗜好が常に付き纏ってて、それを避けるしかない僕はほとんど蚊帳の外だった。浮いてはいなかったけど、孤独には変わらなかった。母は死んだ後も僕に仲間を作らせないのかと恨んだよ」
「仲間が欲しいと思ったことがなかったので、それは僕にはわからないです」
「そうか。だよね。生きてる人間に興味がないんだから。じゃ、今は?」
「同じ興味について語り合うのは楽しいと思います。なかなか居ませんので」
「僕に興味はなくても、僕の屍体への愛には興味があるということだ。それは僕にとってはほぼ僕自身なんだけどな」
幸村さんにもかつてそんなこと言われたな、とそれを聞いて思い出した。お前の解剖はお前自身だ、だったっけ。
「これが生きてる他人に興味がある、ということなんですかね?」
「どうだろ?違うんじゃないかな。特定の誰かに興味があるというのは、その人について屍体以外のことにも興味を持つとか、他の誰でもないその人が話す屍体の話に興味があって、誰の屍体の話でも良いわけじゃない、この人じゃないと楽しくない、ということが起きるか、だよね。屍体の話なら誰とでも楽しいのなら、誰にでも首を絞められてイクってというのと同じでしょ」
「そうですね。でも先生はエロいことをしないのでそこを思い煩う必要がないので良いです」
「それが普通なんだよ。僕は君とこんな話を延々としていられれば、君が僕に興味があろうがなかろうが別にどうでもいいって気になったけどね。君が僕と並んで歩いていて、墓地で、気持ち良い陽が差していて。生きているものに興味のない君となぜか楽しく好きなことを話していられるこの幸せな時間は、何ものにも代え難いなって」
「死んだ僕をエンバーミングして一緒に暮らしてるのと比べたら、どうですか?」
僕がそう言うと清水センセは立ち止まった。僕は2、3歩先に進んで、振り返って彼を見た。その顔はなぜか無表情だった。
「どうしたんですか?」
清水センセは無言で首を横に振った。
「僕、なにか変なこといいましたか」
その問いにも答えず、彼は首を横に振った。そしてゆっくりと空を見上げた。
「帰ろうか。そろそろ昼も近いし」
「ええ」
何もなかったように清水センセは僕にちょっと微笑みかけ、また横に並んで歩き出した。再び東屋の脇を通り抜ける。少しうつむき加減の清水センセの横顔が僕の視界に入ると、その唇が微かに動いていた。独り言のようになにかを囁いているのだろうその声は僕には聴こえなくて、一体なにを呟いているのか唇は読めなかった。家に着く前にその独り言は終わっていたようだった。
一言も話さずに玄関まで帰ってきた。居間に入ると「座っててよ。お昼作るから」とだけ言われ、そのあとダイニングカウンターに並んでトーストとサラダの昼ごはんを食べた。清水センセはトーストの半分にピーナッツバターとオレンジマーマレードをそれぞれ塗って、半分に折った。僕がその変な組み合わせを不思議そうに眺めていると、「アメリカ式PB&J」と教えてくれた。ピーナッツバター&ジェリーの頭文字を取ってPB&J。ジェリーはジャムのことだそうだ。
「僕も最初見た時、ゲッなんだこれ!って思ったよ。でもアメリカ人の同僚に無理やり食べさせられた。これがアメリカ人のソウルフードだって。それから、不本意ながらこれはアリだなと」
統計によると、平均的なアメリカ人は高校を卒業するまでに一人当たり1500個のPB&Jサンドイッチを食べるんだそうだよ、と清水センセは付け足した。日本人ならおにぎりというところだろう。
「君は要らない?」
「えっと、どちらでもいいですが」
「ビタミンB群とかミネラルとか栄養素が気にするなら、ピーナッツバターだけでも塗ったら良いよ。これ、砂糖入ってないし。ほら、この前言ってた脚気防止になるよ。味とか気にしないんでしょ? ピーナッツアレルギーないよね」
「それなら貰います。ピーナッツって案外微量栄養素豊富なんですね」
「そうそう。おまけにタンパク質多いし、オレイン酸多いし、結構便利な食材だよ」
ピーナッツバターをパンに塗るなんて、実家を出て以来初めてかも知れない。脚気にならないように気遣ってくれるのは有り難いことだ。隣から手が伸びてきて、僕のパンにピーナッツバターが塗られていった。
「実家で母親に塗ってもらった以来です」
「最低限、ね。君も家ではちゃんと考えてご飯作ってるって聞いたから」
「食べなければ死ねるのに、面倒です」
「生きる選択したんでしょう?」
「あっ、そうだった」
「もう忘れたの? 驚いた。大事な決断じゃなかったっけ。君が言ったんだよ? 前言撤回してさ! 僕はいつだって君をころ……」
「いえ、細かいところをうっかり忘れるのはもうそういう仕様なんで、今後もたぶん折々に出ると思います。この手の発言」
ツッコまれるのが煩わしくなったので僕は話を意図的に遮った。清水センセは普通の話し方に戻っていた。墓地の帰りのあれはなんだったんだろう。
「細かくないけどね。もう、仕方ないな、大目に見たほうが良い?」
「ええ、治らないと思いますから」
「パンはおかわりあるからね。足りなかったら言って」
「いえ、1枚で良いです」
「食べ終わってから決めたら?」
「ええ、まぁ」
清水センセは母親のような物の言い方をした。そして、あ、と思い出したように僕に言った。
「パンより先にサラダだからね。食物繊維って血糖値の急上昇を防ぐそうだから」
そう言って、僕のグリーンサラダのお皿を指差した。また母親みたいなことを言い出す。生来世話焼きなのか、過干渉な母親の無意識の真似なのかはわからない。
「そうなんですか。知りませんでした」
言ったようにする僕は、サラダから食べ始めた。それを見た清水センセは満足そうに自分もサラダを食べ始めた。その後は二人とも黙々とランチを摂った。食べながら、清水センセは炒飯以外の物も食べるんだなぁなどと思ったりした。
食後に片付けを済ませて、居間のソファで二人で珈琲を飲んでいると、清水センセが真面目な顔で口を切った。
「今日は、ごめん。実験は無理、だな。ちょっとゆっくり色々考えたい。時間が欲しい。裕くんはどう?」
「それで結構です。元々、今回の訪問で実験するつもりはなかったですし」
「そうだね。君が僕に話がしたかったんだもんね。取り敢えず、帰る? 目的は果たせたってことかな?」
「ええ。僕が話したいことは一応言えたってことで、今回の目的は達成です。それから、僕もそのことを独りで考えたいです」
「わかった。じゃあ、送るよ」
「すみません」
「いいよ、気にしないで。送ってる間は一緒に居られるんだから。本当は全然帰って欲しくはないけど、でも僕もさすがに独りで考えたいかな。君が居ると君のことばかり意識してしまって、なにも考えられなくなっちゃうと思うし」
「そうですか」
「そうですよ」
そう言って清水センセは苦笑した。二人で珈琲を飲み干し、僕は帰る支度をして清水センセと車庫に向かった。昼下がりの空は少しづつ曇ってきて、気温がぐっと下がって来ていた。それから清水センセは無言で車を走らせた。この車で明るい道を往くのは初めてで、こんな景色の中を走っていたのかと僕は窓の外をずっと眺めていた。
「また来てくれるのかな…」
マンションに近づいてくると、清水センセは“次の予定”の話をした。この時点で僕は自分がいつ清水センセに連絡できるのか全くわからなかったが。
「行くことになると思います」
「それなら良かった。実験出来そうになったら連絡して。それまでに僕も心の準備が出来てたら実行に移そう」
「はい、そうします。ただ、心の準備の前に自殺屍体の解剖が偶然入るかも知れませんが」
「そうか、その可能性はあるかもね。いきなり本番ってことか。その時は連絡して欲しい。絶対に」
「そうですね。その時は連絡します」
「絶対だよ。すぐ迎えに行くからね」
「はい」
「その時間に僕に緊急のオペが入らないことを願うよ」
何故か察しの良い幸村警部補の訪問と清水センセのお迎えはどちらが早いだろうか。もしかして僕のマンションのエントランスで鉢合わせなんてことがあってもおかしくない……修羅場だ。その場合どうすれば良いのだろうか? そうなる可能性を回避する方法を早急に考えなくてはならない。幸村さんとのことを言わないで回避するのは簡単ではないだろう。しかし、前回の上映会の後、なぜか彼はこう言った。「幸村さんじゃ、ダメだよ」と。あの清水センセの言葉はなんだったのだろうか。肉体関係のことを知られてるのかどうなのか、訊くのが恐ろしくて記憶から消していた感がある。最悪、佐伯陸がバラしている可能性もある。今回の会談では幸村さんについて清水センセは一言も触れなかった。それもまた不気味だ。
信号待ちの時間、多少不機嫌そうに清水センセが呟く。
「ああ、もう君んちだね」
「いろいろ、お世話になりました」
「良いんだよ、楽しかった。人生で一番楽しい日だった」
「あんなこと言わされたのに、ですか?」
「そう、あんなこと言わされたのに、だよね。だって裕くん、君こそ、あんな動画僕に見せられてさ、なんで僕とまた会ってくれるの?」
「あなたが僕を殺してくれるって言ったからです」
「僕も君が好きだから何言わされても構わないんだ」
車がマンションの前で止まる。では、と言って助手席のドアを開けて降りようとすると、清水センセが縋るように僕を呼び止めた。
「裕くん」
「はい?」
「あの…電話、しちゃうかも」
「いいですけど」
「いいの?」
「はい。状況的に出ないこともありますが」
「それでいいよ」
「それでいいなら、どうぞ」
「わかった。ありがとう。じゃあ、ね」
「はい、お世話になりました」
エントランスに行く前に車が去っていった。エレベーターの中で、部屋に帰ったらすぐに自分のベッドで起きるまで寝よう、と心に決めた。
ドアを開けて部屋に入った瞬間、廊下に綿ぼこりが溜まっているのが見えた。振り返って考えるに、もう10日以上掃除機を掛けていない。ここしばらくそんなことをできる精神状態では無かったし、昨日まで部屋のホコリなど目に入ってなかった。始まりは凍死の彼の解剖を独りでやってからだが。土曜日にまとめて掃除をする僕は幸村さんのご訪問で掃除をし損ねていた。ということは、もう2週間やってないということだ。それはホコリも溜まろうというものである。まだ日は明るい。しかたない、寝る前に掃除をしよう。掃除機を押入れから出して、久々にコンセントを差した。
ブォォォォ…僕の嫌いな騒音が部屋に鳴り響く。まずは廊下から、そして部屋へ。ラグにノズルを擦りつけながら考える。よくわかんないけど、一応今は掃除できる精神状態なのか。焦燥と希死、絶望と渇望、何も手に着かない、佐伯陸の言う“上の空”がずっと続いてた。その時と今と、何がどう違うのか? 昨日の清水センセに電話した時から帰宅までの時間に何かが起きたのだろう。殺されて死ぬのを保留したのにな。それならやっぱり、僕さえその気になればいつでも殺してくれる人がいるからだろうか? いや、それで頭が煮えていたんじゃなかったっけ? ではなぜ今日は掃除をする気になれたのか?
何が正解か考えながら、僕は掃除機を掛け続け、掃除が終わると、寝ずにスーパー丸屋に買い物に行き、胚芽米と野菜と卵を買い、帰宅すると引き続き晩御飯の支度を始めた。その間、昨日今日の出来事を回想し続けた。言いたいことを言えたから、なのか、自分より傷付いている人を見ると冷静になるから、なのか、気分の良い墓地を散策できたからなのか、とか。
〈近況とあとがき〉
少数精鋭の選ばれし歴戦の勇者諸君、ご閲覧いつも有り難うございます。まさか4月に2回更新できるとは思っていなかったボロ雑巾系作家の架空線です。先日、久々に死にそうな貧血吐き下しでショック状態になり、全身冷や汗まみれで動くことも出来ず、こりゃとうとう救急車かなぁとか一瞬脳裏をよぎったんですが、色々お助けもあってなんとか起死回生し、こうやって再び皆様の前に駄文をさらせる深夜を迎えることが出来ました。人生の機微を愛してやみません。今回は念願の墓地を散歩する裕が書けたんで物凄く満足です(←思い残すことはありませんとか言いそうになったので慌てて言い換える)。緊急事態宣言が出ている地域に生息しているゆえに、救急車なんか呼んでも病院に入れてもらえずに死ぬかもな(笑)
4章の始まりに最初は「日暮れて道遠し」とか下らないことを呟いていたんですが、案外自分の感覚と違ってたので(日暮れてもいないし道も遠く感じてない←ならなんで書いた)、あれ?と思って削除しました。何もないのが淋しかったので、先日思い立って短い詩を貼っておきました。お暇なときにでも見てやって下さい。作者が喜びます。そうそう、喜ぶと言えばゾンビランドサガ・リベンジで前回純子ちゃんのソロが挿入歌で入っていて「オレ得以外の何物でもねええええ!!」と狂喜乱舞致しました。1期から純子ちゃんの歌が好きで好きで。第3話挿入歌『50と4つの忘れ物』youtubeにあるんでみんな聴いて。
ではまた!