※この作品はR-18です。

僕を止めて下さい   作:架空線

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ד.雪の街

 朝から雪が降っている。久しぶりのひとりの日曜日だ。目が覚めてバルコニーの窓を開けると、街が白くなっていた。昨日は午後から冷え込んでたからな。ひんやりした湿度と空気。頭と思考が冷えるのが心地よくて、しばらく窓を閉められなかった。雪の街は静寂に包まれている。完成された景色と天候。風はない。音もない。しめやかに降りてくる羽のような白い弾幕は、狂乱に打ちのめされながら頑張った最近の日々を報いてくれる贈り物みたいで、思わず裸足でバルコニーに出た。

 

 ほんとうに頑張った……のかな。

 白さの中で考えている。またこの先、変わらぬ日常が続いていくかを。決定的な約束と混乱の中での覚悟が、生命の中の熱をどれだけ冷却出来るのかを。変化を渇望している自分と、いつも何も変われない自分への強烈な不信が交差して胸の中で渦巻く。死ぬまで静かに生きるだけのささやかな願い。それは手の届かないほどの高望みなんだろうか。雪雲を見上げる。灰色と白の曖昧なコントラスト。舞い落ちるものに手を伸ばす。この景色に融けこんでしまいたい。

 清水センセの家で過ごしたこの2日の僕はあまりにも不用意で、誰にも意識を向けずに生きていこうとする手綱を半ば諦めのように緩めてしまっていた。

 

 疲れた。それだけなのかもしれない。疲れただけで緩めて良いものじゃないことくらいわかってるはずなのに。清水センセの言葉尻に安易に乗ってしまうことを許した。清水センセを死なせないことより、清水センセの人生の意味を尊重している。いや、違う。僕が無視したところで彼は耐えるだろう。そもそもそれが屍体が好きということだ。彼は僕の意識を欲しいんじゃない。僕という屍体と共に居たい。

 

 僕を殺してそばに置いておけば、それが最適解だ。僕の願いは叶い僕の死神としての凶意はなくなり、彼は満足する。断ったのだ、それを。僕は僕の意志で。

 その結果があの曖昧さだ。僕は流されてる。どういう心境なんだろう? 降りしきる雪を眺めながら、あるかないかの気持ちを辿る。幸村さんのような独善的な言動に似ているようで真逆の、どこまでも僕の願いを受け止めようとする意志について考える。有能な一人の社会人である彼。誰にも明かされなかった深い心の傷。常に提示される選択肢。彗星みたいな流れ弾の銃創痕。メモリアルパークの静かな朝。結局開かれなかった懐かしい黒い写真集。そして、僕の願いが彼の願いと完全に一致する狂気じみた“鍵と鍵穴”。場面を俯瞰していく視点を更に上に上げていくと、不意に現実を無視したどうしようもないある感情に気づく。どんなに気が狂っていても、僕を全人生をかけて殺す約束をしてくれる彼への……

 彼への、感謝。

 

 それを思考の中で言語化した瞬間、僕にまだそんな感情があったのか、と切なくなった。生きた人間で、しかもあんな頭のおかしい人に対してそんな人並な感情を自分が持てるのかと。そんなことを感じたのは母親に対してくらいで、自分に呆れ果てて力の抜けた身体を支えるために、雪の薄く積もったバルコニーの縁に両腕を乗せた。冷たい。そのまま、重ねた前腕に突っ伏した。首筋に雪が当たって融ける。動けないし、動きたくもない。トレーナーの袖が解けた雪で濡れ始める。どうすればいいんだ、この感情を。自分のことしか考えていないただの自己中だったんじゃないのか?僕という人間は。感謝に報いたいと思うゆえの無意識の不用意さ? そんな優しさが僕にあるのか? いや、人を無視するのに、もう疲れただけでしょう? ただの甘えなのか、僕のことなら何でも受けとめる清水センセへの。侮ってると言われても否定できない。正確には侮って“いた”だが。

 

(裕くん、君こそ、あんな動画僕に見せられてさ、なんで僕とまた会ってくれるの?)

 

 ほんと、なんでなんだろう。

 僕はその時「あなたが僕を殺してくれるって言ったからです」と答えた。彼と逢った初日の苛酷さは東北に来たこの数年で1、2位を争う凄まじさだった。それまでの1位は幸村さんのタイヤ置き場でのリンチだった。あの日を凌ぐか、それと同等のダメージを負ったはずなのに。後日僕は、自分から望んで彼の家に話に行き、同じ部屋の同じソファで、頭の壊れかけた彼と一緒に珈琲を飲んで、仲良くメモリアルパークをのんびり散歩して話し合った。穏やかな日常を取り戻したみたいに。

 壊れてるから。彼も、僕も。“破れ鍋に綴蓋”ということわざがあるが、壊れた鍋には壊れて繕った蓋くらいが釣り合ってる、というような意味だ。僕が恐れてるのは、割れた鍋である僕とだけ釣り合うフタのはずが、彼の日常業務はそれほど壊れてなく、僕にしか壊れた面を見せないで、むしろ真っ当に社会性と公共への貢献を多方面で示していることだった。彼と僕では価値が釣り合ってない。人としての価値。それが彼に僕を殺させないブレーキになったのだけど。

 でも彼にとっては僕との価値は逆転しているみたいで、それが僕に甘えを許している。僕に対する全肯定。まるで自分が下僕だとさえ言わんばかりの。言いなりにさせられてきた経験しか無い僕にとって、この関係性は斬新すぎてどうしていいのかわからない。まるで二人で向かい合って土下座してるみたいで、客観的に見ると「どうなってんの?この人たち」という感じだった。

 羽交い締めにされて、キレて怒って泣き崩れて、なぜか身体だけ預けている幸村さんとの関係が胸の端っこで疼く。藻掻き疲れていたといえば、この人とのことで僕のヒットポイントがあと一撃で0になるタイミングで清水センセが登場してきたということなのかも知れない。

 

(会ってみりゃわかるんじゃねぇの? 岡本の特殊な認識力で清水センセがどう見えるのか、正直俺が知りてーわ)

 

 どう見えたのか、僕が幸村さんにその実像をレポートする機会は永遠に無い。あの勘の鋭い、一度食いついたら離れることのない、僕のことを大好きな警部補はいつの間にか敵対関係に回った。現実主義の僕がこの事態を楽観的に考えてることなど一切ない。それを再認識すると、なぜか胸元にナイフが刺さったような痛みが走った。全てが不可逆的に変わり果てて、元に戻ることはないのだ。現在の状況を雑に見渡しただけでも、投網に掛かった魚みたいに絡み取られていく感覚が全身を包む。救いはただひとつ、あの夜できなかった《Suicidium cadavere負荷実験》を僕がどうにかクリア出来るかどうかだ。可能性は認めている。だが自信はない。実験を失敗して、清水センセから幸村さんにバトンタッチ、性欲の処理を自分から幸村さんに願い出て、いつもの夜を過ごして、そしてそんなこんなを清水センセにどう伝えたらいいのか。あの嫉妬深いセックス嫌悪症の清水センセが僕と幸村さんのことを知ったらどうなるか、想像しただけで身震いがする。いや、知っていると思っていた。あの夜、幸村さんじゃ君を救えない、と言われたのだから。でも僕の発作が性的なものだと知ったのは、清水センセが幸村さんに会うずっと前のAさんからの情報だということが先日わかった。ではなぜ清水センセは幸村さんには僕が救えないと言ったのか? 僕たちの関係を知っているとしか思えなかった。だが、どこで? そのことをあの夜以降、清水センセは僕に話さない。僕が言い出すのを待っているとか? それとも全く違う意図で幸村さんの名前を出したのか…訊くのも恐ろしい。あの夜に言われたことを全部覚えているわけでもない。焦燥と恥辱と渇望の中で発狂しそうになっていたのだから。だが、幸村さんには君は救えない、と言われたことだけは覚えている。もしかしたら僕はどこにも出口のない迷宮の中に閉じ込められて居るんじゃないだろうか?

 

 この景色に融けこんで、そして、今すぐ命を終えてしまいたい。関わった者たちを苦しませるだけの存在なんて、この世にいてはいけないんだ。

 

 融けた雪でトレーナーが胸元までビショビショになった頃に、後頭部の雪を払って僕は部屋に戻った。絶望感ですべてが面倒くさいが着替えた。洗濯物が溜まっている。とはいえ今日は洗濯しても乾きそうにない天気だ。朝飯はいつも通り省略。この天気はいつまで続くのか、だいたいここらの12月は月の半分は天気は悪い。パソコンを立ち上げてウェザーニュースを見る。週明けも降ったりやんだり、だな。休みのうちにコインランドリーで乾かすしか無いか。9時過ぎたら洗濯機を回そう。携帯のアラームを9時に掛けてもう一度ベッドに身を投げた。何かをしていないと気が狂いそうだ。メガネを外しながら、今頃清水センセもなにか思い出しながら考えているのかな、と、うつ伏せのまま目を閉じて推測する。ほら、こうやってずさんに他者に意識を向けてる。ダメだな、ほんとに。彼に死なれたら困るのは僕だ。それなら、既に死んでいる誰かに意識を割こう。もしくは、自分自身に。そのうちにその意識が曖昧になって、僕はいつの間にか二度寝に成功していた。

 

 再び起きた時、なぜかアラームは鳴っていなかった。カーテンを開けっ放しの窓の外はほんのりと雪あかりが照らしていて薄暗かった。嫌な予感がして携帯を慌てて見る。18時41分……なに?この信じがたい時間。午前9時に掛けたアラームを僕は寝たまま切ったんだろうか?それとも鳴らなかったのか?もしくは鳴り終わっても気が付かなかったとか? たしかにこのベッドは死んだように眠れるのはわかっている。絶望感から逃げたかっただけなのか、この1週間の疲れが出たのか、少なくとも起きなかったことだけがわかった。とにかく何がなんでも今日中に洗濯をすると決めていたので、なんとかベッドから抜け出した僕は、メガネを掛けるのも忘れて、5kgの洗濯機の最大限に洗濯物を押し込んだ。どうせ近所のコインランドリーは24時間だし、夜遅いほうが天気の悪い日でも乾燥機の空きがある。洗濯機が廻る音を聞きながら、今日初めての食事を摂ることにした。ちょうど夕飯の時間だった。寝起きで頭がボーッとしていて、いい感じに意識が曖昧で、自分が八方塞がりなことを忘れられていた。睡眠は偉大だ。

 

 食べ終わって食器を洗っていると、洗濯機のピーッピーッという作業終了を知らせる電子音が鳴った。洗い物を終わって時計を見ると20時だった。マンションの洗濯時間の上限ギリセーフだった。クリーニング店の大きなビニール袋に脱水された洗濯物をそのまま入れて、雪の街に出られるように着替えてコートとマフラーを装備した。コートのポケットに携帯と財布を入れ、久しぶりにスノーシューズを靴箱から出す。さすがの万能なローファーもこの天候にだけは向かない。大学に入学して初めての冬に、ローファーしか持っていなかった僕は、雪道で早速滑って転んで派手に膝頭を打撲した。おまけに丈の短い靴の脇から雪がどんどん入ってきて靴下はずぶ濡れ。次の日に量販店で店員に選んでもらって、それ以来冬になるとこのハイカットの雪靴が登場する。しゃがんで靴のジッパーを上げながら、乾燥機がこの時間でも空いていることを願った。

 

 雪は止んでいた。5cmくらい積もった歩道を雪を踏みしめながら歩く。この時間ではまた凍ることはない。自転車に洗濯物を乗せて行きたいが、僕の運動神経では滑って転ぶリスクがあるので、この近さではコインランドリーには徒歩で行くことになる。脱水した重い洗濯物を両手で抱えて歩いた。息が白く、そのたびにメガネがうっすら曇る。

 コインランドリーに着くと、しばらくメガネが真っ白になった。脱水した洗濯物の中からタオルを引っ張り、メガネを雑に拭いた。中年女性が入口近くのベンチに一人座って終了時間を待っている。案の定、小型で安い乾燥機は全部稼働しているか、止まっていても中に洗濯物が放置されていて、使用者は帰ってきていない。稼働させたあたりがちょうど夕飯の時間だったので、どこかでラーメンでも食べているのかと推測される。大型で料金の高い乾燥機が1台空いていたので、仕方なくそれを使うことにした。オーバーキルだが乾くのも早いので、100円位の差であろう。だが100円はもったいない。待てば小型乾燥機の使用者は帰って来るのだろう。乾燥機の前でボーッと考えていると、後ろから声がした。

 

「それ、もう止まってるから出していいんですよ」

「は?」

 

 いきなり見知らぬ女性から声を掛けられて驚いたが、振り向くと、ベンチに座っていた人だった。どうやら僕の為を思って言ってくれているようだった。

 

「張り紙、そこの、書いてあるから。終わったら出していいって。で、カゴがあるから、そこの奥に」

「張り紙ですか?」

「そうそう。カゴにあけていいの」

 

 指差した先を見ると、壁に『洗濯物を放置されている場合は次のお客様から取り出される事があります。ご注意ください。取り出した洗濯物はカートに入れて下さい』という注意書きが貼ってある。張り紙も初めて見た。奥を見ると、スーパーのカート状のステンレスの大きなカゴが2台置いてあった。今までまったく気にしたことがなく、存在を初めて認識した。そういうことに使うというのを今回初めて知った。

 

「あ、そういう仕組みなんですね」

「そうよ」

「ありがとうございます、教えて頂いて」

「ここね、洗濯物の盗難があったから、気をつけたほうがいいわよ。私は終わるまで離れないことにしてるから」

「余り使わないので知りませんでした。いろいろとありがとうございます」

 

 それから僕は初めてのカートをコロコロ引き寄せて、止まっている乾燥機の中の洗濯物を出した。男物の靴下や下着、トレーナー、ジャージやタオルが入っている。学生だろうか。男物で良かったと思った。女物だったら手を付けなかったかも知れない。せめてもと思いその中のバスタオルを広げて洗濯物の上にかぶせる。

 自分の洗濯物をほぐしながら乾燥機に入れて扉を閉め、300円投下した。10分100円だ。30分位でだいたい乾くだろう。グィィィンと音がしてドラムが回り始める。盗難があるとか言っていたけど、ここに居たほうがいいのかな。でも、引っ張りだした洗濯物の人と出くわしたくないので、携帯で時間を確かめて夜の散歩に行くことにした。

 

 歩き始めて数十歩で、ポケットに入れたばかりの携帯が鳴った。職場かな? それとも。立ち止まって携帯を出した。

 

「はい、岡本です」

「……裕くん」

「清水先生ですか」

「うん。ごめん」

「どうしたんですか」

 

 例の、地の底から吐き出された声がした。絶不調時の清水センセの声だ。

 

「出てくれたんだね。ありがと」

「ああ、コインランドリーの乾燥機の待ち時間なんで、大丈夫です」

「コインランドリーなんか行くんだ。そうか、雪だもんね」

「ええ。洗濯物が溜まってたので、どうしても洗濯しなきゃなんなくて」

「そうなんだ。調子、どう?」

 

 絶望感で生きていたくなくなってました、とは言わないことにした。少なくとも今はちょっとは紛れているし、絶不調な人を無駄に心配させたくはない。

 

「あぁ、どうですかね。掃除したり洗濯できたりしてるんで、落ち着いたのかも知れません。よく寝ましたし、少なくとも今は混乱はしてません」

「そう、なら良かった。おとといの電話はかなり心配した」

「すみません。で、先生は大丈夫なんですか?」

 

 僕への心配で時間を割きたいわけではなかろう、と、僕は本題に入った。

 

「身体は…問題ないかな。メンタルは……ツラいな」

「なんでですか?」

 

 それを聞いた清水センセは苦笑しながら答えた

 

「君がいないから。簡単なことだよ」

「そうですか」

「で、耐えらんなくて電話しちゃった。堪え性がないっていうかさ……いや、幸せすぎたんだよね、昨日がさぁ」

「僕抜きでいろいろ考えたかったのでは?」

「それはもうずーっとやってたよ。それでこの体たらく」

「ちゃんと寝たんですか?」

「それは寝れた。不思議だけど、僕もすっごい良く寝た。今朝は早く起きたし。朝、窓の外見たら雪が降ってて、ああ、故郷に居るんだなって、感慨深くて。生まれた町で君と逢ってたのが不思議で……とても不思議」

 

 清水センセはそういうと少し黙った。

 

「あの、メンタルがツラいのは困ります」

「なんで?」

 

 僕は危惧していることを告げた。ツラさを重ねて誰かさんみたいに鬱になったりして、死んだりされるのはこっちが困る。

 

「それが昂じて鬱で死なれでもしたら、僕が大変なんで」

「大丈夫だよ。君との約束を破るなんて選択、僕にはないから。あと、君がこんな近くに居てくれるのに自分から死ぬなんて有り得ないよ」

「それならいいんですが。もし万が一死にたくなったらその時は遠慮なく僕を殺してから死んで下さい。あ、これって心中ではないですよね?」

「心中? 心中ではないね」

「ですよね。ただ、世間的にはどこから見ても心中に見えますが」

「わかってないなぁ。君を殺した時点で君の屍体が僕のものになるんだったら、僕はただ幸せなだけだよ。どういう結果にしろ僕は自分からは死なないよ」

「では、メンタルは免疫に影響しますから、死病には気をつけて下さい」

「わかったわかった。死病に見舞われたら体力の残ってるうちに君をちゃんと殺してあげるから」

 

 清水センセはクスッと笑った。声のトーンが少し軽くなっている。

 

「あーあ、ちょっと電話出来ただけでも、こんな楽になるんだね。さっきまで吐く息に鬼火が灯るかってほど悶々としてたのに」

「口から鬼火が出てたらすでに死人ですよ」

「死にそうだったっていう詩的な表現なんだけど」

「僕は乾燥機の料金を100円多く払うかどうかで悶々としてましたけどね」

「えぇ? 100円? そっちは爪に鬼火が点ってるなぁ、あはは」

 

 また笑っている。機嫌が良くなったようだ。

 

「嬉しいな。君の声がする」

「それで気分が良くなるんでしたら、簡単で良いです」

「言ったでしょ、簡単だって」

「そういうことですか」

「うん。まだ乾燥機終わらないの?」

「ちょっと待って下さい、確認しますので」

 

 言われて、携帯を見ると、あと15分くらいになっていた。雪を踏む足音がして振り返ると、ベンチコートを着た若い学生風の男子がコインランドリーに入っていった。その男子が例の洗濯物を引っ張りだした本人かどうか確認したくなり、携帯を耳に着けたままそっとコインランドリーの前に戻った。

 

「あと15分くらいです」

「15分もまだ話せるんだ。ラッキー」

 

 ガラス戸越しに中を覗くと、例のカートからベンチコートの男子がビニール袋に僕の出した洗濯物を慣れた感じで詰めている。乾燥機から出されるのにも慣れてるようだった。僕はホッとして、気づかれないようにまたさっきの場所まで戻った。

 

「まぁ、本も持たずに出てきたので、いい時間つぶしです」

「そんなら良かったよ。ほんとタイミング良かったんだね」

「どっかから見てるんじゃないですか?」

 

 清水センセならそれくらいのことはしそうだ。

 

「さすがに今は家に居るよ」

「白いプリウスが近くに停まってる気がしますけど」

「リビングの写メでも撮って送ろうか?」

「いいです。別にどっちでもいいです」

 

 その程度のことでいまさら清水センセの評価が変わることもない。

 

「いいんだ」

「ええ、それくらいのことでは驚きません」

「わかってくれてるね」

「ええ、まあ、さすがに」

「なんとも…申し訳ないけど」

 

 いきなりテレビか何かのニュースの声が電話越しに聞こえた。

 

「居間でNHKのニュースつけた。8時45分のやつ。これで信じてくれる? 僕の車はテレビないし」

「ええ、まぁ、はい」

 

 電話の向こうの男性アナウンサーの声が急に消えた。本当に居間に居るのだろう。

 

「良かった、証明できて」

「もういいですよ」

「実際、君に会える前はそんなことしてた」

「……してたんですか」

「すいません」

「なにしてたんですか?」

「えーっと…あの…ただのストーカー、かな」

「はぁ、ただのストーカーね」

「そう、大学の駐輪所の斜め前の道に隠れてて、君が出てくるまで待ってて、君の自転車の跡を車でつけて、君がマンションのエントランスに入っていくところを見てるっていう感じ」

「マジですか。まぁ、驚かないと言いながら、実際言われると多少驚くというか、呆れるというか」

「だよね……」

「やっぱりなぁとは思いますが、事実ってパンチ力あるなぁって改めて」

「今更隠してもしょうがないし。土日は体力に余裕のあるときしか行けなかったけど」

「土日まで?」

「うん。と言っても、裕くんって自宅と大学とスーパー丸屋で行動範囲が閉じるから、駐輪所の自転車を確認すれば行き先はほぼ確なんだけどね。だから今日のコインランドリーはびっくりしてるし、なんか新鮮で興奮する」

 

 全く同じことを過去に言われた気がする。良くないデジャヴのようなものを感じ、軽くクラっとした。

 

「イレギュラーなんで。洗濯物を溜めたあとの雪の日くらいです。条件は非常に限られているし、なんといっても自転車使わないから」

「自転車使わないのか! これは捕捉できないね。今日電話して本当に良かったよ!」

 

 正直何が良かったのかよくわからない。しかし、僕は二人の人間に尾行されていたのだが、それぞれ全く気が付かなかったということになる。そりゃそうだろう。生きてる人間の気配などに興味がないからだ。

 

「プリウスって、ほんと音しないですよね。気が付かなかった」

「そのための…プリウスだから」

「そのため!?」

「あぁ、でももうそんなことしなくても良くなったから、数日前からプリウス買い換えようかなって思ってる。雪道でプリウスは車高低いから4WDでもちょっと不安だし。雪降っちゃったし」

「えっと、じゃあ、僕の顔を確認しにこっそり大学に来た時って……」

「あの時は死んだ父が乗ってたトヨタのWishだった。あれ、エンジン音うるさいんだよ。雪道には強いけど、ストーカーには最悪。ほんと隠れてる時ヒヤヒヤしたよ。走行距離も10万km越えてたし、次の日にプリウス買いに行った。中古だけど」

「次の日って……」

 

 お医者さんはお金持ってるなぁ……乾燥機の100円で悶々としている自分とのコントラストが眩しい。しかし悪びれながらもよくそんな裏話を本人に爽やかに話せるな、この人、と、僕は呆れながら感心した。毎回、不意の爆弾が1個落ちる。いつものことだけど慣れない。

 

「中古だし、あれは100万しないくらいだよ」

「そういうお金の量を見たことが無いです」

「日本に帰ってきてから忙しすぎて使う暇なかったからね。君のために使えるお金は嬉しいだけだから。それにあの時は本当に毎日が拷問みたいに苦しかったから、そんな面倒で高額な買い物で気持ちが紛れてたってのもある。あとね、ココだけの話、うちの父が結構遺していってくれたから。銀行マンだったから投資とかしてたみたい。再婚も女遊びもしないで、僕も当てになんないから老後の資金だったんだよって病院のベッドで話してくれたけど、結局老後になる前に逝っちゃった。癌の治療費も医療保険が下りたし、闘病生活も短かったから、ほんとにお金使わなかったんじゃないかな…バカみたいだよね」

 

 清水センセは不仲だったという父親のことを、初めてしみじみとした調子で語った。最期にこの親子は和解できたんだろうか。

 

「でも、看病して看取ってくれた息子に幾ばくか残せたんなら、お父さんも満足なんじゃないでしょうか」

「そうだと良いけど。でもね、今だから言うけど、僕はあの母との地獄の4年間の慰謝料をようやく支払ってくれたのかって、心のどっかで思ったんだよね。僕の苦しみはお金で解決なんか出来ないけど、今後必要なときが来るかも知れないって思うと、今になってその償いはアリかなって思えてさ。少なくとも今は、ありがとうって思える。だって、愛してる人のために惜しげもなく使えるお金って感謝でしょう? それに幼い僕が心底助けて欲しい時になんにも出来なかった父親なんだから、最期に息子を助ける機会が生まれたことに逆に感謝するべきだって、僕は思うんだよね。そもそも君が見つかってから父への憎しみも和らいでいったことを思うと、両親とも君に心から感謝するべきだって思うよ。あの世から君に頭を下げて欲しい。君の見つからない世界線では清水家はただの地獄製造機なんだから」

 

 昇華しかかっている呪詛というのはこういうものなのか、と、父親の遺産についての清水センセの見解を僕はある種の感慨とともに聞いていた。

 

「……今後は出来る限り現金化して家にストックしておいたほうが良いかもね。逃げる時とかATMで足がつくでしょ? 口座に入れとくのは危険だよね。君にもいざって時のために500万くらい現金で渡しておくよ」

 

 合鍵渡しておくね、とか言うくらいのさり気なさで、清水センセは凄いことを口にした。

 

「ご…500万って! そんなお金が家にあるだけでノイローゼになりそうなんですが!」

「えっ? 安心してくれないの?」

「いや、他人の謂れのない現金500万は神経が擦り減りますよ。自分で稼いだ金でしたらまだマシですが」

「わかった。じゃあ、100万にしておく。そうか、贈与税も掛からないし…」

「待って下さい。わかりました。今度、僕が大金を持っていなければならないシチュエーションをよくよく考えましょう。それでもし本当に金がなかったせいでヤバいことになる可能性があったら、そのとき考えます」

「わかったよ。君を説得できればいいんでしょ。まぁそれは置いといて、今度はプリウスじゃなくて何にするのがベストなんだろうか。君の屍体をバレずに乗せて運んだりする可能性も考慮して、やっぱりミニバンとかSUVだよね」

「ええ、まぁ」

「裕くん、好きな車とかある? あ、興味無いか」

「はい、全く」

「だったら販売店のセールスに条件に合うの聞くのが早いな」

「屍体をバレずに乗せられますかとか?」

「聞きたいよねぇ。でも大きめのキャディバッグって言うよ」

 

 気になって確認すると、そろそろ乾燥機の終わる時間になってきた。コインランドリーに足を向ける。

 

「あの、乾燥機そろそろ終わりますので」

「あ、そうなんだ。時間の経つの早いなー」

「もう、気分の方は大丈夫ですか?」

「うん、全然違うよ。ありがとうね。付き合ってくれて」

「暇だったんで問題ないです」

「これからは中古車サイト見て気分転換できる」

「では、コインランドリーに帰ります」

「ありがとうね。ありがとう。変なこと言ってごめん」

「毎回のことですが毎回サプライズですね。でも先生は自分でバラすんでまだマシです」

「その程度の皮肉で済ませてもらえてほんとに有り難いよ」

「では、おやすみなさい」

「おやすみ。今日も幸せだった」

「じゃ、切ります」

「うん、切って」

 

 通話を切って、コインランドリーに入った。僕の乾燥機は終わる寸前で、冷却タイムに突入していた。僕にいろいろ教えてくれた女性はまだベンチに座って本を読んでいる。電話しているうちにいくつか乾燥機が空いていた。回転が止まったので袋に詰める。カラカラに乾いた洗濯物を詰め終わって袋を抱えながら、ベンチの女性にお礼を言った。

 

「さっきはありがとうございました」

「ええ、どういたしまして。出した人、すぐ来て持って行ったわよ」

「ええ、外から見てました。お世話になりました」

「はーい」

 

 一礼して外に出た。もう9時過ぎていた。来た道をそのまま帰る。水分が乾燥した分だけ帰りの荷物は軽い。さっきの電話の内容が脳裏に浮かんでくる。僕をストーキングするだけのためにプリウス買うとかって……おかしいでしょ。おかしいのは知ってるけど! 500万現金渡しておく、とかもだ。でもストーキングされるくらいなら、まだいきなり電話してくるほうが平和なものだとも思った。間が良いだけだったんだな。運の良い人だ。あんな時間の隙間を普通は狙えないのだ。多分、あの女性に声を掛けられなければ、あんなジャストなタイミングにはならなかったはずだ。“ユウ”しか手掛かりがないのに13年掛かって偶然僕を見つけ出しただけのことはある。でも、と思う。小学生で母親に性的虐待を受けることは運が良いとは言わないだろう。だが、どこかで彼になにか本質的な変容が起きたのかも知れない。父親の早すぎる死は不運だが、遺産が転がり込み、僕がこの街に居ることがわかった。それもその幸運のうちに入るのだろうか?

 

 だが、今後はその幸運にしか頼る先がないのかも知れない、と八方塞がりの僕は気がついた。僕の死神を無力化し、幸村さんの追及から逃げおおせられるのは、彼の幸運の女神にしか頼るすべがないのだ。頭がおかしい人の直感のようなものがあるとしたら、精神が壊れた代償として人智を超えた認識が恩寵として付与されていても良いのではないか? 僕の頭がおかしいから自殺者の匂いがわかるのと同じように。

 不意にピンク色した彗星の形の傷を思い出した。ほんの少しずれていたら死んでたはずの銃創。彼は言っていた。ここで命拾いするのかって不思議な気分になった、と。彼の本質的な変容はそのあたりで起きたのかも知れない。あれが頭が壊れた代償の恩寵を顕す刻印であるなら、もしかすると死神は彼を避けるのではないだろうか? 聖書の出エジプト記のように、すべての生まれたばかりの子供を殺すという残酷な神の厄災の中で、二本の門柱と鴨居に子羊の血のついている家には、それが降りかからないと神はモーセに伝えた。

 

 もしかしたらあの傷がある限り、清水センセは死なないのではないか? 僕を殺した後も逃げ切れるのではないか? 雪道を歩きながらそんなファンタジーを僕は夢想し、一瞬でもそんなことが起きやしないかと期待した自分のお気楽さを呪った。そもそも僕は、幸村さんが“俺はなんか守られてるんだ”と言うそれにもどこかで無意識に期待していたと思う。幸村さんに対するガードの甘さも、そういう期待から来ている。結局僕のメンタルはオカルトに依存してるってことか。バカみたい…

 ぐだぐだ考えていると、いきなり視界の後方からシルバーの車体がぬっと姿を表した。音がしない。プリウスだ。ほんとにこの車はいつの間にか後ろにいて、視界に入るまで近づいて来たのがわからない。轢かれるわけではないがドキッとする。清水センセが尾行に使うのもわかる。車はそのまま静かに僕を追い抜いて去って行った…

 

 あっ。

 

 その時、僕は唐突に気がついた。彼が幸村さんと僕の関係を知っているのか、という問いの答えを。

 さっき、僕は不思議に思いながら聞いていた。清水センセがなぜそんな自分に不利な事実を僕に告白するのか、と。だが、言わなければ僕にバレることはないその告白は、僕に、ある決定的な認識を与えるための親切なヒントだったとしたら。

 

 いつものように、夜、プリウスの中で悟られないようにマンションのエントランスを見守っていると、普段は自転車に乗って帰ってくるはずの僕がいかにも具合悪そうに自転車を押して帰ってくる。そのあと彼のよく知っている男が僕の部屋を訪れ、明け方帰っていった。清水センセが僕を見つけたのは9月、僕が山林に遺棄された優しい自殺屍体の解剖を行ったのは……10月。

 雪の道で立ち尽くした。チェックメイトだ。その夜彼は知ったんだ。僕と幸村さんの関係を。

 

 




〈あとがき&近況〉

 拷問のような長さの変態暗黒エロ猟奇小説を飽きずにここまでお付き合い下さっておられる幾多の試練を乗り越えられた少数精鋭の選ばれし勇者の皆様こんばんは。まだ生きてる架空線です。本日もご閲覧下さり誠にありがとうございます。
 ベルセルクの三浦先生が亡くなられたのを通勤の地下鉄のホームで知り、しばし茫然として言葉もありませんでした。ようやく電車に乗り、youtubeで平沢進のforcesを聴きながら涙が止まらず、止める気もなく、ただただ追悼のように電車の中で泣きながらforcesを聴いていました。
 未完。ただただ切ない悔しい悲しい。三浦先生も過労で体調不良が多く「死ぬまでに頭の中の全てを出せるのか」と語りつつ、ご自分が本当に未完のまま逝ってしまうなんてほんの少しも思わなかったのではないかと想像するのです。ベルセルクもきっと最後まで筋書きが決まっていたのです。それでも神はこれを未完にしたのです。そこに意味はない。ただただそうなった、それがこの世界です。だけど、私も病気ジャンキーのように体調不良を重ねて生きているにも関わらず、7年近くも書いていると、どうやって終わるのかと考えることはあっても、これが終わるまで生きられるのだろうかなどとは決して考えてなどいませんでした。しかもベルセルクのような立派な世界に誇る作品でもなんでもない、ただの素人の自己満足以上でも以下でもないこの駄作品に、生死を賭けているわけもない。それでも今回のことで考えるわけです。虫けらも考える。これが完結するまで死なないようにしよう、などと。
 ぐだぐだですみません。なんせ整理がついてなくて。整理をつける気もないんですが。間違っていても言いたいことを言い散らかしたい時もあるさ…すまない。ベルセルクを本当に最後まで読みたかったんだよ。それだけなんだよ。グリフィスに心のどこかを持って行かれてそれを回収したいんだよ。
 では、皆様もどうぞご自愛くだされ。私も気をつける。
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