葛藤と紛糾の週末が明けると、世間はそのニュースで多少ざわついていた。我が県のローカル新聞の1面と、三大紙の3面をその事件の顛末が飾った。朝のニュースでは政府関係と国際関連ニュースの次の3番手にその事件が報道された。我が法医学教室で扱った遺体がそのようなニュースになることは至って稀だった。紙の新聞、ワイドショー、ネットニュースにそれぞれ扇情的な見出しが踊っていた。
《久殿山の身元不明遺体、△原市で行方不明の女性と判明》
《自殺した母親の年金、同居の息子(47歳)が不正受給》
《年金詐取でも捜査、久殿山山中に死体遺棄容疑で逮捕》
《死亡は9月、10月に異臭騒ぎから死体遺棄へ》
《容疑者は遺棄は間違いないと自供、福祉事務所の通報で警察介入》
月曜日の朝の職場に僕が姿を表した途端に鈴木さんが部屋の端から飛んできた。
「ビンゴです! ニュース見ました? 岡本先生! 自殺も、遺棄も! やっぱスゲぇなあ」
あからさまにホメられたのだが、嬉しくもなく、供述と鑑定が一致したという、重荷を下ろした脱力とすれすれセーフの感覚だけが僕を支配した。
「良かった…」
その一言以外に発する言葉もない。自分の席にストンと腰を下ろす。膝の力が抜けている。朝からコレじゃこの先が思いやられるな。鈴木さんはまだ僕の隣に立って興奮気味で話しかけている。堺先生は朝から授業でいない。
「自殺、やっぱり縊死ですよ、岡本先生」
「え、ええ」
「超能力者ですか? マジ、なんか常人じゃないよね」
「いえ…他のことが全部人並み以下なんで…これだけはマジで頑張らないと」
「特化ですね、本物の専門家ですよ。いやーでも、ほんとにうちのご遺体だったとはね! あのとき、ビンゴじゃないかって思ったけど、ほんとにうちのだったってわかると、マジかって思いますよね」
申し訳ないのですが、そろそろやめて欲しいんですが、鈴木さん。僕、昨日の夜からほとんど寝てないので。
「あ、そういえば別件で、この前の凍死の遺体ですが、ようやく眠剤の入手経路がわかったみたいですよ」
「え? なんて?」
いつの間にかなにも聞いていなかった。
「ですから、あの、廃車の凍死の遺体、自殺かどうかって週刊誌が騒いでたやつ」
「あぁ、それが?」
「ですからぁ、自殺に使った眠剤の入手経路がわかったって」
「そうなんですか。良かったです」
「SNSだそうです。大麻とかと一緒の」
「アレですか」
「アレでした。亡くなった旦那本人が事件の直前に発注してましたと」
「ちょっとは進捗したんですね」
「ええ、堺先生から聞いたんですけどね」
「はぁ」
そこに菅平さんが鈴木さんになにかの確認をしに来た。鈴木さんと菅平さんは話しながら向こうに歩いて行った。菅平さんのおかげで僕にいくばくかの静寂が訪れた。出勤したばかりで椅子に座りながら寝てしまいそうになる。やばい。気が付かないうちに寝ているかも知れない。
寝ていない。昨日コインランドリーから帰ってくるときに気がついたことが、一晩中僕にのし掛かっていた。重さに藻掻き苦しんでいたら夜が明けていたのだ。何も取り繕えない。なにをしても上手くいく気が全くしない。この前出来なかった実験の結果を出すしか、やれることが無い。こんな日にホメられてもただただ虚しいだけだ。他の屍体の話だっていくらでもあるだろうに、なんで今日に限ってムエルテと凍死の屍体なんだ。神様からイジメられているとしか思えず、何の行いが悪くてこんなことになったのかと問わずにはいられない気持ちになる。答えはひとつ。生きた人への興味がないからだろう。誰かが言った、憎悪より無関心のほうが罪深い、だったっけ? いや、神様、興味がないなりに、生きている人を死なせないように関わらないよう努力しているんですが、その努力も間違ってるんでしょうかね。これは思いやりのうちに入りませんかね。そんな問いには誰も神も答えてくれない。
「すみません、岡本先生、午前中鑑定の準備なんですが、いいでしょうか?」
いつの間にか戻ってきた菅平さんが上の空な僕にいきなり話しかけてきた。びっくりして声が裏返った。この人も気配がない人だ。
「はい? 僕ですか? 」
「昨日、畑に埋められていた白骨屍体が来てまして。堺先生は今日は忙しいので、出来れば岡本先生に鑑定してもらいたいと言付けがあります。まず、午前中は土を落とすのを手伝って頂ければと」
「え、あ、はい。出来ますが」
「昨日は遅かったので、ほとんどそのままなんです。田中さんは今日は休みで」
「わかりました」
こういう手を動かす仕事のほうが眠気が覚めるので、今の僕にはありがたかった。骨を洗うのはとても好きだった。ただし自殺じゃなければ。もし自殺だったら…実験などしなくてもすぐ5分後にこの数日のすべての結論が出てしまう。そして僕は、どうなってしまうのだろう。いきなりやってきた天下分け目の事態に僕は内心、激しく動揺していた。
「…堺先生は見たんですか?」
「いえ、まだです。身元不明、死因不明です」
「ああ、そうですか」
「今、それを鈴木さんがDNA解析中です。資料はこれです」
「はい」
死者は生者の事情など待たない。それがありがたい。だが今、この状況で実験前に自殺死体を取り扱う可能性にいきなり触れて、安置室までの廊下で僕は緊張して動悸が止まらなかった。
だが、安置室の遺体袋の前で一気に緊張が緩んでいた。ああ、これは自殺ではない! 一気に緊張が緩和する。まだ僕はその洗礼を受ける時期ではないらしい。菅平さんと一緒に解剖室に遺体を運んだ。検視時の写真と報告書を確認する。袋を開けた後は、ひたすら骨をブラシでこすり、土を落とし、それを菅平さんが水洗いしていく。全身揃っているのかまだわからない。まず頭蓋骨を、その後、手足を構成する大きい長管骨から処理しようと言う手順になった。頭蓋骨と下顎骨を探す。下顎骨はもちろんだが、頭蓋骨には上顎骨が付いているので、歯がある。すでに検視の時点で警察歯科医が綺麗にして身元特定のために写真を撮り、デンタルチャートなどの歯科所見を出し、各院のカルテと照合してもらっている。
「歯科所見です。いつもの永瀬先生です」
「今回の歯科の検視は写真が撮りやすかったでしょうね」
「軟部組織がなにも付いていませんしね」
焼死体や死後硬直など開口不能な屍体では、検視で切開などを行ってはいけないので、レントゲンなどで非破壊検査を行うしか無い。移動式のX線撮影装置一式などが検視の装備に加わる。今回はなにしろ骨だけだし顎関節は外れていて、写真も撮り放題、歯も360度観察し放題なのである。
頭蓋骨の中の土を掻き出していくと、雑草の根っこが絡みつき、おまけにダンゴムシやコガネムシの幼虫などが色々這い出してくる。大きいポリ袋にそれらを棄てて、虫が部屋に這い出さないように袋の口をいちいち袋止めクリップで密封する。菅平さんは頭蓋骨から外れた状態で発見された下顎骨を処理している。我々はお互い、歯を眺め、そして、図ったように顔を見合わせた。先ほど読んだ所見通りの状態だ。
「たしかにそうです、治療痕がありません」
「虫歯は多いですね」
成人の死体で上下の歯は虫歯だらけで治療痕がないというのはあまり見ない。資料にあるとおりだった。
「もしかすると骨が古いのかな。戦前とか」
「ではこれは出土でしょうか?」
「いえ、そう言う報告はないみたいです」
特に屍体の周囲に出土品や棺桶の残骸があったりするわけではないようだった。警察もまだ捜査が始まったばかりで、検視ではほとんどなにもわからない状態らしい。鈍器で頭を殴られていたりすると、頭蓋骨が陥没したり骨折が見られたりするが、このケースはきれいなもので、頭は丸くて欠損は薄い眼窩の骨以外ほとんどない。
「この骨の埋まってた辺りは太平洋戦争で空襲とか受けましたか? 僕は地元じゃないので郷土歴史的なものには疎いですので」
菅平さんは地元の人かそうでないか、などは、興味がないので聞いたこともないが。
「ああ、祖母が言ってましたが、疎開はしたが空襲はこの辺りはないって言ってました。海側の軍港には空襲はあったようですが、さすがに100km近く離れてますし」
「土葬とかでは?」
「近くに墓があるかは存じません。現場の写真では、人骨が埋葬の形ではないようだと。それで異状死体扱いになりました」
「この写真ですね。土葬の時代にお墓が土砂崩れで埋まって、後年畑が出来たということもありますかね」
「まぁ、そこは土地の所有者にはまだ聞きこみしていないんじゃないでしょうか。検分書にはそこまでの記述はないですね」
「確かに。とにかく洗いましょう」
そこまで会話が続き、お互いもう言うことがなくなり、二人ともしばし作業に没頭した。骨の静けさで心が洗われるようだった。昨晩からの寝不足も、その原因の焦燥と苦悩も次第に治まっていく。静寂に浸りながら仕事に集中していると、菅平さんが作業したままの姿勢で、唐突になんの前置きもなく口を開いた。
「あ、ということは、自殺じゃないですね、この方」
「は? いきなりどうしたんですか?」
「岡本先生が具合悪くなってないので」
「ええ…そうですね。自殺じゃないでしょうね」
「今さら気が付きました。あの、ひとつ伺ってもよろしいでしょうか?」
「え、なにか?」
この流れで何を訊かれるのかとドキッとした。
「“ちゃんと、やんなさい”ってなんですか?」
「…え…?」
一瞬、鳥肌が立った。死んだ彼女の言葉を、なぜ、僕以外の人間が知っているんだ?
「それ…なんですか?」
「あの時、呟いていらっしゃったでしょう?」
「ぼ、僕がですか?」
「はい、例の久殿山のご遺体の解剖中に」
「え? 僕がですか?」
「はい、2、3回呟かれてました。ご自分を激励されていたのかなと最初は思ったのですが、そういう言い回しは岡本先生はされないと思うので、なにかな、と」
自分がしたはずの記憶はない。覚えのない行為が他人の口から語られる。呟いていたのか? 無意識で? 他人に聞こえるほどの声で。
「いえ……覚えてない…です」
「そうですか。それでは、今年の春頃に解剖した水死体覚えていらっしゃいますか?」
「え? ええ、覚えて…ますが」
「解剖が始まるときにこうやって耳を塞いでいらっしゃったんですが、あれはなんだったのかなと」
「さ…さぁ。覚えてないですね…」
本当は覚えていた。あまりにもよくしゃべる屍体だったので、思わず耳を塞いだのだ。僕の頭の中で響いてるのだから耳をふさいでもしょうがないのに。もうダメだ終わりだ…ダメだ…ダメだ…ダメだ…という繰り返しが僕の中の無力感と共鳴しすぎて気が狂いそうになった。それだけだ。それだけだが、それは奇異に映っただろう。その時は僕は誰かにどう見られるなど一切気にしている余裕はなかった。怖ろしい。どちらもほとんど無意識だった。「ちゃんと、やんなさい」の独り言も、音のない所で耳をふさいでいたのも…
「なにか聞こえているんでしょうか? 自殺の解剖の時に」
「へ? ど…どういう?」
菅平さんは話しながら目も上げず作業を続けている。合理性の塊の彼女がなぜ僕にこんな質問をし続けるのか意味がわからない。
「イタコ、って知ってますよね?」
「あぁ、ええ」
「先生もそういうたぐいの能力があるのかと…単なる憶測ですが」
「ぼ…僕がですか? いえ、そんな非科学的なこと、あるわけない…じゃないですか…」
「さっきも鈴木さんがおっしゃってましたが、岡本先生はフツーじゃない、霊視とか出来るんじゃないの? 自殺に限り、って」
「いえ。霊視なんて出来ません」
冬なのにだんだん冷や汗が脇に溜まってくる。菅平さんは忙しい解剖の合間に、僕のなにをどれだけ観察しているんだろうか。
「菅平さんて、そういう非科学的なこと信じるタイプなんでしょうか?」
「いえ。でも、岡本先生がなんで自殺のご遺体で具合いが悪くなるんだろうと考えている時に、そういえば、そんなことがあったなと思い出したものですから、どんな回答をされるかと思って質問してみたんですが」
菅平さんがそんなことを考えていいるとは思いもしなかった。意外すぎるのと、警戒心で骨のブラッシングの手が無意識に止まっている。慌てて作業を再開した。
「私は岡本先生に期待しているので、解剖でつまずかれるのは本意ではないんです。あまり先生個人のプライベートに踏み込むのは避けたいんですが、なにかお役に立てることがあったらいいなと思いまして。霊に取り憑かれると生気を奪われるなどと言うじゃないですか。そういう時には神社なんかでお祓いをしてもらったりしたほうが良いんじゃないかとか、勝手に考えてました。お気に触ったらすみません」
菅平さんがまたしてもサラッと爆弾を投げてきた。確かにそう見えても不思議じゃない。鈴木さんがオカルト好きなのだろう。とにかくこれは僕を心配してくれての意見なので、まずはお礼を言わなければ。
「いえ…ありがとうございます。気にかけてくださっているのは本当に助かりますので。でも、霊の仕業とかではないです。トラウマみたいなヤツです。僕の…心の問題なので…自分で解決するしかないです。すみません」
「それは自殺をオカルティックな精度で鑑別できることについてですか? それとも具合いが悪くなる件についてですか?」
「両方、ですかね…」
「両方ですか…そうすると、もし、そのトラウマが解消されたら、自殺の解剖で具合いが悪くなることはなくなるが、鑑別に支障が出る、ということになるんでしょうか?」
菅平さんの口調が少し困惑していた、気がした。実はこれからそれを実験する予定なんです、清水先生と一緒に、とは、ここでは話すことは出来ない。だが、実験の結果、性衝動と希死(菅平さんが言うところの“具合いが悪くなる”)が既に緩和されている可能性はある。とは言え今、それを言って期待させるわけにもいかない。この場でなんと言えば良いのかわからない。わからないので、素直にそう言った。
「どうでしょうか…」
「いえ、もし、なにかメンタルの問題であれば、カウンセリングなんかをちゃんと受けたほうがいいかと思っていたので。もしもうなにかなさっていたら余計なお世話なのですが、今のお話を聞くと、もしトラウマが解消したらその霊視みたいな精度が無くなる可能性もあるんですよね」
「うーん…まぁ、どんな現象でも“可能性はない”と言い切るのは科学的ではないですね」
「そうしたらトラウマを解消するのは賭け、ということになるんですか?」
「…賭けですが…多少は勝算はある気がします。理屈じゃない感覚なんで非科学的ですみませんが」
「そうですか。ご自分でわかっていらっしゃるのなら、なにか取り組んだほうがよろしくないですか?」
わかってるんならちゃんと治療しろって言いたいんだろう。だが、たとえ専門家にもこんなこと話せるわけがない。めちゃくちゃな現状もめちゃくちゃな過去も。守秘義務とかそう言う問題じゃない。実験が成功すれば僕はある程度解放されるのだ。しかし、ご厚意ではあるので、形だけでも肯定的なことを言おうと努力した。
「治るんですか? こういうの」
「過去に何かショッキングなことがあったということでしたら、そういうことを改善するようなセラピーはあります。よろしければ紹介します」
「良い先生がいるんですか?」
「私がお世話になった先生です。助けてもらいましたから」
思わぬところで平然と菅平さんの過去が薄っすら明かされる。なんだこの展開は?
「菅平さんが受けたということですか?」
「はい、3年くらい通いました。おかげでこちらに就職できるまでに回復してます」
「いろいろ…お有りになったんですね…」
「この件は堺先生しか知らないので、堺先生以外には言わないで下さい」
「もちろんですお約束します」
「よろしくお願いします。ですから、もし必要な時は言って頂けたらご紹介します」
「あ、はい。その時はお願いします」
それきり菅平さんは「目的完遂」とばかりに沈黙した。ずっと僕に訊きたかったのだろうか。それとも今日の鈴木さんの言ったことがキッカケで思い出したのだろうか。それを訊く勇気は僕にはなかった。そして菅平さんが寡黙なのは性格とは他に、その過去のなにかの影響なのだろうか、と僕は想像してみた。
しかし、今後の状況が案の定紛糾し、あの二人のことで打ち砕かれるかも知れない僕のメンタルをどうにかするべく、何かしらのカウンセリングやセラピーを受けて状況を打開するという引き出しはあっても良いのかな、と思い直した。実際僕が中高生の頃は寺岡さんがそんな役目をふんわり担ってくれていた気がする。それは朝まで眠れなかった昨日今日が僕にその妥協を考慮する余地を与えたと言って良い。その菅平さんの世話になった先生が本当に有能なセラピストだったら、だけれど。こんな不確定なものに自分の苦悩を預けようなんて、よっぽど追い詰められているんだな、と、自分のクリフハンガーっぷりを改めて認識する。佐伯陸の使っていたゲイ掲示板に投稿した以来だ、こんな発想。しかし、生きている人間に興味のない僕にしてみたら、多分、かなりシビアであろう菅平さんの評価が高いその見知らぬセラピストについては、僕の菅平さんへの信用もあいまって、“ワラをも縋る”のワラに成り得ると僕にしては微かな期待を生むほどだった。
そのうち頭蓋骨と下顎骨が綺麗になり、長管骨も洗い終え、解剖台の上には頭蓋骨、下肢と上肢が実際の解剖位に並べられた。大腿骨の長さを測る。身長計数というものがあり、手足の長管骨1本の長さがわかればおおよその身長を割り出せるというものだ。計測と計算が終わり、約159cm〜165cmという結果が出た。頭蓋骨の傾向から概ね男性の骨であろうことはわかっている。骨盤が揃えば更に確定されるだろう。昼までに更に背骨を洗って頚椎から尾骨までが揃った。キリが良かったので昼休みになった。
休憩が終わり、午後から引き続き作業だ。肋骨、肩甲骨、腸骨(骨盤の骨だ)、手根骨、手指の骨、足根骨、足趾の骨、その他、細かいものはいくつか欠けていたが、ほぼ全身の骨が解剖位に並んだ。まさに「白骨屍体」だ。写真撮影を始める。清水センセの大好きな、腐敗なし、男子の、骨。ああ、思い出しちゃった。ほんと思い出すとキツい。嫉妬はほんとに困る。今の僕は清水センセと一緒に幸村さんを思い出す仕様になっている。考えてみれば清水センセだけじゃない。幸村さんの嫉妬もタチが悪い。せっかくの静かな骨を前にしてなんなんだこの苦痛は。早くあの実験がしたい、などという有り得ない気分になってくる。だってそうじゃないか? 実験に成功すれば性衝動から解放された僕は幸村さんときっぱり決別できる。実験に失敗すれば清水センセの殺意が僕にとってなんの効力もなかったことになり、やはり清水センセと関係を断つことができる。一人でも僕から離れるべきだ。そのための理由と事実が欲しい。
「岡本先生、このケースは畑の所有者とDNAの照合をするとかってアリですか?」
僕の思考を断つように菅平さんが再び唐突に口を開いた。渡りに舟、と、僕はそれに答えた。
「警察的に事件性があればするのもアリですが、これが明治時代とか幕末とか、もっと古いとそれは考古学の範疇になってきますからね。これからの捜査次第でしょう。親族に行方不明者がいるとかがあれば、そう言う判断も出来ると思います。でも今のところ骨に事件性というほどの情報がほぼほぼないですね。頭蓋骨に陥没や骨折があるわけではないし、ざっと見たところで刃物の傷もまだ見つからないですし。まぁ、白骨屍体は死因の特定は元々難しいので」
「おおむね警察次第、ということですね」
「ええ、そういうことです。取り敢えずこれから骨を詳細に見ますので、終わった順に撮影お願いします」
「はい、わかりました」
僕たちは夕方まで作業とメモと撮影を続けた。思った通り、死因は「不明」だった。鑑定書が簡単になる。あとは警察の捜査次第だ。一通り片付けも済んだので、定時で菅平さんと鈴木さんは帰っていった。僕だけスタッフルームに残り、年末の真っ暗な夕方の中、手書きのメモをパソコンで電子化していた。
「よう、今日も寒いなぁ!」
いきなり戸口によく知っている声がした。会いたくない筆頭の男の声。
「こんばんは」
僕は画面から目を離すことなく、感情のない挨拶をした。幸村さんはズカズカ入ってきたと思うと、僕のパソコンの画面を僕の肩口から覗き込んだ。近い。迷惑この上ない距離。
「昨日の白骨死体か?」
「ええ。あれ、古いですよ、たぶん」
「あー、こりゃ自殺じゃねーなぁ」
「ええ。同じこと菅平さんからも言われました」
「まあまあ、良かったつーか、残念つーか」
「邪魔です。用件はなんですか?」
「例の車の中の凍死の件、ようやく睡眠薬の出処がわかった」
ようやく幸村さんは僕の背後を離れて隣のデスクの椅子に座った。
「知ってます。鈴木さんが堺先生に聞いたって」
「サイレースだったよ。酒と一緒にやったんだ、よく効いたろうよ」
「では、マスコミの件も解決ですね」
「まぁな。嫁と不倫相手のアリバイもちゃんとしてる。それから、新しい供述も嫁から出た。心中しようとしてたんだとさ、不倫相手と」
心中。思わず幸村さんの顔を見ようとしてしまった。視線が合う前に慌てて画面に集中するフリをした。
「イヤな響きですね、それ」
「だな」
「詳細は聞かなくていいです」
「まぁ、だろうよな。でも、あの時岡本が言ってた『俺を置いていくな』は、不倫じゃなくて、心中のことだったのかってちょっと思ったな。まぁ何の根拠もないんだが」
「旦那は知ってたってことですか」
「今となっちゃもうわからねぇけどな。でも、それで先に逝った。二人で死なれて後に残るより、自分が先に逝く方を選んだって感じか。もしくは自分が死ねばバレて別れるんじゃないかと思ってたとか? 二人への復讐って線もありえるがな」
「あの声に、そんな憎しみはなかったですよ」
それで“賭け”だったんだ、あの人。僕はあの、死ぬにはあまりにも曖昧な状況に答えのようなものを得た気がした。あいつらでなく俺が死ぬのが正解なら、たまたま薬が効いて酒でもっと深く眠れて、あんな人里でも見つからずに凍死で自死出来ると。
「賭けに勝った、んですよ。もう、いいでしょ? その話やめませんか」
「ああ、すまん…」
だが、やめませんかと言った僕の中では“賭け”のさらにその先がなぜか続いていた。俺よりもあの男のほうが嫁に必要なら、俺が死んで、不倫がバレても、それをなお乗り越えるだけの気持ちが二人にあれば……思考が暴走していく。幸村さんを止めて、自分を止められない。賭け、賭け、一か八かの、文字通り命を賭けた、大博打。あの男はそれを実行したんだ。実行した。ただバラすことだって出来たのに、それだって充分過ぎる賭けなのに、なぜ死と生を賭けたんだろうか? なぜただ不倫をバラすより自分の生死を賭ける方が楽だったのか?
「…岡本? 大丈夫か?」
その声にハッとして、僕は我に返った。パソコンを打つ手が止まっていた。いつの間にか画面から視線が外れている。発作は起きないまでも、あの凍死の自殺屍体に引きずられているのか。
「俺が悪かった。ごめん」
「え、あ、いえ」
「とにかく、殺人の線は無くなった。岡本の鑑定のおかげだ。それを言いに来たんだがな。ついつい余計なこと言って、すまん」
「ええ、まぁ…仕事ですから」
「いつも、ありがとうな。あと、例の九殿山の死体遺棄もよく解決したもんだと思ってるぞ。岡本はやっぱり優秀だ」
「それにしか使えない人間なんで」
ああ、もう、イヤだ。胸に何かがずっと刺さリ続けている。さっきから清水センセの顔が浮かんでいる。何もかも言ってしまいたくなる。だが、そんなことをして何になる? 僕はページを保存してパソコンの電源を切った。
「…帰ります」
「ああ、俺も行くわ。仕事中すまなかった」
「いえ、わざわざありがとうございます。鍵閉めるので出て下さい」
「ああ、じゃあな」
幸村さんは軽く手を振ってドアを出て行った。静寂が戻ってきた。僕は席を立ち、応接用のソファに身を預け、そこからしばらく動けなかった。死にたい。僕も賭けてしまいたい。そう、何もかも言ってしまいたくなったとしても、言ってなんになるとあの男も思ったのだ。だから黙って神託に任せた。奥さんも不倫したとは言え、きっとなにか旦那にしかわからない理由みたいなものがあった。奥さんがゲスな不倫だったら、それこそ憎しみで復讐したくなっていただろう。
いや、僕は人のことを好きとか嫌いとかわからないんだから、彼の、彼女の深い心境などわかるはずもない。僕はただ、人が傷つくと大変なことになるということを知っている。ただそれだけの保身なんだ。僕のせいで人が自分から死ぬのを見たくない。ああ、だからなのかな。彼もそうだったのか……もういい。わからなくても何も構わない。
今夜、電話しよう。僕はそう決めた。今週末、僕は実験を敢行する。清水センセの準備はどうか。もう、この精神状態を保つのは無理だ。なんでもいい、結論が欲しい。この後に及んでもうどんな結論でも構わない。賭けだ。これが今の僕に出来るたった一つの賭けだ。
〈あとがき&近況〉
この後に及んで見捨てることなく拙作をご閲覧いただいている寛大且つ暗黒好きな皆様、ありがとうございます。無事、今月も更新できました。体調は案の定不調ですが、仕事を減らしてしっかり休んでます。休みが増えると必然的に書く時間が増え、体調不良は書くことに大いに寄与しているといういつも謎な架空線ではあります。ここんとこはサプリのマグネシウムのタブレットをラムネのようにおやつ代わりに食べてます。アルカリの味がたまらん…(←いつもの異食)。
呪術廻戦も渋谷事変が終わり、そろそろ春アニメも最終回の波に揉まれていますが、ゾンサガRと86と東離劍遊紀3が心の糧でございました。自宅が快適すぎて外に出られない。まぁ、今の時期はそのほうが望ましいのでしょうけれど。
本年は予言によると8月20日に富士山が爆発するらしいので、引き続き人生に悔い無く過ごそうと思います。成人して以来、明日死んだら何が心残りだろう?という問いで生きてます。好きな人とイチャイチャしながら死にたい。では皆様もお大事に!