※この作品はR-18です。

僕を止めて下さい   作:架空線

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ו.切り札は一枚だけ

 だが、その夜、僕から清水センセに電話を掛けることはなかった。向こうから掛かって来たからだ。

 帰宅してすぐにカバンの中で電話が鳴った。清水センセはまたしてもパニクっていた。前に僕のマンションに来てゾンビのように迫ってきた感じのやつだった。いや、それよりもずっと混沌としている気がする。

 

「はい、岡本です」

「あ…掛かった…」

「ちょうど良かったです。僕も掛けようかと…」

「裕くん? 裕くんだよね?」

「あ、はい。そうですが」

「君は…君は本当に存在してるの?」

「は?」

「現実なの?」

 

 とてもラジカルな質問だったが、ラジカル過ぎて面食らった僕は何をどう答えたらいいのかと一瞬詰まった。そして答えるより先に問い掛けることにした。

 

「どうしたんですか?」

「お願い答えてよ! 君は僕の夢の中にしかいないなんてこと無いよね?」

 

 寝起きなのか? 悪夢でも見ていたんだろうか。今にも泣きそうな声に今度は即座に答えていた。

 

「ないです」

「それをどうやって確かめられるの? ねぇ、どうすれば今、夢の中じゃないって証明できるの?」

「え」

「僕は今…夢を見てるのかどうなのか教えてよ…」

「えっと、先生は起きて僕に電話してますが?」

「証明できる? これが裕くんに電話してる夢じゃないって証明できる?!」

「ちょっと、先生、どうしましたか? 一旦落ち着きませんか?」

「わかんないんだよ…なんか…君がこの世界に本当に存在するのか…それとも自分がずっと覚めない夢の中にいるのか」

 

 こういうのを精神医学の授業で習った気がする。現実と夢の区別が付かなくなったりする。えーと、解離、だったっけ。いつもおかしい清水センセがさらにエスカレートしている。一体なにがあったんだろう?

 

「いつからですか?」

「君はどこにいるの?」

 

 僕の問いには答えない。

 

「自宅にいますよ?」

「電話すればハッキリするって思ったんだ…思ったのに…全然わかんない」

 

 そして黙った。息遣いだけが聞こえてくる。清水センセの狂気が増悪しているようだった。それとも僕にコンタクトしたいだけの演技? 演技とは思えない狼狽っぷりに、さすがの僕でも心配になった。どうすれば落ち着いてもらえるだろうか。

 

「どうすればいいですかね? 僕は」

「どういう意味?」

 

 清水センセは急に僕を問い詰めるような言い方をした。責められているとでも思ったんだろう。

 

「先生が落ち着くために出来ることがあれば言って下さい、という意味です」

「あっ…ごめん。心配してくれたんだ」

「ええ、ずいぶん混乱してるみたいなので。あ、ちゃんと頓服とか飲みました?」

「飲んでない」

 

 今度は質問に答えた。パニクっているのならソラナックスを飲めばいいのに、と思ったが、いや、ちょっと待て…と考えなおした。もしかしたらこれは薬の離脱症状という可能性もあるなと。離脱症状とは長期服用していた薬をいきなりやめるとか、依存性のある薬物などの反復使用を中止することから起こる病的な症状のことで、ソラナックスを含むベンゾジアゼピン系の薬剤はこの傾向が強い。

 

「気が付かなかった。そっか…飲んでないのか」

「忘れてたんですか?」

「忘れてた」

「飲んできて下さい。少しは落ち着くんじゃないですか?」

「そうする。一度電話切るね」

「はい」

 

 清水センセからの通話が切れた。僕はその間、ソラナックスの離脱症状をググった。“ベンゾジアゼピン離脱症状”でわかりやすいサイトがヒットした。《精神症状:イライラ、焦燥感、易興奮性、不眠、悪夢、他の睡眠障害、不安の増大、パニック発作、広場恐怖、社会恐怖、知覚変容、離人感、非現実感、幻覚、錯覚、抑うつ、強迫観念、妄想的思考、激怒、攻撃性、過敏性、記憶力・集中力の低下、侵入記憶…》など。身体症状についても、振戦、脱力、頭痛など、これも長いリストが上がっていた。これを見て、清水センセの異常行動の大半がこの離脱症状で説明が着く気がするほどだった。パニックを起こし、僕のマンションに来て泣き喚いた時も離脱症状だったってこともありえる。

 

 僕の求めていた情報、離人感・非現実感は明確に書かれていた。夢と現実の区別がつかなくなる。「…離人感・非現実感は、ベンゾジアゼピン離脱時に起きる可能性がある。通常、高力価のベンゾジアゼピンの急な離脱で起きる場合が多い…」。つまり、服用量の多いところから急にやめると出やすいというわけだ。

 もうひとつ厄介なものが書いてあった。「侵入記憶」だ。侵入記憶とは、過去に経験したトラウマ的な出来事が意図もなく想い出されることである。いわゆる“フラッシュバック”というものだ。侵入記憶はPTSDの主要な症状として広く知られている。侵入記憶のレベルで、PTSDの重症度を予見出来るとさえ言われ、これは侵入記憶がPTSDの主要な病理的な反応であって、この症状のコントロールがPTSDの治療の重要なポイントとなるからだ。厚生労働省のホームページのPTSDの項目にも、『PTSDとは、死の危険に直面した後、その体験の記憶が自分の意志とは関係なくフラッシュバックのように思い出されたり、悪夢に見たりすることが続き、不安や緊張が高まったり、辛さのあまり現実感がなくなったりする状態』と書いてある。清水センセのトラウマ的記憶がPTSDを引き起こすのでパニックが起きる。そのパニックを抑えるために薬を飲む。しかし、薬が切れて離脱症状が起きると、パニックの原因の侵入記憶がそのせいで引き起こされ、辛さの余り現実感が無くなるという解離が生じる、ということなのだ。こんな迷惑なマッチポンプはない。

 

 そこまで考えた時、僕はあることに気がついた。「離人感・非現実感は高力価のベンゾジアゼピンの急な離脱で起きる」。それって、あの時の? あの夜のトラウマの告白の時の4錠が引き金なのだろうか? それではこの清水センセのパニックは僕のせいなのか? あの告白を無理やりさせたことで、この解離が起きているんだとしたら。

 その時、また電話が鳴った。

 

「はい、岡本です」

「裕くん、いた」

 

 なにか声に脱力感があるのがちょっと気になるが、さっきより逼迫した感じは減っていた。

 

「少し落ち着きましたか」

「あ、うん…そうかな?」

「声はさっきより落ち着いてる気がしますが」

「薬飲めば治るって思ったら、気分的にちょっとマシかも」

「現実感は戻りましたか?」

「うーん…どうだろ」

「まぁ、飲んですぐですからね」

「効くまで電話してていい?」

「ええ、構いません」

 

 どうせ電話するつもりだったのだ。それに僕には責任を取らねばならない理由がある。

 

「…今日は午前中から忙しくてさ…昨日よく寝てないし…帰ってから着替えもしないでソファに倒れこんで寝ちゃったんだよね。夢を見ててさ、君がソファの前に立ってるんだ…嬉しくて声を掛けたのに全く声が出てなくて、もどかしくて何度も裕くん、って…そのうち自分の声で目が覚めて…でも目が覚めたのに全然現実感がなくて。君は居ないし、もしかして夢から醒めた夢を見てるんじゃないかって…それに…」

「それに?」

「僕はまだ小学生のあの頃のままで、今まで起きたことは全部僕の現実逃避の夢なんじゃないかって思い始めたら…母が死んだことも都合の良い僕の夢で、大学に行って医者になって家を出たことも、君の動画で君を好きになったことも、アメリカに行ったことも、帰ってきて君に逢えたのも…全部…全部夢だったのかも知れない…って…」

「それは怖いですね」

「そうなんだ…もう怖くて怖くて…君自体、夢の中の人だったんじゃないかって…錯乱してきちゃって…でも今もまだそれは拭い去れない。だって君と二人でしか会ったこと無いからさ…」

「まぁ、そうですが」

「必死に風呂場に行って鏡を見たんだ。そしたら僕はもう大人で、小学生じゃなかった。この家はもう父も死んで僕一人で…でも、どうやってそれを証明できるんだって…僕の夢の中で、まだ僕が夢から醒めていないだけだとしたら…それで自分の指を噛んだんだ。痛いなら夢じゃないって…でもなんだか感覚が変で…痛いのか痛くないのかわからなくなってきちゃって…気が狂いそうになって、君に電話しちゃったんだ」

 

 解離というのはここまで現実味が消失するんだと、そうなった人を目の前にして初めて知る。でも、まったく知らないわけじゃないな、この感覚。あの時だ…僕が高校生の時に、遠い市役所に除籍謄本を取りに行った、あの日からしばらくの感覚。自分の人生がフィクションになっていくあの浮遊感と非現実感。まったく同じではないんだろうけど。

 

「こうなったの、初めてですか?」

「夢から醒めた夢は前は何度も見たんだ。小学校の頃から…あのトラウマ事件の後からだけど。大学になってから心理的な意味を調べたら、現実逃避、だって。そりゃそうだよね。起きたくなかったんだもん、あんな現実に。あとは蓄積した怒りって。大当たり」

「辻褄合いますね」

「とはいえ怖さが半端ないんだよ。一生目が覚めないかもっていう恐怖なんだけど。でもそれは母が死んでから見なくなった。その次に出たのは君を探して疲弊しきって絶望感が出始めてた時期で。また始まったかって思って、怖くて怖くて…眠る時にパニックになるんだ。不眠症じゃないんだよ。眠るのが怖くて眠くても眠れなくなる。それで薬を飲み始めたんだ。身体も参っちゃって、昼間からボーッとして仕事でミスした。血の気が引いたよ。患者に影響が出る前にリカバリーできたから良かったけど…それで自分がもうダメだって思って、生きてる人を診ないほうが良い、屍体を視たいって思ってアメリカに行ったんだ。君と医療と両方から逃げた」

「大変でしたね。逃げたのは正解だと思います」

「正解なのかな…完璧主義だった自分を裏切ったことが物凄くショックで…どんなに疲れてても仕事のミスはしなかったのが自分の支えだったのに、それが崩れてしまったら…もうダメだって思っちゃって…君を諦めようと思っている自分にも失望してた。それから精神薬がないと暮らせなくなった。でもアメリカに行ってしばらくして、行動療法のセラピストに運動を勧められて、それから少しづつ良くなってはいたんだよね」

「じゃ、なんでまた服薬し始めたんですか?」

「父の看護に帰ってきたのがキッカケ。アメリカでは僕は多少開放的だった。でも自分の実家だよ…悪夢の詰まった実家で、末期がんの父親の看護。久しぶりに帰ってきて、ドアを開けるのに全身冷や汗で10分以上僕は玄関に突っ立ってた。でももう、母親は居ないって自分に言い聞かせて、呼び鈴を押した。叔母が出てきたよ。自分でノブが回せなくて、ドアが開けられなかったんだ。叔母からはよく帰ったね、じゃなくてまず挨拶代わりに逆ギレされてさ。無責任この上ないバカ息子って。まぁそうなんだけど…自分の心理的な事情なんて言えるわけもないし、ごめんなさいって言うだけで精一杯だったな」

 

 内容はいつものごとく深刻な話だが、清水センセの話し方がいつもの感じに近くなってきた。だんだん薬が効いて来たのだろう。しかし、こんな依存性の高い精神薬を彼はこのままダラダラ飲んでいて良いのだろうか。

 

「そんなこんなで、その夜からまた薬再開。高校までしか住んでなかった実家に帰ってきて、しかもあの自分の部屋で寝起きするなんて頭がおかしくなりそうだったよ。しかたなく客間で寝泊まりしてた。でもなぜか父親だけは嬉しそうだったな。医者に看取ってもらえるって。父親は僕が医者になったことだけは評価してたみたい。まぁ世間的な権威主義的な満足だったんだろうけどさ……ああ、なんか効いてきたみたい。変な悪夢みたいな感覚がさっきより薄くなってきたよ。ありがとう、裕くん」

「あの、それ離脱症状かもしれないんで。気をつけて下さい」

「ああ、そっか。可能性はあるか。なんか2日くらい飲んでないかも…離脱症状ってやつを忘れてた」

「話し聞いてると、頓服として使ってない感じですよね、あれ」

「頓服だった、んだけど、君を見つけてから毎日レスキューだったから毎日頓服してたんだ」

「それはもう連用です。3ヶ月以上じゃないですか? その薬は断薬大変みたいですよ」

「知ってるよ」

「知ってるんなら良いですが」

「知ってるのに、言われるまで気が付かなかったのはマズいね」

「ええ、電話してくれて良かったです」

「そう言ってくれるとありがたいよ」

「僕もホントは先生に用事があって電話しようと思ってたんです」

「えっ?! 本当に?! なに? 僕に用事ってなに?!」

 

 いきなりトーンの違う声が耳に響いてきた。こんな状態の清水センセに言うべきことなのか、それとも言ったほうが良いものなのか判断できないまま、なし崩し的に僕は用件を話し始めてしまった。

 

「例の実験を早くしたほうが良いかなって相談なんですが、こんな離脱症状で苦しんでる先生に今お話するのはちょっと僕も、良いのかどうなのか…」

「ああ…ごめん。僕がしっかりしなきゃいけないのにね」

「いえ、離脱症状は多分、僕のせいです」

「え? なんで?」

「あれです…この前、無理やり先生にトラウマを聞き出したときにですね…先生がソラナックスを大量に飲む羽目になったのは僕のせいですから。さっき調べたんですよ、ベンゾジアゼピン系の離脱症状で、特にソラナックスは、高容量から服用をやめた時に離人感や非現実感が出たり、パニック症状が出るって」

「そうなんだ。添付文書には解離症状はなかったけど?」

「海外のサイトの訳があって、それにありました」

「詳しく調べてくれたんだね。ありがとう」

「いえ、僕の責任でもありますから」

「君は…悪くないよ。言って良かったって今は思えるから」

「でも、もう少しやりかたがあったと思います。僕の考え無しでした。すみません」

「違う違う。飲み忘れてるって自分でわかってなかった僕が悪い。舐めてたんだと思う…薬も、自分自身のことも。連用じゃない頓服だ、なんて言い訳にもなんないよ」

「それもあるのかも知れないですが、僕が先生のこと無理させたのは事実ですし」

「あの告白が無理じゃなくなる時なんて無かったさ。他ならぬ君がせっついてくれたから僕は踏み出せた。そういうタイミングってのはあるんだよ。だから君が気にすること無い。あのカタルシスがあって、なんか明くる日から気分良くなっちゃったのは事実で、それで薬を飲まなくて済んでたんだし。今日だって離脱症状だって見抜いてくれたことに感謝こそすれ、あのときの君を責めたりなんか絶対に僕はしない。だからこの話はもうよそう」

「すみません」

「それより、実験のことでしょ?」

「まぁ、そうなんですが」

「なんか、あったの? 大丈夫?」

 

 具合いの悪い人から心配されて、申し訳ない気持ちになった。

 

「僕も…寝てなくて…」

「そうだったんだ。なにか不安なこととかある?」

「あります」

 

 あなたと幸村さんのことが不安で不安で死にそうです。それは今はどこをどうやっても口には出せなかった。なにを言い訳にしようかと電話する前に考えたそれでどこまで誤魔化せるか。

 

「あれから、屍体の鑑定が…もし自殺だったらどうしようと思うと…職場で鑑定するのが怖いんです。実験の前に自殺の屍体を見るのが…」

 

 少なくともウソではない。メインの不安と双璧と言っても良いくらいの不安だ。

 

「それで寝られなかったんだ」

「ええ。実際、今朝も鑑定が入っていて、目の前にするまで冷や汗が出るほど緊張して動揺してました。結局は自殺じゃなかったので、虚脱するほど安心しましたが」

「それは…早いほうがいいね、実験」

「ええ。もうこれをずっと背負って仕事するのかと思うと精神が擦り切れそうで」

「わかった。今週末は?」

「先生は大丈夫ですか?」

「僕は君が来てくれるなら今日でも明日でも良い」

「ありがとうございます。さすがに休みの前日じゃないと厳しいとは思いますが」

「それは僕もそう思う」

「じゃあ、今週の金曜日の夜にでも、どうですか?」

「定時で帰れるようにしておくよ。緊急のオペとか入らないように」

「出来るんですか?」

「うん。確保しておくよ」

「すみません。無理言って」

「君はいついかなる時も僕の最優先事項だから。これを無理なんて言うわけがないよ」

 

 清水センセは完全にいつもの感じに戻っていた。

 

「先に言っておきますが、失敗するかも知れません。良いんですか?」

「僕が耐えられるかってこと?」

「はい…あの…恥ずかしいですが…ほんとに、ものすごく性的な状態になってしまうんで…もう知ってるんですよね。でも…知ってるのと実際に見るのでは、衝撃度が全然違うんじゃないかって…」

「かまわない」

「本当に?」

「それでも君が来てくれるなら、そのほうが良い」

「先生が傷つくかも知れないです」

「君のくれる傷なら僕は大事にする」

「…そんな」

「だって…もう…慣れてるよ…君のその…そういう……状態なら…」

 

 少し震えた声で彼はそう言った。ああ、そうだった。清水センセは僕のそういう動画を観て僕を知ったのだから。そして嫉妬と怒りで気が狂うほど何度も何百回も。だが、少しの間のあとに、向こうから微かに鼻で嗤う声が聞こえた。

 

「は…いや、ウソ。慣れてなんかないな。毎回新鮮に…気が狂いそうだったっけ」

「ダメですよ…あの動画の頃はその発作は出てないんですよ? 動画より…何倍も酷い状態になります…トラウマのある人をそれに耐えさせるなんて…二人で使い物にならなくなったらそれこそアウトです」

「そうなのか…何倍もね…うん…わかった…覚悟しておくよ」

 

 そう言うと清水センセは少し黙った。その沈黙がツラそうだったが、僕はそれを伝えたことに少しホッとしていた。聞かせたくないが、先に言うべき事実なのだから。しかし沈黙はすぐに破られた。

 

「でもね、今回は違うんだ。そう思わない? だってあの男がいない。あの鬼畜な道化師に壊される君を見るわけじゃない。僕の部屋で僕の前で、僕を信じてそうなった君を僕は愛おしいって…そう感じるって、信じてるんだ。たとえそれがショッキングな光景だったとしても」

「たとえ、先生のトラウマに触れるような光景でも、ですか?」

「君は…君は僕に、自分の身体をなんとかして欲しいなんて迫ってこないだろ!? あの女みたいに!」

 

 その振り絞るような声に僕は打ちのめされそうになった。もし実験が失敗して僕の発作が治まらず、清水センセが色々と準備した方法を試した後に、やはり手に余る状態のままだったら? 誰がどうやってその始末を着けられる? 確かに佳彦はいない。でも、僕のあれを終わらせられるあの人が関わらざるを得ない状況が来てしまったら…

 

「そんなこと…出来るわけ…ないじゃないですか」

「知ってるよ…君はそうやってその衝動を耐えて耐えて…そして、死にたくなるんでしょう?」

 

 どっちにしろ不安は付いて回る。実験をしようが、しまいが。

 

「最終手段は、使っていいよね?」

「どう、しましょうか…」

 

 首を絞めて僕を落とせばそれで終わる。僕の人生と同時に清水センセの社会的生命も終わるかも知れないだけで。幸村さんに頼らない方法はそれだけ。

 

「死なせないような処置はいくらでも出来る。君が躊躇していられるの? この後に及んで」

「…もう…無理です。でも先生に迷惑がかかるのはイヤです」

「ねえ、もうここまで来たら、自分たちに賭けようよ。この実験の相手は僕以外出来ないんだよ? 君を殺す覚悟があって、尚且つ殺さないような技術と知識と設備を持ってる人間は、今んところ僕しか居ないんだから」

「そう…ですね…それは…先生の言う通りです」

「その奮闘努力も虚しく僕が君を死なせてしまったとしたらさ、それはもう、そういう運命だったんだって。あの、この前週刊誌に載っちゃった例の凍死の男の人が、様々な死なない悪条件の中でも自死出来ちゃったのと変わりないよ」

 

 まさに夕方考えていたそのことを言い当てられたみたいで、僕はハッとした。そうだ、追い詰められた僕は苦しくて耐え切れないところまで行ったのだ。

 

「人事を尽くして天命を待つ、ってこういうことなんでしょうか」

「いいこと言うね。実にピッタリな表現だと思うけど?」

「それなら…もう…しょうがないです」

 

 ふぅ、と電話の向こうから安堵の溜息の音が聞こえた。

 

「じゃあ、金曜日。決まりね」

「はい…お願いします」

「仕事終わったら電話くれる? 車で迎えに行くから」

「はい…おねがい…します」

 

 言い知れぬプレッシャーに押し潰されて、答えた僕の声は掠れて上手く出なかった。だが、清水センセはさっきまでパニクっていたとは思えないほどの冷静な声で僕を諭した。

 

「裕くん。大丈夫だよ。どうなっても大丈夫だよ。僕がトラウマに打ちのめされても、君の発作が終わらなくても、そんなこと僕らの人生の中で、ただの通常運転じゃない? お互い非道いこといっぱいあったじゃない? それでもここまで這いずりながら歩いてきたんだよ。僕も君ももう周りに振り回されるだけの10代の子供じゃなくてさ、いろいろ経験してきて大人になっちゃったんだから。世間からどれだけズレていようとも、僕らは僕らの文脈で願いを叶えなきゃ、ウソなんだよ。此処から先は誰も見たことがない道なんだから、怖いのは当たり前だって。僕だって怖くないわけじゃないんだよ。でももう、なんでもいいから答えが欲しいんだ。それが自分にとって都合の悪い答だったとしても…もうここで留まっていることのほうが…ツラくて…苦しいんだよ」

 

 狂人の放つ一瞬の真実に、僕は衝撃を感じた。土くれや瓦礫の間からヒスイの緑が一瞬光るのを見るような。そのあと自分の中の戦慄のいくばくかが消えたのを感じた。僕は凍死の彼が心底羨ましかったのは、自殺できたことだけではなく、僕が捨てられない何かを投げ打って一歩踏み出し、結論を得たから、なのかも知れない。その行為が正しいか間違っているかは置いといて。

 

「…参りました」

「え、なんで?」

「ブレないから」

「そんな…さっきまで錯乱してたんだよ?」

「薬でしょう? それって」

「…僕みたいな弱い人間にはそれも必要なんだけど」

「先生って95%くらい狂ってますけど、5%くらいは啓示みたいなこと言うんですよね」

「気の触れた巫女みたいなやつ?」

「まぁ、そんな感じです」

「いつもながら…言うねぇ、裕くんは」

「事実ですから」

「君を愛してるから、だろうな」

「そうですか。やっぱり頭おかしいです」

「そうかもね…それなら狂って良かったよ」

 

 フフッと清水センセは笑った。

 

「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれってね。昔から言うでしょ?」

「だいぶ普通になってきた気がしますが、先生はもう大丈夫ですか?」

 

 一応念の為に本人に確認する。

 

「ああ、ありがとう。だいぶ普段通りの意識になってるみたい」

「まだ僕のこと夢の中の人みたいですか?」

「いや、全然」

「良かったです」

「君と話せてるのは夢みたいなのは変わらないけど、今は現実だって思える」

「明日も服薬、忘れないで下さいね」

「肝に銘じて」

「それじゃ、僕、申し訳ないんですが、晩御飯にします」

「あ、ごめん! タイミング悪い時に電話しちゃったね」

「僕も電話する予定だったので大丈夫です。それに実験に向けて、今後も先生の精神衛生は大事ですから、そこは心配しないで下さい」

「ありがとう。あのさ、申し訳ないんだけど…また電話するかも」

「良いですよ、出られたら出ます」

「それで充分だよ。それじゃ、金曜日に」

「はい、よろしくお願いします」

 

 電話を切り、ようやく着替えた。キッチンに立って味噌汁を温めながら、後戻りできない地点に行こうとしていることを反芻した。全く知らない場所の知らない暗闇で足を一歩、前に出す。そこに何があるか、何もない虚空なのか、着地できるのか、どうなればそれが正解なのか、僕には暗すぎて本当にわからなかった。ただ、それでしか見えてこない真実の存在が、狂った僕たちを漆黒の闇に駆り立てる原動力だった。

 

 これが僕の賭けだった。真実というカードにおのれの全てを賭け金として投げ出す。切り札のカードはこれ1枚、あとはブラフだ。そんな選択が出来たことは、トラウマだらけの僕らにとって奇跡と言えることだけは間違いなかった。不思議なことに、それは博打にしてはほんの少しの自暴自棄の匂いも手触りもなく、妥協の味もしなかった。絶望に端を発しているはずのそれは、追い詰められ真っ暗で怖ろしいわりに、なぜか純粋と思えるような妙な賭けだった。

 




〈あとがき&近況〉
 
 全世界200人前後の選ばれし暗黒の探求者の皆様こんにちは。1章2章を見なおしていたら、結構あとがきを書いてない回が多いのに驚いている架空線でございます。何がキッカケでこんなにしっかりあと書くようになったのか謎です。しかし梅雨明けから飛ばしてんなぁ夏、というわけで、7月も早いうちから猛暑で長い夏になりそうですが、熱中症にはメロンが効くのでお試し下さい。5分で頭痛も筋の痙攣も吐き気も失せます。ゴーヤでも可。
 夏アニメも始まり、この夏は転スラのディアブロとヴァニタスで楽しく生きてます。悪魔萌えと吸血鬼萌えにはたまらない今期です。昔から吸血鬼の話が書きたい欲がずっとあって、色々とプロットを考えます。吸血鬼もので一番好きなのはインタビュー・ウィズ・ヴァンパイアですね(ポーの一族もヘルシングも良いが)。しかし、自分の血は抵抗無い(むしろ好き)ですが、想像してみると「案外他人の血液は飲みたくないな」ということに気づいたので、私自身はヴァンパイア向きではないかも知れませぬ。でも他人の血なんか飲みたくないのに無理やりヴァンパイアにさせられて飢えに苦しむというシチュならかなり萌えるかもです。血液不足で失神して気がつくとベッドの上で誰かの血を輸血されてる、というシーンで必ず終わるとかアリだな。そんで私をヴァンパイアにした吸血鬼がベッドサイドに腰掛けて微笑みながら「お前には死んで欲しくないんだよ…」とか言われて、こっちは悔しげに唇を噛むというね。そんな吸血鬼の殺し文句は「一緒に永遠の命を生きてくれ」でしょう。死ねないウイルスの感染症というのがヴァンパイアの真実だったりする(テロメアが短縮しないウイルス)。じゃあワクチンも作れるかもだが。いやいやアイデアがどんどん出てくるんでそろそろやめます。
 あと、僕止め内で2章の題名が『ヴァニタス・ヴァニタートゥム』ですが、ヴァニタスの手記の連載開始の1年前に章題付けたんで、パクってないです。ちなみにヴァニタス・ヴァニタートゥムは引用は聖書ですからね!(←架空線大好き伝道の書)
 それでは今回もご閲覧ありがとうございました。このところ月一ですが何とか更新が続いているのも皆様のおかげです。
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