何が起きているのかわからない。幸村さんと清水センセが僕の前に並んで立っている。僕がずっと恐れていた事態が、この部屋で、しかも当の清水センセによって実現されている。すべての不安と危惧が一気に襲って来た。計画がバレた?それならもう完全犯罪は不可能だ。だが、なぜこのタイミングで? それに「僕が呼んだ」ってどういうこと?
「なんで……なんでここに…なんで幸村さんを呼ぶの?」
「ごめん裕くん……今まで何も言えなくて」
「どういうことなんですか!? 幸村さんいつから……いつからそこにいたんですか!?」
「岡本が来る前に来てた」
「ずっとその部屋に居たってこと?」
「ああ。見えなかっただろ? ドアの後ろはそこから死角だしな」
ではこれは幸村さんが僕を尾行して勝手に清水宅まで来たわけじゃないんだろう。そうすると、幸村さんに脅されて清水センセが不本意にもここに呼んだのか、それとも逆に清水センセが幸村さんを脅迫してここに呼びつけてるのか、そうじゃなければこの二人はお互いに利害の一致で共謀してるのか? 実は二人は陰で付き合っててそれをカミングアウトしにきたのか?
ただ、確実なのは幸村さんはこの実験の一部始終をとなりで聞いていたということだろう。会話を聞かれてた……僕らはこの部屋であの話をしただろうか? 清水センセが僕を殺すことを。言った気もする。匂わせただけで言わなかった気もする! ああ、頭の中がぐるぐるしている。でもそれならなぜ、清水センセが幸村さんを呼ぶの?
「まさか…清水センセを…どうするの?」
「どうもしないさ。俺は実験の結果を見に来た。それと、最悪の事態に備えてここにいる、それだけだ」
最悪の事態とは、清水センセが僕を殺すこと、だろう。僕は引き攣った顔で清水センセを振り返った。そして僕を見下ろしている幸村さんに取りすがった。
「違うんだ! 僕が殺してって頼んだんだ! まだなにも起きてない! こんな…こんなのなんの犯罪にもならないでしょう?」
それを聞いた清水センセが幸村さんの後ろから慌てて僕を取りなした。目も合わせずに。
「大丈夫。大丈夫なんだ裕くん。逮捕なんてされたりしないから。来てもらったんだよ……裕くんのために」
「僕のため?」
「落ち着け。俺がここに居るのはお互いの結論だ。勘違いするなよ? 最悪の事態ってのは、実験とかいうヤツが失敗して、お前の発作がなにをしても終わらないって事態だろ」
「それに僕が君の発作を見て、最悪パニックになって使い物にならなくなるってことも考えた」
「今日のこと、幸村さんに話したんですか!」
そんなありえないことが起きるのか!? だが幸村さんは今日ここで何が行われるか知っている口ぶりだった。この二人はすでに何かを共有している。それもこの雰囲気はごく最近じゃないじゃない。もっと前から……じゃあ、いつから?
「まさか……驚いた。あはは……ほんとに起きねぇみたいだなアレ…ははっ……すげぇなぁ、清水さんは。参ったよ。完敗だ……もうこれでお前の死にたいを聞かなくて済むんだろうな。俺がいなくても、解剖の後、普通に眠れるんだな」
そう言うと幸村さんは僕の両肩に手を置き、寂しそうに微笑んだ。
「大丈夫だから。座れ」
そのまま僕は再びソファに座らされた。僕はこの状況が途轍もなく大丈夫じゃなさそうな清水センセを問いただした。この二人の嫉妬のことで、僕がどれだけ苦悩したと思う?
「先生は……平気なんですか? この人、僕を……僕に……もう知ってるんですよね? なのに……なんで」
「知ってるよ。君に会う前から知ってるんだよ。それは…あの日…僕が口を滑らしたから……わかってるんでしょう?」
やっぱりそうだったんだ、と、僕は自分の想像が正しかったことを知った。
「夜、君の部屋に入って、明け方出てきた幸村さんを……僕は……僕が……耐えられなかった」
やはり彼は見てしまったのだ。幸村さんが苦々しい顔でその後を続けた。
「明け方、岡本の部屋から出てきたところをストーカー中の清水先生に捕まったんだよ。例の久殿山の遺棄の解剖の時だ」
「捕まったって、どういう意味?」
「路地から誰か出てきたなと思ったら、清水さんだったんだよ。ものすげぇ形相で俺を睨んでさ、いきなり胸ぐらを掴んできたから、本当にあの時はマジで驚いたわ。一瞬、パクった奴が出所して報復に来たのかって思ったさ」
それは衝撃的だった。幸村さんは見られただけではなかった。そんなところで清水センセはすでに忍耐をやめていたのだ。
「……裕くんが…自転車も漕げないくらいぐったりして…普通じゃない様子で帰って来たのを僕は車の中からずっと見てた。僕はどこかでわかってた。裕くんがきっと、解剖があってこうなったんだって。助けてあげたかった……でも僕にはどうすることも出来ない……ただここでひっそり見守っているだけのヘタレだった。声も掛けられないでずっとストーカーしてるだけの毎日で、それでも淡々と通勤してるだけの裕くんの日常を僕は見守っていられるだけで、苦しくてどうしようもないと同時に、僕は今までの何倍も幸せだったんだよ。でも、それがあの日、崩れたんだよね。君が狂った身体を押さえつけながら、情欲に憑かれたような上気した顔で口で息をしながらエントランスに入っていくのを見て。そしてそのしばらく後から……男が入っていった……本当に驚いたんだよ。だってそれが僕もよく知っている…幸村警部補だったんだから」
僕が雪の夜にコインランドリーから帰る時に気がついたそのことが、本人の口から詳細に語られていた。
「何かの間違いだと思った。そう思いたかったよ。現場の幸村さんは優秀で、僕はその的確な捜査の手腕にいつも敬服してた。検視の時も僕の意見をちゃんと信頼してくれて……良い捜査官だって尊敬するほどだったのに……」
「ああ、そのとおりだ。その優秀な俺さまのせいでこいつは自殺の屍体から逃げられなくなって……うちの管轄の検挙率は上がるし、上司の評価も上々、司法解剖の件数も増えて、そんな中で岡本は……だんだんおかしくなって……自分の身体を切り刻むようになってった。俺はお前を抱いて、お前が本当に気持ち良くなれたら何かが変わるって信じてたんだ……岡本が変わろうと藻掻いているのは感じてたさ。でも……藻掻けば藻掻くほど岡本は自分を追い詰めていって、俺の確信は少しづつ削り取られてった…メスを取り上げたらお前はカッターで自傷してた。俺を呼べって何度言っても、お前は自分が死神だって言い張って俺を排除する。挙句の果てに、俺を死なせないためにとか言って、抱いたヤツをナイフで切り刻むようなドSとワンナイトまでしやがって……誰かに自分を殺させかねないお前が怖くて…どうしていいかわからない時間が増えてった。あの夜だって、どうにかしてお前のトラウマの手掛かりを掴みたいばっかりに、お前の過去のこと聞かせろって強引に約束させて…」
「ワンナイトって…? 裕くん、そんなことしてたの!?」
清水センセが初めて聞く話に驚いたように聞き咎めた。
「ええ、後腐れなく知らない人に抜いてもらおうって…」
「そんなことしないでよ……」
清水センセが悲しげな顔で首を横に振り、震えた息を吐いた。
「ほんとだぜ。愕然としたわ、あん時は。全部無駄だったけどな! このバカはドSのイカれたナイフ野郎に散々弄ばれた挙句、体中切り刻まれて、発作が全く治まんないまんま帰ってきやがって…チッ…」
幸村さんは舌打ちすると、力なく僕の横に腰を下ろした。平気な顔をして、強引なことしかしなかったのに。幸村さんの口からこんな本音が出てくるなんて1mmも思っても見なかった。
「だからあの日は、そんなこと出来る時間をお前が作んないように、教室にすぐに連絡入れて! 会議で解剖終わった時間に間に合わねーから焦って走って! お前が家にいてくれて本当にホッとしてたんだ! いつもだったらもっと誰かに見られてないか気にしてマンションに入るのに……そんなときに限って間の悪いことが起きるんだわ……案の定、清水さんにバレた」
「僕は帰ろうと思ったよ! 幸村さんが部屋からすぐ出てくるって、出てきたら帰れるって。でも、1時間経っても2時間経っても部屋のドアが開かないんだ。頭がおかしくなりそうで、何をしてるか考えてしまうのが拷問で……でもやってることはひとつなんだってわかってたんだ。全部つながった。岡本先生と幸村警部補が仲が良いっていう警察の人たちの話とか、法医学教室によく出入りしてるとか……それから気がついたら君んとこのドアの前に立ってた。止まらなかったんだ……ドアポストのフタを開けて耳をつけて……君のあの声が聞こえて……すごく苦しそうで……今度は僕の発作が起きた。裕くんが無理矢理犯されてたらと思うと頭が真っ白になって息が苦しくてパニックになって一目散に逃げたよ。車に戻って頓服を倍量飲んで、シートを倒して横になった。薬が効いて来て、パニックだけは治まったけど、残酷さと絶望と嫉妬と怒りで押し潰されそうだった。長い時間そうして動けなくて、家にも帰れなくて……そうしているうちに薄っすら空が白んできた頃に、幸村さんがあの部屋から出てきたんだ。エントランスから姿を現した瞬間、僕は車から降りてた。そして道の真ん中で幸村さんの胸ぐらをつかんで、僕の車に引きずり込んでた」
「あの時の清水さんは普段の仕事で会う清水先生とは思えないほど…なんというか…二重人格かって思うくらいの形相で俺の胸ぐらをつかんでた。俺はなんで清水さんがこんなところに居るのかわけがわかんねーし、怒ってる意味がわかんねーし……まさか清水さんが岡本が学生の頃から知ってるなんてわかんねーからな」
そう言うと幸村さんは苦々しげに笑った。
「でもよ、そんなことでもなけりゃ、こんなことになってないわけだ。結局俺が清水さんに早くお前に会うように画策しちまった訳だからな」
「どういう…こと?」
「俺がお前を救えないからだろ! どうやっても!」
吐き捨てるようにそう言って、幸村さんは拳で自分の太腿を叩いた。
「わかってやれるって、ずっとそう思ってたさ。いつかそういう日が絶対来るって。でも、ダメだった。どうしてもダメだったんだ。わかってるって思ってもいた。でも…わかってなかった」
「それ、わかってたんですか」
その事実に僕は驚いた。驚きで頭が冷めたほど。
「結局……なにをやっても岡本を追い詰めてる」
「それもわかってたんですか?」
「お前のため、は、結局俺のためでもあるんだ。認めたくなかったよ。俺には自信があったんだ。いつか、お前の望みを、本当の幸せを俺が叶えてやれるって。でも、お前がどんどんおかしくなって…自分を切り刻んで…お前は死を望んで……どんなに止めても、殺せって俺に懇願してくるだろ! 俺は怖くなった。いつかお前が本当に…自分を殺すんじゃないかって」
こんな楽観主義者に、こんな弱音を吐かせたのかと思うと、僕は自分の毒に戦いた。自分勝手だと思うが、小島さんと同じことを言って追い詰められた幸村さんを知りたくなかった。僕に自信たっぷりに「お前を落としてやる」などと笑ってる幸村さんが、恐怖を押し殺して平気なふりをしていたなんて知りたくもなかった。
清水センセはソファの後ろに立ち尽くしたまま、うなだれて唇を噛んでいた。確かに僕に謝ることは山ほどになっている気がした。僕に内緒で幸村さんを隣に部屋に隠していたこともそうだし、警察に知られず僕を殺して罪を逃れる計画など、もう僕に会う前から破綻していた。それなのに完全犯罪を目指しているなんて僕に当たり前のように言い切って。それに、彼らはいったいなにをどこまで話して共有しているんだろう? 僕のプライベートな、それこそ清水センセと僕だけしか知らないことや、幸村さんと僕だけしか知らないことを、僕に黙って共有してるんじゃないのか。それはなんのために? この二人は裏でどうなってるんだ?
「清水センセ、立ってないでこっち来て座って下さい。なにを話したんですか?」
清水センセはうなだれたまま、僕の斜め前のソファに力なく座った。溜息をつくと、僕ではなく隣の幸村さんの顔をチラッと見た。苦しげに眉根を寄せて、清水センセは途切れ途切れに僕の問いに答え始めた。
「僕がその夜に、自分の車に引きずり込んで、幸村さんを問い詰めた。裕くんになんてことしてくれたんだ、どんな関係なんだって。問い詰めてるうちに僕と裕くんの関係のことも話さざるを得なくなった。そのうちに僕のことも止まらくなって話してしまってた。どんなふうに君を見初めて、どんなふうに君を探し回ったかって…ね」
案の定、彼は無策だった。それはわかっていた。だが僕と会う前の絶望した清水センセの激情と自暴自棄の凄まじさを知った。そこでふと僕はある可能性を考えた。もしかして僕の例の動画のことも話してしまってるのだろうか? やりかねない。戦慄で血の気が引いていく。恐怖を圧し殺しながら平静を装って僕は清水センセに尋ねた。
「先生、なに…話したんですか…?」
「名前も知らない君の画像を名前も知らない男から偶然見せられて、それに一目惚れしてしまって……それ以来探し続けたって…いつもの話だよ」
そして清水センセは僕に目くばせで大丈夫と伝えてきた。緊張がヘナヘナと萎えて行った。この人はそこまでバカではなかったのか。清水センセの言動が何を基準にしているのかまったく掴めない。
「なら……いいです」
「探し続けて、絶望して、頭がおかしくなって、忘れようとしても忘れられなくて、家の事情で故郷に還ってきたら君が居たって……すぐには信じてもらえなかったけどね」
「そんな…お伽話でもあるまいし、はいそうですか、なんて信じられるかよ」
「で、見つけたのに、僕はどうやって君に近寄れるか、それ以上に自分のことをどうやって伝えられるのかが全くわからなくて、それでずっとストーカーみたいなことしてるって言った。言ってるうちに切なくて悲しくて苦しくて涙が止まらなくなって……幸村さん相手に泣き叫んでたんだ。お互い現場ではよく会うし、知らない間柄じゃないし。それまで僕は幸村さんの仕事は買ってたし、お互い仕事上の信頼もあった。そんな人が自分の想い人の部屋から明け方出てくるんだよ……絶望したよ。幸村さんだって僕の話を聞いたら、これは恋敵だってわかるじゃない? でもなんだか…この人…僕のとっ散らかった話を黙って聞いちゃってさ…おかしいでしょ? バカにもせずさ、真面目な顔して頷いて。どうかしてるって。それで堰を切ったみたいにいつのまにか号泣してた」
キレた幸村さんの執拗さと怖さを知っている僕は、受容性などというやつがそこで出たことに驚いた。それに、清水センセからどうかしてるなどと言われるとは思わなかっただろう。幸村さんも本当にどうかしていたのかも知れない。
「俺はあの日、お前を殺しかけた…覚えてるだろ? 頸動脈症候群。それに俺はお前の傷をえぐるようなことでお前を追い詰めてた。どうにかしようって思えば思うほど、岡本は壊れてくんだ。表面は平気を装ってたけど、結局俺が岡本を壊している元凶なんだってどっかでわかってたよ。助けようと思った手でうっかり最愛の人間を殺すところだったんだよ。お前が意識が戻らない間の世界が終わるような怖さは二度と忘れられねぇよ。怖くて怖くて後も見ないで帰る途中に、何の因果か清水さんに捕まったんだよ。お互いお前に絶望してたってところだ。わかるよな? その日の先生の言動全部が頭おかしいってわかってても、嫉妬してるのになんか……同情しちまったんだ」
「おかしいのは幸村さんもだよね。この人って……裕くんの発作が起きなくなっても…構わないって…それで…裕くんが救われるなら良いって……幸村さん……君のこと好きで…抱きたいのに……もうどうやって岡本を楽にしてやれるかがわからないって……あんたがあいつを理解しているって言うなら、お願いだからあんたが岡本救ってくれって懇願されて……あと、自殺の屍体は出来るだけ検視でケリつけてくれって……あんたの検視で岡本が助かってるんだって、シラフでそんなこと言ってる人に……嫉妬でブチ切れたままでもいらんないでしょ……」
清水センセは泣きそうな顔で苦笑した。
「その日のあとも、僕と幸村さんは電話やこの家で何度も話しをした。僕にとって幸村さんは、嫉妬もしたけど、それ以上に、裕くんに近づけない苦痛を紛らわせてくれる大事な人になってた。縋るような気持ちでツラい夜に電話してた。何度目かの電話で、僕は……彼に会えたら僕には切り札があるって言ってしまった。でもそれは諸刃の剣だってことも。そしたら幸村さんがそれについて詳しい話をしようと言ってきた。彼をこの家に招いて明け方まで話したよ。その切り札を使って良いなら……いや、使わせろって。でないと、僕はあなたが警部補なのに法医学者と寝てるって言いふらしても良いって」
「脅したんですか」
「脅した。だって……わかるでしょ? 僕の切り札なんてたったひとつだよ。君を本当に殺してあげられる、ただそれだけだって。明らかな殺人予備罪だ。脅すよ、それはね。この人、警部補なんだから」
その時点でその話をしているのかと思うと気が遠くなりそうだった。清水センセの無謀さに。だが、それを許した幸村さんも信じられなかった。この仕事人間がそんな判断をするのかということに。
「なんで許したんですか……幸村さんらしくないじゃないですか」
「お前が清水さんになんのためらいもなく殺せって強要してたら、俺はお前を許さなかったけどな。お前が途中で人の道に気がついて、清水さんに自分を殺させないように思い直したって聞いた時は、俺は心の底からホッとしたんだ。お前のこと、2回見損なわずに済んだってな」
「僕は気づいてたよ。だから言った。本当に殺してあげるって約束すれば、それだけで裕くんは本当に救われるんだって! でも僕には本気の殺意が必要なんだって。そして僕にはほんとうにそれがあるんだって……それを警察官としてどうしても看過できなかったら僕を捕まえればいいと。その替わり僕は二人の関係を洗いざらい全部ぶちまけるからって」
「だから早くそれを証明しろって言ったさ! 俺は賭けたんだ、この頭のイカれた医者に! 脅されたからじゃねーぞ! 俺の目の前で、岡本を救えるなら! 俺はそれで金輪際、無理矢理あいつを抱かなくて済む。あいつを壊すのをやめられる。あんたに嫉妬させることも無くなる。それを俺が繋いでやるから、早く岡本と会えってな!」
あの時のピロートークが脳裏を過ぎった。幸村さんの、清水センセのことをよくわからないとか言って、僕に彼がどう見えるか知りたいなんて言ってたことを。それは幸村さんの仕掛けた呼び水の一つだったのかと。
「実は……さ、Aiセンターの件で連絡して会えって……幸村さんから言われて気がついたんだよ。どのみち法医学教室は岡本先生を代表にするつもりでいるって教えてくれて……裕くんにはウソ言った。ごめん」
「二人とも、ウソばっかりだったって、ことですか……」
「すまんな。でも悪いけどお前のためだから。全部な。ウソも方便ってお釈迦様だって言うくらいだし。俺は謝るけど、悪いって思ってはいないからな。黙って色々ウソついて辻褄合わせてたのは、俺の差し金で清水さんがお前に接近したなんてわかろうもんならお前は俺達をまるごと拒絶するってわかるしな」
今まで真剣に危惧していたことを尽くひっくり返されて混乱しているのが腹立たしく、何か聞かされるたびにそれ相応のことを言ってやるつもりでいたが、彼らの語るそのことには微塵もふざけた感じがなくて、ひたすら思いつめた苦悩だけが伝わってきて、それを聞いて僕はもうそれ以上悪態をつくことが出来なかった。自分の苦しみが、こんなにも他人の苦痛になるのかということを、僕は初めて自覚したと言っても良かった。ここまで聞いてわかってきたことは、この二人が、僕を救いたくても救えない苦痛の余り、呉越同舟という関係を選んだ、その壮絶さだった。こんなことを僕に黙って続けてきたこの二人に対して、この先、僕はなんと言えばいいのかが思いつかない。でも、もうこの後に及んでこの二人に謝られるのは耐えられないとだけは思った。それは言ったほうが良いと思った。
「ごめんなさい。もう、謝らないで下さい。先生も、幸村さんも。僕の願いが……破滅的過ぎるんです。それがすべて悪いんです。警察官の幸村さんにそんな選択をさせて、清水センセに捨て身の決断を強いて……僕にそんな価値があるのか……わかんないんですよ……僕がこの世に存在していい、その意味が、ほんとうに…」
「裕くん、お願いだから、そんなことだけは言わないで!」
叫ぶように清水センセが僕の言葉を制止した。
「自分の価値なんか…自分でわかるもんか! 誰だってそうだよ、裕くん。僕だって、幸村さんだって、自分の価値を自分で掴んだことなんかないんだって」
「俺は自分に価値があると思ってたけどな」
「幸村さん、水を差さないで下さい!」
慌てて清水センセがそのKYな発言を止めた。だが、幸村さんはその先を続けた。
「まあ、聞けよ。あん時まで、ってこった。俺は仕事として自分が良くやってるって思ってたし、評価もされてるのは知ってたさ。俺はこの世に必要だって。自信があったんだ。マジでだ。俺は警察官っていう役割の価値を俺の価値だと思ってた。確かに全部間違っちゃいねぇよ。だがな、気がついたんだよ。俺がお前を殺しかけた時にな…」
「幸村さん…」
「俺は自分が大好きな人間ひとりを救えない無能な人間だったのかって。俺の自信と信念で岡本を解剖で自殺の屍体に正面から向きあわせて、俺はそれを絶対的に正しいと確信してた。それは今でも変わっちゃいない。でもよ……俺が自分の使命に忠実であればあるほど、こいつは壊れていくってわかった。じゃあ、そんなポンコツ使い捨てりゃいいじゃねーか? 大体、自殺の屍体で気が狂う法医学者なんてどう考えてもお荷物だろーがよ! だけどこいつはそんな単純なポンコツじゃねぇんだ。どう考えてもそれさえ無きゃ、優秀な…いや、そのポンコツ込みで、超有能な法医学者なんだよ! こんな有能なのにこんなわけのわかんない人間そうそう居ねーんだよ! まっとうな警察官ならこいつを手放すなんか思いもしねぇよ。でもこいつは鶴の機織りみたいに陰で誰にも見せずに自分を削って仕事をしてたんだ。それを知っちまってから、こいつを本当に上手く使えて、しかも理解できるのは俺しか居ねぇって思ってたんだ。諸刃の剣みたいなこいつを上手くコントロールして、出来るだけ長くこの教室に置いておきたいってな…」
今までの想いを吐き出すような勢いで、幸村さんは畳み掛けるように続けた。自分への怒りも噴き出しているようだった。
「でもそれ以上に俺は初めて仕事した時からお前にゾッコンだったよ。いつの間にか好きで好きで堪らんようになってた。こんな公私混同な感情は生まれて初めてなんだよ。自分がそんな風になるなんて思っても居なかった。だけど、まぁ、あとは岡本も知ってる通りだ。結局、俺はお前を救えない。理解すら出来てないんだろうな。俺は初めて自分に嫌気が差した。自分じゃ解決できないことってやつをお前に思い知らされた。無力感ってやつもな。それで俺の人生ってのはなんだろうって初めて考えた。ああ、警察って仕事があるから俺は自分がこの世にいて良いって思えるだけなんだなと。それまで俺の人生は仕事とイコールだった。その仕事が俺の一番大事な人間を削り取る構造になってる。俺の成功もそこから生まれる自信もこの犠牲の上に成り立ってる。“仕事イコール人生”の式から初めてこぼれる落ちるものを味わった。そこから俺の人生に空洞が出来ちまった。価値がないどころじゃねぇよ。無意味なんだよ。この空洞ってやつは。ほんとに大事なものを救えない俺の人生に意味なんてあるのかってことになった。そうしたら答えがやってきた。正確には答えを持った狂人が俺を捕まえに来たんだ。俺は考えた。なすすべ無しの俺が出来ることはコイツに賭けることだってな。それも、俺が絶対に不可能な行為にな。おかしいよな、岡本を死なせないために、岡本を本気で殺せる人間に本気で殺す約束をさせるって……しばらく死ぬほど悩んださ。何日も何日も考えた。俺はこれを見てみぬ振りをするのか? 俺は自分の信念を裏切るのか?ってさ。その回答が今日のこの時だ。俺は賭けたんだ。警察という役割と自分自身を全賭けだ。死を以って死を制するこの医者の術式にさ。おかげで俺は何ものでもなくなっちまった。ほんとうにさ、正義と愛ってのはどんな世界でも両立しねーんだよ」
「しません。ええ、しないんです」
僕は驚きの余りそう口走っていた。あの時に佳彦と僕は正義と法に折り取られた。だが今、正義と法のほうが狂人の決意に圧し潰されていた。こんなことがあるのだろうか? こんなことが起こるって誰がわかる? こんなことがあって良いのだろうか?
すると、幸村さんの「まぁ、聞けよ」からずっと黙って話を聞いていた清水センセが不意に口を開いた。
「ごめん、あの、聞いてほしいことがあって」
「どうしたんですか?」
清水センセは僕の方を向いた。怯えて引き攣った顔で。
「こんなこと、言いたくないんだけど……裕くんが今の僕たちの話を聞いて、せっかく治まった君の発作がまた再発するんじゃないかって……幸村さんにバレてる時点で、僕らの計画は崩壊してるんだってわかったでしょう? それは全部僕のせいなんだけど……」
そこで清水センセは両手で頭を抱えて絶句した。顔面が蒼白になっていた。
「殺して……くれないかも知れない……そういうことですか?」
「僕の決意は変わらないよ。違うんだ……殺せないかも……知れないってことだよ……幸村さんに止められて」
「可能性として?」
固まった清水センセは黙ってかすかに頷いた。
「そうですね。そうなる可能性が大きくなったというのはわかります」
僕はそう答えた。清水センセは僕を見れずに震えながら呟いた。
「発作が……再発しちゃうよ……どうしよう……せっかくここまで来たのに……」
「そうでしょうか」
僕はテーブルの上に放置されていた『Suicidium cadavere』を掴んで引き寄せた。いつの間にかそれは閉じられていた。清水センセが閉じたのかも知れない。
「確認すればいいんじゃないですか? もう一度これを眺めて」
「裕くん……いいの? こんなことになってるのに、君は僕を非難しないの?」
「非難すれば、状況が変わるんですか? どのみち僕は先生に僕を殺さないように約束してもらっているんです。それにあなたの殺意は幸村さんに止められたら失われるんですか?」
「それはない……絶対に」
「じゃあ、確認すればいいんじゃないですか? 僕の人生からあのとき、中学生だった僕からあの男が奪ったものが正真正銘の殺意だったということが証明されると思いますが。なにか問題でも?」
「……いや……でも……」
「そうですね。最悪、また僕は発作をこの人に処理してもらうことになりますから、それは先生にはツラいことだと思います」
「そんなことは、この際構わない。それも覚悟して実験に幸村さんを呼んでるんだ。僕が言ってるのは……裕くん、こんなウソばっかり言って取り繕ってた僕をもう信じられなくなってるんじゃないかって……それも当然さ……当然だから……僕の殺意だって……君の中でどんな風に変質してるか……」
「ですから僕が先生をまだ信じてるかどうかも、これをもう一度見たらわかりますよ。一発でわかりますよ、今までの僕らの計画が台無しになったか、それとも否か」
自分でも驚くほど事も無げに僕はそう言い切った。そう言えば、清水センセは逃避行用の大金を僕に預けるとか言ってたっけ。それも幸村さんとそんな関係になってその上であんな風に言ってたのかと思うと少し笑えてきた。確かに大金が要ることになりそうだ。全部承知の幸村さんを巻くのは大変そうだもんな。
「それでもし、発作が起きたら、そこで申し訳なく思って下さい。発狂した僕が幸村さんに連れ帰られるのを見送るだけで充分な罰だって思いますけどね」
そう言うと僕は懐かしい黒い本を膝の上に乗せた。
「お、おい、お前、勝算はあるのか?」
幸村さんが慌てて本を手で押さえた。
「この実験は勝算とかそういうものと無縁なんですよ。幸村さんだってそうでしょ」
「まぁ……そうだけど」
「だったら、手をどけてくれませんか」
幸村さんの手がためらいながら本から離れていった。僕は表紙に手を掛けると、清水センセに言った。
「殺意はね、言葉なんかじゃ、伝わらないんですよ」
そして、再びそのページを開いた。
(モノクロの画面を真ん中から切り裂くように、人が吊るされていた。)
(縊死。)
(どこかのビルか何かの吹き抜けの階段の手摺だった。そこに白い太いロープが結んであった。)
(太いロープは不自然なほど白かった。屍体の顔は男。彫りの深い外国人だった。
(床には黒いものが滴って、それが溜まっていた。)
(気に入ったかい?)
(頭の潰れた屍体が地面に固まっていた。)
(やはりモノクロで、それは多分飛び降り自殺の現場写真だった。)
(関節がありえない方向にネジ曲がった脚、地面に広がる体液。)
(どう?)
(黒い水の張られたバスタブに胸まで浸かって絶命している女の人が現れた。)
(黒いのは多分血だろう。バスタブの中で手首を切ったのだ。)
(風呂場のタイルの壁に顔をあずけ、目を閉じていた。半開きの口もと。)
(水を吸った色の薄い西洋人の髪の毛が顔にまとわりついている。)
(タイルの床に落ちているカミソリ。これも白黒の写真だった。)
(ベッドで目を見開いて身体をよじって死んでいる女。)
(口元から黒いものが溢れ、顔を汚していた。服毒死だろう。
(枕元に空の薬瓶が転がっていた。)
(すごく、熱心に見てくれてる? だったら嬉しいなぁ)
(右のコメカミを銃で自ら撃ちぬいた若い男が椅子に座っていた。)
(死斑の浮き出た美しい凍死の遺体)
(水を吸って樽のようになってしまった水死体)
(腐爛屍体の剥きだした肋骨)
(焼死体の黒く糜爛した皮膚……)
「『自殺…全部…自殺の現場』……あのとき僕は、あの人にそう答えた」
ページをめくりながら、再び細かなノイズが耳の奥で鳴り始めた。フワッとした下腹部の痺れがそれに続いた。この感覚に、違和感に満ちた感覚に、初めて起こった性感に、死とは真逆の生の熱に、僕は嫌悪感と共に取り憑かれたんだっけ。何度もこうやって、実家の自分の部屋でページをこんな風にめくった。
「彼は『殺したい』なんて一言も言わなかった。僕が首を絞められて失神して犯された後『なぜ、殺さなかったんですか?』って訊いたら、驚いて、そして誤魔化したみたいに笑ったんだ」
そして僕も笑った。
「あはは……発作、やっぱり起きませんね、センセ……見たらわかりますよね、幸村さん?」
「ああ、そうだな」
魂が抜けたような声で幸村さんが答えた。清水センセがようやくこちらを向いた。
「ありがとうございます……お二人の……おかげです」
僕は黒い本を閉じ、深々と頭を下げた。二人の大の大人の人生を賭けさせてしまった僕は、これからどうすればいいんだろう? 頭を下げながら、僕は途方に暮れていた。身体はそんなことにはお構い無く勃起し始めていた。それもあまり見せたくない。
「裕くん、頭を上げて。そんなことしないで。でも良かった。ほんとによかった……信じていてくれて……ありがとう」
幸村さんが早く頭を上げろとばかりに、無言で僕の背中をポンポンと叩いた。僕は写真集で股間を隠しながら身体を起こした。清水センセは祈るように両手を顔の前に組み、そして目を閉じて何かに耐えていた。
だが、頭を上げた瞬間、僕はもうひとつの桎梏を思い出していた。
「あの……大変言いにくいんですが」
「なに? 裕くん」
「発作が治っても、僕が死神であることは変わらないんで……僕はあなたがたを殺してしまうかも知れません」
ああ、そうだった。僕は人様に頼ってのうのうとは生きていられないのだ。この二人を無視して生きるのと、死神をやめるのと、いったいどちらが難しいのか。それも今の僕にはまったくわからなかった。
「正直、これから僕はどうすればいいのでしょうか?」
発作が終わったように、死神も辞職出来るのであれば、僕はそのメカニズムを解明して、必要な行動を取るのだけど。幸村さんが吐き捨てるように言う。
「お前はなんでそこに戻るんだ?」
だが、生まれる前から母を死なせた僕は、その答えを出せるとは到底思えなかった。
〈あとがき&近況〉
いつの間にか11月も終わりに近づいて参りました。今月は2回も投稿出来た奇跡の架空線です。前回、ラストに久々の幸村さんが出演しまして、この展開に私もプロット構想中に度肝を抜かれたのですが、寺岡さんが小島さんに告白した時も同じくらい驚いたものです。人生いろいろです。今回の執筆用BGMは主に宮下遊のヲズワルドです。ちなみにこれをyoutubeで視聴すると「次のコンテンツには、自殺や自傷行為のトピックが含まれている可能性があります。」という警告が表示されます。じゃあ、YOASOBIの夜に駆けるだって同じだろうが! と思い飛んでみると、そこには「この動画は、一部のユーザーに適さない可能性があります。」という警告がいつの間にか貼り付けてありました。それならまぁ許そう。私のこれも「次のコンテンツには、自殺や自傷行為や屍体や残酷な行為や激しい性表現のトピックが含まれている可能性があり、大部分のユーザーに適さない可能性があります」とかになるんでしょうなぁ。少数精鋭の勇者の皆様にはいつも感謝です。
というわけでご閲覧頂きありがとうございます。