※この作品はR-18です。

僕を止めて下さい   作:架空線

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י.冷笑か怒りか、あるいは聖杯

「すみません。こんな時にとは思いましたが……あなたがたをどうやって無視できるかわからなくって」

 

 僕が最後に思い出した絶望的な質問を投げかけると、清水センセは息を呑んで絶句した。それを見た僕は、自宅で起きた実験直前のパニックが、清水センセの「今すぐ首を絞めて殺してあげる」の一言で静まったことを思い出した。あのときの確信を思い出そうとしたが、なぜかそれが消えてしまっているのだ。発作は無くなったのに。そうなると、なぜ発作が治まったのかも理由がわからなくなりそうだった。

 

「待って、裕くん。無視ってなに? 君はもうそのことで苦しむのやめたんじゃないの? だって……」

 

(だって、僕が、いますぐ殺してあげられる)

 

 だってのあと、清水センセはその言葉を飲み込んだ。確かに。幸村さんがここにいる限り、それは言えないな。あの囁きが僕にどれほどの平安を与えていたのか、いま理解した。僕という厄災を祓ってくださるのだ。発作は真の殺意で浄化された。だが厄災は、彼が僕をいつでも屠れるという真に自由な状況こそが捻じ伏せてくれるのだ。それは幸村さんによって半ば失われるのだろう。皮肉なことだ。発作から解放されたとしても、たったこれだけのことで容易に死神の葛藤に絡め取られるんだな、僕は。つまりそれは、この治療は対症療法であることを意味していた。根本治療ではないのだ。だが、僕の死、以外の根本治療などというものが、この世に存在するのだろうか?

 

「まぁでも、俺に関しては解決したんじゃねーか? 清水さんのおかげで岡本のフォローしなくて良くなったしな」

「すみません。僕はすべて解消するものとばかり……」

 

 腹立たしげな嫌味を八つ当たりでぶつけられた清水センセが、申し訳無さそうにそう言ってうつむいた。僕の発作だけが幸村さんと僕とを繋いでいた。もし、清水センセが誰の力も借りずに僕の発作を治してしまったのなら、「これでもう、幸村さんを意識に入れなくても済むんですね」、と僕が清々しく幸村さんに言って終わったのだろう。しかし事態は大幅に違うルートを通ってここに来た。敵同士になるはずの二人が僕のために呉越同舟して、あの寺岡さんですら解決できなかった積年の僕の発作を人生を賭けて終わらせてくれた。そんな二人のアプローチを、無視して暮らすのか? 死なせるより良いのか? うん、死なせるよりは無視のほうが人道的だ。でもきっとあの二人のことだから、死んでもいいから関係を続けろと絶対に言うだろうな。それは人道的にどうなの? もうわからないよ……

 

「残念ながら厄介なのが残ったな。俺はお前に一生つきまとってお前が死神じゃないってことを証明して大往生で死んでやろうと思ってたんだがよ。発作のないお前には俺はもう用済みだしな。せいぜい司法解剖で岡本先生のご意見を聞きに行くくらいだわ」

 

 幸村さんの怒りが徐々に鋭さを増していく。誤魔化しようのない明確さで役割が交代してしまった。

 

「それとも岡本は俺が誘ったら晩メシに付き合ってくれるってか?」

「どんな風に付き合ったら良いかまったくわからないです」

「君は誰も殺してないでしょ? 裕くんの恐怖感なんだよ、それは。現実にはもう起こらないんだって!」

 

 母親が子供を叱責するような響きで清水センセが僕を威圧する。ああ、そうか、清水センセは僕の実の両親が僕に関わって死んだこと、知らないんだっけ。でも言わない。この人には言っちゃいけない。

 

「それを証明できますか? 証明しているうちに人が死んでいくんですよ?」

「それは清水さんの言うとおりだぞ! お前は俺達の言うことなんかただの雑音程度にしか思ってないんだろうけどな。お前の死神妄想の根源は、父親の自殺が原因なんだろ? それなら……」

「なにそれ」

 

 幸村さんの話を呪詛のような低音で断ち切って、清水センセが目を見開いた。

 

「違う! 先生の前で言わないでよ!」

 

 一番知られたくないことを思った直後にバラされて僕はとても慌てた。両親が誕生の前後に相次いで死に、高校生になるまで親が養親だったとは知らなかった……などと例のエピソードを聞かせようもんなら、僕のことなのに自分の人生のように悲嘆に打ちひしがれ、自らの無知まで責め始めるような気さえする。そして、恨んでいる彼の実の母親のことも、あんな仕打ちを受けたとしても、まだ物心ついてからも生きている母親が居ただけ僕よりマシだったから、自分より裕くんのほうが不幸で可哀想だ、などとは決して思って欲しくない。僕への憐れみが一層深くなるのは間違い無いし、それはヤバイことだ。清水センセの愛着と狂気を更に増強させるのは目に見えている。

 

「知らない。聞いてないよ」

 

 目を見開いたままで清水センセの顔が固まっていた。この怖い顔は佐伯陸が僕の取説を教えなかった、という時の顔に似ていた。

 

「やべ……これ内緒?」

「人の過去を勝手にバラすな!」

「裕くん? どういうこと? 幸村さんに言えて僕には言えないって」

 

 そんな誤解をされ続けられたくなくて、僕は本音を言わざるを負えなかった。

 

「違います! 心配させたくなかったんです。だって先生、絶対自分のことみたいに悲しむから、薬をまた飲み過ぎたりして……」

「勝手に僕の感情を予想しないで! なにそれ! それじゃあ裕くんのこと、僕は全然知らないんじゃない? あの時のことしか話してくれてないの? そんな大事なことなんで教えてくれないの……酷いよ……僕がすぐに泣くから? 心配してくれるのは嬉しいけど、僕は泣いて辛いんじゃない。裕くんのことをもっと知って、裕くんのために泣いている時間が僕にとって一番大事なんだよ!」

 

 それを見ていた幸村さんが自分の失言をフォローするべく、仕方なさそうに口を挟んだ。

 

「いやぁ、清水さん、俺もこいつの過去洗いざらい聞くのに何ヶ月も待ったからな。話を聞いたらわかるけどよ、中学のときの例のひでぇ話以外にも聞いてるほうがトラウマになりそうな残酷物語のてんこ盛りだぞ。こいつが打ち明けるのにも結構な勇気が要るような話の連続だ。あんたもトラウマ持ちなら少しはわかるだろ?」

 

 それを聞いた清水センセは悔しそうな顔のまま幸村さんを睨んでいたが、しばらくして無言でうなずいた。それを見ると幸村さんは僕に矛先を変えた。

 

「でも、話してやれよ。いや、話すべきだな。この人ならお前の死神妄想も治せるかもよ? そのビョーキも人に相談でもなんでもして、是非ともお早めに治療して欲しいけどな、マジで!」

 

 幸村さんが嫌味半分だが僕に取りなした。清水センセに対する精一杯のマウントとも取れる。この二人は仲が良いのか悪いのか、どっちもなんだろう。そして清水さんに大真面目に告げた。

 

「清水さん、このビョーキを治さんとマジで明日はないぞ。俺達も、岡本も」

「わかりました。また僕、幸村さんに助けられちゃいましたね。裕くん、その話はまた今度、ゆっくりね? 絶対だよ?」

 

 清水センセが恨めしそうに僕に念を押した。

 

「ええ、まぁ……」

 

 話したくなくて、その後が継げなかった。解決するより前に、また薬をODするような煮詰まり方をさせるのが嫌だ。気まずい沈黙のあと、耐え切れずに清水センセが口を切った。

 

「とにかく! 今日のとこはもうこれで良いよね? 念願の実験が成功したんだから、それだけだってほんと奇跡でしょう? 残った大問題は……今日はもう考えるのはよそうよ。なんか僕だけ情報不足みたいだし」

 

 気を取り直し、主導権も取り直した清水センセが今日の総括をした。最後に僕にしっかり釘を刺して。

 そこで今日の実験は本当に終了となった。

 

 

 しばらくして僕は幸村さんの車の中に居た。さっきまで清水センセが助手席を覗き込んで、寂しそうに僕に小さく手を振って家に帰っていった。ここはメモリアルパークの駐車場だった。田舎の郊外の県営公園などと同じで、ここの無料駐車場はゲートもなく100台ほどの広大なスペースがあって、夜間は駐め放題となるらしい。幸村さんは僕に見られないようにここの奥の一角に駐車して、清水センセの車が僕を迎えに出たのを確認してから家に僕らより先に入り、リビングの隣の寝室に隠れているように清水センセに言われていた。

 そして事前の打ち合わせで二人は、実験後のエンディングをなぜかこのように起こりうる三つのケースに分けて段取っていたことを、帰り際に清水センセが僕に説明した。そして今日はケース③に該当するので、このまま幸村さんに送ってもらうから、と清水センセは複雑そうな顔で僕に言った。

 

①実験により発作が起きて、清水センセの計画で発作が治まり、問題なくそのまま日常に戻れたら、その後の観察のために岡本は幸村さんと清水センセの家に泊まり、翌日幸村さんの車で自宅まで送る。

②発作が起きて治まらず、清水センセがパニックになり収拾がつかなくなったら、幸村さんが岡本を家まで送って今までと同じように性欲の処理をする。

③発作が起きなくて清水センセがパニックにもならない場合、岡本を自宅に送っていくのは幸村さん。

 

 結局、最後に車で送迎するのはなぜか全部幸村さん。ケース分けの必要がわからない。それを僕に説明するのも意味不明だった。色々と二人で考えていたんだということを僕に伝えたかったのかも知れない。

 

「勝った割に寂しい背中だな」

 

 トボトボとパーキングを離れていく清水センセを小さくなるまで眺めていた幸村さんが、助手席の僕に呟いた。

 

「いつもです。いつもあんなですから」

「ああ、そう」

「さっきからなんなんですか、その連帯感」

「お前のせいだろが」

 

 幸村さんが僕を咎める。責任はお互い50%づつだと思うのだが。咎めたあと黙って運転席に座ったまま中々エンジンを掛けない幸村さんに声を掛けた。

 

「あの、帰りましょうか」

「わかったよ」

 

 車がしぶしぶパーキングを出た。誰も居ない真夜中の公道でアクセルが踏まれて、加速したワゴンは滑るように走った。

 

「さっきの話ですが、どのみち選択肢は、幸村さんが僕を送る、以外はないってことですよね。なんでこんな風になったんですか?」

「今更それ聞く?」

「わかんないです」

「本気の殺意のある人間とお前を、実験の後ふたりきりにさせんのかって」

 

 いつにないような真顔で幸村さんは答えた。

 

「お前とあいつをふたりきりにすんのか?」

「でも……清水さんに、僕に会えって言ったの、幸村さんなんじゃ?」

「監視つきでな」

「監…視…?」

「俺はあいつが、お前を本気で殺す意志があることを知ってるんだぞ?」

「僕は殺させないって約束してもらってます」

「それがどうした」

「清水センセは僕との約束は守ってくれますから!」

「あんな基地外がか?」

「ええ! あんなおかしい人でも、ですよ」

「俺はそんなことは信じちゃいないさ。死ぬほど悩んだって言っただろ? 結論は“賭け”だ。だが俺は、清水さん、あんたを見張ってるからな、ってこと」

「それで、今日…」

「いや、今日だけじゃなくて、申し訳ないが、お前らがこのしばらく、どこでなにしてたか、俺は全部知ってるよ」

 

 そんなことさっき三人で居た時に一切触れられてない。それは清水センセは知らないってこと?

 

「えっ? じゃ、清水センセに言ってないんですか!? 何の話も出なかったのに?」

「ぜんぶ承知の上だって。俺とのこと今日まで言うわけ無いだろが。それに話が出なかったわけじゃない。言ってただろ? 俺にバレたから清水さんが岡本を殺せる可能性が減ったって。それはバレただけじゃないってことさ。とにかく、あんたが岡本裕を殺そうとしても、俺がさせないってな。清水さんは『どうぞ』って言ってたぜ」

 

 それは、考えてみれば幸村さんにとっては当たり前というべき行動であったが、急な宣告はまるで青天の霹靂のようで、驚愕に僕は震えた。

 

「監視されてたんですか……?」

「張り込みはお手のもんだ」

「うそ、でしょ?」

「ウソなもんか。あいつがちょっとでも怪しい行動したら踏み込めるようにスタンバってたんだ」

「いつから見てたんですか!?」

「最初っから。大学に清水さんが行っただろ。あの時も張ってたよ。わかんなかっただろ?」

「待って……それじゃ……」

 

 そのとき僕は凍りついた。もしかしたらあの最悪な佳彦のリベンジポルノをこの人が見てるのかも知れないと。

 

「最初の日……最初に僕が先生んちに行った日も?」

「だからその日も次の日も全部だよ、全部。ふたりで飯食って、なんかテレビでも見て、それ見ながらお前がなんかパニクって、ほとんど清水さんが話してたっけな。何話してたんだ、あれ?」

 

 幸運にもテレビ画面は見えてなく、幸村さんの視点は僕らに向いていたようだった。いつの間にか冷や汗をかいていた。

 

「せ…先生の、過去の話……です。僕との最初の出会いから、あの写真集の話から、僕を探しまわってた話とか……僕の知られたくない過去も知ってて、ゾッとして……パニクッてました」

「まぁ、そう清水さんからも聞いた。だいたい同じだな」

「先生も…知ってたんですか? あの夜、幸村さんが張り込んでたの」

「あとから俺が自分で教えたから知ってるさ。本当に監視されてたんだぁ、って笑ってたけど。まさか、その翌日にまたお前んちに突撃するとは思わんかったけどな」

「なんで先生の動向がいちいちわかるんですか!?」

「会うときは教えろて言ってあるし。まぁ、清水さんはお前に会う前に緊張で必ず一度はパニクるんで、どうしたらいいか俺に電話で泣きついてくるから。ウブなヤツでよかったけど。俺は損な役回りだわ」

「そんな……」

 

 そんなことが僕と会う前段階で繰り広げられてるのを初めて知る。監視といい、相談といい、初めて知ることばかりで頭が割れそうだ。

 

「まぁ、だから、いつでもタイミングよく出動出来る。前にお前の尾行してた時のこと思い出すなぁ」

「仕事は!? そんな時間……幸村さんにそんな暇ないじゃない!」

「時間はなんとか作れるんだよ。指示さえ出せば俺の優秀な部下はしっかりやっててくれるし。若手の育成も兼ねてる。一石二鳥だな」

「プライベートですよ! なんで業務中に……」

「業務だよ。殺人予備罪を大目に見てやってるんだ。犯罪を抑止してるっていう、警察として当然の業務だろが! だいたいお前との関係を盾に取られて脅されてるんだ。公然と出来るかっての」

 

 真顔は変わらなかった。それが僕を戦慄させた。いつからこの人までこんな頭がおかしくなった? 僕は今聞いている話がほとんど信じられずにいた。ここでも偶然なのか必然なのか不明だが役割交換が起きている。ストーカーをしていた清水センセがそれをやめ、その替わり幸村さんが清水センセと僕のストーカーになる。監視という名のストーキングだ。しかも清水センセが今までそれを全く僕にわからせなかったことにも驚いていた。

 

「先生は……そんなことおくびにも出さなくて…あんなに自然に振る舞えるの、おかしいですよ。いや、自然じゃないけど、おかしいけど……」

「でもあいつは、あんたが危険だからだって言ったら、ふぅん、って 言いやがったからな」

「見張られてるのわかってるのに……なんでそんな認識でいられるのかな……」

 

 今すぐあの霊園の裏の家に戻って、そのことを清水センセに問い詰めたいとさえ思った。あんな無策な人が、それを知りながら僕にバレずに普通に過ごせるなんて思えない……

 そう考えたとき、あのメモリアルパークの散歩のワンシーンが脳裏を過ぎった。会話の途中で彼が不意に立ち止まり、しばらくして無言で空を見上げたそのときのことを。饒舌だった清水センセはその直後から急に無口になり、そのあとなにか独りで呟いていた。なにか気になることがあったのだろうかと、その奇行を清水センセの時折見せる狂気のひとつとして僕の脳は処理した。だが、あのとき、清水センセはあるものを見て茫然としたのではないだろうか。僕はそのフィクションのような想像を否定して欲しくて幸村さんに否定疑問文を投げた。

 

「幸村さん……まさか僕と先生が、メモリアルパーク散歩してるところなんか、見てませんよね?」

「ああ、見てたぞ。それにあんとき、岡本にバレねぇように、樹の陰から清水さんに手ぇ振ってやったしな。驚いて立ち止まってたわ」

 

 僕の妄想が肯定されることを僕は99%信じていなかった。座っているにも関わらず平衡感覚がおかしくなった。僕はどんな並行宇宙に紛れ込んでしまったのか? 夢と現実が曖昧になっていくような発狂しそうな感覚が襲ってきた。まるで除籍謄本を取りに行った日みたいに。

 

「まさか……僕のほうが頭…おかしく……なる…」

 

 二人がどんな気持ちで、それをやって、やられているのか、僕にはわからない。でも、とてもじゃないがまともな気分ではないと思った。僕の、人の道から外れた意味と感性を共有している清水センセと、そのふたりをこの世界に繋ぎとめようとして苦闘している幸村さんのそれぞれの心中には、どんな光景が広がっているんだろうか? 僕にはそれをどうすることも出来ない。聞いている僕もまともな気分ではいられないのだから。そのすべてに身震いがした。

 

「や……やめても……いいですよね……見張っても……なにも……なんないでしょ……」

 

 呟くような声しか出ず、唇が震えていた。すると幸村さんは大きな溜息を吐きながら、何を思ったか見えてきたコンビニの駐車場にハンドルを切った。

 

「そういう俺は……いつまでお前たちを見張ってるつもりなんだろうな。っていうか、俺はいつ辞められるんだ?」

 

 幸村さんは駐車スペースに車を停めると、困ったような顔をしてポケットからタバコを出した。

 

「俺も、お前と同じだよ。あの人を犯罪者になんかしたくねぇんだ。お前を死人にもしたくねぇ。わかるだろ? あの人の殺意ってのは……なんつーか変わってて、お前を苦しませたくないの一心なんだよな。もちろんそれには屍体を愛してるっていう自分の性癖が根底にあるからなんだけどよ。だからお前が生きてることに今以上に苦しんで苦しんで死にたくなって、それでも清水さんを人殺しで逮捕させたくないってなっても、清水さんは約束よりもお前を殺す方を選ぶんじゃねーのかって、そういう危うさがあの人にはあるんだわ」

 

 全部ではないだろうが、それも今の幸村さんの心象風景なのかと思うと、ほんの少し身震いは止まった。幸村さんはタバコを箱から出して咥え、おもむろにライターで火を点けた。それから思い出したように窓を少しだけ開けた。冷たい空気が入ってくる。冷気で少し気分が良くなってきた。それでも禁煙をやめさせてしまった後ろめたさが少し疼いた。

 

「……だから…僕は信じられるんですよ…あの人を…」

 

 絞りだすように僕は決定的なことを吐き出した。そんなことを言えば、幸村さんに見張りを諦めさせることがどんどん出来なくなるのに。

 

「そうか……そうなんだな。俺の感覚はお前もわかるか」

「わからなかったら…発作は治ってない」

「確かにな。両刃の剣てのはこのことだな。俺だってそれがわからんかったらおまんまの食い上げだ。ちょっとコーヒー買ってくるわ。待ってろ」

 

 変な共感を残してバタンとドアを閉め、幸村さんはしばし車の横に佇んだままタバコを数口吸うと、コンビニに入っていった。急にシーンとなった車内で僕は思い出していた。この途方に暮れた感じ、覚えてる。寺岡さんが隆に自暴自棄に告白した日のこと。歪な三角関係と、絶望的に先の見えないこの感じが、今の僕と幸村さんと清水センセの間にも流れているようで、無意識のうちに僕も溜息をつき、それに後から気づいていた。

 

(いったいどうすれば僕たちの監視をやめてくれるんですか?)

 

 聞きそびれたそのことを、帰ってきたら聞かなければ。しばらくして幸村さんが車に帰ってきた。ドアが開くといきなり僕に温かい缶が押し付けられた。

 

「ほれ、ココア。別に何でもいいんだろ?」

 

 幸村さんはブラックコーヒーの缶を握って、さむぅ、と呟いた。

 

「雪がチラついてきたぞ」

 

 手の中に出現した温かいココアの缶を見て、いきなり十数年の年月が巻き戻されたみたいに感じた。こんなことある? 思い出してたらこんなことまでシンクロするんだ。隆と行った都会の四角い海が、目の前に広がった。可笑しくて胸の奥が詰まった。

 

「なんで……ココアなんですか」

「いや、こっちのほうがカロリー高いから」

「…参ったな」

「なんだよ。何でも良いんだろ?」

「ええ、何でも良いです……何でも……」

「何でもいいんだよな。あーあ」

 

 情けないことに、なんだか目が潤んできたみたいだった。バッカみたい。なんなんだよ、これは。

 

(お前にはお前をイカせる世界があってさ、そこに居ればいいだけなんだしな。きっと俺と別れるときでも…お前は泣いたりしないだろ…)

 

 あーあ、の後が継げずに、幸村さんはコーヒーの缶をプシュと開けて一口飲んだ。あのとき、隆はコーヒーを飲んだ後、苦そうな顔をして、僕にそんなことを言ったんだ。偶然に支配されたカウンターパンチを喰らったおかげで、僕は予定していた質問とは違うことを尋ねていた。

 

「幸村さんは……今後も僕に期待するんですか」

「さぁな」

「さぁ、な?」

 

 予想にない答えに僕はオウム返しに聞き返した。

 

「意外か?」

「……そうですね」

「さっき、お前と清水センセの会話をずっと隣の部屋で聞いてたけどさ、随分、俺に対する扱いと違うんだな」

「ええ。そうですが」

「は……しれっと肯定されたわ」

「それはそうなります。あの人は僕の気持ちをほとんど理解しているので……幸村さんと違って」

「お前の気持ちがわかるって、そんなイカれた人間いるわけねーだろって思ってたんだけどな」

「僕もそう思いました。でも、そのおかげで今後もどんどんおかしくなっていきそうで…今頃嫉妬で狂って、薬、オーバードーズしてないか心配です」

「だろ? でも、俺が岡本送っていくことについては、あいつはすんなり同意したんだけどな」

「信じられませんが」

 

 幸村さんは嫌そうな顔をした。

 

「勝つってわかってたから、だろうな。俺に完全勝利するからだろうよ。あんまり一人勝ち過ぎて俺が可哀想になったんじゃね? そして先ほど、確信は事実に変わったわけだ。その時点で俺はもう、お前のレスキュー隊じゃなくなったんだし。岡本んちまでを最後の花道くらいに思ってんだろうな。俺の監視もお前に未練タラタラだからって思ってるみたいだし」

「お互い、そんなに同情してるんですか……」

「お前から言われたくねーや」

 

 ブスッとした顔で言い切って、幸村さんは機嫌悪くなった。

 

「お互い同情してるほうが楽なんだよ。お前のせいでな」

「すみません」

 

 そう言って、僕はもらったココアのフタを開け、生ぬるくて甘い液体を喉に流し込んだ。殊勝に謝ったせいか、幸村さんは苦り切った顔でわめいた。

 

「そうだよ! ただ単にこうなるまでに俺がお前を落とせなかっただけだからよ! ああ、ほんと腹立たしいわ! それもなにもかもお前の死神が原因だぞ。誰にでも抱かれるくせに誰も寄せ付けない! 好きも嫌いも未だにわかんねぇ! 落とせるわけねーだろ! いくら俺でも! もう何でも良いや、お前を理解してる奇特な医者にさっさと生まれた時からの自叙伝語ってくれ! もしかしたら本当にお前の死神妄想も終わらせてくれる可能性あるからな! クソっ!」

 

 その勢いで、残りのコーヒーを一気に飲み干し、苦々しい顔で黙りこんだ幸村さんは、おもむろにコンビニの駐車場から車を出した。気まずい空気が車に満ちていた。プライドと自信が砕けたことを充分自覚している男が空虚な顔で機嫌を損ねている。僕はこの居た堪れない空気をバネに、無言の幸村さんにずっと言いたかったことを伝えようと思った。こんなザラザラした時間にしかこんなことを言えそうになかった。

 

「でも、あの、今まで色々と悪態をつきましたが……発作のときにいつも来てくれて……ありがとうございます」

 

 それを聞いた幸村さんは呆気にとられた顔をした。

 

「え?」

「僕の発作を……毎回解放してくれて、それには……感謝してます」

「は……?」

 

 不意を突かれたような顔の幸村さんが僕を横目で見た。口がポカンと開いていた。

 

「それは感謝してます。とはいえ好きになられても僕にはそれに応えるすべはないし、命を奪ってしまうかも知れないので無視するしかないし、それがほんとに心苦しいのですが」

「それは……俺がそう強要したんだ。逃げずに自殺屍体と向き合えって。だから責任は俺が取るのは、筋合いだ」

 

 自分に言いきかせるような幸村さんに、僕はずっと思っていることを告げた。降りだした雪がフロントガラスに張り着く。ワイパーが動き始めた。

 

「いえ、僕が幸村さんに言われなくてもそうしているべきだったんですよ、それは。僕は甘かったんです。法医学者としてあるまじき態度でした。だからそれは幸村さんが正しいんです」

「じゃあ、俺がお前を発作のたびに抱いてたのは必要だった、って思ってくれてるってことか?」

「ええ。必要でした。僕はそこ、結局無力だったので。抱かれる前にはわからないんです。ダメですよね。治めてもらった後で自己嫌悪に落ちるんです。悪態をつきながら幸村さんの身体に馴染んでいくのも、結局拒否も出来ないのも。でも僕が危惧しているのは、いつもですが、必要と好意を勘違いされて、僕が生きている人を好きになる可能性があると思われて、僕に期待して絶望して死に急ぐことなので」

「わかってるよ……わかってるけどな」

「最初から僕を好きな人に期待させられないでしょう?」

「本当に俺のことなんとも思ってないのか?」

「ですから、感謝はしてます。だから好きか嫌いかもわからないのが大変申し訳なくて困ってます。っていうか、そう、ずっと言ってます。なんならどんな人にもそう言ってます」

「もう少しなついてたような気がしてたんだけどな…」

「ですから幸村さんの身体に慣れはしました。何度も抱かれたので」

「……それか」

「上手だし」

「認めたか」

「だからマズいなって思いました。益々、勘違いされちゃうって思って」

「勘違いしてたよ……お前の予想通りな」

「誰もが勘違いしますから……僕は発作の時は誰でも良いし、誰でも僕の首を絞めれば射精するし。当然と言えば当然ですね」

「お前がホイホイやらせなきゃ良いだけだろ」

「大学以降はそんなこと幸村さんにしかされてませんよ。中学生でそれは無理です。だいたい無理矢理だったし。幸村さんも半ば無理矢理でしたが」

「そうかよ……そうだったな。すまん」

 

 幸村さんは案外素直に謝った。そして真顔で言った。

 

「清水さんとは、本当に会ってからずっとエロ無しで来てるのか?」

「ええ。無しです。個人的な話とか聞きませんでしたか?」

「いや、ただ、性的な行為にトラウマがあるってしか聞いてねぇよ。だからお前の発作でパニクるかも知れないって釘は刺された」

「詳しくは聞いてないんですね?」

「ああ、ざっくりそんなとこだ。岡本は聞いたのか?」

「ええ……僕が言わせたというか……僕の過去も非道いと幸村さんは言いますが、清水センセのは違う意味で凄惨な非道い話です。誰にも言えないような話ですので、無理に聞いちゃダメですよ、マジで」

「ふうん。俺にしてみりゃ、岡本が他の男に抱かれないのは気が楽だから良いけどよ」

「同情とそれは別なんですね」

「当たり前だろ。俺は至って健全でフツーなんだ。で? 今はどうなんだ? アレの具合は。我慢できんのか? 勃ってんだろ?」

 

 幸村さんは憚りもせず僕の勃起度を尋ねた。実際それが健全でフツーなのだろう。

 

「なんか、勃ったり緩んだり繰り返してます。下半身は軽く痺れてる感じです。こんなくらいだったら自分で出して寝れます」

「ふーん」

 

 幸村さんはそう言うと無表情になって、信号で右折のウィンカーを出して止まった。もうすぐ僕のマンションに着く。信号が青になりハンドルを右に切ると、駐車場が見えてきた。その手前で、幸村さんは口を開いた。

 

「あのよ、ちょっとでも性欲があんならさ、最後にもう一度やれねーか?」

「え」

「もう一度くらい抱きてぇ、最後」

 

 幸村さんは、何でもないような顔をしてしれっと僕に聞いた。雪は少しづつ強さを増し、風に煽られた霰がフロントガラスに当たって跳ねた。

 

「ああ、事前に清水さんには了承はされてるから」

 

 そう言うと幸村さんは自嘲気味に口角を上げた。

 

「そんなこと……よく許しましたね」

「あの人にとっちゃ、俺は恩人なんだと。まぁ実際俺が居なかったらお前に会って話も出来なかったしな。恩義を返したいって。なんなんだよ」

「今頃、どんな想像してるのかと思うと……なおさら、怖いな」

「お前が許せばの話だ。無理矢理だけはやめてくれって土下座して頼まれたから。まぁ、当たり前だけど。でも……妬かれるだろうけどな」

「したいんですか?」

「当たり前だろ。でもまぁ、お前に任せる。嫌ならこのまま帰る」

 

 これを選ばなきゃならないのか。どうしたらいいのかなんて僕に決められるわけがない。だけど、僕はもう中学生ではないのだから、無理矢理にでもここで選択しなければ、さっき言ったことが嘘になる、と思った。だが、どうしよう。無言の時間の隙間にワイパーの規則正しい音だけが響く。

 すでに、いつも幸村さんが入れているパーキングに着いていた。入り口の手前で幸村さんは車を止めた。僕は何も言えずに考えていた。期待させないようにするには、ここできっぱり断るのが筋だろう。清水センセにも「抱かれませんでした」と報告できる。しかし……

 幸村さんに言われて意識し始めてから少しずつ勃起が固くなってきていた。股間の痺れも熱もフワッと膨らんでいる。それでもこれなら自慰で済んでしまう程度だった。普通に断れる。だが、もう一方で清水センセを僕に繋いでくれたという事実が、僕の罪悪感に拍車をかける。僕のために見返り無しで、二人で大事なものを賭けて勝負してくれた負い目がある。結局清水センセだけではダメで、この二人の連携プレーで奇跡的に発作も治ったのは間違いない。そして、それ故に今後、僕が幸村さんに抱かれることはもう無いのだろう。それなら、この貢献と成果に報いるために、最後にもう一度抱かれることを選んでも良いのかも知れない。そんな理由で抱かれることを幸村さんが望むならば、だけれど。問題は清水センセは今夜のことをきっと訊いてくるということだ。了承されてるとはいえ、僕が決めたことをパニクらずに理解してくれるだろうか。そしてもうひとつは、これをキッカケに厚かましい幸村さんがなんだかんだと理由をつけて、なし崩し的に関係性をダラダラ続けさせられてしまうことである。「最後にもう一回」を信じられるか否か、だ。

 

「僕、これを選ぶんですか。ツラいですね」

「へぇ、そんなふうに思ってんのか」

「幸村さんはどんな理由でも、僕がOKしたらそれでいいんですか?」

「どういうことだ?」

「僕にはあなたがたに非常な感謝があります。それを幸村さんには僕の身体で返す、ってことを理由にしてOKを出したら、幸村さんがそんな理由でも僕を抱きたいって思うのかなって」

「構わんさ」

 

 あっさりと幸村さんはなんのひねりもなくそう言った。

 

「……構わないんですか?」

「だいたい、お前が俺を好きだから抱いてくれなんてただの一回も言ったこと無ぇしな。今更お前の理由もクソもあるかよ。抱けるチャンスをくれるか、くれないか、それだけだろ。お前は好きとか嫌いで抱かれたり抱かれなかったり感じたり感じなかったりするようなタマじゃねーんだよ。欲情してれば誰でも良いんだろ?」

「ええ。間違いありません」

「じゃ、今までと何も変わんねぇ。変わったのは俺だ。なんにも期待をしないでお前を抱く。最初で最後にな」

「期待がないなら……それに越したことはありません。最後だって、約束してくれるなら」

「今さら期待なんか……出来るかよ。お前が今、欲情してなかったら俺はこんな質問もせずにさっさとここでお前を降ろして帰るわ。お前さ、いま自分がエロい顔してるの気がついてないだろ」

「え……そうなんですか?」

「抱かせろ。抱いてくれなんて言わんでも良いから。発作が治ったお礼に一発ヤラせてやるって言えよ」

「そんなんで良いんですか?」

「だから良いって言ってんだよさっきから! 話聞いてんのか? 俺はさっきから欲情したお前の顔と股間見てムラムラ来てんの! 俺だって勃ってんだよ……抜かせろよ。最後だろ。オナホ替わりにすればいいって、お前よく言うだろが」

「まあ、そうですが」

「じゃあ、イイな?」

「えっと……」

 

 幸村さんはそうは言うものの、僕のほうはさすがにすんなり、ええ、良いですよ、と躊躇なく言える気分ではなかった。どうしよう? 僕がセックスを望んでいるわけではないが、幸村さんに身体で感謝を顕すとなると、幸村さんは僕のことを『口じゃキレイ事言ってるけど、やっぱりこいつは心のどこかでセックスしたいんだ』とか勘違いされる気がする。言えば言うほどまた意味不明にツンデレ呼ばわりされるだろうし。それに、清水センセが許したとは言え、許したとしても内心嫉妬が煮えたぎってたりすることもあるし、それでまた狂気に拍車がかかっても困る。この選択は僕には難しすぎる。

 

 ああ、だから言いなりに無理矢理されるのは楽なんだ。僕が決めなくていいから。じゃあ、『好きにして下さい。僕には決められません』と言えばいい。いつもそうするように。でも、この後に及んでそれが正しいのかと言われると、僕にはそれが“逃げ”のように今回に限っては思えた。先ほど起きた奇跡に対してあまりにも不誠実であると。

 そんなことを考え込んでいる間に、手元の缶ココアはすっかり冷えていた。僕は半分ほどの残りを何口かに分けて全部飲み、そして助手席の缶ホルダーに空き缶を置いた。

 

 ふと目の前を見ると、ダッシュボードに小銭が乗っていた。10円玉が2枚だ。眺めているうちに、以前読んだ『古代文明における死者との対話』という本の中の、中国の占いを思い出した。古代の死者とのコミュニケーション方法を研究したもので、古代エジプトや南米、ケルト人や北欧、ギリシャや古代のアジアなどで、死者の霊魂とどのようにしてコンタクトを取ったかが詳しく書いてあった。

 中国のそれのひとつに『ポエ(杯)』というものがあった。道教やそれに関する民間の信仰で、おみくじや占い、神託を得るなどのために、コイントスのように投げて使う道具であるが、墓参りなどでは、死者の意思や質問の答えを得るためにも使うと言われる。ポエは必ず2つ1組で投げて使用し、裏表の組み合わせにより神意、場合によっては鬼や死者の意思を占う。ポエは5cmほどの三日月形に象られたものが多く、投げた時に表か裏が出るような造形となっている。片面は平たく、もう一方の面は丸みを帯びる。平らな面は陽、丸まった凸面は陰を表わす。二つとも同じ面が上を向いたら回答はNO、互い違いに上を向いたら陰陽のバランスが取れているのでYES。この時、上を向いたのが平らな面2つ揃いであれば冷笑を表す「笑杯」、もう1回ポエを投げ直す。丸まった面2つ揃いであれば回答者の怒りと否定を表す「陰杯」で完全なるNO。丸まった面と平らな面がそれぞれ出た場合のことを「聖杯」(シンポエ)といい、願いであれば叶い、質問の答えはYESとなる。

 これで、幸村さんの好きにもならないし、僕が逃げも出来ない。今考えつく精一杯のフェアな方法だった。清水センセにもそうしたんだと言えばなんとか諦めて貰えそうな気がした。

 僕はダッシュボードから10円玉を2枚取り上げた。そしてそれを不思議そうに見ている幸村さんに僕はその10円玉を2枚渡した。幸村さんはびっくりした様子で僕に食って掛かった。

 

「お前を20円で買えっていうのか!?」

「いえ、違います。あの、僕は判断できないので、この10円2枚を投げて、コイントスして下さい。表と裏が出たら僕は幸村さんと寝ます。裏同士が出たらお互い帰宅します。表同士ならもう一度投げます。それでいいですか?」

 

 それを聞くと幸村さんはさらにあんぐりとした顔になった。

 

「コイントスで決めろってか!?」

「ええ。神のみぞ知る、です。僕より判断力あるって思ったんで」

「コインが!」

「いいえ、コインは媒体ですから」

「お前には意志っつうもんがないのか? てか、なんで2枚なんだ? 1枚でいいだろ」

「この決定は僕には難しすぎます。意志とかのレベルじゃないんですよ。これは中国とかで死者の意志を問う時に使ったりしますので、陰陽思想なんですよ。陰と陽で2枚です。コインが多いほうが僕のあるかないかの意志を汲みとってくれるんじゃないかと」

「冗談じゃねぇよ。本当にお前は自分の責任で何も決めねぇんだな! そしたら俺が投げるのは違うぞ。お前の責任で投げろよ! お前の判断を俺に委ねるなって!」

「冗談ではないです。でも、僕はコイントスなんてやったことないから、ちゃんと出来るかどうか……」

「運動神経皆無だからな、岡本は」

「ええ」

「じゃあ、ダッシュボードに投げろよ」

「うるさいですよ」

「裏か表が出りゃ、何でも構わねーだろ。我慢しろ」

「わかりました」

 

 幸村さんは僕の手に20円を握らせた。

 

「10円玉の表ってどっちですかね?」

「ああ、それ、発行した年の書いてあるほうが硬貨の裏だっていう話だぞ」

「え、じゃあ、この建物の絵のほうが表なんですか。初めて知った」

「俺の命運は10円玉で決まるのか……情けねーな」

 

 嘆く幸村さんを尻目に僕は車のダッシュボードに10円玉を投げた。キンコンコロコンコンとうるさい音がして銅貨はふた手に別れ、その後運転席の前と助手席の前でほとんど同時にパタンと倒れた。幸村さんが人差し指で、目の前に倒れたコインを手前に引きずってきた。僕はそれを覗き込んだ。建物が描いてある。

 

「表だな」

「表、です……」

「そっちは?」

 

 僕の前の10円玉を僕も手前に引きずった。正直見たくない。だが、幸村さんが待ちきれずに僕より先に硬貨の表面を覗き込んだ。

 

「これ、裏だな」

 

 言われて僕はそれを確かめた。10と描いてあった。そんなエロい答えを神が出すのか? いや、僕か?

 

「……ええ、裏です」

 

 それを聞いた幸村さんはいきなり車を発進した。慣れた様子でパーキングに車は入っていった。深夜を回っているのでガラガラだった。降りだした雪で、すでにうっすらとパーキングは白かった。車を駐めて、チラつく雪を払いながら僕たちはまた二人でマンションのエレベーターに乗った。これで幸村さんとの最後の夜になる。死神から赦された、エアポケットのような夢とうつつの間の夜。

 

 ポエのYESは裏と表、つまり東洋思想で言う『陰陽』の状態を示す。エネルギーの循環は、同じエネルギーでは成し得ないというのがタオの理念だと本には書いてあった。陽は陰が、陰は陽があってはじめて一つの要素となりえる。相反し相生するエネルギー、それは陰と陽、上と下、右と左、夜と昼、光と闇、空と地、それらが万象を産み、世界を構成し、壊れていく。創造と破壊は永遠に繰り返す。そして生と死、も。

 

 




《あとがき&近況》

 親愛なる少数精鋭の勇者(読者)様各位こんばんは。予告通り年末までにUP出来ました。先月2回も更新して、その上年末までにもう1回更新だと? 今月の活動報告に「12月も年末までにはあと1回更新できそうな予感です」とか大層なフラグを立てて「お前この戦争が終わったら死ぬつもりだな!」と思わせぶりな病弱架空線でしたが、うっかり死にもせず体調もそこそこで、単なる奇跡が起きただけという結果となりました。ちなみに私はミュンヒハウゼン症候群ではありません(←え)。それともこれから死ぬの? 来年もしぶとく生きてる予定なんだけど。
 さて、4章に入ってからだんだん文字数が多くなっていることにお気づきでしょうか? 1章の1話は約3600文字くらいです。4章の9話は13000文字でした。3倍かよ。最近僕止めを読んでて妙に疲れるなと感じていたそこのあなた、あなたの感覚は正常です。自信を持って生きて下さいませ。今回はもっと長かった。半分に切ろうかと思ったが、スピード感が無くなるのでやむなく全部UPしてます。頑張って下さいすみません。お疲れさまです。

 近況ですが、マトリックス4を封切りの翌日観に行ったが大変良かった。吹き替えを観たので次は字幕版を観ます。マトリックス3部作は物欲なき架空線が唯一DVDを3巻購入し、何回観たかわからんというほどのイチオシ作品ですが、20年のブランクを経て、監督のウォシャウスキー兄弟は姉妹になり4はどうなんだとドキドキしながら観に行きましたが、期待を裏切らない出来であった。世間では「駄作」「無駄作」などと酷評されているらしいが、あれは正味エンタメではない次元で理解する映画なので、酷評上等ってとこです。マトリックス4の感想は活動報告に同時UPしますので、ネタバレされたくない方は読みに行かないようによろしくお願い致します。
 年明けにはもちろん呪術廻戦0を観に行きます。近所の映画館の前売りの売れっぷりが感慨深い。去年は鬼滅、今年は呪術ですが、乙骨くんは何億の男になれるのか?
 
 それでは、今回もご閲覧頂きありがとうございました。
 本年も大変お世話になりました。良いお年を!
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