「拒否しないからっていって、誰でもいい訳じゃないぞ、裕は」
彼はそう言うと体を起こし、はだけた僕のシャツの前を合わせた。
「私にはたいがいの子は短時間で身体も心もたらしこめる天賦の才能があるけど、この子は本当に違う世界を見てる。私でもそこには届かないらしいよ」
小島さんは頭を垂れて黙ったままだった。
「裕君。君はちゃんと好きとか嫌いとかの区別をつけるべきだ。そうでないと自分も他人も傷つけるよ。余計な期待をさせてトラブルが起きる。そうならないようマナーを身につけるべきだ」
彼は僕に真面目な顔でそう言った。これを説教と言うに違いないと、僕は密かに思った。でもそれは正しいと思った。
「それから小島君。君ちょっとアタマおかしくなってるね。こんなことするのは君のためにもならないと思う。ちゃんと考えたほうがいい。少し年上だから偉そうに言わせてもらうけど」
「…知ってるさ」
小島さんは初めて口を開いた。それでも首はだらんと下を向いたままだった。
「君は私なんかよりずっと優しい人間だ。性癖はノーマルじゃないけど、君の精神はごく普通なんだよ。普通じゃないふりを装うんじゃない。そういうの気分良くないな。私みたいに普通じゃないど変態から見ると」
彼は脱がした僕のズボンをまた穿かせた。
「この子はイクとかイカないとかを求めてないだろ。君に違うものを求めてるだろ」
「俺は…こいつのオヤジじゃねぇ」
「いいや、オヤジであるべきだ。だって君もそれを求めてるんだからね」
「求めてねぇよ!」
「いいや、求めてる!」
サラリーマンの人の語気が荒くなった。
「この子は君を通して世界を見てるんじゃないのかな? とても変わった子だから親御さんも大変だろうよ。でも君はこの子に生きている世界に触れさせるアダプターを持っている」
そう言うと彼は僕ににっこり微笑んだ。そして彼は僕の手を引っ張りあげて身体を起こした。
「愚痴をずいぶん小島くんから聞かされてる。たまにここで飲むんだ。出会ったのは最悪な事態だったけど、私は小島君に危ないところを助けてもらって、そしてボコボコにされた。それが良かったんだけどね。悔しいけど恩義があるんだ。変態にも義というものがあるんだよねぇ」
はっきりは言わなかったが、なにかの折に小島さんはこの人を助けたんだということはわかった。
「とにかく裕君、君がどうしたいかこれから模索しなきゃ。いつまでも全部肯定してるわけにもいかないよ」
「どうしたいかですか…」
「わかってるのかい?」
「ええ。でもそれは止められてます。母親にも小島さんにも」
「ああ…そのことか…厄介だな」
饒舌だった彼も言葉が途切れた。そしてゆっくりと口を開いた。
「…そのことに対する明確な判断基準を私は持ち合わせていないな。誰がいつどこで死のうが、そいつの勝手だし、私はこれこれこうだから絶対にダメなんてことをいう論理的な答えはないな…ただ…」
そう言うと彼は僕の目を横目で見た。
「君みたいな子がそんなに早くこの世からいなくなるのはつまらない」
そしてウフフと笑った。
「感情論以外なにが言える? だって君の感情で決めたことでしょ。それを止められるのは論理でも倫理でも宗教論でもなくてさ。君の感情的欲求を超える強い誰かの感情以外無いでしょ」
彼は立ち上がった。そしてうなだれている小島さんの肩を手のひらでポンポンと叩いた。
「賭けだよ。勝つか負けるかわかんないんだよ。小島君。君も正直にならないと勝てない。色々あったのはわかるけど。でもそんな絶望しながら生きるなんてなんか…戦わないで負けてる感じ。自分の不幸を言い訳にしてるのははっきり言って見苦しいよね…ああ、私もそんなこと言えた義理じゃないけどね」
じゃ、二人でゆっくり話しなよ、と言って、サラリーマンの人は出て行った。小島さんは黙ったままだった。
僕はサラリーマンの人に起こされた形でソファに座ったまま、小島さんを見ていた。小島さんはなにも言わなかった。僕は斜めになったメガネをまっすぐにかけ直した。そのうち僕は尿意をもよおしてきた。我慢できずに、黙ったままの小島さんに聞いた。
「あの…トイレどこですか?」
小島さんは一瞬ギクッとしたようだったが、のっそりと立ち上がって僕の先に立ち、ドアを開けて廊下に出た。なん部屋か並んでいる入りくんだその一番奥にトイレがあった。
「部屋…わかるか?」
「いえ、わかりません」
「じゃあ、ここで待ってる」
「すぐ済みます」
排尿した後、すぐトイレのドアを開けた。小島さんが壁に寄りかかってぼーっと待っていた。
「お待たせしました」
「あ…うん」
小島さんの後をついていくと部屋に戻った。ドアを閉めた途端、小島さんは振り向きもせずに、立ったまま僕に言った。
「なんで怒んねぇんだ」
「怒ってないです」
「こんなことされていいのかよ!」
「怒ったほうがほうが良かったんですか?」
「ああそうだ! 見損なって怒鳴って出てけばよかっただろ! 寺岡のほうがお前のことわかってやれるだろ! お前を助けたのはあいつだ! あいつに着いてきゃよかったんだよ!」
「僕は小島さんのほうがいいです」
それを聞いたとき、小島さんの動きが止まった。
「お前…」
「僕は…僕は正直今でも生きてることに愛着を持つことはないです。でも、僕の知ってる生きている人の中で、小島さんがいちばんです。でも迷惑ですよね。さっきの人も言ってた。僕もそう思います。僕と居ると小島さんは苦しい。でも僕はどうすることも出来ません」
「ああ…そうだな」
「でもそんな僕に小島さんは可能性を感じて、苦しくても僕と一緒に居るんだ。だから僕は小島さんを求めてはダメなんだ…ごめんなさい…あの時僕は助けを求めちゃいけなかったんだ…ごめんなさい…台無しですよね…」
なぜかまた涙が溢れてしまっていた。声がかすれてうまく話せなかった。
「…後ろ向け」
「…え?」
「後ろ向けよ」
言われたように僕は後ろを向いた。入ってきたドアがあった。ここから追い出されるのかな…と思った瞬間、僕は後ろから抱きしめられていた。
「俺は…あの時の松田みてぇに、“これで途中で帰れる”って思ってた…そうすりゃもっと楽になれるってよ…」
「小島…さん…」
「怖いんだ…怖くてたまらねぇんだ…裕…お前が俺を見ねぇのも…お前が俺を見るのも…お前がいつ…自分で自分を殺すのかってのも…」
今日、ここで初めて小島さんに抱きしめられていた。僕の身体から力が抜けていくのがわかった。
「この半月、お前に逢わない間、俺はその怖さに耐えらんなくて、毎日飲んだくれてた。寺岡が時々俺に付き合って飲んでくれてて…そしたらあいつが言ったんだ…その子は自分が生きてることを知らないんだよって」
「僕が…ですか…」
「俺は違うって言った。あいつはあいつなりに生きてることを知ってるって。でも、その生きてることを受け入れらんねぇんだって。でも寺岡は、俺がお前を屍体として扱えば扱うほどお前はただのこの世の通訳だ、って。それは当たってるなって思った」
サラリーマンの人はそれをわかっていたのか、とちょっと驚いた。だから僕を生きてる人間として扱おうとしたんだと。
「そして言ったんだわ…その子に会ってみたいって。出来れば抱いてみたいって。俺はその時“逃げられる”って思った。何もかもやめてお前から逃げられるって。寺岡は他人のものを盗るのが大好きなんだ。好きなだけじゃない。どうにでもたらしこめる。本気で天才的なんだよ、あのイカレ野郎は。だから俺にボコられた」
「そうなんですか…わからなかった」
「わからないのはお前だけだろうよ。でもその時の俺の頭はまともなこと考えらんなかった。たらしこめたらいい、と思ってる反面、裕に勝てる奴はいねぇよとか思ったり、お前を知らない奴に抱かせて…傷つけてやりたい…とも思った。それでも、お前が寺岡に気持ちが動かない場合、俺はまたその恐怖で震えるんだろうな、とも思った」
「恐怖…って?」
「お前から逃げらんねぇ怖さだよ」
そう言うと小島さんは僕を後ろ抱きに引きずって、ソファに座り込んだ。僕は自動的に小島さんの脚の間にスポッとはまった。
「あと1年切った。この間に逃げられたら、俺はまた自分に絶望するのを見ないで済む。出来ればお前から去ってくれたらいい、って。また一人でいられる…淋しいけど俺は自分が壊れてることから目を背けて生きていける…」
「それは…実験を中止したいってこと?」
「ああ…結果を見るのが怖くて震えてくる。奇跡なんか起きねぇって、独りになると俺の頭の中で何かが囁く。お前はずっと壊れたまんまだっ…てさ。いや壊れてるからじゃねぇかもしれねぇと…お前は生まれつきそういうヤツだったって…」
抱きしめられた両手から、小島さんの震えが伝わってきそうだった。そうだったよね。実験には条件があった。
(俺が耐えられるまでな…)
あの時埠頭でそう言ってたのはこのことだったのか、と。でも、と僕は思った。でも、なんて今まで思ったことなかったのに。
「あの…恋人が高校生になると気持ちが萎えるって、どんな感じなんですか?」
「えっ…?」
小島さんは心底驚いたような声を上げた。
「あ…なにか悪いことでも聞いたんでしょうか?」
「いや…お前にそんなふうに質問されるの初めてだからよ」
「はい。僕もそう思います」
「そうだよな…なんかどうかしたのか?」
「なんというか…実験の期間を伸ばしたほうがいいんじゃないかって思って」
「嫌だよ。もう終わらせたいくらいなのに」
「あのですね…色々推論に穴があるんです」
僕は説明を始めた。
「折角、珍しく質問したんだから答えてくれませんか。どんな感じなんですか?」
「どんなって…好きだって気持ちがいきなり萎えるって、言ったよな」
「はい。それから?」
「それから?」
「ええ、それから」
「別れる」
「別れたあとは?」
「もう、なんにもねぇよ。罪悪感以外」
「あ、そうですか。じゃあ、萎えたあと付き合った人はいないんですよね?」
「そりゃ…な」
「そこですよね。それなら萎えても付き合ったらいいんじゃないでしょうか、僕達」
「はぁ!?」
僕は振り返って小島さんの顔を見た。なんか変な顔してるなと思った。眉毛が八の字になっている。
「だってまた好きになるかもしれないでしょ? それに恋人とかじゃなくても、この世には“友達”っていう関係だってあるって言うし」
「おい…」
「僕は友達がいないので、どういう風にしたらいいかは知りませんが…なれますか? 小島さんは友達いましたよね。だったらなれるかどうかわかりますよね。どうですか?」
「いや…おい…あのさ」
「そうすれば僕、泣かないんじゃないかって思うんです」
僕は、泣かないのかな。いや、泣くこともあると思うんだ。
「どう思いますか? 推論の穴は可能性の追求が期間的に足りないってことなんですが」
「お前…泣くのか…?」
「可能性は否定できません。僕、今日も泣いてますし。それが嫌で小島さんも僕が小島さんを見るのが怖いって言うんでしょ? でもその怖さは、関係を変えて実験の期間を伸ばすことで解消されると思うんです。僕の論理間違ってますか?」
「裕…お前…」
「僕は結局変われない。小島さんになにも出来ない。でも今のこの僕のままでも辛さが緩和して、実験も続けて、もし小島さんが違う結末を手に入れられるなら…僕はそうしたほうが良いって…思うんです」
僕は自分がそんなことを提案していいのかわからなかった。小島さんにとっては迷惑かもしれないのに。でもこれが今僕に出来るかすかなことだと思った。振り向いてる僕を小島さんは元に戻した。そしてもう一度、後ろから抱きしめ直した。
「裕…裕…お前…変わったよ」
「え…? なにがですか?」
「俺のこと考えてくれたのか」
「ダメでしたか?」
「いや…いいよ……でもちょっと考えさせろ…」
「はい。時間はまだ沢山ありますから…それと…あの…もうひとつ聞いていいですか?」
「な…なにを?」
僕はどうしてもそれだけは聞きたかった。
「僕があの時…手を伸ばした時、小島さん頭抱えてましたよね。どうしてですか?」
「ああ…あれか…」
小島さんは囁くように言った。
「あの手を取ったら…俺は逃げられないって…またあの苦しみに戻るのかと思ったら…でも俺はお前が泣きながら差し出した手を…握ってやりたかっ…」
不意に僕の頭に小島さんの額が押し付けられた。
「ごめんよ…俺は…卑怯だ…あの時俺達を捨てて逃げた…オヤジと一緒だ…行かないでくれって言っても…出て行ったオヤジと…」
そう言うと、小島さんは肩を震わせて泣いた。僕は小島さんの腕を握った。泣いている人をこんなに近くで見たのは初めてだった。悲しいものだな…と僕は初めて思った。
「それじゃあお父さんも…小島さんから行かないでって言われて、きっと…戻ってあげたかったんですよ」
僕がそう言うと、小島さんは声を上げて泣いた。それはしばらく続いた。小島さんはいつから我慢してたんだろう。僕は、さっきの出来事のせいでわかることが出来た。
少しだけ、その悲しみを。