目が覚めると、見知らぬ部屋に居た。寝ぼけた頭で現状を把握しようと布団にくるまったまま辺りを見渡すと、昨日の記憶が蘇ってきた。幸村さん……初詣……神社……コンビニの駐車場……そして…?
ラブホだ。
ここはラブホテルだった。そうだ。いつものようにあの男から押し切られて、今僕はここに寝ている。大丈夫。セックスは回避したんだ。キスもしなかったくらいだ。幸村さんも約束を守った。危険は回避したのだ。今のところ僕にミスは無い。良かった……
良かった? 僕は自分の安堵に浸りそうになりながら、待てよ? とストップをかけた。隣を見ると、一緒に寝たはずの男は居なかった。急いで身体を起こすと、ソファの背もたれに乱雑に重なり合って掛かっている黒いスーツとワイシャツが見えた。ということは、まだこのホテルの部屋のどこかに居るのだろう。トイレか、風呂か? 今は何時なんだ? カーテンの隙間から陽が差し込んでいるのがうっすら見えた。日の出は過ぎている。7時? 8時? そして気がつく。まだ、チェックアウトの時間では無いかも知れないことを。つまり、僕がこんなところに無防備に横たわっていることが、途轍もなく不用意で迂闊な行為かも知れないということを。
悪気はない。悪意もない。ただ、自分の中の悪魔を制御できた試しはない。押し切られたのではない。押し切らせた、のだ。相手の強引さを利用して流されながら、フワッと僕は殺され易い場所に立つ。頼みの綱は相手の自制心だけ。一番外れやすい枷の一つに依頼するのは、それが頼りにならないのを知っているからだろう。確実に殺されに行く。小さい裕の勝ちだ。僕は戦慄した。なぜ一人で帰らなかった? なぜ誘われたときに断固として断らなかった? なぜ、寝る前のことしか警戒していなかったんだ? ずる賢い幸村さんなら、僕を朝まで油断させておいて、朝から強引に犯すくらいのことは当たり前に考えているだろう。実際に朝から抱かれ直すことなんて何回もあった。ここに居るということは既に幸村さんの術中にハマっているということなのではないか? 僕は途方もない後悔に襲われていた。まただ。術中にハマったと見せかけてまた幸村さんを陥れている。危惧したことが起こっている。あの人には自信がある。流される僕をどうにかして押し流せる自信。だから小さい裕はまだこの手が通じると思っているのだ。
どうしよう。僕はパニックになりながら必死で寝起きの頭を回転させようとした。そうだ…ここに居るからいけないんだ…今なら幸村さんに見つからずに部屋を出られるんじゃないか? では、なにを最優先に行動するのか? ここから出るために。えっと、それは。僕は布団を跳ねのけた。着替えなくては!
(えー? ゆきむらさんはつよいからだいじょうぶだよ。ぼくはもうしぬよりもほんとうのことがしりたいから、ゆきむらさんとなかよくするよ。だからだいじょうぶだよ)
突然、小さい裕の声がした。まるで恐怖に慄く僕をなだめるように。僕はとっさに小さい裕に問い掛けていた。
(僕はまた無意識に殺されようとしてるんじゃないのか?)
(ちがうよ。だって、もうばれちゃったもん。ゆきむらさんはあたまがいいから、おなじてにはひっかからないんだよ。はやくてらおかさんとあっておはなしすればいいのに)
いつも通り小さい裕は屈託なく無邪気に身も蓋もないことを言った。つまり? ということは? ここに居ても……
(だからぁ、だいじょうぶだよ)
「あぁ……」
思わず口からうめき声が出た。凄まじい脱力感が襲ってきた。僕は再びベッドに仰向けに倒れた。良心の呵責に耐えきれずに頭がおかしくなりかけたほどの罪業を悔いたその舌の根も乾かぬうちに、同じことを繰り返しているのかと思うだけで絶望と無力感で気が狂いそうになっていた。だが、もう操るのはやめたのだ。小さい裕は。
やめたのか。死神も悪魔も。
やめたのか?
やめられたのか
え
それは唐突にやってきた理解だった。言ってみれば、ずっと縛られていた縄が解けたにも関わらず、余りに長いこと縛り付けられていたために、縄が解けたことを認識しないまま身体が縛られた形のままで固まっていた、それにやっと気がついた、そんな感じなのだろうと。虚脱感が全身を支配している。そんなことが人生で起きるのか、と、僕はそれのほうがオカルトのような非現実的な不可思議さに満ちていると感じた。アレをやめられる日が来るとは。そんな日が来ようとは。あまりの脱力感に地の底に吸い込まれていくような異様な感覚が僕を襲った。それもそのはずだった。自分の人生に人を巻き込まないためにいつもいつも僕は緊張していたに違いない。それは、あの日、寺岡さんの家で誰も傷つけないようにひっそりと扉を閉じてから、ずっとその扉を抑え込んでいたのだろうから。母の死の胎の中に戻ることを希求して。しかも全く戻れていないのに。
しばらく呆然とホテルの天井を眺めていたが、尿意の限界を迎えた頃、やっとの思いでベッドから転がり落ちた。その頃には混乱した精神はなんとか回復に向かっていた。辿り着いた広いトイレには幸村さんの姿は無かった。トイレの隣にあるバスルームからシャワーの音が聞こえてくるので、そこに居るとわかった。どんな様子か気になった。自分の矜持も信念も職業の倫理もかなぐり捨てて、僕を救おうとしてくれたこの人を、僕はどうすれば幸せに出来るのか、ほんとうにそれがわからなくて苦しい。
膀胱を空にしてトイレを出て、バスルームのドアを開ける。シャワーの音は消えていた。濛々と充満する湯気の中に、湯船に浸かっている幸村さんの姿が見えた。すぐに戸口の僕に気がついたようだった。機嫌の良い顔でニッと笑った。それを見て少し安心した。
「おはよう」
「おはようございます」
「まだ9時前だろ。よく起きれたな」
「尿意に負けました」
「起こされたんだな」
「また寝ます」
それを聞くと幸村さんはハハッと笑った。
「なぁんもしなかっただろ?」
「まぁ、はい」
「寝る前に岡本も入れよ。せっかく温泉付きのラブホ来たんだから」
「昨日入ったので良いです。ご存知の通り、温泉を気持ち良いという感性がないので」
「あ、そっか。それで昨日は岡本に合わせてぬるくしたんだっけ。じゃ、ダメだな。今、この風呂はメチャクチャ熱い」
「それは死にますね。それでこんな湯気が立ってるんですね。ではごゆっくり」
「おう、もう抜いたから温まったら出るわ。お陰さまでもう今朝は息子がビンビンでまぁ元……」
「あ、え……どうぞご自由に」
全部を聞く前に僕はそっとバスルームのドアを閉じた。おい、コラ! 最後まで聞けぇ! と叫ぶ声が遠くなった。当然ながらセックスはしたいんだろう。でも同情してはいけない。申し訳ないが自制心の塊を全うしてもらいたい。小さい裕のいう通り、幸村さんは今のところ強かった。いや、欲情していない僕は実はそこまで幸村さんの性欲を刺激しないのかも知れない。発作を起こしていないし、幸村さんにはそれを解消する使命も責任も今はないのだ。そういえば、発作もなく一緒に寝たのは初めてだった。一緒に眠ることに慣れた幸村さんの身体。そのことを意識するといまだに戸惑う。
ベッドに戻りかけながら気がついた。また寝ていると幸村さんがその気になるかも知れない。僕はもう死神でも悪魔でもないかも知れないが、まだ警戒心は解かない方が良いと思った。僕は踵を返した。
そんなことを考えながら、歯磨きをして着替えた。部屋の遮光カーテンを開けると、一面の銀世界に朝日が差し、真っ白い山並みが見えた。庭には冬枯れの木立がまばらに生え、遠くには林が続いていた。低層のラブホなので、普通のホテルとは違い掃き出し窓になっていて、明るいところで見るとコテージ風である。よく見ると掃き出し窓の外がガラス張りのサンルームになっていた。端の方に木製の椅子が二脚と丸いカフェテーブルがある。なんだか豪華な作りをしている。そういえば、幸村さんは一番高い部屋を惜しげもなく借りたんだっけ。窓の外を眺めながら昨日のことを思い出してていると、後ろからホカホカの何かに抱きしめられた。いつの間にか幸村さんの入浴は終わっていたようだった。耳の奥でフワーンと微かなノイズ。熱過ぎる風呂で茹だったのかと思うほど幸村さんの身体が熱い。熱を冷ますために上裸で腰にバスタオルを巻いているらしい。全裸じゃないところが幸村さんなりに少し気を遣っているのかも知れない。
「うわ」
「無防備だなー、いつものことだけど」
「ちょ……そういうの無しだって!」
「親愛の情だ。セックスじゃないから諦めろ」
「ずるい」
「でもさぁ、一度でいいから、欲情してない岡本を抱いてその気にさせてみてぇよなぁ」
警戒したのはこのせいかと思うような発言が早速幸村さんから出された。
「その気になりませんけどね。実証済みですから」
「それなら尚更挑戦してみたくなるわな。その前人未到の鉄壁をなし崩すのは俺だろ。俺、上手いし、なんか、一回そんな感じのこと無かったっけ?」
「気のせいです。寺岡さんも佐伯くんも既に実験しましたけどね。あ、首締めたら一瞬でイキますよ。簡単です」
「だから、それを言うなよ! 怖いんだって。でもよ、受けと受けが二人で何したってどうしようもないでしょうが。陸の攻めなんかで誰がその気になんの?」
「懲りたんじゃないんですか? だいたいちゃんと考えてないよね。発作もなく僕が幸村さんに欲情させられたら、小さい裕の思うつぼじゃない」
それを聞いた幸村さんはちょっと黙った。顔は見えないが、きっと気まずい顔をしているに違いない。しかし、すねたように往生際の悪い回答が返ってきた。
「そうだな……そうは思うけどよ。俺の本当の上手さを岡本に見せつけたいっていうか……だって、今までテクもクソもなんもない発情済みのセックスしかしてねーじゃん。前にも言ったけど、俺は全くその気のない身体をいじくり回した挙句狂わせるのが好きなんだよ。そういう性癖なの!」
「それしないって決めたでしょ? ちょっとは警戒しませんか? 今日だって気がついてみれば同情してズルズルこんな思わせぶりなことして、結果的に無意識に幸村さんの性欲を煽ってるんだと思わない?」
「まぁ、結果的にそうも見える。でも俺はそれで楽しいしな。さっき抜いてスッキリしたし。良いんじゃねーの?」
意地の楽観主義を見せつけながら、幸村さんはようやく僕から離れて隣りに立った。小さい裕はこういうところまで見抜いているのだから大したもんだ。
「なんか良い感じのサンルームだな。そこでモーニングコーヒー飲むか。スゲぇ気持ち良さそうじゃね?」
「良いですが」
「淹れてくる。砂糖とかミルク入れる?」
「ブラックでいいです」
「OK。そこの戸開けて座っといて」
言われたように椅子に座って待っていると、幸村さんがコーヒーカップを両手に戻って来た。
「お待たせ致しました。こちらブラックコーヒー、ぬるめ、でございます」
「ああ、すみません」
カフェのウェイターよろしく、ふざけて僕の前にソーサー付きのカップを置いた。いつの間にか幸村さんは着替えていて、ジャケットを着ていないせいか、黒のスラックスに白いワイシャツでよりウェイターっぽく見える。向かいの椅子に腰掛けると、幸村さんは眩しそうに遠くの雪山を見ながらコーヒーをすすった。この二人でこんな爽やかな朝は初めてじゃないだろうか。
「熱ぃ」
「ぬるくしてくれてありがとうございます」
「俺の熱すぎ」
フーフー冷ましながら幸村さんは何やら考え込んでいる様子だったが、おもむろに口を開いた。
「連続放火犯」
「はぁ」
「目撃者が見つかんねぇ」
「深夜ですからね」
「深夜だからって不審者もいないってどうよ? 防犯カメラも大した映像なんか無いときてる」
「防犯カメラの位置を把握してるんでは?」
「最近は個人宅でもカメラ付けてる家が多いんだ。そんな3軒バラバラの場所の経路のカメラ全部をかい潜れるかってーの。でも手口は一緒、出火する曜日も決まってる、3件とも。じゃあ俺は何を見落としてるんだ?」
「……疲れてるんじゃないですか。僕のせいで」
久しぶりに聞いた敏腕警部補の悩みごとだった。勝手な心配とはいえずっとこの人の心労の原因となっている僕は、嫌味のような後ろめたさのようなわからないものをつい口走ってしまった。幸村さんははぁ、とため息をついて眉間にシワを寄せた。
「バカか? お前がいなかったら俺はどうすんだ」
「いっ」
いきなりスネをテーブルの下で蹴られて、僕はまた変な声を出した。余計なことを言った自覚があるので文句は言いそびれた。
「疲れてるとしたらお前に会ってないからだぞ。悪いと思ってんなら、なーんかアドバイスしろ」
「屍体もないのに僕に聞いてどうすんですか」
「岡本の変な視点に期待してんの。この前のドルオタの脱走犯みたいな」
この件は屍体が出ていないので、僕とはまだ関わらない事件である。とはいえ、何度もニュースにはなっていて状況がわからないわけでもない。目撃者も不審者も居ないのに放火が起きるというのは、ものすごく近場の住人が犯人という可能性がある。例えば隣の家。でも、3軒ともそうであるなんていうのは宇宙論的確率だ。そうすると考えられるのは……と、思いついたのは自分でもかなり奇想天外な推論だった。
「……自分で燃やすというのは有りですかね? 3人とも自主的な放火で」
「おいおい、3軒連続だぞ? 火事の自作自演は多いから、放火の時はいつも疑うけどさ。今回は連続放火だからな。3軒の家の誰かが他の2軒に付け火して回ってるってんじゃなくて、お前は3人が3人とも各自自分で燃やしたってこと言ってるんだよな? 偶然じゃなくて3人つるんで放火に偽装したってことか? そんなことあるかぁ? でなきゃ、同じ時期に関係ない3人が、おんなじ手口で木曜日に次々と偶然に放火を偽装するとか。一人死にかけてるっていうのに」
「ですよね。突飛過ぎました、それは」
僕のトンデモ推論を聞いた幸村さんは最初はバカにしたような口調だったが、急に真面目な顔になった。
「有り得ないって思うけど、3軒の被害者がなんか共通の目的でもあるとかかよ。可能性として。あくまでも可能性としてだ」
「いや、よくわかりませんけど。うーん……燃えた家を見たら家のことは少しわかるかな。どんな風にこの家が壊れていったのか、とか」
「マジか。つまり全焼家屋ってのは岡本にっとっちゃ“家の屍体”ってことか?」
「そうですね。死んだ家です」
「好きそうだな。今度、写真持ってくるわ。一度見てくれや」
「良いですけど、他のことはわかりませんからね。さっきのも仮説中の仮説ですよ。目撃者と不審者が居ないっていう要素だけで考えてますからね。思いつきも良いところです」
「まぁ、捜査も行き詰まってるからな。俺もその岡本の突飛な仮説は面白半分だって。だけど切り口を変えるのには良いかもなってくらいだ。安心しろ」
「真に受けるなんて思ってませんよ。放火は消防も疑ってないんでしょうし。市内とはいえ住所も特に共通点はないんでしょう?」
「まぁ、今んとこはそうだ。知り合いじゃないしな。親類でもないし職場も学校も、趣味もバラバラ。まさか、放火に偽装した自殺未遂とか?」
それを聞いて、ふと、例のタイヤ置き場リンチ事件のキッカケとなった焼損屍体を思い出した。あれは生命保険絡みの偽装だった。自殺を失火に偽装したのだ。それなら、火災保険絡みでの偽装もあるんじゃないだろうか?
「幸村さん……言いたくないけど、思い出します。例の……失火に偽装した放火、それに保険……」
「ああ…あれか」
思いがけなく、幸村さんはマズったな、というように珍しく僕から目を逸らした。それを見た僕はざまあみろという気になった。あの件に関してまだ遺恨があるんだ僕は。忘れていてもこんなことで思い出すんだな。気まずい顔をしているってことはあのリンチ事件についてこの人は少しは悪いと思っているんだろうか? 何しろこの人とのすべての始まりはあの焼損屍体なのだ。考えてみればお互い触れたくなくて話題にしていなかった。あんなことがあったのにここで二人でモーニングコーヒーなど飲んでいる方がおかしいのだ。とはいえ予想外に自ら話題にしてしまったからには、そしてどうやら思いのほか幸村さんが後ろめたそうなので、これは少し懲らしめてやれるかもと思い至った。僕は言いたくないところを押して、わざと辛そうな顔をしてうつむきながら言った。
「あれは、僕も……出来れば思い返したくないけど…あの夜のことも」
うつむきながらこっそり横目で幸村さんを見た。まだ目を逸らしたまんまだ。視線にやり場がなくて窓の外を見ている。さて、どう反応してくるんだろうか。すると気まずそうな顔のまま、幸村さんは重い口を開いた。
「そうだろうな。あれは……ヤリすぎた……後悔はしてないけど、反省はしてる。岡本を疑うなんてどうかしてたし……あんな写真何十枚も……今ならあれが拷問だったってわかる。すまん、わかってなくてすまん」
ようやく認めたか! ブラボー連続放火犯! この件については一度も僕はちゃんと謝られていなかったんだ!! 僕は表情を変えることなく、心の中で数回ガッツポーズをとった。これは予想だにしなかったギフトだった。でも後悔してないのか。本当にしぶといおっさんだ。
「もういいですよ。反省してるって言葉が聞けて、僕もわだかまりが解けました」
「火災保険……か?」
心の強すぎる幸村さんは謝ってスッキリしたらしく、すでに頭の中は再び連続放火事件で一杯になったようだった。僕も思いがけなく気が済んだところがあったので、ツッコまずに事件の続きを考えてみた。
「確かに、連続放火となれば自作自演の線は消える。つまり捜査の撹乱は成功してると」
「その線はどうなってるんですか?」
「保険金詐欺? いやいや全焼なんて1軒しかねーぞ。ボヤや半焼なんかじゃたいした保険は下りねぇよ」
「この場合1軒しか成功しなかったということですか。全焼でいくら貰えるんですか? 今回」
「3000万くらいか? いや、火災保険、入ってるよな? 一戸建てだし」
「けっこう出るんですね」
「いや、保険の額を確認してないのか。えぇ? これ、自作自演だったら大ごとだぞ? でもなぁ、有りなのかなぁ?これ」
そう言うと幸村さんは適温になったコーヒーをゴクリとひと口飲んだ。そして僕を見ると、テーブルに両手を付いて腰を浮かした。一瞬で距離が詰められ、僕はあっという間にキスされていた。とっさに僕はのけぞった。
「なっ、なな!」
「お前は、刑事になれ」
「きっ、キスと関係あんの!?」
「ほんっと、好き。ほんと好きで好きでたまんねーわ」
「そういうのナシだって!!」
「これも立派な親愛の表現だ。恨むなら欧米文化を恨め」
「自制心の塊なんでしょ!?」
「立派な自制心だって! 犯してないだろが!」
「キスはダメでしょ……もう……」
僕は立ち上がり、距離の近すぎる警察官の両肩をつかみ、無理やり椅子に押し戻した。確かに僕はもう幸村さんを殺人者にしないかも知れない。だが、期待させても恋人になることはない。死神だから悪魔だから皆んなを遠ざけただけじゃない。死ななくても犯罪者にならなくても、誰かが僕の不用意な態度で傷つくのを見るのはもう嫌だ。それなのに僕はラブホに居る。自分が嫌になる。幸村さんは椅子にドスンと戻されると、口をとんがらせてぼやいた。
「あーあ。一緒に仕事してぇ」
「してるだろ!」
「もっとしたい」
「仕事バカもたいがいにしたら?」
「だって、今朝の20分足らずで糸口が掴めるかもしんねぇんだぜ? おい」
「だからトンデモ考察なんだって。自分でも言ってたじゃないですか、面白半分で聞いてるって」
「まぁ良いんだよ、手がかりがないんだから。思いついたことがあればなんか違うことやれるだろ? やっぱ、ご利益半端ねぇな。秋葉さんは」
「ええ、そうですよ。僕が言ってるようだけど、僕は口寄せだから。僕じゃなくて秋葉さんと仕事すればいい」
「いやいや、巫女にも格ってもんがあるんだよ。そんなら岡本は優秀な口寄せだってな」
「都合良すぎ」
「あのなぁ、岡本の捜査コンサルはセックスと同じくらい楽しいんだけど?」
僕の悪口雑言にも関わらず、心の強すぎる幸村さんは機嫌良さそうに微笑んだ。
「あのさ、たまにこういうことしような。なんもしないラブホ泊まり」
「嫌ですよ。いつか絶対その自制心の塊が崩れることになるんだ」
「なんねーよ。有ってもキス止まりだって」
「キスは良いんですか!?」
「なにその、バナナはおやつじゃない、みたいな抵抗。いや、バナナはそりゃダメだろ」
「なにニヤニヤしてるんですか! そろそろチェックアウトですよ。出ましょう」
「えぇ? 延長しようよ」
「そんな約束してないって」
「じゃ、また今度」
僕はため息をついた。押し問答に疲れてきたので、残りのコーヒーを飲みながら黙って朝日の眩しい庭を眺めた。面倒なことはいろいろあるが、それでも爽やかで穏やかな正月の朝で、この時間は案外イヤでは無かったことに僕は困惑した。僕がコーヒーを飲み干して一息つくと、幸村さんが重い腰を上げた。
「ところで、例の教授の携帯番号、教えてくれる?」
「ああ、良いですよ」
ホテルのメモ帳に携帯電話の発信履歴から寺岡さんの番号を写す。それを幸村さんに渡した。
「すぐ掛けるわ。予定をさくっと決めたいしな」
「お願いします」
「楽しみだ」
(やったー! でんわ! でんわ!)
いきなり小さい裕がはしゃぐ声が割り込んできた。少々驚いたが、機嫌が良いのは望ましかった。幸村さんも機嫌が良かった。それを最後に僕たちはラブホを後にした。
昼前に自宅に送ってもらい、幸村さんは素直に帰っていった。なんでも、親戚の集まりがあるとかで、そんな場所に参加するのかとちょっと驚いたが、幸村さんは、姪や甥っ子は可愛いぞ! と、フツーのおっさんめいたことを言って笑った。お年玉もやらなきゃならんし、世話になった伯父伯母にも会えるうちに会っておかんと、と。甥っ子姪っ子ということは、幸村さんには兄弟姉妹のいずれかが存在するんだろう。ひとりっ子の僕にはまたしても想像を超えた世界だ。身内にはゲイだってカミングアウトしてるんだろうか? していてもしていなくても後ろめたくないんだろうか? 仕事場では鬼でも身内にだけは弱いという人も居るらしいが、幸村さんがどんな私生活をしているのか、僕は訊いたこともないし、その発想は一切なかった。だいたい、どこのどんな家に住んでいるのかさえ知らないことに今更気づいているくらいだった。
幸村さんと別れて部屋に戻り、そのままベッドに寝っ転がって身体を伸ばしているうちに寝落ちしていた。一時間くらい眠ったようだった。起きるとまだ晴れていたので、洗濯をしようと決めた。
洗濯機を回しながら幸村さんのプライベートについての続きを考え始め、そして幸村さんの家に行ったことがないということに遅まきながら気が付き、そのことにゾッとした。それは小島さんの家に初めて連れて行かれた日に、彼が心中を図ったことを思い出したからだった。いやいや幸村さんはそんなことするわけがないだろう。これは僕のトラウマの恐怖であって、それを部屋に一度も行っていないというだけの共通点によって過去の出来事を幸村さんに投影してゾッとしているだけなのだと自分に言い聞かせた。しかしなんで幸村さんは僕の部屋にしか来ないのだろう。いや、幸村さんの部屋に連れ込まれてもそれはそれでマズいのだが。これは本人に訊いてみるしかないことだった。洗濯機の前に立ったままそのことをグルグル考えていると、部屋の方で携帯電話の呼び出し音が聞こえた。これはきっと清水センセだろう。ようやく病院から解放されたのではないだろうか。ベッドに移動している間にようやく幸村さんのことが頭の中から追い出された。ベッドに放り出された携帯の着信の表示は案の定清水センセだった。
「もしもし」
「裕くん、明けましておめでとう」
第一声は思いがけなく新年の挨拶からだった。なんとなく「ようやく生きた人間から解放されたよ〜疲れたぁ」的な訴えから始まるだろうと予想していたが、清水センセは思ったより落ち着いているようだった。
「あ、ええ、おめでとうございます」
「今年もよろしくね」
「ええ、あぁ、あの、こちらこそ」
思いがけない清水センセの社交辞令的な挨拶に、僕は戸惑いつつもごくごく形式的にそれに答えた。なんか変な感じだ。この感じ、前にもあったような気がする。もしかしてまだ仕事場なのではないだろうか?
「先生、まだ病院ですか?」
「あ、わかる? そうなんだ。ようやく終わったからこれから帰るとこでさ。裕くんは今、家にいるの?」
「はい。洗濯してます」
遠くからナースの声らしき女性の話し声と廊下をコツコツ歩く靴音がうっすら聞こえている。
「ああ、今日は晴れてるもんね! 洗濯のあとって予定ある?」
「いえ、特に無いですが」
「そっか」
そう言った清水センセはなぜか黙った。何を言いたいのか手に取るようにわかった。いつもだったらなりふり構わず僕を迎えに行くと言ってるはずなのに、なぜか清水センセはそれをためらっていた。
「あぁ…ええと」
「どうかしましたか?」
こんな歯切れの悪い清水センセは珍しい。だが、意を決したように電話口で息を吸う音が聞こえた。
「僕さ、これから正月休みなんだ……4日まで。でね、裕くんと過ごせる時間って……あるかなぁって……」
遠慮している……清水センセが遠慮してる。何が原因でためらってるのだろう? これも本人に訊くしか無い。
「僕は3日まで休みです。先生はこれから直帰ですか?」
「あの……今から迎えに行って……良いかな。疲れてたら、また今度でも良いんだけど」
「疲れてるのは先生のほうなのでは?」
「うん、疲れてる。泥のように寝たい」
バタンと車のドアを閉める音がした。話しながら駐車場に移動していたようだ。車内という密室に入ったおかげで清水センセの口調が変わった。
「わかってるんだ。年末年始、幸村さんと一緒だったんでしょ?」
また筒抜けだ……なんなんだこの二人は。僕はその情報伝達の速さと共有の濃度に自分の耳を疑った。
〈近況とあとがき〉
本当は11月末にUPしたかった架空線です。すみません。今年最後なのか、年末にもう一度更新できるのかは神のみぞ知るところです。儚い期待を込めて「よいお年を」とか言わないことにします。ほう、強情なヤツめ。
3年ぶりくらいに立ちくらみで立った瞬間にうずくまって動けない状態でこの4日くらい久々にフラフラでした。仕事も家のことも休めないので、ひたすら手抜きに勤しむ毎日です。「ホコリで人は死なぬ」「一日一食で健康生活」という詠唱が役に立つ今日この頃。早く無詠唱で発動させたいものです。この前来た同居人(恋人じゃないよ親戚の子)は障害者手帳持ちなのですが、洗濯物を干すとか料理を一品くらいは作ってくれるとか、ご飯の後に食器を洗ってくれたりと、出来ることをしてくれてはいますので、具合が悪いときに寝ていられる時間も少し増えたかも知れません。
今回は幸村さんに何もされない正規ルートの話ですが、もちろん私の脳内にはオカズ用ルート分岐が3つくらいあって、車の中で話してるうちに途中までされちゃってからラブホに無理やり連れ込まれて最後までやられちゃうルート、なんもしないと言いながら、ラブホに入った途端に襲われちゃうルート、なんもしないと言って朝まで爆睡後にやられちゃうルートと、まぁ、それ以外にもバリエーションはいくつかありまして、しばらく楽しかったです(てかいまだに楽しい)。
それでは、今回もご閲覧誠に有り難うございました。