「もう、連絡が行ったんですか」
ウソをつく必要もないが、本当は言いたくなかった。でもきっと幸村さんが黙っていたくなかったのだろう。それは優しさなのかフェアプレー精神なのか、それともマウントなのか、僕にはわからなかった。
「だって……お互い少ない冬休みを裕くんとどう過ごすかって、幸村さんも僕も考えてることは同じなんだから。日程が被んないように調整しなきゃって。昨日の夜中と今朝、彼からメール来たから……」
これはスケジュール調整である。予想外の答えはいつもの通りだ。これは優しさでもフェアプレーでもマウントでもなく事務連絡であるということだ。昨日の夜にさり気なく幸村さんが清水センセのことを訊いていたのを思い出した。最初は2時間って言ってたのは、清水センセと僕が年越しするんじゃないかとか思ってたのかも知れない。でも、清水センセが緊急で病院に呼び出されたのを幸村さんは知って、年越しは俺がもらってラブホに行こう、となった、そんな感じなんだろう。僕の知らない彼らのルールがあるのかも知れない。いずれにせよ、毎度のことだが、その彼らがどんな気持ちでそれをやっているのかが全くわからなかった。
それにしても清水センセの口調が変わってから、声のトーンがダダ下がりなのが気になる。年末からほとんど休んでいない、疲労困憊で生きた患者と不審死の遺体を行き来していた彼が、パニックを起こす恐怖と戦いながら職責を全うしていたのは電話でよくわかっている話だった。そんな中で僕と幸村さんがラブホで年越ししているなどとメールが来たら。
「……だいたいのことは教えてもらったから把握出来てるんだ。初詣に誘ったっていうのも、ラブホでも何もなかったってこともね。でも、仕事納めの後に夜遅く出掛けるなんて……疲れるでしょう? だから昨日の今日で、午後からは絶対僕と一緒に居て、なんて、言えない。それに君がまだ、人と一緒に居ることに拭えない罪悪感を持って苦しむんだとしたら……僕がそれを無理やりお願いなんて出来ないよ」
精神的にムチャクチャ動揺している時のあの低い声なのに、なんとか冷静に話さなければという我慢のようなものが伝わってきて尚更心配になる。僕を守るための抑制の中に常に清水センセは居て、それは会うごとに僕の話したことをすべて考慮して変わっていっている結果なのだろう。最初からこんなでは決してなかったのだから。一方、幸村さんは自分の信念を揺るぎなく通すことで僕が変わることを望んでいる。でも清水センセは僕の頑固さも無関心さも受け入れようとする。優しさに似た悪辣な優柔不断も、自己中な告白も。僕はどこまでも甘やかされ、そして自分の申し訳無さが胸ぐらを掴んでくる。僕の心境の変化を早く伝えなければ。ちゃんと話さなければこの人を苦しめるだけ。
「僕は案外大丈夫です。邪魔もされずによく寝ましたから。何もされなかったのは本当ですし。だから疲労もだいぶ回復してます。心配なのはむしろ先生のほうです。今、話してるのがとっても辛そうで、今どんな精神状態なのかすごく気になります。もし、僕が一緒にいたほうが安心するんだったら、今からうちに寄ってもらって一緒に先生の家に行きます。それに僕はもう死神じゃなくなってしまったし、悪魔のことも……なんていうか……脅威ではなくなった気がして。昨日と今日では感覚が違うんです。そういうことが今朝僕の身に起きて……そのことも先生に説明しなければと思います」
「そうなんだ……心配させてごめん」
そう言うと電話口からため息が聞こえた。ため息の語尾が震えていて、それが僕の耳に響いた。
「先生……病院が忙しくて疲れすぎたんじゃないですか? 無理し過ぎです。いろいろと無理し過ぎです。頓服飲みながらなんて長くは持たないでしょ? 今は心身共にちゃんと休まなきゃ。休養して下さい、先生」
「こんな僕を気遣ってくれるんだね。ありがとう。ごめんね……裕くんだって大変なのに……もっと自分のこと、考えてよ。僕のことなんてどうでもい…」
そう言われたところで、僕は自分のことしか考えちゃいない。結局僕はどこまで行っても自己中な考えしか浮かばない。だから僕はこんな風に返した。
「それじゃ、先生が倒れたら僕はどうなるんですか? 頼ってるのは僕です。自分勝手でごめんなさい。でも先生に倒れられたら、僕はまたあの悪夢のような発作を繰り返す生活に逆戻りしなきゃなんないんですよ! 僕はいつだって自分のことしか考えてないんです!」
ひっ……と清水センセの喉が鳴った。ネガティブになった清水センセが陥る自己否定のループを僕は敢えて自己中な主張でブチ切った。そうでもしなければこの人の堂々巡りは終わらない。僕には伝えなければならないことがある。だから。
「会って、話したいです。話さなきゃならないことがあります」
数日前まで、それすら決められなかった自分とは思えないようなことを僕は告げた。
「この前、誰とも一緒にいられないってあんなに…」
「それは……すみません。あの時は僕はそう思ってました。でも、今は違うんです。なんと言ったら良いか……それもちゃんと説明しないと。ですから、色んな意味ですぐに会ったほうが良いんだと思います。すみません。言うことが前と変わってしまって」
「いいの?」
「ええ」
「でもさ、どうやって切り替えられるの?」
「なにをですか?」
「幸村さんの時間と、僕との時間を、さ」
「気になりますか」
「だって、裕くんってそんなに器用な人じゃないでしょ? 今朝まで一緒だったのに、同じ日に他の人間と会うなんて……」
「先生、僕は、好きと嫌いがいまだにわからない人間なんですよ。だから切り替える必要なんて、もともと無いんです。不器用どころの話じゃない」
「ほんとに?」
「ええ。だって僕はもともと屍体なんですよ? わかってるでしょう? 屍体に切り替えなんてないって。だから、居るだけで良いなら、今日も明日も先生と一緒に居ますから。屍体なので居るだけしか出来ないですけど」
清水センセはこれで理解する。僕は確信を持ってそのことを告げた。
「そうだ。そうだね。ごめん、僕が間違ってた。裕くんのために、僕は受け入れるべきなんだね」
ようやく彼は僕と会うことを承諾した。小さい裕は僕にもう悪魔の所業を求めていない。僕が全身全霊で真実を明らかにすることを望んでいるだけだ。そうであるなら、全人生を賭けて僕を殺してくれると言った人に、僕が出来るだけのことをしたいと思うのは当然だった。少なくとも清水センセは最悪の場合犯罪者になる可能性はあるが、僕を殺す前に死ぬことはないだろう。彼と一緒に居ても良い。彼が安らかならその方が良い。
「もう洗濯も終わりました。先生がこっちに来るまでに干し終わります」
「ほんとに会えるんだ……いいのかな。すごく今、戸惑ってるけど。都合の良すぎる夢を観ているみたいで怖い」
「都合が良いかどうかなんてまだ全然わからないですよ。でも、僕は妥協しているわけでも、誰かに言われたわけでも、打算があるわけでもなくて……とにかく必要だと、この行動が必要だって思ってます。僕自身も不安定なのは否定できませんけど」
「わかった。今から迎えに行くよ。僕はね、不安なんだ。実感が無いんだ。だから不安で不安でどうしようもない。君から受け入れられてるって未だに半信半疑なんだ。だって、裕くんに会えて、僕に関わってくれて、僕のことを考えてくれてるそのことがまだ夢みたいなんだから」
「じゃ、慣れて下さい。僕は好きとか嫌いとかはわかりませんが、先生が必要なんです。それは僕のほうが申し訳ないです。僕は先生の気持ちに応えたいと思ってます。それは嘘じゃないです」
「……ほんとうに?」
「ええ。こんなこと、簡単に言えることではないですから」
簡単に言えることなんかではない。僕が誰かと関係することでそこに多かれ少なかれ狂気が引き起こされる。死神でなくなろうが、悪魔をやめようが、それは変わらないような気がした。清水センセが特別なのは、僕がここで身を引いたら本当に、最悪の場合、清水センセが完全に狂ってしまうと本当に僕が思っているからだ。そしてその癒着に僕は支えられて日常をやり過ごせている。そう言う意味で、いつの間にか、気がつけば彼と僕は存在の一部分づつを共有してしまったと言える。結合双生児のような普通ではない事態……でも、異常だと言ったところで今のところどうにもならない。
共依存とでも?
大学の授業で心理学の教授がそんなことを言っていた。自分と特定の誰かが互いに過剰に依存し合うこと。その関係性に囚われている状態のことを指す。お互いが相手に依存するあまり、その囚われている関係への嗜癖(アディクション)となる。僕と清水センセの関係が全部共依存に当てはまるかどうかは定かではないが、そう言われてもおかしくないような関係をはらんでいると言える。では? ではどうしろと言うんだ。アディクション? そんな言葉で済む話じゃない!
「わかった。ありがとう。もし無理ならすぐ言って?」
「ええ、それは約束します。じゃ、また後で」
「うん。あ、お昼食べた?」
「いえ、忘れてました」
「じゃ、なんか買っていくからちょっと待ってて。うちで食べよ?」
「そうですか、いつもすみません」
「良いんだって。じゃ、また後でね」
電話を切って、そのまま脱衣所に向かう。洗濯機から洗濯物を取り出してバルコニーへ出た。変わらずに晴れている。その眩しさに目を細める。難しいことを考えたくなくなるくらい。
そのあと、少し緊張した清水センセが迎えに来た。目の下に青黒いクマが出来ていた。あまり会話もなく彼の家に着き、彼の買ってきたいつもの松華川のチャーハンを(今回は中華スープ付きで)、いつかと同じダイニングカウンターに並んで遅い昼ゴハンを食べた。片付けた後にいつものコーヒー、いつものマグカップで二人でソファに座って晴れた雪の庭を窓越しに見ていた。ふとやってくるデジャブ感。そう言えば朝もこんな風にコーヒーを飲みながら景色を眺めていた。奇妙な気分になる。
リビングでも清水センセは珍しくあまり話さなかった。疲れているからか、僕に気を遣っているのかはわからない。薪ストーブの音がたまにパチパチ聞こえる。
「あの……いいですか」
「話があるって?」
「ええ。今、話して良いですか? 疲れてたら寝てからでも良いですが」
僕から口火を切るなんて青天の霹靂のような事態だ。
「気になって寝らんないよ。話してほしいな。せっかく君が誰かと一緒に居てもいいって思ってるんだから」
「そうですね。まずはその話です」
「なにが起きたの?……幸村さんとなんかあったの?」
不安そうに訊いてくる清水センセに、僕はすぐにそれを否定した。
「いえ、違います。自分の中で……変化した、というか」
詳しく語るとしたら小さい裕の話をしなければならない。それは今なのか、それとも清水センセが聞きたがっていた長い過去の話をするときまで取っておいたほうが良いのか。まぁ、成り行きだ、と僕は考えるのをやめた。
「僕が死神から悪魔になって、でももう幸村さんにも、清水先生にも自分にもバレちゃったんで、その手はもう使えないって僕の心の奥の何かがわかったんだと思います」
「思います、って、他人事みたいだけど?」
「うーん、自分の奥底の自分、ていうか、それくらい無意識で、普段は僕の意識で捉えられない裏側の声……というか」
「なんでわかったの?」
「今朝、意識上に浮上してきました。前にもあったんですが」
「インナーボイス、みたいなヤツかな」
「よくわかりませんが、内なる声、と訳すのであればそうとも言えます」
「でも、それが今朝、やってきたってこと?」
「ええ、今朝、ひとりでホテルのベッドの中で目が覚めました。自分がやっちゃったことの嫌悪感で最低な気分でした」
「やっちゃったって?」
「幸村さんの押しに負けたことです」
「ああ……ラブホのことね」
「すみません。何もなかったんですが、また思わせぶりなことしてるのを気づかないまま朝になってたんで。人に期待させるようなことをしないように決めたのに」
「幸村さんは思わせぶりだろうがそうじゃなかろうが、関係ないよ、あの人」
「あの、ですね。大丈夫だと思ってたらしっぺ返しを喰らうんです」
「あのさ、そういうの自己責任でしょ? 僕たち大人なんだから」
「それがそうでもなくって」
「精神年齢は置いといて、いい歳してその人の自己責任だよ?」
「人が傷つくのを見たくないんです」
「それはまぁ、わかるけど。でも、幸村さんは傷ついても『名誉の勲章』くらいに思ってると思うよ。タフだもん」
清水センセは小さい裕と同じようなことを言った。
「まあ、実際、そうなんですが」
「それから? 何が起きたの?」
「僕の中の声は、真実が知りたいと言いました。だからもう、自分が死ぬために人をたぶらかすのはやめたんだと」
「あ……あぁ……そう」
掻き消えるような相槌が聞こえた。
「そう……なんだ……そうなったんだ……だから僕と会って話さなきゃいけなかったんだ。もう……僕の存在理由は無いんだって……やっぱり、それを言いに来たんだね……」
「違います」
僕はまた即座に清水センセの想像を否定した。事態はそんな簡単なものではないのだ。だが、清水センセは畳み掛けるように僕を問い詰めた。
「なんで? だって今の話からするとさ、もう裕くんはさ、僕が居なくても発作を起こさないんでしょ? だってあの発作は君を殺させるための餌みたいなもので……でも今は、殺されたい欲望より真実を求める心の声が大きくなったのなら、悪魔もやめられて、他人を犯罪者にもしないし、死神でもないから誰かを死なせなくなって、それで、君は誰かと一緒に居られるようになって、君を殺さなくても良くなって!」
そんな未来が本当に来るのかも知れない。可能性として。
「ああ、それも有りかも知れませんね。先生が僕から解放されるのなら」
「そうか……そうなんだね。僕はこれっぽっちも願っちゃいないけど……やっぱり君は……僕から解放されたいんだよね」
「そう思えたら良いんですが」
「……どういうこと?」
「今、先生無しには僕の生活が考えられないからです」
「……違うよ。多分もう僕は必要ないんだよ。この短い間で、君は成長したんだよ……その成長に僕が関係ないとは言わないけど。いや、成長とかの範疇じゃないな。変容って言ったほうが正確なのかも。でもさ、それが正解なんだよ、人生は自由なんだから」
清水センセはコーヒーをひと口飲んで、そして無理に微笑んでみせた。
「今、『Suicidium cadavere』を見ても、君にはもう、何も起きないんじゃないかな」
「僕はもうそれを確かめる実験はしたくないです」
「それは……いちばんするべきなんじゃない? 僕が裕くんを殺さなくても自殺の屍体で発作はもう起きないって、確かめるべきだ」
「それはないです」
「なんで!」
「そうなってたとしたら、僕はまた静かな屍体に戻れたってだけです。僕がそうなったら、先生の殺意も無くなる。だって僕が性欲に狂ったゾンビだから、ちゃんと殺してくれるんでしょ? 先生は」
「ああ、そうだよ……あの男に発狂させられた君の身体を静寂に戻してあげたい。それだけだ」
「今の僕はどうですか?」
「え?」
「先生ならわかるでしょ? 僕は今、どうなんですか? まだ先生に殺意はありますか? 実験なんかより、それがいちばん正確なんじゃないですか?」
清水センセは僕を呆然とした表情で見つめた。しばらく僕らは何かを確かめ合うように黙って見つめ合っていた。そして清水センセは目を閉じた。答えが出たのがわかった。
「……ちゃんと……殺してあげたい…よ」
「わかってます。僕は先生がそれを約束してくれてるからどうにかこの世で暮らしてられるんだ」
こんな関係、絶対に間違っていると思っていても。それでも僕はこの人のこの意志に支えられて今日がある。僕の顔を言葉もなく見つめている清水センセに、僕は今の気持ちを伝えようとした。
「色仕掛けやお涙頂戴で誰かを騙したりはもう出来ないんです。そしたら、ただただ、ひたすら元の僕に戻りたいって自分だけがいる。なぜ僕の中の意識下の声が真実を求めているかはわからないです。でも、僕は以前、その声に応えて自分の出自を探しに行ったことがあります。そのとき僕は高校1年でしたが、ある人に勧められて両親の戸籍を調べることになって。僕はそれまで自分の今の家族が、普通の家族としてなんの疑いも抱くことなく血肉を分けた両親であると認識していました。でもそうじゃなかった。まず、僕が伯父夫婦の養子であり、それを隠されていたことを知りました。特別養子縁組制度っていうんですけど。そこで僕の現実感が乖離してしまった。生きている人間には興味がないのに、思ったよりショックが大きかったんだと思います。自分の居る現実世界がフィクションに吸収されるような空虚感の中にいつの間にか居ました。そして、自分の中に小さい僕自身が別の人格として現れたんです。それが“小さい裕”と言います。さっきから言っている意識下からの内なる声、というヤツです」
「人格解離……」
「ええ。自意識がショックから僕を守ろうと防衛した、と、その当時僕になにかとアドバイスしてくれてた大学教授が言ってました」
「そんなことが……君に……」
あまりのことだったのか、清水センセは言葉が継げないようだった。
「ええ。僕もしばらく茫然と過ごしてました。そしてその子と頭の中で話をするようになりました。小さい裕は、言いました。僕はどこから来たんだろうって。本当のことが知りたいなって。それで可哀想になって。それから僕はその子のために除籍謄本を取りに、本当の両親が元居たであろう自治体の市役所に電車を乗り継いで行きました。そこで無事に除籍謄本を手に入れて、僕の本当の母は僕を出産する直前に死に、父は母の一周忌の翌日の僕の誕生日に自死したことを知りました」
「……聞きたいなんて言ってごめん」
当時の僕よりもずっと辛そうな顔になった清水センセは、居た堪れない様子でメガネの下から両手で顔を覆った。
「小さい裕はそのあと出てこなくなりました。ほんとに、何年も。緊急事態が去ったんだと僕は勝手にそう解釈してた。でも、最近、またその子の声が聞こえたんです。実験のあとで、幸村さんに家まで送られて、そのあと……えっと……何したか幸村さんから聞いてると思いますが」
「聞いてる。気にしないで話してよ」
顔を手で覆ったまま気丈に清水センセは僕の話を促した。
「抱かれて、突き放されて、空虚感が僕を襲って、そこで久しぶりに小さい裕の声を聞いた。『足に手が、届かなかったんだ』と言ってました。『ぶらーんって下がってる足に手が届かなかった』って。あの子はピンチのときしか出てこないのに」
「ピンチに決まってるじゃない! あの写真集を見て、ヒドい実験して、実験が成功したところで幸村さんと僕の板挟みになって……どうしていいかわかんないまま幸村さんに抱かれて……三人が三人とも誰も正解がわかんない、誰も未来なんて見えない、どうしたら良いか見当もつかないで、全部先送りになってるんだから!」
「そうですね……そうかも知れません。だからあのときも……悪魔だと幸村さんから見破られた瞬間にまた現れたんです。『ばれちゃった!』って」
「今もいるの?」
「小さい裕ですか?」
「うん。今もなにか囁いてるの?」
「いえ、何も」
「いつも居るわけじゃないんだ」
「ええ、清水先生と話してるときは……あんまり出て来ないのかも」
「どういうことなんだろ」
「いや、わかりません」
「……まだ、話すことある?」
依然として両手で顔を覆ったまま、清水センセは僕に悲壮な声で問いかける。
「僕がダメージ食らうのも間違ってると思うんだけど……君の過去がもう、今日は……僕の許容範囲超えた」
「先生のお母さんの話より、全然ダメージ少ないと思いますけど」
「思わないよ……ちっとも思わない」
「まぁ、わかります。他人の話って、自分の話よりダメージありますね」
「君が屍体になったの……死んだお母さんから生まれたからなの?」
「ええ、屍体から生まれました」
「そんなの……そんなの……」
言葉に詰まった清水センセがソファから崩れ落ちた。僕は慌ててテーブルに膝を突いて身を乗り出し、清水センセを抱き留めた。彼は両手で顔を覆ったままテーブルに頭を打ちそうになっていた。彼のメガネだけが床にストンと落ちた。
「ごめんね……知らなくて……何も知らないのに……ごめん……」
泣きじゃくりながら清水センセはなぜか僕に謝り続けた。何も知らないのは僕が話さなかったからだ。清水センセのせいじゃない。
「謝んないで下さい。意味がわかりません。先生のせいじゃないから」
「僕は……僕は……自分の不幸に酔ってた……母への恨みに取り憑かれてて」
「それは当たり前です。あんなこと起こってはいけないことです」
危惧したことが起きている。だから話したくなかったのだ。清水センセが自分の経験を軽んじて、僕の生まれについて悲嘆に暮れる。それは容易に想像出来た。僕は急いでテーブルをまたいで向こう側に降り、その勢いで床に座り込んでいる清水センセの前にしゃがみこんだ。そして踏まないようにメガネをテーブルに避難させた。
「ダメですよ。他人の経験は過酷に見えるんですって。僕は大丈夫ですから。大丈夫じゃないのは先生の方です」
「麻痺してるだけだよ……裕くんは……」
「だから僕は話したくなかったんだ!」
これ以上、自分の経験を僕のものと比べないで欲しい。そういうことはしちゃいけないんだ。僕は清水センセの肩を両手で掴み、揺さぶった。
「僕は危惧してました、こうなること! あのときも言ったでしょう? そしたら先生は言ったか覚えてますよね? 僕の感情を勝手に予想すんのはやめろって。それなのに今先生は僕のことなのに自分のことみたいに悲しんで、そうして自分の人生より僕の人生のほうが過酷だとか言い始めて! そんなことは絶対にない! 僕の感情は勝手に予想しても良いんですか?」
「それでも君は僕のことを心配する!」
清水センセは顔を覆っていた両手で両肩を掴んでいる僕の手を肩から外し、その僕の手を握りしめた。
「ありがとう……でも僕は僕なりに得た遠近感が大事なんだ。自分の経験を軽んじてはないよ。でもね、自分の不幸とトラウマに酔ってたのは事実なんだ。酔わなけりゃ生きていけなかった、それも自分でわかってるから、それは大丈夫だから」
「僕だって、先生からは憐れまれたくない」
「憐れんでない。ただ君が健気で泣けちゃうんだよ。そんなものを背負っていても、君は誰かの心配ばかりしてるんだ。僕は君への想いだけに縋って縋って縋り付いて、仕事も手につかなくなったりして、挙句アメリカに逃げて、父親の病気がなかったら今頃どうなっていたか……」
「僕は……自分のせいでみんなが淋しい思いをするので、他人に興味がないのに心配せざるを得なくなってるだけです。僕には清水センセみたいな愛情も決意も何もない……人格解離の、無感覚のゾンビです」
「違うよ……僕は君から充分に心を砕いてもらってるんだ。そんな君を見ていると、僕を好きか嫌いかなんてどうでもいいって思えるんだ。裕くんはね、僕に僕がして欲しいことをしてくれてるんだよ? それ、わかってるよね? 誰もそんなことしてくれなかった。僕の人生で、そんなこと誰も!」
「知りません。そんなこと、僕はしてるつもりはないです。僕は自分のことしか考えてないんですから」
泣き顔の清水センセが少し苦笑しながら、顔を上げて僕の顔を見た。目のクマと涙で痛々しい。
「優しいな、裕くんは本当に」
それから大きく息をついて、またガクッと頭をうなだれた。
「僕さ、母親とあんな関係でも、まだ一緒に居られただけマシだったんだって思っちゃった」
「望んでない性行為も肯定できるんですか?」
清水センセは少しそれを反芻しているようだった。そしてうなだれたまま、首を横に何度も振った。
「嫌だった。それだけは絶対に、して欲しくなかった」
そう言った言葉のあとに、おもむろに首を起こした。そして遠い目をして、僕の手を離し、膝を抱えて座り鼻をすすった。
「それでもまた、少しだけ、恨みが解けた気がする」
「それで先生が幸せに近づくなら、良いんですが」
「僕は君を幸せにしたいんだよ? なのに僕は君からもらってばかり」
「僕を殺してくれるという約束だけで僕は……充分です」
「ごめんね、それしか僕にはないんだ」
「充分です……充分ですよ。それ以上、何が要るんですか?」
言いながら僕は自分の中に溢れてくる感謝に溺れそうになっていた。強い感情は胸の中で息苦しさを生むほどだった。そんな不意の感情に僕は可笑しくなった。
「あはは……好きも嫌いもわからないのに、僕、感謝はわかるみたいです」
「そうなの?」
「ええ、今、僕は先生に感謝の気持ちで胸がいっぱいです。苦しいくらい」
「裕くん……好きか嫌いかわからなくても僕は構わないんだよ……僕には裕くんの今の気持ちのほうが尊いから」
「そしたら、どうやって僕は先生に報いればいいんでしょうか?」
これは、何かを返さないと苦しくて困る。僕は今まで訊いたことのない質問をした。清水センセは驚いた顔をした。
「なんか、返さないと苦しいんで。こういうのが文字通り“心苦しい”って言うんですね」
「いやいや、こうやって一緒に居てくれるだけで夢のような時間なんだから!」
「いえ、なんかもう少し要求してくれませんか? トントンにならないと苦しくて負担です」
「え……困ったなぁ……どうしよう? そんな贅沢なことある?」
「なんでもいいです。なんか言って下さい」
「えー、あの……わかった。考えとく。でも、もう特大のプレゼントもらったみたいなもんだからね。裕くんの話をしてくれて、僕がまた母への恨みを少しでも手放せて、そんな奇跡が起きたのに、まだ僕になにかしてくれるなんて……僕のほうがズルくない?」
「いえ、全然。なにか問題でも?」
清水センセは首を傾げて少しの間考えていたが、うつむいたまま、恥ずかしそうに、ボソッと呟いた。
「話が終わったら昼寝するから……一緒に寝てくれる?」
「良いですけど。そんなことで良いなら」
そんなことを言い出すとは僕は驚いた。一緒のベッドに寝るなど、清水センセのトラウマは刺激されないのか?
「あ、え、眠れるかな。嬉しすぎて眠れないかも」
「寝られなかったら僕はソファで本でも読んでます。先生の本貸して下さい」
「どれでも読んでくれていいけど」
「じゃ、そういうことで。良かったです」
「なんで?」
「先生が疲労困憊だから、どのみち早く寝たほうが良いって思ってました」
「そっか……ありがと」
「もう、一旦話は終わりです。続きはまた起きたあとでします。早く寝ましょう」
昨日に引き続き、今日も添い寝を要求された。神経の図太い幸村さんはグーグー眠ったが、清水センセは僕と一緒で眠れるのだろうか? 佐伯陸は僕と眠ると睡眠が深くなるとか言っていたが。なぜ僕は誰からも添い寝を要求されるのだろうか。
二人で歯磨きをして、清水センセの寝室に行く。僕が避難させたメガネとほとんど手を付けずに冷たくなったコーヒーはテーブルに残ったまま。
「眠れるかどうかわかんないけど、一旦眠ったら多分朝まで起きないと思うんだ。いつもそうだから」
「睡眠薬飲むんですよね?」
「さすがにここまで疲れ切ってたら眠剤は要らないな。裕くんと一緒で興奮しちゃったら飲むよ」
「なら、最初から飲んでおいたほうが良いのでは?」
「え……だって……裕くんと一緒に寝るのに……もったいない」
寝たいけど寝たくないということなのか。複雑である。
「なのでごめんね、もしお腹減ったらキッチンのシンクの下の引き出しにカップラーメンとかあるから」
「多分要らないです。気にしないで下さい。多分僕も爆睡します」
「まあ、好きにしてよ。なんでも好きに食べて、水もちゃんと飲んでね」
清水センセはそう言いながら僕の枕を押し入れから出してベッドに放った。このベッドでは一度寝ている。寝心地が良かった気がする。良いマットを使ってるのだろう。僕が奥に寝るよと言って、清水センセは部屋の明かりを消した。替わりに足元の常夜灯がフッと点灯する。先に彼が壁側に行って布団に入った。僕は戸惑いつつも手前の布団に入った。
初めて清水センセと一緒にベッドに入る。あまり初めてという気がしないのは、この家で一泊しているからだろうか。一緒に布団に入っているが、幸村さんのような圧迫感の有る存在感は無く、よく見ると清水センセは、壁に張り付いたようになっている。布団に入るといつも犬のようにじゃれついてくる幸村さんや佐伯陸とは大違いだ。薄暗い中で壁際から清水センセが僕に尋ねる。
「ゆ、裕くんは、寝相良い?」
「屍体に寝相はありませんが」
「寝返り打たないの?」
「はい。多分お棺の中でも問題なく寝れます」
「はは……さすがだね」
「あの、先生、壁と同化してますよ。もう少しスペースありますからこっちに」
それを聞いた清水センセは黙り込んでいたが、ものすごく早口でささやき声がした。
「そんなこと出来るわけ無いでしょ」
「寒くないですか?」
「顔が熱い」
「足が冷えません?」
「そんなのわかんない」
「寝られるんですか?」
「知らない」
「ソファ行きましょうか?」
「行かないで!」
高速で囁いてはいるが、もはや悲鳴である。
「はあ」
「慣れるまで待って。慣れるから行かないで」
「良いですけど、眠れます?」
「もはや疲れてるかどうかさえどうでも良くなった」
「寝る意味」
「違う、裕くんと寝る意味、だ」
「ちゃんと寝ましょう」
「不安で不安で」
「何がですか?」
「裕くんに気持ち悪く思われないかって」
「思いませんよ。この期に及んで」
「前は思ってたってことだよね」
「そりゃ、初めて会った時の先生はメチャクチャでしたから。気持ち悪いと言うより、気味が悪い、の方がニュアンス的に近いですけど」
「ごめん」
「そんな先生にこんなにお世話になるなんて思いませんでしたけどね」
「気持ち悪くない?」
「ないです」
「ほんとに?」
「逆じゃないですか? 先生は僕の肉体とか性欲とか、気持ち悪いんじゃないですか?」
「そんなわけないでしょ!」
再び清水センセは叫んだ。そして壁際から僕の方に寝返りを打って僕の顔を見た。もう、ささやき声でも早口でもなくなった。
「なんでそんなこと言うの!」
「初めて会ったときには僕に抱きついたけど、きっと実験で勃起したりしてるのを見て嫌になったんじゃないかなって」
まぁ、そんなことを僕は思ってはいないが、そんなことでも言えば壁との一体化をやめるかと思って言ってみたのだった。
「なるわけないじゃない! 僕がどれだけ君のこと好きだと思ってるの?」
「でも、僕は前に付き合ってた年上の男性から聞いたことがあります。『好きにも二通りある。好きなだけなら友達、勃ったら恋』って」
「僕はそんなことはない。勃たなくても恋だ。ガチ恋なんだって」
「あの、先生は僕の動画で勃ったりしませんでしたか?」
「ないよ! あのさ、僕の神聖な想いを勃つとか勃たないとかいう低俗な判断基準で決めつけないでくれる?」
ヒートアップしてきた清水センセはだんだんと壁から離脱して来た。作戦成功である。
「先生は僕と一緒に寝て、勃起する可能性は有るんですか?」
「ないよ! 僕のこと信じてないの?」
「別に勃起してもフツーですよ。なにも悪いことないじゃないですか。ああ、佐伯陸は僕と添い寝しても勃起しないから友達って言ってました。実験的に抱きついたりしてましたが」
「そっそっそんなことしてたの!?」
「実験に付き合ったっていうか。でも、どこをどうやっても恋愛感情は起きなくて、タイプじゃないし好きになんないなぁって佐伯くんはいつも言ってます。良かったです」
「そんな話、なんでずっと黙ってたの!」
「そりゃ、そんな話気分悪いでしょうから」
「佐伯くんに会いに行ったときに妙に自信たっぷりだったのはそういうことだったのか。悔しい」
「でも、無理やりのわがままを仕方なく聞いてやったんです。こんな風に僕からなにかして欲しいことを聞いたことなんてほとんどありませんから」
「そうなの?」
「だから、気にしないでフツーに寝て下さい。さっきより緊張感解けませんか?」
「……ああ、うん。まぁ、さっきよりは、良いかな」
「寝ましょう」
「ああ、そうだね」
清水センセは呆れたようにそう言うと、僕の隣で仰向けになった。壁との一体化は解消され、怒ってグッタリした様子で目を閉じた。
「なんか、どうでもよくなった」
「それは良かったです」
「もしかして狙ってた?」
「まあ、それなりに」
「案外策士なんだな、裕くんは」
「心配なんですよ。疲れてるのに寝ないって言うんだから」
「寝れそう…はぁーあ、あくび出てきた」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
まだ、昼下がりの3時頃だ。外はまだキラキラと日差しが明るい。このまま僕も15時間くらい死んだように眠れると思うとウットリとした。気がつくと、いつの間にか隣からスースー寝息が聞こえてくる。まだ濃いクマがある少し痩せてしまった横顔が常夜灯にうっすら浮かぶ。ちゃんと眠れたみたいだ……マジで疲労困憊だったんだな。しかし添い寝というものの需要がこれほどとは思わなかったが、今も昔も人の世話をしている方が楽だ。それに僕は人を眠らせる力があるようだ。元屍体ならではの永眠力とでも言おうか。
さて、明日は寺岡さんの話をするべきなのか。今になってやっぱり幸村さんからではなく、自分から話したほうが良いような気がしてきた。過去の話も、佳彦のあと小島さんに会って、寺岡さんに会った件を話さないと。今なら自分から話せるような気もする。そう言えば、幸村さんは今日も家の外で見張ってるのかな……小さい裕はやっぱり出てこないな……ガチ恋でも勃たないってどういう……
いつしか僕も眠っていた。長い夢を見たような気がする。
あの夢を見ていた。
夢の中で僕は首に指が巻きついているのを懐かしく感じていた。
一度も外れたことのないこの指は、一体誰の指なんだろう?
夢の中のそこは真っ暗で何も見えない。でも、だれか居る。
それは潜在意識のイメージなのか、本当にあった出来事なのか
それとも、なにかの媒体で見た画像の記憶なのかはわからなかった。
夢の中なのに、首を絞められるとふぅっと意識が遠くなり、愉悦が満ちてくる。
それは首を絞められて射精する現象の、まるで原型のようでもあった。
僕は思う。もっと、もっと、と。
真っ暗な場所で、わからない誰かに、僕は願っている。
この指を離さないで、と。
〈あとがき&近況〉
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
すみません。近況報告で「七草粥までには更新します」的なことを言ってしまったのですが、年末年始の絶不調で辿り着きませんでした。更新が宣言を過ぎてしまいました。今後は無理な予告はやめます。ちなみに七草粥はちゃんと作って食べました。
具合が悪い以外は特に変わったことのない年末年始でした。一年中いつも具合は悪いんですが、年末年始に具合が悪いことはあまりないのです。三度の飯より餅が好きな私でも、今年は雑煮も角餅1個でお腹が一杯になり、秋に太った分がだんだん痩せてきてるのでいいっちゃ良いんですけどね。
6日に友人がコカレロを持って年始の挨拶に来ました。コカの葉っぱが入ってるらしい。多少具合が良くなっていたので、そしたら、チェリオのCBDXとコカコーラのチルアウトで割って飲んだらいい感じでキマるんじゃないかとやってみました。といってもコカレロはショットグラスに5mm程度です。高麗人参も入ってるので、ある意味養命酒だよな。結果は肩こりがすごく楽になりました。個人的な感想です。
では、今回もご閲覧ありがとうございます。