※この作品はR-18です。

僕を止めて下さい   作:架空線

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כ‎.やさしさ

 目覚めると、暗がりに覆われていた。

 

 ここはどこだ? と、いつものようにまずその疑問が湧き、隣から聞こえる細い寝息にぼんやりと答えを思い出した。よく寝ている。細い寝息を聞いているうちに、そのことに安堵している自分にしばらくして気がつく。一日くらいでは回復しないとは思うけど、寝る前のあのヒリヒリするような清水センセの過敏さは少しは和らいでると良いと思う。薬を飲まなくても眠っているのは好ましいし、もし服薬しなかったことでパニクり始めても隣に居ればすぐに気づけるし、僕が目を配ればオーバードーズの心配もないのは本当に気が楽だった。

 常夜灯でほんのり鈍い暗闇に、清水センセの横顔が白く浮かんでいる。メガネがない寝顔は少し幼く見えた。かすかに口元が開いているせいで余計無防備な表情になって、今までに見たことがない顔になっている。安らかに見えることが一層僕を安心させた。意識を消すことの安らかさを思う。それはとりもなおさず生きていることからの一時的避難所である。死の下位互換である眠りというギフト。小さな死。

 

 今は何時なのか密閉されたこの部屋に居るとわからない。携帯をカバンの中に入れて居間に置いてきたので、取りに行こうと枕元のメガネを探り当てると、そっと布団から抜け出た。

 音がしないようにドアを用心深くちょっとだけ開けて隙間からすり抜けると、居間は暗かった。カーテンを閉め忘れた大きな窓の向こうは雪あかりでほのかに植え込みの輪郭くらいは見えたものの、部屋の中まではそれは届かない。日付は変わったのだろうか? それともまだ夜の8時頃なのだろうか? 再びそっと扉を閉め、少しづつ慣れてきた目にメガネをかけてみる。少しだけ解像度が上がる。居間の掛け時計はやはり暗くて見えないので、ソファのカバンを見つけその中を探って携帯を手に取る。二つ折りの携帯を開くと、そこには「0:13」とあった。9時間もノンストップで眠れたようだ。それでもまだ眠れるような気がする。その足でトイレに行った。

 

 9時間分の長い放尿を終え、キッチンで水を補給し、少しだけ居間のソファに独りで腰掛けてみた。暗いリビングで他人の家のソファにもたれていると、自分が再び自宅を離れてまたしても他人と添い寝していることの違和感に、もともと薄い現実感がついに崩壊しそうになる。内側も外側も過剰な変化の連続で大混乱だというのに。それにしても、二日連チャンで違う人と添い寝してるってどういうことだ……。昨日の今日であっちにもこっちにも良い顔をして。では、イヤなら断ればいいだけの話だ。昨日はそれを断れなかったし、今日は自分からここに来た。それはどちらも良い顔をしたいからだけでもない。顔を覗かせる後ろめたさを自分の中でどうにかねじ伏せた。

 唐突に風が窓ガラスに当たりドッと鈍い音を立てる。不意に、今も幸村さんはこの家を見張っているのかどうかという件を思い出した。カーテンを閉めてないのだから、あの窓のむこうのどこかににあの人が隠れて立っているという可能性も大いにある。どうせ清水センセは僕が来ることも幸村さんに連絡済みなんだろうし。

 ソファから立ち上がり、窓に両手をついて庭を見回した。そこにいるのなら雪明かりで僕が見えてるはずだ。僕は幸村さんがそこらへんに居るという体で、窓のこちら側から小さく手を振ってみた。居なかったらただのバカだろう。相変わらず庭はシーンとしたままで、雪の落ちる音さえしない。人の気配は無い。当然のごとく誰も居ないのかも知れない。見張っているのかいないのか。幸村さんは心配じゃないのか? 今だったら落ち着いて殺してもらえる。そんな時間を幸村さんは許容しているのか? それはどんな心境の変化なんだろう。それとも、さすがに盆と正月くらいは休ませろ、ということなのか。今頃親戚のおじさんたちと飲んだくれているのかも知れない。僕が清水センセに殺してもらえる最大のチャンスが来ている。

 

 でも、あんな疲れ切って眠りこけている人にそんなことさせられない。いや、疲れていなかったとしても。

 

 再び、彼のその奇跡の殺意を思い出すと、再び僕は感謝の奔流に飲み込まれていた。この感情の前では後ろめたさなどねじ伏せるまでもなかった。あなたの為ならなんでも出来るとすら思えている自分に驚き呆れる。自分じゃないみたいだ。少なくとも今日の昼までの自分ではない。良い顔をしたいなどという次元の話でもない。期待させることになるなんてわかって来ているのだ。ならば全ての期待に応え続けたら良い。いや待て。僕は何を考えているんだ?

 寝室に戻ろうと僕はカーテンを閉め窓から離れた。清水センセの期待は屍体の僕と暮らすことだ。それは屍体であるその一点に於いて、まさに僕の渇望する夢でもある。寝室のドアを開けると、そこにはベッドの中で上半身を起こした清水センセがいた。そして戻って来た僕に驚いたように振り向いた。

 

「起きてたんですか」

「君が……居なくて」

「すみません。トイレに行ってました。起こしちゃいましたかね?」

「いや、勝手に目が覚めた……戻ってくると思わなかったよ」

「え? なんで?」

「君に……き…た…と……もって」

 

 囁くような声を捉えようと、僕は再びベッドのもとの位置に戻った。隣で並んだ彼は恥ずかしそうに壁に顔を背けた。

 

「なんて言いました?」

「嫌われ……たって…思って」

「そんなことないです」

「添い寝……なんて……気持ち悪いこと、頼んだ」

「別に」

「なんで帰ってきたの?」

「まだお返ししきれてないですから。さ、まだ寝れるでしょ?」

 

 清水センセの不毛な不安を断ち切ろうと、僕は先に横になり布団に肩までくるまった。でも清水センセは上体を起こしたまま、僕を見下ろして困ったように訊いてきた。

 

「……君はなんでこんなことしようと思ったの?」

「欲しかったものをくれたからですが。えっと、誰もくれなかったものをくれたので」

「それは僕がさっき言ったんだけど?」

「誰が先に言おうが関係ないです」

「あぁ、そう」

「僕のこと祟り神かなんかだと思ってます?」

「天使」

「同じようなもんです」

「君は僕を救いに来てくれたんだ。でも、いざ目の前にしたらさ……バカだよね。天使が降臨したら大体の人は腰抜かすんだ。あんなに現れて欲しいって願ってたのに。願いがほんとに叶うことの怖さをみんな知らないんじゃないかな」

「ただの屍体です」

「僕も知らなかった……添い寝してくれなんて、なんで言っちゃったんだろ」

「なんでも良いですって言いましたけど?」

「言われたけど」

 

 後悔に苛まれるかのごとくそう呟くと、清水センセはやおらベッドから降りた。

 

「どこにいくんですか?」

「僕もトイレ」

「はぁ」

「頭冷やしてくる」

「帰ってきてくださいよ。まだ僕はお返しできてないですから」

 

 そう僕が言うと、清水センセは面食らったような顔で寝ている僕を見下ろした。

 

「そんなこと言っていいの?」

「はい。まだ眠れますし。先生もでしょ? 朝まで一緒に」

「ああ…うん……マジか」

 

 彼は曖昧な返事を残し、フラフラしながらドアを出ていった。好きなら好きなだけ間を詰めてくる幸村さんや佐伯陸との物凄い違いを今更ながらに感じると同時に、彼の深い心の傷を思った。感情の起伏の激しいお母さんからどうしたら嫌われないように取り繕えるか? セックス抜きで。母親から犯されることで怒号とヒステリーから逃れた彼は、嫌悪極まりないセックスなしで祟り神を鎮静出来るのか怖くて怖くてどうしようもないのだ。前門の虎、後門の狼。早く僕を本当の屍体にしたいだろうに。そうすればすべて解決する……

 切ない推論を構築しているうちに、清水センセはちゃんと戻ってきた。ベッドサイドでもじもじしている彼に僕は何気ない風を装い、彼の枕を指先でポンポン叩いた。

 

「はやく……冷えるから…フトン入って下さい」

「うん」

 

 小さいころ母に言われたようにそう言うと、頭が冷えたせいか清水センセは案外すんなりとベッドに戻った。隣で壁と同化もせず、仰向けで布団を顎まで引いた彼を見て、ようやく落ち着いたことを確認するとホッとした。安心したら急激に意識が朦朧としてきた。

 

「せんせ……引き続き…寝ましょぉ」

「うん……ありがと」

 

 それ以上は意識を保っていることが出来なかった。死に限りなく似たこの眠りというものを僕は愛する。薄れていく意識の中で隣に横たわった彼の視線を微かに感じていた気がする。彼に眺められながらその隣で眠ることは、彼に殺されることに少し近い、かも知れない。

 

 翌朝はさすがに二人とも起床は早かった。前と同じで清水センセは朝から風呂に入り、僕も顔を洗って歯磨きをしてもまだ7時前だった。着替えていると洗面所からドライヤーの音が響いてきて、リビングに集合したのは7時を少し回ったところだった。キッチン前のカウンターで二人で水を飲んでいると、無表情の清水センセがボソボソと僕に尋ねた。

 

「朝ゴハンは?」

「どちらでも」

「あそう。僕はまだ食欲ないな」

「僕も空腹ではないですが、大丈夫ですか?」

「疲れすぎてるといつも食欲無くなるんだ。小さいときからそうだから。気にしないで」

「まぁ、慣れてるのなら良いですが」

 

 目も合わせずに清水センセは話を続けた。添い寝の件をまだ引きずっているのだろうか。 

 

「じゃ、また朝抜きでいい?」

「構いませんよ」

「コーヒーくらい飲む?」

「あぁ、飲みます」

 

 彼はキッチンに移動しケトルを火に掛け、僕に見てるように言った。そして、薪ストーブを起こしてくるとリビングに向かった。少しするとケトルの湯が沸き、僕は火を止めた。水切りカゴの中にいつの間にか昨日のマグカップが乾いていた。清水センセが洗ったんだろう。乾いてるところを見ると深夜にトイレに行ったときにでも洗ったに違いない。

 そのマグカップを2個並べ、コンロの横にあったインスタントコーヒーの瓶から粉を適当に入れ湯を差し、僕のコーヒーだけ水で埋めた。味は保証しないが、濃すぎることはないだろう。気に入らなければ足してもらえばいい。自分が人の家でそんなことをするとは思っていなかったが、そんなことで清水センセの気が紛れると良い。昨日の幸村さんみたいにウェイターみたいな真似は出来ないが。マグカップを両手に持ってキッチンを出ると、火を熾し終わって火かき棒をホルダーに掛けている清水センセの背中に呼び掛けた。

 

「勝手にコーヒー淹れました」

「え? 淹れてくれたの?」

 

 彼はびっくりしたように振り向いた。びっくりしたせいでようやく僕と目が合った。

 

「薄かったら粉足して下さい」

「わかった……ありがとう」

 

 清水センセはソファのいつもの居場所に座った。その前にマグカップを置く。そのカップを清水センセは両手で大事そうに包み込んだ。

 

「裕くんが淹れてくれたコーヒーが飲めるなんて」

「職場でもたまにやってますから」

「僕は初めてだよ」

「勝手にすみません」

「ううん……嬉しい」

「ああ、まだ熱いです」

「そう? 僕はそれほど猫舌じゃないから」

 

 彼はフーフーしながらズズッとコーヒーをすすった。硬かった表情が少し解けて口角が微かに上がった。

 

「これくらいで良いよ。美味しい美味しい」

「そうですか。それなら良かったです」

「ほんとにコーヒーだけで良いの? 2食飛ばしてるけど」

 

 今度は自分から目を合わせて僕にもう一度念を押した。

 

「ええ。食事は義務ですから。味もよくわかんないですし」

「ああ、そうだった。そうなるよね。そういえば最近じゃ敢えて飢餓になるのが長寿の秘訣とかでさ、オートファジーとか言ったっけ」

「あぁ、ありましたね。個人的に長寿はどうかと思いますが」

「裕くん、長生きしちゃうかも」

「生きてるストレスで相殺です」

「まぁ……確かに」

「いや、相殺かどうかは死ぬまでわかりませんね」

 

 そうだね、と言いながら清水センセはハハッと笑った。口数も増え、機嫌が良くなったようなのでちょっと安心した。勝手にコーヒーを淹れて良かったと思った。緊張の解けた清水センセは、ようやく普段通りに近い雰囲気で話し始めた。

 

「変なお願い聞いてくれてありがとうね。昨日も今日も薬なしで本当によく眠れたよ」

「それは良かったです」

「途中で駄々こねてごめんね。裕くんはあれからもちゃんと寝れた?」

「寝たいだけ寝ました。朝は自然に目が覚めましたから。回復したんじゃないでしょうか?」

「僕もだよ。寝過ぎで腰が痛くなって起きた。まだちょっとダルいけどね。今日も一日ダラダラ何もしないで、早寝すると思う」

「そうですか」

 

 そこで少し会話が途切れた。二人で黙ってコーヒーをズズッとすすると、清水センセがカップの中を見つめながら僕に言った。

 

「聞かせて欲しいんだけど。昨日の続き」

「良いんですか?」

「良い。聞きたい。聞かせて」

「では話しますけど……あの、最初からあの男の話になってしまいますが、良いですか? 朝っぱらからするような話ではないので、聞きたくなかったら午後からでも……」

「大丈夫。大丈夫だから、朝とか昼とかいいから、早く君の口から聞きたいんだ。あの最低な男の妄言を早く君の声で上書きして欲しいんだ! それが望みだよ……ずっと、ずっとね」

 

 それを彼が望むのなら。あの懐かしくも愚かしい思い出の始まりはもちろん、あの土砂降りの夕暮れだ。幸村さんにどう話したかは忘れた。だが再び話すとわかる。本当に短い時間だったんだと。佳彦と僕が共有した時間は。

 

「……これが僕の覚えてる彼との記憶です」

 

 佳彦の身バレを回避するために、幸村さんにした話ではなく、フェイクを織り交ぜ些細な情報は省いた。結局僕は佳彦をまだ守ろうとしていた。佳彦を、というより、僕は清水センセをタガの外れた衝動的な清水センセから守らねばならないのだ。僕の恩人の清水センセはそれだけの行動力のある人なのだ。

 司書という情報は出さずに彼を説明する。“知らない人”と言ったその嘘をつき通さなければならない。だが、あの初対面の清水センセの告白で、佳彦自身が『出会ったのは勤務先』とか話したというようなことを言っていた記憶があった。そこをすり合わせる。それは僕の過去を話すと約束してからずっと考えていた。

 結論として僕は市民センターで出会った見知らぬ年上の男性として彼を改変した。もしも清水センセからツッコまれても、僕の自治体の市民センターは役所の出張所や図書室や運動施設などが複合してると説明すれば、そこのロビーで出会っても司書とは特定されにくいのではないかと考えた。それはそんなに不自然なフェイクでもなかったと思いたい。既に幸村さんに話した時点で、佳彦が未成年への淫行で捕まる可能性は生まれている。だがその佳彦を守る必要はない。僕以外にも散々鬼畜な所業をやってしまっている。それは自業自得だ。だが、彼が私怨で危害を加えられることと、清水センセが加害者になることはどうしても避けたかった。

 

 僕の話を聞き終わった清水センセは、しばし放心状態だった。遠い目をしながら、冷めたコーヒーをひと口飲んだ。そしてやっとこちらの世界に戻ってきたようだった。

 

「やだ」

 

 清水センセはひと言そう言って黙った。僕もそのひと言の感想にどう答えていいかわからなかった。ひとまず、フェイクが有効なことに安堵を覚えた。

 

「なにもかもが嫌だ」

 

 静かに怒りを込めて、出来事の全てに激しい嫌悪感を表している清水センセに、僕は答えた。

 

「僕の視点と彼の視点は違うから、仕方ないです。彼は独善的で利己的で、しかも正しかった。僕を殺してはいけないんですから」

「一番イヤなのはさぁ、この最悪の出来事がなかったら君に会えなかったってことなんだよ。わかる? この胸糞の悪さ」

 

 それは僕も同じだ。この出来事がなければあらゆる意味で今日の僕はいない。

 

「ええ。重々承知してますが」

「君に会えてしまった現在、その想いはもっとつのってる。何ひとつ欠けても僕はここで君とコーヒーなんか飲んでるはずもないんだ」

「そうですね」

 

 僕は苦笑した。口角を挙げたことがないので笑っていると見えないと思うが。

 

「奇跡なんです」

「だからといって、あの男の非道を肯定することは出来ないけどね」

「とは言え、先生がちょっとでもお母さんを許したように、僕もほんの少しあの男を許してます」

「……それを言われると……同意せざるを得なくなるじゃない」

 

 彼の怒りが少しづつ収まってきたので、僕は彼がもっと怒るであろう、小島さんとの関係を話すことにした。

 

「わかって下さって良かったです。それで、続きですが」

「ああ、そうか。話の腰を折ったね、ごめん」

「ああ、いいです。それで僕は、あの男に悪魔って言われました」

「そうだね。バカみたい」

「でもまだ死神って名前はもらってなかったんです。これからする話は、その後、僕が死神に格上げされるエピソードです」

「それはあの卑怯者には関係しないの?」

「間接的に関係します。あの、覚えてますか? 僕を試したハプニングバーにあの人が元自衛官の大きな男の人を呼んだってはなし」

「ああ……あいつより多少マシなドS」

「ええ。あの男と別れたあと、ぼくはその人に助けを求めたんです」

「なんで!?」

「発狂しそうだったから……殺してくれないのに、僕は性的に開かれたまま放り出されたので」

「やっぱりね」

「それをわかってた清水センセはすごいです」

「助けてあげたかった。僕がそこに居たら……すぐに殺してあげられたのに!」

「その時の僕ならなにも考えずに殺してもらってました。だから会わなくて良かったんですよ」

「そうかな……」

「そうですよ」

「わかんないな」

「まあ良いです」

 

 そして僕は続きを再開した。佳彦と別れたあと、耐えきれずに小島さんに電話したこと。僕は小島さんのことをKさん、と呼んだ。電話して、名前を間違えてキレられて、自殺を勧められ手首を掻き切ったのがもう遠い日のことだというのが意外な気がした。

 そのあと、博物館の自殺の屍体で発作を起こし、小島さんに介抱されて、自分の身体がおかしくなったのを知ったこと、小島さんが相手の男子が中学3年生を越えると恋愛感情が失せることなどを知って、なんだかんだあって付き合おうってことになったと話した。

 

「あの男の次が居たの!?」

「ええ、その人のほうが長く付き合いました」

「知らなかった……」

「知ってたら驚きます」

「あの男、そんなこと言ってなかった」

「知らなかったんじゃないですか?」

「いや、プライドじゃない? 僕と別れたせいで君が壊れたって自慢してたぐらいだから。自分が連れてきた実験道具と付き合ってるなんて認めたくなかったろうね。いい気味だ」

「ああ、それはあるかも知れません」

「……もっと大事な人が居たんだ……幸村さんより前に……」

「大事ですが、好きとか嫌いとかは結局無かったんです。それは後から話しますが」

 

 ショックで泣きそうな清水センセをなだめながら、話は小島さんがある日、お前の家はなんかおかしいと言い始めたところに差し掛かる。虐待とか、ネグレクトを疑われ、そのうち、本当の親なのか?という疑問が初めて生まれた。清水センセは居た堪れない顔でじっと聞いていた。彼は何度もマグカップに口をつけ、とうとうコーヒーが無くなり、そのうち一旦話を切ってキッチンに息抜きがてらコーヒーのおかわりを作りに行った。そして、自力で気分をリセットして帰ってきた。

 

 そして、僕が小島さんのリミットの中3になり、そこで寺岡さんの登場となる。また僕を誰かに渡す儀式が行われた。そしてその儀式は失敗に終わる。寺岡さんに小島さんはこっぴどく叱られ、小島さんは胸の奥にわだかまった何かを気づき、吐き出し、僕は小島さんになついていたことに気がつく。

 だが、小島さんは鬱病だった。寺岡さんの登場で緩和した彼の緊張は僕の高校受験、合格を経て再び再燃していき、そして、卒業式を控えたある春の日にそれは爆発した。

 

「心中でした」

「なにそれ……」

「僕に愛されるには屍体になるしかないって、彼は思いつめたんだそうです。これが僕が死神となった出来事です。強烈なトラウマになりました。その時の彼の吐いてる音、トイレで流れる水の音が耳に残って、今でもフラッシュバックします」

 

 清水センセは口に手を当てたまま僕を見つめて絶句していた。

 

「あの男が僕を遠ざけたのは正解だって僕は気づきました。でもKさんは優しかった。助けを求めた僕を面倒見てくれました。だから、気が狂おうが眠れなくなろうがそんな優しいKさんに電話しちゃダメだったんです。巻き込んだんですよ、僕から、ね」

 

 そして、絶句している清水センセに、幸村さんに指摘されて思い出したことも告げた。

 

「でもね、幸村さんは言うんです。本当に死のうと思っている奴は、そんなヤワなカーテンレールで首なんか吊らないんだって。元自衛官はそんな簡単な備品の強度なんか見誤るわけがない。本気じゃなかったんだって」

「そう、なの?」

 

 囁くように清水センセはようやく言葉を発した。

 

「それを聞いて僕は自分が同じことを思ったことを思い出しました。Kさんと風呂場の惨状を見て、です。でも、僕はいつの間にかそれを忘れた。封印したんです。僕が自分が死神であることを証明するために。関わったら皆死んでいくという現象の補強です」

「そう……あれは、そういうことだったの」

 

 ちょっと前の記憶を辿るように清水センセは目線を落とした。

 

「僕は認めざるを得ませんでした。そしてそれから畳み掛けるように僕があの男に言われたように、悪魔だって正体をバラされました。完敗です、幸村さんに」

「……結局あの人の職業的洞察力が、君を救ったのか」

「いいえ、先生に発作を止めてもらえたから、ですよ。幸村さんが敵愾心を燃やしてその気になったし、もうこれで僕との最後だっていう状況がなければ、あんな回答は得られなかったと思ってます」

「慰めてくれなくていいよ」

「事実ですから」

 

 清水センセは、ハァァとため息をついて、首をフルフルと横に振った。

 

「ダメだ……ヤキモチばっかりで」

「すみません」

「いや、裕くんが悪いんじゃない」

 

 そして自分の額に手を当てて目を閉じると、再び大きなため息をついた。

 

「あぁ……非道いな……ヒド過ぎて、頭の中がグチャグチャだ。早く幸村さんの情報量に追いつかなくちゃって、思ってるのに……酷い話が多すぎて気持ちが着いていかない。だって、その心中未遂のあとにあの戸籍のことがあったんでしょ? なんかどうしていいかわかんない。あのさ、幸村さんはこれ聞いててどんなだったの?」

「寝そうになる僕を起こす以外は、ほとんど相槌だけだった気がしますが。はっきりとは覚えてません。でも、あまり感情的ではなかったです。淡々と聞かれてた、かな。取り調べ?」

「ああ……幸村さんにはそのモードがあるんだもんね。羨ましいよ」

「あの、休憩入れます?」

「……そうしようかな」

 

 そう言うと、清水センセはソファにゴロンと横になった。腕を額に乗せて、深呼吸をした。

 

「幸村さんがね、再三、あれはヒデェ話の連続だぜって、言ってた意味がわかったよ。ほら、あのときも『聞いてるほうがトラウマになりそうな話ばっかり』って言ってたの、これだったんだね。これで僕も幸村さんとそこ、やっと共感できる……はは」

 

 そう言うと清水センセは苦笑した。

 

「幸村さんも寝落ちしながら聞いてましたから、先生もそのまま横になって聞いてて下さい。ちょっとは楽なんじゃないかと」

「ああ、良い? 行儀悪くてゴメンだけど、正直その方がありがたいな」

「死人に行儀よくしても意味ないですよ」

「あぁ、それもそうかな」

「ええと……続けます。それで、Kさんは例の大学教授の寺岡さんに電話をしました。この状況を打開してもらうためです……」

 

 そこから、入院と頸動脈洞症候群や、その後の自殺写真の実験と寺岡さんが小島さんのことが好きだった話をした。そして、最初に語った戸籍の話と、それが寺岡さんにバレて行くことも。

 

「それから僕は勉強を言い訳にして彼らには会わないように過ごして、大学に合格して彼らや母から逃げるように東北に来ました。教授とKさんはその後付き合うようになって、ようやく相思相愛になりました。僕は最初は卒業した○○大の法医学教室にいたんです。でも、あの県は自殺が多すぎて、僕は逃げて仕事になんなかったので、半ば追い出されるように自殺者の少ないここに来たんです」

「そうだったのか」

「これで、概ね、終わりです」

「そう、終わったんだ」

 

 そう言うと清水センセはしばらく黙って横になったまま目を閉じていた。僕はその間、良い感じに冷えたコーヒーを飲んで、清水センセの回復を待った。

 

「ありがとう。話したくないことまで色々話させちゃったね。ごめんね……あの……えっと……」

 

 再び口を開いた清水センセは、えっと…と口ごもったまま黙ってしまった。

 

「なにかありますか?」

 

 僕が助け船を出すと、清水センセは、あの、あのね、えっと、とゴニョゴニョ言い淀んだあと、意を決したように大きく息を吸った。

 

「あの、ゆ、幸村さんと、ああなっちゃったのはさ……なんで? なにがあったの?」

「え? 幸村さんから聞いてないんですか?」

「聞いたんだけど、少しは話してくれたんだけど、なんかはっきり言わないから、幸村さんが」

 

 そりゃそうだろう。あれを言ったら人格を疑われる。

 

「岡本にはすまないって思ってるって。なんか言えないようなことしたのかな? あの人」

「しましたね」

「え……マジで?」

「僕が昨日まで恨みに思い続けるくらいのことは」

「あぁ……どうしよう。幸村さんを嫌いになりたくない」

「じゃあ、聞かないほうが良いです」

「そんなに!?」

「ええ。まぁ、あんなことした理由もあとから理解したらわからなくもないんですが……でもね」

「……聞くよ。聞いてどう思うか知る必要があるんだ。僕が幸村さんをどこまで許せるのか」

 

 幸村さんへの恨みを解消できていて良かったと、昨日の今日でまさにそのかいつまんだ話をしながら僕は安堵していた。多少はマイルドに話そうという気になっていたからだった。それに、清水センセにも「岡本にすまないことした」と言っているのも加点対象である。

 話の途中からむくっと清水センセは起き上がった。うつむいたままで、視線も動かなかった。怒っているのかと推測した。幸村さんに腹を立てているのかも知れない。僕が手錠でドアノブに繋がれ、眼の前に屍体の写真の束が置かれたというところでうつむいた顔がさらに項垂れた。さすがに心配になった。

 

「……あの、先生、続けても大丈夫ですか?」

 

 返事がない。ソファの隣に移動して顔を覗き込むと、僕から顔を背け、苦い顔をした。

 

「やっぱり、人に話せるようなことじゃなかったですね……やめます。もう僕は、許してるし」

「……そんなことされて、許したの?」

「まぁ、昨日、ですが」

「え」

「昨日まで根に持ってました」

「そうなるよね普通」

「でも、昨日とうとう自らの非を認めたので。謝罪を引き出しました。勝訴です」

「で、許したのか」

 

 そして、また項垂れたままでため息をついた。

 

「勝てない」

「え? 誰にですか」

 

 意外すぎる感想に意表を突かれる。

 

「君たちの関係に」

「どういうことで?」

「こんなメチャクチャなことある?」

「フツーは無いでしょうね」

「だからだよ。リンチだよ?」

「まぁ……でも、それを言うなら、あの動画を見せられてセカンドレイプみたいになってからの先生との関係値というのも互角ですよね。いや、勝ってるかも」

 

 批判をするつもりもなく、思わず事実を事実で受け答えてしまった。それを聞くなり清水センセが文字通り頭を抱えた。

 

「ああ……あぁ……そうか、そうなるね」

「言えませんけど。幸村さんには絶対に」

「わかった。もう聞かない。その話、やめよう」

 

 そして仰向けにまた倒れた。

 

「僕も、幸村さんも、何やってんだよ……」

「死人に耳なしですよ」

「それを言うなら、口でしょ」

「見ざる、言わざる、聞かざる、です。あ、死人じゃないか。死猿ですね、すみません」

「屍体に鞭打つとも言うよ」

「それは生きてる人のルサンチマンです。屍体には勝てないので」

「ルサンチマンをそんな風に使う人、初めて」

「間違ってはいません。生きてる人は淋しくて弱いんです」

 

 ちなみにルサンチマンとは、弱者が敵わない強者に対して内面に抱く、恨み・憎悪・嫉妬といったわだかまった感情のことだ。この際は弱者が生きている人、強者を屍体、という意味で僕は使った。

 

「言えてる」

「先生はそれ、知ってるでしょ?」

「うん」

「僕はきっとすごく強いんですよ。リンチもレイプも生きていればこそのダメージ、です」

「なら、僕の助けなんか要らない?」

「要ります」

 

 僕は考えるまでもなく答えた。

 

「すごく強いのに?」

「強さと助けの要不要は関係ないかと」

「なんで?」

「呪われて永遠の眠りを奪われたゾンビがどれだけ強かろうが、頭を吹き飛ばしてくれって、懇願してるんです。わかるでしょう?」

「あの男はネクロマンサーかなんかなのか。クソだな」

 

 それは新しい切り口だ、と僕は感心した。

 

「そうしたら僕はゾンビと言うよりはアンデッドなのかも」

「ああ、そうだね。ゾンビは気持ち悪いし知性もないからアンデッドの方が良いな。ゾンビはやだ。美的センスに欠けるし。でも、アンデッドだったら裕くんは上級だよ」

「あのネクロマンサーがどうやって僕をアンデッドにしたかがわかれば良いんですが」

「最初の最初が、自殺屍体の写真を見た、のがきっかけでしょ?」

「偶然だったはずです。儀式でもなんでも無い」

「首を絞めたらイッてしまったのだって偶然でしょう?」

「ええ、偶然が偶然2つ重なった、ということで」

「偶然とはいえ、首、だよね」

「くび?」

「首吊りと、首絞め」

 

 やはり、どこから辿ってもそこに行き着くのだ。

 

「そうなんです。たぶんネクロマンサーの以前に僕にはなにかあったとしか思えないんです。それを解き明かすには、やはり僕の生まれた前後を解き明かさなくてはならないようなんです」

「そうなるよね。話を聞いてわかったけど」

「それで僕、この前、ついに例の教授に助けを求めました」

 

 ここでこの話を清水センセに説明することになるのか、と、自分で言っておきながら僕は何かに誘導されたような感覚になった。

 

「例の教授……」

「前カレのことが好きで、今一緒に暮らしてる、寺岡さんっていう文化人類学の教授です」

「ああ、その人」

「悪魔的に頭は良いし、策士だし、行動力あるし、僕に恩があるということらしく」

「だろうね。さっきの話を聞いたら、裕くんには足向けて寝れないような人だよね」

「僕の方がありがたいのですが」

「まぁ、想いはそれぞれだよ」

「それで電話で相談したら、いろいろ協力してくれることになりました。で、近日中にこっちに会いに来ることになってます。幸村さんにも会いたいとかで」

「えっ? そんな話が進んでるんだ! 良かったぁ、ちゃんと救いはあるんだ。良かったよ……何かわかると良いね。君のトラウマのオリジンがさ」

 

 幸村さんの名前が出ても嫉妬もせず素直に喜んでいる清水センセを見て、再び僕は安心した。仲間ハズレにされたなどと言うこともなく、至極まっとうなことを言っている。

 折りあるごとに、寺岡さんに清水センセのことを話すとしたら、という難問をあれから考えていたが、この清水センセのまっとうな反応を見て、自分でも予想もしなかった発想が生まれていた。それをここで清水センセに問い掛けることにした。

 

「寺岡さんに会ってみたいですか?」

「え、良いの?」

 

 珍しく遠慮していたのかとわかって、少々驚く。佐伯陸に凸していた人とは思えない。

 

「寺岡さんの希望もあるとは思いますが。なにしろ、寺岡さんはあの男と面識があるので、幸村さん抜きでならあのDVDの件も話すことは可能です。なぜならあの教授は賢過ぎるがゆえに悪党と紙一重なんです。えっと、何が言いたいかと言いますと、犯罪に関する感覚が先生と似てると思うんです。だから僕は幸村さん抜きであれを話して欲しいんです。それを話したら、僕と先生の関係をあの頭に良い人に分析してもらえる気がするんです。これがどんな関係なのか、共依存とか、友情とか、師弟関係とか、SMとか、ほら、なんかいろいろ人間関係ってあるじゃないですか」

「分析して欲しいんだ」

「して欲しいです。もう少し安心したいんです。僕は先生が心配で仕方ないんです。先生の心の傷の深さが怖くて、いつか僕のせいで気が狂ってしまうんじゃないか、とか、いつオーバードーズしてしまうか、とか、それ以前にどうやって僕がこの立場で先生に最善を尽くせるのか……いまだに良くわかってないです。一緒に居ることが良いのか、一緒に居ちゃいけないのか、いつもどこか不安です。でも今は離れることが出来ないから……だからなおさら心配で」

「裕くん……」

「寺岡教授は以前も言ってました。僕と元自衛隊の人の関係性を、本人たちがちっともわかってないって。わかってないから君たちはどうすればいいかがわからない。でも私はよくよくわかってるって。でもわかったところで寺岡さん自身がどうすることも出来ないと。だから私が君たちに指示するから、さっさとそれに従ったらどうだ、と」

「それは本人としては当たってるの?」

「ええ。もう納得しか無かったです。そもそも自分たちの関係性なんて、本人同士じゃわかるわけないのかも知れません。俯瞰できるのは損得関係ない冷静な他人なんでしょう。寺岡さんはその上観察眼が優れてるし、観察した事象から正確に効き目のある解決策を出せる人です。まぁ、文化人類学なんか専門にやってるわけですから当たり前ですが。医者の素質がある気もするけど」

「買ってるんだね、その教授のこと」

「僕の共感覚を炙り出してくれたときなんか、鳥肌モノでしたよ。親ですらわからなかったのに」

「あっ、それか! ああ、それなら君の言ってる意味がわかる」

「幸村さんも刑事なので同じような能力はあります。でも、あの動画のことはどうやっても話せないでしょう? それに僕も絶対に話して欲しくない。でも寺岡さんには話せる。理解される。最悪、僕のいないところでなら、寺岡さんにあの動画を見せるのもどうにか許容できます。それくらい僕は」

 

 そんなに、ぼくはあの人のことを信じているのか。

 

「……出来るかな。あれを見せるのか」

 

 だって僕は何度、その痴態を寺岡さんに見られ、抱かれ、見透かされてきたのか。

 

「無理しないで」

 

 清水センセは起き上がると、僕の様子をうかがった。

 

「僕が言うのも間違ってるんだけど。ごめん……でも」

「いえ、出来ます。あの人はフェアな人です。嫉妬で気が狂いそうなのにも関わらず、僕のことを守ってくれた、最後まで。そしてこれからも」

 

 清水センセはそれを聞くと、何も言わず微笑んだ。そしてしばらくなにか考えている様子だった。

 

「わかったよ。二人だけはちょっとハードル高いから、君も居てくれるなら、教授と話してみたい」

「そうですか。ありがとうございます」

「あと、お願いなんだけど、僕も同じだけ情報量が欲しいな。調べてわかったことを共有したい。僕も僕なりに分析してなにかわかるかも知れない」

「それは幸村さんも望んでると思います。僕の気持ちがわかるのは清水センセしかいないですし」

「そうだと良いな」

「違いもありますけど」

「美学はね。そこは違ってて良いんだ。君が好きなら僕は許容できる」

「それなら腐乱屍体もOKですか?」

「……君とブッキングなら許す」

「単体では?」

「視界に入れたくないかな。あ、X線で骨は撮るよ、もちろん!」

「ほんと、骨好きですよね」

「骨なら砕けてても良い。あ、脱臼も良い」

 

 何を思い出したのか、ゾクッとした表情を一瞬見せて口角が上がる彼の、抑えきれない愉悦の顔。その恍惚とした瞬間に目を奪われそうになった。屍体でもないのに? 生きてる人になんでそんなもの感じてるんだ。

 わかってる。この骨が僕だったら良いのに、そう思っているんだ、僕は。

 

 砕かれた舌骨。

 体重で環椎から引き抜かれ脱臼した軸椎。

 

 

 

 ああ殺されたい

 

 この人に殺されたい

 

 僕を殺したいと願っているこの人に。

 

 衝動的に涙が落ちてくる。なんでこんな。なんで泣いてんだぼくは。

 

 

 

「泣かないで」

 

 フワッと腕が僕に回された。僕は彼の胸の中に居た。

 

「想像しちゃったの? 君の中の骨が砕かれるの」

「バカ……みたいです」

「……砕いてあげたいよ」

 

 僕は言葉もなく微かにうなずいた。そして彼の服を握り締めた。

 

「言ってくれれば。君の言ったとおりにする。全部君の言ったように」

 

 どうしようもない。我慢していないの?という彼のさっきの質問が僕を嘲笑う。なんて愚かなことを言ったのだろう。本当にバカじゃないだろうか。

 

「言えません」

「裕くん、裕くんは優しいね。ありがとうね、僕は嬉しい。でも同じくらい悲しい」

 

 噛み締めた奥歯が微かに痛んだ。我慢するんだよ。これが我慢。そして。ギリギリの選択だけがドス黒く眼の前に突き付けられる。清水センセが僕の背中をさする。そしたら、もう、ダメに決まってるじゃないか。不意に、幸村さんが監視していないことを思い出す。誰もこの行為を、僕と清水センセのあいだを、割って入るひとはないのだ。その認識が意表をついて焦燥を加速させた。

 

「……落とされたいなんて、言えるわけ、ないでしょ」

 

 堪え性がないんだな。そんな取り返しがつかないことを言ってしまうなんて。

 いや、あの顔を見たんだ、僕は。恍惚に染まったあの

 

 あの卑怯な男の震える指を僕は忘れられない。

 

「それで良いの? それで満足出来るの?」

 

(裕君……君はコレでは死ねないよ……死ねたらいいのにね)

 

「それだって……死ねないんですよどうせ」

 

 でも、射精する僕を清水センセは耐えられるのかな。

 

「いや、やっぱダメです。僕、射精するから」

「いいよ、僕は大丈夫」

「最低ですね、僕は。吐き気がする」

「忘れたの? 命に関わるようなことは回避できる。準備はしてあるんだ。いつでも回復できる。だって僕たちは間違ってるんだろ? でもその間違いに賭けたのが僕たちじゃなかったの?」

 

 もう言葉にはならなかった。僕たちの頼るものはこの世にはないのだ。そして気づく。あの監視人は僕のストッパーにもなっていた、という事実を。そう、彼の服を握っていた指が縋り付くように震えている。それをわからない人ではないのに、それを僕が止められない。僕の背中をさすっていた清水センセの手が消えた瞬間、いつの間にかその指があそこに巻き付いていた。

 

 そこからは早かった。電光石火のごとく僕の身体はソファに打ち付けられ、叫ぶと同時に同時に首が絞められていた。

 

「だめっ! ダメだって!」

「大丈夫」

「だめ……ぁ…ぁぁぁぁああああああああああ」

 

 どんな罪悪感も吹き飛ばすほどの快感が襲ってきた。今までのものとは比べ物にならないほどの。みなぎった殺意に裏付けられた迅速で正確で確実な圧迫。

 殺意。救済。死。安堵。完璧なまでのそのプロセス。射精したのかさえよくわからないほど。

 

 やさしい声が聞こえた。

 

「大丈夫」

 

 すでに意識が無くなっていたことに気づかなかった。

 

 

 




《あとがき&近況》

 お久しぶりです。架空線です。どうにもならないことは日常にたまに生じて、予定通りに進まないことも人生にはつきものです。折れかけた精神と肉体を持ちこたえつつ、作業を続け、しかし諦めてはいけません。ここに久々の投稿が出来るのも、また天の恩恵の現れであると申せましょう。

 親愛なる読者の皆さま。ご閲覧ありがとうございます。皆さまの存在も私の生存を助けて頂いてます。
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