気がつくと、ソファの上だった。どこかで小さい電子音がピッ…ピッ…と規則正しく鳴っている。分厚い毛布が身体に掛けられていたが、どうやらズボンもトランクスも穿いていないような感覚が腰から下に感じた。
清水センセを目で探した。見つける間もなく、頭の上の方から声がした。
「裕くん? 起きたの?」
横になったまま目を上げると、僕の顔を覗き込んでいる清水センセが居た。突然、罪悪感が津波のように押し寄せてきた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……どうしよう……」
居たたまれず顔を両手で覆い、身体を横に向けて丸くなる。まるで、オーバードーズした清水センセみたいに。
「なんで? なにに謝ってるの? 大丈夫だよ、なんにも起きてない。なんにも」
「させた……誘って……」
「落としたこと?」
「ダメだったのに……絶対させちゃダメだったのに……」
「大丈夫だって!」
僕の両肩を強く掴んで、清水センセは僕の言葉を遮った。
「大丈夫だってば。僕は知ってるから。言ったでしょ? 裕くんのこと知ってるって」
「知ってるから……やっちゃいけないってわかってるのに止められなかった! だって先生はそれを僕のために……絶対…やっちゃう……じゃないか……僕がそそのかしたんだ……わかっててやった!!」
そう、あれほどまでに完璧に。思い出そうとすることすら背徳に満ちたあの完璧なプロセスを。
フフっと清水センセは微笑んで、顔を覆っている僕の手を握った。
「こんなに話せたら、もう外しても大丈夫そう」
腕時計型の何かがいつの間にか僕の手首に嵌められていた。彼がそれを外すと、さっきから聞こえていた電子音が止まった。
「……なんですか?」
「バイタルモニターだよ。ちゃんと準備してるでしょう? ほらこれ、スマホのアプリと連動して鳴るようになってるんだ」
「……どれぐらい失神してたんですか?」
「5分くらいじゃない?」
「たった5分……」
「5分は長いよ。普通は20秒以内で起きる。みんな死にたくないから怖くてすぐ起きるんだよ。でも裕くんはこれで死ねるって安心して多分、そのまま寝ちゃってるんじゃない?」
それ以上何を言っていのかわからず、言葉を失ったまま僕は丸まっていた。
「君は、絶対にダメって思ってると思うけど、僕はしてよかったと思ったよ」
僕の言葉を待ってるような間があったが、何も言わないので、清水センセは続けた。
「僕は殺せるし、死なせないんだよ。わかってくれないかなぁ。医者なんだから生殺与奪は自由自在なんだって。最高でしょ? 君の仰るとおりにしてあげられるんだ。君が誘惑する人間の中で、最も優秀で最適な技術者なんだよ? わかってる?」
彼の再三の問いに、僕は微かに首を縦に動かした。
「わかってたら良いんだ。精神的に不安定だから信用が足りないのはわかってる。でも、裕くんのこととなると僕はちゃんとしてるんだからね。あのとき君が助けを求めてた。何もしないで済まされる状態でもなかったし。幸村さんなら抱いちゃうんだろうけど、僕はあれしか手段がなかった。初めて君を手に掛けた。映像じゃなくて初めて君が落ちる瞬間を見たよ。切なかった。君の顔が快楽ではなくて安心に満たされていて、生きてることが君をどれほど苦しいかって、あの顔見てわかっちゃって。それと同時に、あの男が君をどうしたかったのかわかった気がした。気がしただけ、なんだけど」
そう言うと清水センセは、返事の出来ない丸まった僕の肩に手を置いた。
「何度も殺したかった……何度も、何度も、生き返して、殺して、また生き返して、殺して、永遠に繰り返していたかった……のかなって」
言葉のない僕をあやすように、肩に置いた手をトントンしながら彼は独り語りを続けた。
「死んだ子を殺して何が悪いの? 彼はずっとそう言い聞かせていたんじゃないかな。そうしなければ、本当に誰かを殺しちゃうから。君を失いたくなかっただろうなぁ。でも、君は、その儚い望みをカンタンにぶっ壊したんだろうな、彼の本当の望みをいともカンタンに口にして」
そしてフフフと笑った。
「僕もこの手を離すのかって。君の首に掛けた手を、ね。そしたらなんだか可笑しくなっちゃった。やめるのか絞め続けるのか悩んでる自分に」
そして清水センセもそれきり黙った。しばらく部屋に沈黙が訪れた。彼は不意に立ち上がった。床を歩く音、キィという薪ストーブの扉を開ける音、薪を放り込んだのだろう。木のぶつかり合う音がしてしばらくすると、火が上がったのかパチパチと木がはぜる音がした。離れたところから彼が僕に聞いた。
「あ、洗濯したから。僕の服でいいよね?」
罪悪感の海で溺れている僕を気遣って、極めて平気な声で、返事もないのをわかって質問を投げる。それでも、いつ僕はここから抜け出せるのかが本当にわからない。
服を抱えて戻ってきた清水センセは、あっと言って立ち止まった。
「お風呂で流す?」
それを聞いて気がついた。匂いがするんだろうな。清水センセは言わないだろうけど。こんな丸まってる場合じゃない。匂いの元を落としてこなければ……
「……はい。お風呂借ります」
「ごめんね。気が付かなくて」
「いえ、僕の方こそ」
課されたミッション故に身体はどうにか動き、ソファの上で起き上がると、貸してもらった服で前を隠してコソコソと風呂場まで移動した。なにもかもが後悔と絶望感に支配されていた。やっとの思いで服を脱いで浴室に入り、自分の股間を確認すると、見た目はキレイに拭われていて、首を絞められた瞬間に精液を服の中にぶちまけたとは思えなかった。きっと清水センセがウェットティッシュかなんかで拭いてくれたんだろう。自分のペニスと陰嚢を石鹸で洗いながら、なぜこれを温存しているのか意味がわからなくなっていた。それよりも、あれ? いや、待てよ。きれいに拭かれてる……ということは……?
あのひと、僕の性器を触っ……
あまりの衝撃に石鹸を流そうと掴みかけたシャワーヘッドを落っことした。本当にあの人は大丈夫だったのか? 限界を越えてるのに僕をあやしてたのではないか? どうやって? これを? 凝視したのだろうか? あの禍々しい白く濁ったものをどうやって拭ったのか? かといってそれを訊けるわけはない。
いや、彼は僕の精子を見てもパニクらなかったと言った。そう言わせたのは僕がパニクってたから? じゃ、今、僕が眼の前からいなくなって、頓服をODしてるのかも? それを思っただけで僕がパニクりそうになった。取り落したシャワーを速攻で掴み、最速で泡を落とし、転びそうなほど慌てて浴室を出る。用意してくれたバスタオルで水滴を拭き取るのもそこそこに、彼のトランクスとスウェットに足を突っ込むとトレーナーの上を着ながら大急ぎでリビングに戻った。
リビングには彼の姿はなかった。どこに行ったんだろう? 寝室を覗いたが誰もいない。そのうちにキッチンから水の音がした。音の方を振り向くと、昼ゴハンの支度をしているらしい清水センセの姿が見えた。
「あれ? 早かったね。ちょっと待って、今、パン焼くから」
「大丈夫ですか? 気分悪くないですか?」
キッチンカウンターに駆け寄ると、不思議そうな顔をして彼がこちらを向いた。
「わぁ! 裕くんが僕の服着てるぅ〜」
質問に答えてくれなかったが、僕を見て嬉しそうに笑って手元では缶詰を開けて鍋に移していた。スープか何かだろうか。答えてくれなかった質問を再び投げかけた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だけど?」
「本当ですか?」
「なんか慌ててた?」
「えっと、あの……僕の、あの、粗相の、あそこの始末を……大丈夫だったのかって」
「あっ……そういうことね。うん、全然」
「ごめんなさい……辛いことさせて」
「あぁ、それがそうでもなくて」
「ほんとに?」
「そうだね、子供のオシメを替えてるママくらいには」
「どういう……」
「まあ、子供のオシメを替えたことは一度もないけどね。でも、なんかさ、愛おしいなって。自分でもちょっとびっくり。ま、裕くんだから僕にとっては当たり前といえば当たり前だけど。でも性器でも当たり前が確認できたってのは良いことだった」
チン……とトースターが鳴った。パンが焼けたらしい。取り繕っているようには見えない。
「もう1時過ぎちゃった。さすがにお腹が空いてきた。食べれるでしょ?」
「え、まぁ」
「ほら、僕、ちょっと回復してきたよ。お腹減ったもん」
「良かった…」
脱力した僕はカウンターに手をついて、小声でつぶやいた。
「うん、だから僕は大丈夫だよ。心配だったのは裕くんの方だって。丸まって黙っちゃうし、地の底まで落ち込んでるし、どうしようかって思ったよ。お風呂にでも入ればちょっとは気分転換するかな? って思って勧めたけど、こんな早く出てくるとは思わなかった。でもさっきよりは良いね。しゃべってくれてるし」
違うパニックで丸まってたことを忘れていた。他人の心配をして無意識に自分の気分を誤魔化すのが上手くなってきてる気がした。
「僕は……嗅覚がなくて……すみません、気が付かなくて」
「へ? 何の話?」
「あれの匂いを落とすの気が付かなくて」
「言ってることがわかんないんだけど」
「あの、拭いても、匂いが残って嫌な思いさせちゃったかなって」
「あ、ああ! えっ? そんなこと気にしてたの?」
参った、という感じで清水センセは天井を仰いだ。
「まさか、ザーメン臭いから風呂入ってこいって、僕が思ってるって思ってたってこと?」
「違うんですか」
「違うよ。拭いただけじゃ裕くんが気持ち悪いかもって思ったの。それと気分転換。いやぁ、人が何考えてるか察しろなんて無理だな。諦めよう」
そう言うと両手に乗せたパン皿をカウンターに並べながら、清水センセは僕に朗らかに尋ねた。
「じゃあさ、丸まってたのは射精しちゃった罪悪感なの?」
「違います。もうしないって思ってたことをやってしまったから、です」
「君が許可してないときは殺さないよ」
「落としたら死ぬ可能性があるんですって!」
「死なせないって! それでも、もし君が死んでしまったとしても殺人にはならない。その行為で殺意は証明できないよ。せいぜい過失致死だね。それに僕には回復する手段を準備してる。殺意の否定だね。それに確か、過失致死罪は罰金だけじゃなかったかなぁ。それに、屍体の君と過ごせる至福の時間を思ったら、もうなんでも良いよ。出来る限り一緒に暮らして、バレたらその時考えるさ」
「そんな……」
「お昼にしよ。スープが冷める。あ、君は冷めたほうが良いか」
清水センセが問答無用で椅子を引き、執事のような慇懃さで僕に微笑んだ。僕は席に着いた。サラダにトマト色のスープ。なんという料理だっけ? そしてマーマレードにピーナツバター。例のアメリカ式なんとか。
食べ終わって、僕が自発的に食器を洗い、清水センセはその間にまたコーヒーを淹れた。一日に何倍飲んでるんだろう?
僕が洗い物を終えてリビングのソファに戻ると、清水センセはソファで斜めになって眠っていた。テーブルには半分になったコーヒー。背もたれに掛かっているハーフケットを清水センセの首から下にそっと掛けた。半開きの口、掛けたままのメガネ。僕を待っているうちに不可抗力で眠りに引きずり込まれたのだろう。一日や二日の休日と熟睡で、彼の疲労困憊が取れるわけもない。コーヒーのカフェインすら何の効力も無いのがわかる。そんな彼に先ほど僕は、自分の独善的な渇望で彼をそそのかして、強烈な負荷を掛けたのだ。昨日まで僕は、僕が居たほうが清水センセが回復するなんてことすら考えていた。それがこのざまだ。それでも彼は言うのだろう。“君のせいで疲労困憊しても、疲労困憊できることが幸せだ”とかなんとか。
この人は僕のために、鶴の機織りのように自分の羽根を抜いて抜いて抜きまくって、空っぽになって息絶えたいかのように見えるときがある。僕が自分の存在をこの世から消したいように、この人も僕のようなひとでなしに人生を貢いで命を使い切ってしまおうとしている。自覚は無い。僕に見えるだけ。
(おい、裕。黙ってないでなにか言ったらどうなんだ? いつもおまえは僕がどうにも出来ない事態をほんの一言で覆してきたじゃないか?)
僕は初めて心の中で小さな裕に問いかけてみたが、彼の声は何も聞こえなかった。僕はそっとソファから離脱した。清水センセは気持ち良さそうにうたた寝したままだった。僕は彼の寝顔を確かめてから携帯を握りしめ、静かに玄関から外へ出た。
「おう、どうした? 珍しすぎて悪い予感しかしねーんだけど?」
むこうも外にいるのか、受話器の向こうで幸村さんの声が風の音と重なって聞こえてきた。
「まぁ、当たってます。いま、電話大丈夫ですか?」
「ちょっと待て。寒ぃから車ン中入るわ」
車のドアを開けただろうのちにバン! と閉まる音がした。
「はいはい、どした?」
「監視、してないでしょ」
「さすがに正月だぞ」
「僕が清水センセんちに居ても?」
「三が日くらい頑張れや〜。それとも俺が見てないと淋しくて泣いちゃうか?」
「一線を越えちゃったんで……」
「ええぇ!?」
ふざけ半分だった幸村さんの口調が、一気にマジなトーンを帯びた。
「セックスしたのか」
「しません」
「あのな……お前らはなにをもって一線と言うんだ?」
「決まってるでしょ」
「え……マジでか」
「ええ、僕が全部悪いんです。清水センセのせいじゃない」
「でもお前、まだ生きてるぞ」
「……落とさせました、頸動脈」
「そっちか」
「ごめんなさい」
言いにくいことをためらいながら告白する。そう驚いていない幸村さんの反応に、まあそうだろうなと思った。
「やりやがったな」
「幸村さんのやってたことの意味がわかったんだ。無くなってわかった」
「あれが効いてたとは恐れ入ったよ。で? なんて言った? 清水さんになんて頼んだんだ?」
「殺してくれなんて、言えるわけないじゃない」
「言わなかったんだな?」
「言わない! 言えるわけない……」
「それ言ってたら、今から行ってお前の顔グーで殴ってたわ」
「だけど、言わなくったって……僕はそそのかしたんだ」
「落とせってか」
「そうだよ……首を絞めさせた。泣いてすがって」
はぁ、とため息が受話器の向こうから響いた。少しの間のあと、幸村さんは気を取り直したような声で言った。
「例の教授先生に連絡つけたぞ。日程決めたからな。次の土日だ」
「……良かった」
膝から力が抜けた。自分が緊張していたのがわかっていなかった。
「ギリギリだな」
「ええ」
「持ちこたえろって。寺岡先生から、岡本に伝言」
さすが寺岡さん、よくわかってる。
「わかりました」
「いまどこよ?」
「清水センセの家です」
「先生そこに居るの?」
「いえ、外で掛けてます。先生は疲れてソファで寝てます」
「あの人も頑張ったな。俺も釘を刺してあるし」
「そうですよね、刺して無いわけがない。だから僕のせいですごく疲れてます、仕事で疲労困憊な上に」
「お前と一緒に居れるから持ってるだけだと思うぜ」
「僕が頼るから、ですね。頼られると自分のことを棚に上げられる」
「まぁそんなもんだ。で? いつまでそこに居るの?」
「わかりません。仕事が始まるまでかな? でも、居たほうが良いのか、帰ったほうが良いのか、すでにわからなくなっちゃって」
「まぁ、居てやれよ。清水さん、淋しがるぞ。あとはお前次第だからな」
幸村さんは渋々清水センセの味方をした。
「そうですね。僕が耐えられれば」
「耐えろよ。俺は放火事件で忙しいから今日も明日も監視に行けねぇよ」
「もうしません。罪悪感で圧し潰されそうです」
「そうだぞ、圧し潰されて身動きできなきゃ良いんだ」
全くそのとおりだ。
「あれから色々あったんだぞ。あの三人のうち二人が同じ闇金から金借りてやがった。もう1人も多分そうだろうな。今、最終確認取ってるとこだけど」
「なんの話ですか」
「お前、言ってただろ! 放火は3人とも自作自演で火災保険が怪しいってよ」
「ああ、放火事件」
「岡本のコンサルは効くよなぁ!」
「知りませんよ。適当言っただけですから」
「適当上等、これで放火事件解決したら、お前の今回のチョンボと相殺にしてやる」
「相殺にするようなものじゃないでしょ!」
「ま、お前が生きてることが大事だ。とにかく教授先生の御教えを守って我慢しろ。我慢できなかったら……あ、そうだ、ペナルティな。首締め1回につき俺が1回犯す。しかも自殺画像無しな。腰が抜けて気失うまで犯す」
「それだけはやめて!」
あまりのペナルティに僕は思わず叫びそうになった。
「じゃ、守れよ」
「死守する。絶対」
「今回清水さんに首絞めさせた罰で、今晩1回犯しとくか?」
「やめてよ……」
僕が泣きそうな声で拒否すると、幸村さんはマジな声で僕に言った。
「そのペナルティなら二度とお前はしくじんねぇよな?」
どんなふうになじられるより、そう言われるのが辛い。わかってて幸村さんは僕に釘を刺した。
「……ごめんなさい」
「抱きたいよ」
「ごめんなさい。もうしません」
「しろよ……抱けるから、お前のこと」
「もうしませんから!」
「あ、お呼びが来たわ。仕事戻るぞ」
「すみません。忙しいのに」
「良いんだよ。良い時間だった。今夜のオカズも出来たし」
「え」
「なんか行き詰まったらまた今日みたいに電話しろよ? いつでも抱いてやるから。じゃな」
「ちょ」
僕の非難を待たずに急に電話は切れた。僕は清水センセの眠るリビングに戻った。彼はまだ気持ち良さそうにうたた寝していた。僕はホッとして彼の向かいのソファに座り、ボーっと彼の寝顔を眺めていた。
(あ、寺岡さんのことを清水センセに説明できたこと、幸村さんに言いそびれた)
寺岡さんが来る前にまた話さなければならなくなった。その頃までには放火犯が捕まっていればいいのだが。どうやら借金関係がキッカケの事件になりそうだ。どこぞの反社のフロント企業の闇金が関わってるんだろう。きっと絵図を描いたヤツがいて、あの三人は脅されてやったとかに違いない。手口が巧妙になっている。犯罪者も日進月歩だ。
持ちこたえろという寺岡さんの言葉を噛み締めながら目を閉じると、このあとどうすれば良いのか考えた。幸村さんに事情を懺悔したせいもあって、少し頭の中が多少は冷えてきている。そうすると、一刻も早く自分の過去の謎を解明しなくてはという思いが強く甦ってきた。そういえば、これを清水センセだったらどう推理するのだろう? にわかにそのことが訊きたくなる。それとも、もう予想がついているのだろうか。そのためにもう一泊ここに泊まっても良いのか? それともやはり帰るべきなのか。
僕は目を開けて清水センセの寝顔をもう一度見た。意識が無くなって安堵しているのはあなたも同じだろう。あどけないというものはこういう顔を言うのだろうか。だがその目が開いた途端、狂気が溢れ出る。もう其処は修復はつかないように見えた。
自分の能力にうんざりする。壊れている場所はひと目見れば分かるのだ。初めて会った時から薄々気がついていた。言語化したくなかっただけだった。最初はそれが僕のせいだと思った。その次に彼の忌まわしいトラウマを知って、僕は原因ではなく結果だったことを悟った。そして、彼があの告白で「語っていないこと」がずっと僕の目の奥に映っていたことを、耳の奥で囁いていたそれを、今ここで再確認したくもなかった。
……朝から陰鬱で汚い灰色に固まった彼の心を逆撫でる母親の痴態が垂れ流されている。今までこんなことは無かった。朝になれば普通の日常が何食わぬ顔をして戻って来ていたのだ。それなのに今朝はどういうことだ? まだ、父親の摂った朝食の皿が食卓の上から消えてもいないのに。寝て起きればなかったことになるはずのあの悪夢が、日常と地続きであるなどあってはならないのに。
彼の身体に絡みつく生温い指、舌、粘膜、髪……幼い彼の心にダメ押しとも言える絶望感が支配する。忘れられるはずもない。だが消し去りたい。なにもかもなかったことにしたい。心臓を鷲掴みに潰される苦痛からひたすら逃げ出したい、それだけ。では、どうすればいい? 僕が消えるか、あなたが消えるか、二人とも消えるか? 僕が消えてもお母さんは苦しいままだ。自分の渇きと息子を喪失した飢えでどのみち発狂するだろう。それなら、あなたを殺して僕も死のう。こんな気持ちではこの先生きてはいけない。お母さん、生まれてごめんなさい。僕さえいなかったらこんなに壊れることなんてなかったのに。でも、もうこれ以上無理だよ。耳元で囁かれる甘ったるい頭のおかしい淫語の断片。かわいそう。きもちわるい。かわいそう。きもちわるい。かわいそうかわいそうかわいそうかわいそうかわいそうできもちわるいぼくのおかあさん!
いま、たすけてあげる
渾身の力で突き飛ばした。なにかがドスンと床に倒れる音がした。音だけ。目を開けられなかった。それきり、家の中から音がすることはなかった。
「いってきます」
彼はいつも通り学校に向かった。歩いていても平衡感覚がおかしい。さっきから頭の中がずっとグルグルしていて自分を殺すのをすっかり忘れてしまっていた。母親がもう二度と動かないことも……
たった1秒ほどでこのフィルムが全て再生された。察しの良い幸村さんは気がついているのだろうか? これが僕の妄想ならどれほど救われるか。だが僕は知っている。ディティールの正確さはともあれ、この感じがフィクションだった試しはないと。それに……
思い出さないほうが良い。清水センセはこのことに耐えられない。うっすらと狂気をまとったままこの先も生きていく、その方がどれだけ現実的か! 彼が殺したいのは僕だけ。お母さんは偶然亡くなってしまった。僕は彼のお母さんに似てなどいない。屍体なのに発情して苦しんでいてかわいそうで助けてあげたい。大好きだから君しか見えないくらい愛してるからちゃんと殺してあげたい。本当の本物のこの上なく優しい殺意。
幸村さんもどこかでわかっているのかも知れない。彼のお母さんが死んだとき、警察が現場検証に入っている。そのころ幸村さんはまだ警察官ではなかったとしても、上司の誰かは憶えていることもあるだろう。しつこくて察しの良いあの警部補がその情報を探っていないなんて有り得ない。小学生の彼が憶えている記憶と、本当に起こった客観的な事実は違うのかも知れない。多分違う。彼の記憶は断片的で、しかもごっそり抜け落ちている可能性もあった。そして警察が知っている事実が、幼かった彼に告げられていないということも。
だが、僕の過去もこんなふうなのかも知れない。僕以外の誰かには察しがついているのか。特に寺岡さんとか。記憶の抜け落ちた二人が傷跡を舐め合うように殺意を鍵として希死という鍵穴に差し込まれる。あとはそれを回すだけ。回さないのは、純粋に理性によるものだ。余りに凹凸が噛み合ってしまうと、それだけで躊躇してしまうものだと僕も知った。現実というリアリティに多少なりとも晒されていると、余りに出来の良い話はどこかで胡散臭さを感じてしまう。感情はのめり込んでしまっていて、もう戻れないほどなのに、理性はこんなふうに囁く。自分に騙されるな、と。
だから、僕は自分の墓を暴かなければならない。僕の方が清水センセよりまだ耐えられる、そう思っている。小さな裕がもう一人増えるくらいのことはあるかも知れない。その時にはまた寺岡さんの助けを借りるかも知れないが。
埋めたものを掘り返す。僕のため、清水センセのため、そして、幸村さんのため。
「あ……寝てた」
清水センセがうっすら目を開けて、周りを見回していた。
「気持ち良くって寝ちゃったよ。裕くん、退屈じゃなかった?」
「いえ、僕もぼーっとしてました。良い休息です」
「なら良いけど」
そしてうーんと背伸びをすると、窓の外を眺めて僕に言った。
「メモリアルパークに散歩に行く?」
「良いですね」
「じゃ、行こう」
霊園も墓標も木樹も真っ白な雪に覆われていた。
「真っ白だ……」
清水センセがつぶやく。このまましめやかに、覆われたものすべてがひっそりと眠っていればいい。僕はそう願いたくなった。だって、このままでも、これはこれで良いではないか。そう思ったのもつかの間、僕の脳裏にもうひとつの、昨日見た真っ白な風景がよみがえった。
(バカか? お前がいなかったら俺はどうすんだ)
不機嫌な声と香りもしないモーニングコーヒーが脳内で再生された。そして、何も解決していなかったことを思いだす。
「そういえば、例の教授先生が次の土日に来るって、幸村さんから連絡がありました」
「次の土日って、えっと? 3日後かな」
「それくらいですかね」
「わかった。なるべく予定空けておくよ。緊急オペとかないことを祈るしかないけど。土曜だと夜になっちゃうけどね」
「日曜で良いと思います。すみません、ギリギリのところでこんな話して」
「良いよ良いよ。だって土日に裕くんに会えるんでしょ? 万難を排して行くよ……で、今日は、どうするの?」
期待を押し殺したような不穏な明るさで、何気ないふりの清水センセが訊く。
「……良かったら、泊まっていいですか?」
「泊まってくれるの?」
「迷惑でなかったら。明日の午後にでも帰ります」
いきなり清水センセがしゃがみこんだ。
「どうしたんですか?」
「嬉しくて。膝が抜けた」
「大丈夫ですか? 大げさです」
「君の望まないことしちゃって、ほんとは怖くて、僕にもう近づかない方が良いって思ってるんじゃないかって」
「逆ですよ。被害者は先生のほうですから」
「そんなことない裕くん。絶対にそれはないよ」
清水センセは膝の雪を払うと、ゆっくり立ち上がった。
「雪が積もってて良かったよ。膝を打撲してるとこだった」
「雪は良いですね。冷たくて、死に似ていて、クッションにもなって」
「うん……雪を見ると、故郷に帰ってきたんだって、そのたびに思うよ」
「ここで生まれ育ったんですもんね」
「ああ、うん。そして君と出会えた場所っていうそれ以上にスペシャルな場所になった」
白くて冷たくて静かなそれ。お棺よりも今はこれに埋もれたい。そう思ったのも束の間、発作的に僕は眼の前の雪溜まりに仰向けに体を投げ出していた。
「出来れば雪の中で凍死したい、です」
清水センセが笑いながら雪の中の僕を眩しそうに見下ろす。
「あっはは! 良いね! 腐りにくいし! でも君が自殺以外の凍死する機会ってどうするんだろ? 酒も飲まないでしょ。殺人しかないよね」
「まぁ、それは願望です。リアリティないですよ。でも、もし死んだら、先生の好きなように加工して下さって構いませんから」
「ほんと?」
「ええ、エンバーミングでもホルマリン漬けでも、プラストミックでも、パーツごとに切り分けても、肉を溶かして骨だけ標本にするんでも、もう、なんでも」
「プラスティネーションかぁ! すごく魅力的だけど、設備が大変だなぁ」
「そうですね。多分一番お金がかかるのは、−25℃のアセトン冷却槽ですかね」
「うん、僕もそう思う。この家に地下室でも掘って、プラストミックのラボでも作らないことには実現できないなぁ。ほんと日数かかるよね。まずアセトンの前に一週間ホルマリンでしょ?」
そう言うと清水センセもいきなり僕の隣にボフッと仰向けに倒れた。
「雪って気温がマイナスのときは、表面より深い雪の中のほうが温度が0度に近いんだよね」
「今日の気温知ってます?」
「朝は−6度だったけど」
お互い雪の中に倒れながら屍体の保存方法をいろいろ検討し合った。僕たち以外には誰もいない。ずっとこんなことをポツポツ話しながら、二人でずっと雪の中に倒れていたい。そんな気持ちになった。ただの友達で良いじゃないか。勃起しないのだから、清水センセはきっと恋情と友情の区別がついていないのだ。推理小説を読んでいると、恋愛とみまごうばかりの親友が登場したりするではないか。そんな奴らは命も惜しくないと言って、親友のためにいともたやすく死地に赴いたりするのだ。とはいえ、僕も友情も恋愛も知らないので、この、どんな奉仕も厭わないほどの感謝にあふれた自らの気持ちをなんと呼ぶのかわかるわけもないが。
「さすがに僕は限界だ!」
ムクッと清水センセが起き上がった。
「僕はこのまま埋めて下さって良いです」
「埋めて欲しい?」
「それもいいですね……」
「君の姿が見えなくなってしまうから、埋めないよ。そろそろ帰ろうか。身体が冷えちゃった」
「風邪引かないでくださいよ」
「君もね」
自分の雪を払った清水センセが僕に手を差し出す。掴まって起き上がれと促しているのだろう。その手を取って、引っ張られるままに起き上がる。僕の頭の雪を清水センセが払っている。
「帰りましょうか」
「うん。楽しかった!」
「僕もです」
「それは良かった」
そう言って初めて、楽しいと思っていたことに気がついた。そうだな、解剖してるときの次くらいに。
帰宅して彼は熱い風呂に入り風邪は免れたようだった。夕食前に『死体解剖で怪奇現象が起きるホラー映画』を、ああでもないこうでもないとお互い好きなことを言いながら観て、夕食を二人で食べ、食後に『死体に異常な関心を示すサイコパス青年と連続猟奇殺人犯の攻防のサイコスリラー映画』を、ああでもないこうでもないとお互い好き勝手を言い合いながら観た。
屍体関連の本はよく読んでいたが、映画やドラマはあまり観たことがなかった。清水センセは映像系が趣味なだけあって、そういう映画を山ほど知っていると言った。
「法医学者で趣味が同じ人とこの映画を一緒に観られるなんて!」
「僕は映画を人と一緒に観たことがほとんど記憶にないので、新鮮でした」
「どう? こういう時間の過ごし方って、君の感覚では」
「……面白かったですが」
「ほんとに?」
「独りで観るのはちょっと面倒ですが、清水センセと観ると、いろいろとコメントを言い合えるので有意義です」
「僕は高校と大学時代にサークルとか例のネット本屋の関係でこういう知識を溜め込んでたよね。楽しんでくれて嬉しいなぁ」
そう言うと清水センセはまたもじもじしながら僕に尋ねてきた。
「あの、えっと……また他の映画とか一緒に観てくれるかな? 一緒に観たいのがまだ何本かあってさ。今日の、めっちゃ楽しかったんだ」
「良いですよ。また観せて下さい」
「ああ……そんなことしていいんだ……幸せすぎてクラクラしてくる」
「自殺の屍体がキャスティングされてないのをお願いします」
「確かに」
「あと音をもう少し小さくしてもらえれば」
「音うるさかった? ごめんね」
そして、その日もまた一緒のベッドで寝た。清水センセは昨日よりも緊張が解けていて、壁と一体化することはなかった。
〈あとがき〉
少数精鋭の猟奇暗黒小説愛読家の皆さま、架空線です。お久しぶりです。まさか半年以上も更新出来ないなんて思いませんでした。すみません。
思えば去年の7月にいろいろ起きてから、いくつかのストレスと多忙が織りなす体調不良が積もり積もって12月にとうとう爆発。クリスマスに倒れ正月休みは寝込み、休み明けに病院で点滴しながら仕事を再開するも症状が悪化、個人医院から総合病院送りとなり、検査の結果来月の四月後半に手術が決まりました(ガンとかでは無いです)。内視鏡手術なので、入院はそんなに長くないらしいです。ちまちまと書き溜めたものを入院前にリリース出来てとりあえず良かったです。
退院後はしばらく療養のため休職しますので、もしや暇な時間に書けるのでは?早く寺岡さんと裕を再会させたくて仕方ないので書いてるかも。とはいえ臓器を切除するので予後がどうなるかまだ不明です。どんな体調になるか楽しみではあります。ちなみに田七人参を手術前から飲み続けていると、手術の出血がめちゃくちゃ少ないらしいので、自分の身体で実験中。術後のあれこれはしばらく活動報告に上げる予定です。備忘録的に。
ではまた。ご閲覧いつもありがとうございます。