しばらくしてドアをノックする音が聞こえた。
「来・ま・し・た・よぉ」
そう言うと寺岡さんはいたずら坊主のごとく口角を上げて立ち上がり、廊下に吸い込まれていった。奥の方でドアの開く音がした途端に、わぁー清水さん? 寺岡です、どうぞ入って下さい! というフランクな応対が聞こえてきた。ソファの僕からはそのやりとりは全く見えていない。初めての寺岡さんに清水センセはどんな顔しているんだろう。
「すみません、失礼します。清水です…」
ドアの方から聞き慣れた声がする。寺岡さんは素早く戻ってきたかと思うと興奮した声を押し殺して僕に囁いた。
「あのイケてないメガネわざと掛けてんだよね? 隠れイケメンじゃないの! あれはイケメンっていう生き物だよ? 裕、分かってる?」
「ああ、ええ、はい。寺岡さん、落ち着いて下さい」
「教えてくれないんだもん! まぁ裕がそんなこと言うわけないけどさ! あれ? 入って入ってー。こっち来て下さいよー、裕もいますから」
廊下からおずおずとこちらを覗う清水センセがようやく現れた。あたふたと着ていたダウンコートを脱ぎ、急ぎ両手で抱えると、ペコリとお辞儀をした。
「……お邪魔します。今日はよろしくお願いします」
「お疲れ様です先生。初めまして。いきなり呼び出してすみません」
「いえ、逆に助かりました」
「そういえば先生、仕事夜までって言ってた気がしたんですが、抜け出してきて大丈夫なんですか?」
「今日、半休取ってたから」
「えっ、すみません。なんで半……」
萎縮しまくっている清水センセに僕は緊張が解けるようにいつもの調子で話しかけた。すると彼はその位置から、いきなり僕たちに向かって深々と頭を下げた。
「申し訳ありません! もう僕のことは裕くんから聞いてますよね? 本当にすみません。こんなことになってしまって……」
まさか、第一声が謝罪から入るとは思わなかったので、僕はあわてて彼をなだめた。
「ちょっと、あの、寺岡さんには先生に世話になってると言ってあるんで、そんな謝ることないですから」
「それは違うよ裕くん。どこまで僕のこと話してくれたかわからないけど、裕くんの大事な人には到底顔向けできないって」
「良いんですよ。ここまで来たからにはとにかく頭を上げて下さい。顔が見えないし、イケメン好きの寺岡さんがそろそろ焦れてるみたいなんで」
「裕、しばらく会わない間にそんな気の利いたこと言えるようになったの! 感動だよ! そうだよ、清水さん! とにかく一旦ここに座って下さいよ。私だって裕には頭が上がらないし、やっちゃいけないことやってる大先輩なんですからね。同じ穴のムジナ同士ざっくばらんに話したいだけなんですよ、私は。時間は限られてるし、コーヒーも頼みたいし、ね?」
直角に曲がっていた清水センセが慌てて真っ直ぐになり、大先輩が僕ににっこり微笑んだので、棒立ちの清水センセのそばに行き、袖を掴んでソファまで引っ張ってきた。
「はい、そこに座って下さい」
「……ありがとうございます」
清水センセはようやく着席した。その様子をニヤニヤしながら寺岡さんが眺めている。なにか良からぬことを考えているに違いない。
しばらくして、高そうなコーヒーカップと銀色のポットがワゴンで運ばれてきた。ルームサービスがエレガントにポットからホットコーヒーをサーブし、退室していった。無言で正面に座っている清水センセをおかずに、美味しそうにコーヒーを飲んでいる寺岡さんが何も変わっていない。僕の観察眼が無いのか寺岡さんがアマゾンあたりで若返りの秘術でも受けているのかわからないが、ほとんど見た目が変わっていない気がした。コーヒーカップをテーブルに戻すと、寺岡さんは足を組み直して急にシリアスな声で清水センセに尋ねた。
「清水さん、そのメガネは伊達めがねですか?」
「え? め……メガネ? 伊達?」
「度が入ってるかと聞いてます」
「ええ、もちろん。目は悪いですけど……なにか変ですか?」
寺岡さんが真面目な顔して初対面の清水センセをからかっている。人の悪いことをする。まぁ、清水センセの緊張をほぐそうとでもしているのかも知れないが。
「清水センセ、なにも変じゃないですよ。寺岡さん、ふざけてないで話を進めましょう」
「ああ、ゴメンゴメン! 変装してるのかと思ってさ。ちゃんとした近眼だった。女の子からキャーキャー言われないようなデザインにしてるんですか?」
「そういうつもりはないですが」
「寝癖のままなのも?」
「あ、寝癖ついてますか? 裕くん、僕っていつも寝癖ついてる?」
「気が付きませんでした。スミマセン」
「裕に聞いたって永遠にわからないよ。イケメンだってことすら一言も言わないんだもん」
悪ふざけが止まらないので僕は寺岡さんを牽制した。
「いつまで見た目の話を?」
「だって磨けばモデルくらいにはなれるよ、この先生は」
「寺岡さんの趣味の話はおいといて下さい」
すると清水センセは今日初めてほんの少し口角を上げながら寺岡さんに言った。
「僕にはそれは必要ないです。裕くんさえ居てくれたらいいので。裕くんは見た目のことは一切興味ないし」
「そりゃそうだ。見た目どころか生きてるもんには一切興味ないからねぇ。それをわかってても?」
「ええ、裕くんがいれば幸せです」
「セックスしたくならないの?」
見た目の話からいきなり際どい話題に急降下した。追い打ちをかけた寺岡さんはうっすら笑っている。清水センセは寺岡さんの隣りに座っている僕の顔をちらっと見た。あの話ししてないんだ、的なサインなんだろう。しちゃったけど。
「性欲は無いです」
「そうなんだ。珍しいね」
「幼少期にトラウマがあって……母に……その……虐待されて」
「センセ、言いたくなければ言わなくて良いですから」
言いよどんでいる彼の顔に一瞬、苦悶の色が走るのを見て僕は水を差したが、清水センセは僕に手の平を向けて制した。初対面の寺岡さんにあれを言えるのか? 言えたら言えたで、そこまでこの短期間で何かが起きたということだ。それが良い変化なのか良くない変化なのかはまだ分からない。
「虐待っていうのは……性的な虐待です」
「ああ……それは大変だったね。私なんかにカミングアウトして大丈夫なんですか?」
「怖いですが、どこかで“聞いてほしい”と言う気もします。裕くんに全部告白してから、なんだか風通しが良いと言うか……今まで誰にも言ったことが無かったのですが、裕くんにだけは言えて。自分がこんなふうに思ったり感じてたりしたんだって、言って初めて解ったりもしましたし」
「うんうん、そういうことってあるよね。裕は職業ヒーラーだから、なんかタイミングが合うと人生の桎梏から解放されるんだ」
「そうなんです! 天使なんです! わかってくださいますよね?」
「わかるよー! わかってるねぇ! 本人だけが全く分かってないけどねぇ!」
「ほんと、どうしたら理解してくれるのか、ずーっと困ってまして…」
悪魔が天使とか呼ばれているのが悪い冗談以上に人生の皮肉であると思ったが、悪魔のほうからしたら大成功だろう。二人は意味不明な共感が起きているらしく盛り上がっている。清水センセが打ち解けてきたので結果オーライではある。
虐待のエピソードが再開されると、さすがに細かい描写は避けていたが、かいつまんだところで十分グロいあの話を僕は成り行きで二度目も聞くことになり、清水センセの壊れた部分を再認識しながら不快でいたたまれない気持ちになった。
「……それで、性的なことへの嫌悪感が強すぎて、自慰も出来ないし、そもそも何をやっても勃ちません」
「裕でも勃たないの?」
「はい、全く」
「え? 清水センセってEDなんですか?」
「そうだよ。言わなかったっけ?」
「ただ反吐が出るほど嫌いなだけだと思ってました」
僕みたいなものでも発作で勃起するのに、それもないのかと驚いた。
「ずいぶんツラい思いをしてきたのに……良く医者なんかに成れたと思うよ。精神病んでまともに暮らせなくなる人も多いのに、進学校行って医大に合格して医師免許も取れたわけだから。よっぽど成績が良かったんだね」
「大学の途中で裕くんに逢えたので。それまでは屍体を解剖できるから医大に行っただけでした。写真が好きだから放射線科に行きましたけど、免許が取れたら先輩みたいに産業医にでもなって、生き死にと関係なくまあまあ稼げて、趣味に没頭出来ればそれで良いと思って。でも、動画の中の裕くんと出逢って、裕くんを探すという人生の目的が出来たので、もっと稼ごうって決めたので」
「それでもセックスが出来ないのは淋しくないの?」
「セックスなんかしなくてもすごく満たされてるんですよ。裕くんとこうやって会えて、話が出来て、一緒にメモリアルパークを散歩しながら屍体の話をして」
「裕も楽しいって言ってたよね」
「楽しいですよ。だって屍体の話を同じ知識量と熱量で話せるんですから」
「裕が楽しいなんて言うの初めて聞いたよ」
「ほっほんとうですか!? それは嬉しいです! 裕くん楽しんでくれてるんだね。良かった……嬉しい……良かった。嬉しいな…良かった……」
清水センセが泣き出すかと思うくらいの勢いで感動しているので、とりあえず僕は水を指した。
「まぁ、お互いの美学は結構違いますけど。でも屍体の話を延々と出来ることに変わりはないので」
「へぇ! 柔軟だねぇ。裕もは清水さんのことどう思ってるの?」
「それはいつも通りわかりませんが、恩人ですから、大事な人です。常に感謝してます」
「ほう、大事な人ね。裕の最大の愛情表現ってやつだ。そうしたらさ、もし清水さんが仮に事故にでも遭って首から下が麻痺しちゃって、『もう裕くんのこと殺してあげられなくなっちゃった』って事態になったら、それでも清水さんは大事な人?」
さあ、答えてみろ、とばかりのドヤ顔で寺岡さんは僕の返答を待っている。そんな答えはとっくに出ていた。
「ええ、それは変わらないです。本当に殺してくれる約束なんて、この世界では稀有なことなんですから。殺して欲しい、も、殺してあげたい、も、狂ってます。だから先生には本当に感謝してもしきれません。僕に出来ることだったらいつでも恩返しがしたいです」
それ以前に、幸村さんにこの互いの欲求がバレている時点で、清水センセの家でこのために二度目の実験をしたのだ。
「それに、実験もしました。清水センセの決意は変わらないですが、今は警察官の幸村さんに知られている時点で、止められて殺せないかも知れないという事態になってます。事故で半身不随になんかなんなくても、今まさにそんな状況です。そんなあやふやな状態でも僕の発作が無くなってるかどうか。清水センセと幸村さんの立会のもと、僕はこの本で発作の有無を確認しましたから」
「そんなことやってんの? 頭狂ってんなぁ、あんたらさぁ!」
「二人にも反対されたけど、僕が確かめたかったんで」
「あっそ」
呆れた様子で寺岡さんは天井を見上げた。
「でもさぁ、清水さんが裕を殺したいというのは、裕の為を思ってるの? それとも裕の屍体が欲しいの?」
僕の話を聞いた寺岡さんは鋭いところを突いてきた。
「それは独占欲ではないの?」
「どうでしょうか。すべて裕くんのためですが、それがなぜか僕の欲望を満たしてしまうのが奇跡的なことだって思ってます。都合よく聞こえるのは承知です」
「ああ、そう」
「でも、裕くんが楽になれることが最優先事項です。もし、最悪裕くんの屍体と離れ離れになってしまっても、裕くんが幸せならそれで良いです。あ、もちろん今は裕くんには殺さないでって言われてるので、裕くんの意向には100%従います。でもこれって裕くんが僕を殺人者にしたくないっていう自分を犠牲にした優しさなので……本当に申し訳なく思ってます。僕はそんなことどうでも良いって言ってるのに。裕くんは優しすぎて……よく泣いてしまいます」
「あぁそうだね」
寺岡さんはソファにもたれてそれを聞きながら、目を閉じて一定の間隔でうなずいていた。相槌は若干棒読みになっているのかもしれない。
「殺すことは快楽?」
寺岡さんが再び清水センセに尋ねた。
「裕くん以外に僕はだれも殺しません」
「それは快楽なのか?と聞いてるんだけど」
寺岡さんは逃げ道を塞ぐように質問し直した。
「それは裕くんを殺してみるまでわからないことです。でも殺す快楽を得たいと思ったことはないです、今まで」
「あぁそう……へぇ、そうなんだ」
「だって、苦しんでる裕くんをそのままにしておけるんですか? 屍体をもとの屍体に戻すことで快楽を得られるんでしょうか? それは安寧とか静寂とか言われるものなんじゃないんでしょうか。そしてそれもただの推察に過ぎませんし」
ものすごく清水センセは落ち着いて語っていた。寺岡さんという人に対する信頼感がそうさせているのかも知れない。
「僕は屍体が好きでした。でも、裕くんを見つけてから、屍体が好きなどという嗜好や性癖の範疇を超えてしまった。もう趣味でも愛好家でもない。それが僕の生きる意味であって、僕の人生を支えるもの、それが裕くんであり裕くんへの愛です。そうですね、裕くんを救えることには恍惚感を感じてしまうかも知れません」
「それは、例の動画見てからずっとそうなの?」
「裕くん、あの動画のこと、寺岡さんに話したの?」
「ええ、なんとか話せました」
「すみません……ほんとうに、ひどいことしたって思います。反省してます」
「それは、えっと、その動画を編集したってこと? それとも…」
「裕くんに見せてしまったことです。でも編集したこともです」
「まぁ、そうだろーね」
「犯罪ですから」
「……まぁそうなるね。でも残念ながら私はあなたを糾弾できるようなお綺麗な人生ではないんでねぇ。ヒドいとは思うけど」
「でも、裕くんに出会えたから……後悔は一切してないです」
「まぁそういうもんだ、人生ってのは。清水さんの気持ちはわからんではないよ。同情もしてる。でも裕を殺したら私は一生あなたを許さないから、それだけは覚えておいてね」
それを聞くなり清水センセはソファから転げ落ち、床に頭を擦り付けて土下座をした。
「知ってます…知ってます、ごめんなさい! こんなこと言ってる人間が許されるとは思ってません。幸村さんからも同じこと言われてますから、どうか、お願いですから裕くんのそばに居させて下さい! 僕は裕くんから許可が下りない限り絶対に殺しません。たとえ発作的に裕くんが殺してって懇願しても、です。衝動かどうかは僕はわかります! ご心配させて本当にすみません!」
清水センセが当たり前のことを言ってることに僕ははからずも驚愕していた。土下座をしている。普通に考えたらそれも当たり前なんだろう。いや、普通なら土下座では済まない。でも僕は誰が許さなくとも土下座など全くして欲しくなかった。
「先生、もう良いですから! 寺岡さん、僕のせいですからね! 清水センセは悪くないんです」
「でも、ストッパーは多いに越したことはないでしょ」
「寺岡さん! 清水先生は僕を助けようとしてるだけですから!」
「わかってるって、裕。ちゃんとわかってる。関係者は全員、裕を助けたいだけだってこと。やり方はどうであれ」
「あの……」
清水センセは顔を上げてなにか言いかけ、口ごもった。不安げに目が泳いでいる。信頼していた寺岡さんに強く釘を刺されて動揺してしまったのだろう。せっかく心を開きかけていたのに。どうすれば良いのかわからないまま、床に座った清水センセに声を掛けようとした瞬間、彼は不意にソファに置いてあるダウンコートの内ポケットを探り始め、白っぽくて平たい真四角の板のようなものを引っ張り出した。
「寺岡さん、これ」
「は?」
寺岡さんが珍しくギョッとしたような顔になった。
「えっと?」
「裕くん、君、この前さ……寺岡さんなら、これ見せていいかもって……言ってたよね」
「え? それ……あれですか?」
清水センセは両手でぎゅっとDVDのケースをつかみ固まっているが、今は寺岡さんのほうがうろたえている。
「ちょ……ちょっと待て、それまさか?」
「ええ、見るかどうかは別として、選択肢だけ増やしました」
さすが清水センセ、こういう頭のおかしい選択には抜かりが無い。
「持ってきてくれたんですね」
「待って待って! 裕、大丈夫か?! 気分悪いとかない?」
「あ、ええ。大丈夫だと思います……たぶん」
「ごめん裕くん。この前話したことが気になって勝手に持って来てしまって…ああ…どうしよう…」
うろたえてるときの例のものすごい早口で清水センセはオロオロしていたので、僕はそれを遮った。
「大丈夫、分かってます、先生の言いたいこと分かってます。寺岡さん、僕が言ったんです。この動画、僕は見れないけど、寺岡さんになら見せることが出来るかも知れないって」
寺岡さんは僕と清水センセの顔を交互に見渡し、眉間にシワを寄せて大きく息を吸った。
「どういうこと?!」
「説明します。清水センセと僕の関係の分析に必要なのであれば、寺岡さんになら、あの……見せられるかもって」
「そんなこと考えてんの?!」
「これを見て清水センセは僕を探し始めたんだそうです。ですから、清水センセがなんで僕を必要としたのかも解るんじゃないかって」
「いや、だからって……」
「それに、これにはそもそも僕とあの男との始まりが記録されてます。僕がなんでこうなったか、寺岡さんにしかわからない視点があるかもって思うんです。僕が気を失っているときに、あの人何をしてたのか、って。僕は落とされて記憶も曖昧で、途切れ途切れにしか憶えてないし。でも僕、この映像は見れないです。いまだにこの中身を思い出すと虫唾が走るんで。半分も見れませんでした。だから一緒には見れないけど、寺岡さんは多分耐えられると思うんです」
「正気か?」
「正気じゃないからお願いしてるんです。正気に戻りたい……いつ正気だったか、もう憶えていませんけど」
寺岡さんはそれらをずっと苦虫を噛み潰したような顔で聞いていた。そしてバッタリとソファに倒れた。
「あー! もうっ! なんなのこれー」
「すみません……寺岡さんにも裕くんにも迷惑かけて」
「あの、先生、迷惑という点で言えば、三人とも互いに引けは取りませんから」
「まぁ、言われるよねぇ。一生言われるのは覚悟の上だけどさあ」
「だから今回なんとか寺岡さんにSOS出せたんです。迷惑様様です」
「こっちはさぁ、『Sucidium cadavale』だけでも衝撃でお腹いっぱいなくらいなのよ? ここに来て君らは畳み掛けてくるよねー。なんか作戦でも立てて来たの?」
「いえ、そんなの無理です」
「作戦なんて余裕ありませんから。裕くんにも黙ってました。ごめんね…」
「寺岡さんみたいに何手先なんか読めないですよ、我々は」
そうだ。清水センセは基本的に無策な男である。僕以下だ。
「ねぇ、DVDここで見たくないんだけど」
いきなり具体的な話になった。確かにこの部屋の大型テレビにはDVDが再生できる機器が付いていそうではある。ということはつまり、寺岡さんは見てくれる気なのだろうか?
「見てもらえるんですか?」
「ああ、見るよ見てやるよ。だって私にしか見せらんないでしょ? こんな鬼畜なコンテンツ! この私がこんな美味し……いや、こんな重要な資料、見ないでおめおめ東京に帰れるかっての! 変態なめんな」
「あ、僕の車、DVDプレイヤー付いてます」
清水センセがグッドアイデアを出してくれた。寺岡さんの目がキラッと光る。
「良いねぇ。そういう密室を求めてたのよ」
「どうしますか? いつ見ますか?」
「幸村さん来る前に見たいね。動画、どんぐらいの尺?」
「30分くらいです」
「まぁ間に合うか。時間もったいないからすぐ行こう。裕、お留守番お願い。向こうの部屋のベッドで寝てて良いから。あ、清水さん、ついでにドライブしよっか。いろいろ聞きたいことあるしね。私と二人っきりでも大丈夫?」
「大丈夫です。むしろお話したいです」
「じゃあ行こっか」
電光石火のごとく話は進み、僕の100倍行動力のある二人はコートを掴むとそそくさと部屋を出て行った。寺岡さんの指示では、彼らの帰還前に幸村さんが来たら、ホテルのコンシェルジュがこちらに連れてくるようにしておく、ということだった。もちろん幸村さんには「僕が中学生のとき佳彦から犯されているDVDを二人で鑑賞しに行ってます」なんてことは口が裂けても言えるわけはない。策士の入れ知恵では、僕のいないところで寺岡さんが清水センセと二人っきりで話したいから、密室代わりに清水さんのプリウスでドライブしてます、とでも言っておけとのことだった。どのみち前もって幸村さんにはメールしておいてくれると言っていたので、僕もしどろもどろな説明をしなくても良いはずだ。ひと足先に出ていった清水センセを尻目に、僕は寺岡さんに手短に佳彦の個人情報は清水センセには伏せるようお願いした。分かってるって、私以外の関係者は曝しやしないよ、と策士は軽くウインクして彼の後を追っていった。
誰かが来るまで、言われたように僕はベッドで仮眠することにした。豪勢で広いベッドに独りで仰向けに倒れて優雅な天井を眺めながら、さっきまで隣の部屋に寺岡さんと清水センセと『Sucidium cadavale』とあのDVDが揃っていたことが有り得ないことだと今更ながらに信じがたい気持ちでいた。時空がネジ曲がっている気さえする。変テコな夢を見ているようだった。
今ごろ二人はあの動画を観始めたのだろうか。寺岡さんに抱かれておいて良かった、と初めて思った。僕の裸も性器も発作も射精も痴態も全部見てる。羞恥心は消えないが、あの動画を最初に見せられた時よりもまだマシに思えた。僕が拒否したあの続きを見てくれているのだ。首を絞められて失神したあとの、僕の知らない佳彦の行為を。佳彦は僕に何をしていたのだろう。清水センセは知っているそれ。考えたところで分かるわけもない。考えるのをやめた。あの、ゾワゾワした虫唾が走る異様な不快さをもう感じたくない。
それより、久しぶりに寺岡さんに会い、慣れない場所に居るというのも相まって、だんだん自分が今どこにいるのかが曖昧になってくる。元々、自分が社会人になっていることが不思議だという認識が前提にあるので、本当はまだ中学生なのではないか、とか、実はただ長い夢を見ているだけなのではないか、とか、それ以前に、佳彦から犯されたことすら長い夢の始まりかも知れないとさえ感じる。こういう感覚を離人感と言うのかな?と思った。この前の清水センセの大混乱の電話のようだ。全部夢って言ってたな……それはこういう感覚なのではないか? 清水センセの言ったことを思い出してみる。
(……僕はまだ小学生のままで、今まで起きたことは全部僕の夢なんじゃないかって……母が死んだことも、大学に行って医者になったことも、君の動画で君を好きになったことも、アメリカに行ったことも、君に逢えたのも……全部夢だったのかも知れないって……)
思い出すうちに、今僕が感じているこの感覚が、清水センセのそれとほとんど似通っているような気がした。そうすると、僕は薬の離脱症状もないくせに、現実と乖離していることになる。それってもしかしてかなりピンチなのではないか? そうでなくても小さな裕が出てくる時は精神の危機で、乖離症状だと寺岡さんは言っていた。長い非常事態だ。長過ぎる。ほんとうに僕がそこから解放されることなんてあるんだろうか?
いつもの通り、現実から逃避するべくいつの間にか眠っていた。どれくらい寝たのだろう? 隣になにか違和感を感じ、寝ぼけた頭をひねって確認した。そして叫んだ。
「うわあっ!」
「俺だ俺だ! デカい声出すなよ、俺が驚く!」
「あ?え?ゆっゆっ幸村さん?!」
なぜか僕の隣に幸村さんが寝そべっていた。勢い後ろから抱きしめられる。
「ようやく起きたなぁ! わぁ〜逢いたかったぞ〜岡本〜!」
「ちょっと! なななんでいるの!?」
「えー? 教授から『寝てると思うから好きにして良い』ってさっき電話で言われたのに!」
「かっ勝手なこと言って! あの人はそういうことしか頭にないのかよ!」
「野獣のように交わってるところを見学したいとか言ってたなー。 見られながらするのも良いぞぉ。いやぁ良いベッドだ」
「やめて下さい!」
「岡本はよく見られながらヤラれてたんだろ?」
「知りませんよ!」
吐き捨てるように答えて、僕はベッドから転がり落ちるように幸村さんの魔の手から逃げ出した。じっとしていては期待されてしまう。
「おい、岡本? 逃げてもムダだぞ。ちょっと戻って来い」
「出来るか! だいたい仕事が夕方まであるって言ってなかった?」
「早く目星がついたんで早めの参戦。でももう4時半だからな」
「もうそんな時間……」
「岡本ぐっすり寝てたしな。疲れた顔して寝てたから起きるの待ってた。そんなことよりまぁ聞けよ。俺、気づいちまったんだよ、昨日」
「何をですか? 」
幸村さんはベッドにうつ伏せになり、首だけ起こして床に座り込んでいる僕を見た。
「岡本さぁ、あの実験で自殺屍体みても発作出なくなったよな」
「ええ、そうですが。なにか問題でも?」
「いやさ、清水さんがいなくても同じ結果になるのかなって」
「…はぁ?」
「だからぁ、清水さんが岡本と一緒にいなくても、自殺屍体見て発作は起きないのかどうなのか、って事よ」
「え……えっと、え?」
寝耳に水といった疑問に、僕は5才児並みの語彙で聞き返した。幸村さんはうつ伏せをやめ、横向きになって僕を見ている。
「どう思う?」
「どう…って?」
「まず、解剖のときはどうなんの? ってことだな。だって清水さん隣りに居ないよ? 居なくても発作起きねぇ確証ってあったっけ?」
「それは……」
驚いたことに、僕は絶句していた。確証だって?
「なぁ、どう思う?」
寝ぼけた頭でも答えは理論的にはすぐ出てきた。しかし、感情はそれを一切認めたくないことに気づいた。この葛藤が僕に珍しく沈黙をもたらした。
「岡本くーん、あれ? 聞こえてる?」
僕が黙っているので、幸村さんがからかうように回答を促してくる。聞こえていることはわかってて。
「……まぁ、岡本の考えてることはだいたい察しはつく。答えたくないのも分かる。でもよ、解剖室でまたおかしくなったらなんの意味もないだろ?」
正論だ。特に矛盾はない。だからこそ、余計に答えたくなかった。すると幸村さんは僕を焦らすことをやめた。
「岡本はこう思ってる。つまりそれは『やってみないとどうなるか分からない』、だろ? 認めたくないと思うけど」
「……」
理論的な正しさは僕にとって最も重要な情報だった。自分の気分だけでそれを否定はできない。でももう、それを試すだけの気力がなかった。もう、実験はうんざりだと。うんざりなのは、実験のその先にある、幸村さんとのやりとりも、だ。ここで失敗したら、幸村さんに抱かれる。そのことを考えるだけで心臓を掴まれるような苦痛がやってくる。僕の悪魔がまた息を吹き返して、幸村さんをたぶらかす。もうこんな提案をしている時点でたぶらかされてるんじゃないか!? こんな現実とも乖離してるようなコンディションの中で、これ以上の負荷など許容出来そうにない。
幸村さんはそんな僕の気持ちを察して、最も望まない提案をしてきた。
「まぁ、お前がしたくないのは良く良くわかるけどな、それでも今から……やってみないか?」
「は?」
「追試だ。清水さんがそばに居なくても発作が起こらない、それがどれだけ重要かって岡本もわかってるだろ?」
僕はあらん限りの勇気を振り絞って吐き出した。
「……もう……実験はイヤだ」
「そうだけど……まぁ悪かったよ。俺がもう少し早く気がついて、今日のミーティング前に岡本が自分ちで独りで実験してもらう提案してれば、こんなところでやる必要なかったんだ。でも、寺岡さんにはもう提案してOKもらってるしな。それに屍体は待っちゃくれないぞ?」
だからか! さっきの野獣がどうしたっていうあれは。クソが。いや、この人らは僕のことを心配して言ってくれている。それもわかるだけにどうしたらいいのか全くわからない。
「すぐに帰って来ますよ、二人とも」
「いや、それがさ、なかなか面倒なことになっているみたいで、しばらく帰れないから、1時間は実験の猶予があるそうだ。さっさとあの本持ってきてやらないか? もし発作が出たら、俺がちゃちゃっと抜いてやれるし」
「そういうことじゃない」
「そういうことだろ。もう慣れてんだろ? 俺に抜かれんの」
「そうじゃない!」
わかっている。これが幸村さんのスケベ心でもなんでもないということも。だが、僕は怖すぎた。清水センセがそばに居ないというだけでなにもかもが振り出しに戻ってしまうことが。
「……イヤだ…またあの地獄が来るなんて……もしこれで発作が起きたら今までの苦労が全部パーになる」
いつの間にか僕は膝を抱えて震えていた。怖くて怖くて顔を伏せ視界を抹消した。僕が、幸村さんにやっぱり自分を殺させようとしているかも知れない。それが分かってしまう可能性にも僕は戦慄した。
「また僕が……悪魔になって……幸村さんを人殺しにしたら……」
「大丈夫だって。抜くだけで抱きゃしないよ」
「僕がどんな挙動するかわからないんだよ! またこの前みたいに暴れるかも知れないんだ! 首を反り返すだけで落ちるんだよ……自分でもどうにも出来ないんだって……」
最後は泣きそうになった。自分がほとんど何も解決出来てないかも知れない不甲斐なさも加わって、胸の中の絶望が膨れ上がって溢れ出しそうだった。
「これがわからないままで、このあと対策本部を立ち上げられんのか?」
そんなの良いわけがない。分析には正確な情報を欠かすことは出来ない。
「その様子だと、勝ち目がないと見てるんだな、岡本は」
僕はうなだれて膝を抱えたまま動けなかった。
「清水さんが居なくても大丈夫かも知れないぞ?」
わからない。そうかもしれないが、違うかも知れない。首を縦にも横にも動かせなくて、替わりに緊張でガチガチに固まった肩を更に固くすくめた。幸村さんがため息をつく。
「わかったよ」
そう言うと幸村さんはベッドから降り、隣のリビングに移動した。僕が無理だとわかって諦めてくれたんだと思うのも束の間、彼はなぜかすぐに戻ってきた。
「顔上げろよ」
「なんで」
「すまんな」
いきなり髪を鷲掴みにされ、抗うまもなく顔を引き起こされた。
「ちょっ……あっ」
黒すぎる本のページはすでに開かれていた。そこには、僕が最も頭がおかしくなるあの白いロープがぶら下がっていた。タイヤ部屋のリンチが脳裏に蘇った。
〈近況とあとがき〉
皆さま、お久しぶりです。生きてます。架空線です。思えば2014年午年から始めたこの僕止めですが、気がつけば今年は2025年巳年で十二支が回っておりました。小学生が成人するくらいの間書き続け、まだ読んで下さる方々がいらっしゃることが奇跡と言えましょう。まことにありがとうございます。
そういえば、gooブログが今年でサ終になるそうです。私は垢3つ持ってますし、稼働はしていないが記事はガッツリありますので、11月のサ終日までに引っ越さねばなりません。サ終日にログインして終わっても記事を書き続けていたら、オバロみたいな目に遭わないかと期待してしまいます(←それは無い)。夏休みはそれやって終わるのかなぁ……あ、今、夏休みです。
今回は書き溜めてしまったので、すっごく長いです。とはいえ、ようやくですが更新できて本当に良かったと思っております。立秋を過ぎたので運気が変わったのかも知れません。体調は頭痛が慢性化してますが、少しづつ良くなってきました。気力も前よりは上向きですし、無理しなければ日常を送れております。2時まで起きて更新しているのは無理というのではないのか?などという野暮は言わないでおきます。本日もご閲覧ありがとうございます。