いろいろな期日が迫ってくる。受験の申し込みとか、試験日とか、卒業とか、小島さんの気持ちの萎える日とか。こんなに慌ただしい日々を、僕はかつて味わったことがなかった。面談では志望の某公立高校にも頑張れば行けるということで、毎晩勉強した。小島さんとは月に1回会えればいい方だった。
問題は山積みだった。僕が正気でいられる方法、小島さんが辛くない方法、興味のない科目の克服方法…etc…見切り発車。考えてる時間がない。これらは高校に合格したら考える。そして向き合わなければならない。高校の3年間は短いと母親は言う。大学に行けるのだろうか。
冬休みの模試の帰り、久しぶりに小島さんと約束して待ち合わせた。とても寒い日だった。小島さんはあまり喋らなかった。大きな公園の人気の少ない広いパーキングの端に車を停め、小島さんは僕を抱いた。
「まだ…勃つな」
「うん…」
リミットはまだ来ていない。でももうすぐかも知れない。小島さんは一気に動いて、確かめるように僕の中でイッた。その後二人で抱き合ったまま、毛布の中でいつの間にか少し眠った。起きたら夕方だった。
「そう言えば、例の話…お前の発作みてぇなアレのさ」
「発作?」
「自殺屍体で発狂するヤツ」
「あ…はい」
「俺はそういうのどうしていいかわかんねぇけど、寺岡が興味があるって。あいつ大学の准教授でさ。なんだっけ…よく聞いたら文化人類学とかの専門らしいんだよな。俺もこの前まで大学の先生ってしか知らなかったけど。心理学とかの専門じゃないから治療が出来るわけじゃないとか言ってたけど、話を聞けば、ヒントくらいは思いつくかもって言うんだわ」
僕は誰のことかわからずに小島さんに聞き返した。
「寺岡さんって?」
「ほらよ、この前の…あそこのバーで会った、あいつ」
「ああ、サラリーマンの人ですね」
「ま…スーツ着てたしな。あいつ寺岡って言うんだ。大学のサラリーマンっちゃそうだけど。そういや、いつもリーマンスーツだな…日曜日もスーツなのか、変なやつ。ほんと大学教授って変態多いよな」
小島さんは仰向けに寝っ転がったまま微妙な顔をした。
「お前を落とす邪悪な策略という疑いもあるわな。だけどもうそれでもいいかなって。だってお前、それ克服できなきゃ困るだろ?」
「ええ。目下大問題です」
「今は大学受験と卒業のシーズン前で忙しいらしいから、お前もだけどさ、5月に入ったらまあまあ暇になるって言うんで、お前も高校入学したら会ってみるか?」
「はい。おねがいします」
「言っとくけど、危険だぞ」
「ああ…ですね。知ってます。隆が一緒にいてくれればいいですね」
「あ…うん。まあな…」
小島さんは言葉を濁した。ボーダーラインの先の話を小島さんはいつもぼやかしてる。
「友達なんだから問題ないでしょ?」
「それか…」
ためらうように、言葉が切れた。でも僕はこの際、問い詰めることにした。僕は身体を起こした。
「その件は、どうですか? もうすぐ…来ます。隆の例のリミット」
「ああ…わかってる」
「僕は…そうだ、友達でも別れるでもどっちでもいいです。でも、その寺田さんと会うときは、一緒にいて下さい。それならいいですか?」
「寺田じゃねーぞ。寺岡な」
「その寺岡さんから僕を守るってことで」
「…参ったな」
「あ…寺岡さんからじゃないですね。きっと彼は写真とか持ってきます。自殺者の。そしたら気が狂った僕が暴走したら絞め落としてください。寺岡さんそれ出来ますか?」
「出来ねぇって言ってたけど」
「じゃあ、よろしくお願いします」
小島さんは僕をちょっとにらんだ。口がへの字になっている。困ってるのかも知れない。その時小島さんが僕の腕を掴んで自分の身体の上に引き倒した。小島さんの顔が目の前にきた。
「うわ」
「お前意外と策略家だよなぁ。わかったよ、仕方ねぇな。そこまでは付きあってやるわ。俺どうなってるかわかんねぇけど」
「いいんです。なにか問題でも?」
「ねーよ。クソっ…ああもう!」
小島さんは憎たらしそうに僕のアタマをポンポン叩いた。
「あっ…やめてください! 脳細胞が減ります! これからいっぱい使わなきゃなんないんですよ」
「いいんだよ、活性化だ、こんなの!」
とりあえず、僕は懸案事項をなんとかつないだ。
僕がなぜ理科が苦手か。それはひとえに『生き物』を学ぶことが多いからということに尽きる。科学の実験も物理の法則も地質も電気もなんとかアタマには入る。でも生き物は無理だ。先生のすべての言葉が意味をなさないバラバラな音になって、授業中ぼーっとしてしまう。それは生理的に不可抗力だった。どこを習うかでテストの成績がまったく違う結果になった。好きな化石はほとんど間違えなかった。だが、ものによっては0点に近い結果もあった。中間の範囲と期末の範囲が違うから、平均して赤点にならないだけということだ。
受験日もあと1週間という時期、受験用の理科の問題集を解きながら、僕はひとつだけ生き物でも回答率の高い分野を発見した。それは『土の中の生物・分解者』というカテゴリーだった。それは単に、地中に埋められた屍体がどのように分解されていくかを図書館の本で知っていたからに過ぎなかったが、受験直前の僕の目には、それが初めて、苦手なものを勉強する発想の転換につながった。
つまり僕は、エントロピーを減少させる方向ではなく、増大させる方向に物事を分析し、観察していけば、自分のモジベーションを上げることが出来るのではないか?
《消化と吸収》。生きている人間の営みだと思うからアタマに入らない。これは食餌として殺された屍体を、さらに細かく分解する“地上の虫”として人間を見ればいいのかも知れない。僕はその視点から教科書をもう一度読んだ。屠殺された牛が捕食者の胃の中でタンパク質を膵液で溶かされてアミノ酸に分解される。うん…それは当然だ。バラバラにされたアミノ酸は、捕食者の肝臓に溜め込まれる。牛の肉塊は跡形もなくなる。
《光合成》。光が閉ざされた闇では、デンプンは生成できない。僕の好きな秋を思い浮かべろ。寒さと太陽の衰弱で葉緑体が分解される。葉は機能を失う…
僕は生き物に関する一切興味のない範囲を、狂ったように死の色で塗り替える作業に没頭した。現象が逆さまでも用語やその原理と機序の記憶さえ出来れば、あとは論理的に考えれば正しい答えが出てくるはずだ、と。塗り替え終わった後、僕は受験する高校の理科の過去問題を試しにやってみた。生物が多いと足切り点に届かなかったものが、それ以降7割以上取れるようになっていた。
この経験はそれからの僕と生きている世界との関わりの中で、とても役に立つ視点となった。生きているものは必ず死ぬ。始まりのあるものには終わりがある。
そもそも世界はエントロピー増大の法則に支配されている。自然(世界)は、常に、エントロピーが『小さい→大きい』という方向に進む。すわなち、自然は『秩序から無秩序へ』という方向に進む。それは、《生→死》とも言えた。世界はそれに抗って蠢いている。だが僕だけはこの世界を支配している大いなる法則に従っているのだ。
(死神だな、お前は)
そんな小島さんの声が耳の中で響いた。お前は大事なものを奪っていくんだ。
僕の中に小さく痛みが走った。それは意外だった。いつから僕はそんな風になったのか。それは前なら痛みではなかった。そもそも人はなぜ抗うのか。寒い夜に鉛筆を握ったまま、僕は耳の中の音を消せなかった。
公立を1本で受け、落ちたら2次募集で拾ってもらう。滑り止めの私立は父親に却下されたらしい。僕もそれでいいと思った。ついに受験の日を迎えたが、試験は概ね順調で、問題はムラの多い内申だった。1週間後の発表日、僕は志望校に合格したことを知った。母親がとても喜んでいたが、僕は大きく安堵したものの、その後に控えている大きな約束にすでに意識が移っていた。
2週間後に卒業式。1次に合格していれば、僕は卒業式までの間に小島さんと会う。小島さんにとってそれは“最後”の僕だった。その約束の日はとても重かった。合格発表日の夜に、僕は小島さんに電話した。合格を告げると、彼はとても喜んでくれた。約束通り逢えます、と僕は言った。その途端、小島さんは黙った。
長い沈黙の中で、受話器から時々小島さんの息遣いが聞こえる。こんな時はお互いなにを言っても虚しいのかもしれない。生きている人には完全な沈黙はないらしい。こんなに黙っていても何かが溢れてきている。それを僕は聞いていた。しばらく聞いた後で僕は口を開いた。
「小島さん、友達って、どういう関係なんですか?」
「あ…え?」
「前にも聞いたんですが、友達になるにはどうしたらいいか教えてください」
「なんだそれ」
「友達ってなにかなって」
「…なり方なんかねぇよ」
「そうなんですか」
「いつの間にかなってるもんなんだよ。自然にな」
「いますか?」
「…いた」
小島さんは過去形で答えた。
「いた、ということは過去形ですね」
「ああ。過去形」
「なんで過去形なんですか?」
「…好きになっちまったから」
「難しいですね。だって友達も好きなんでしょ?」
「その好きとは違う」
「じゃあ、どんな好きなんですか?」
「…心も身体も欲しいかどうかってこと」
「じゃあ、身体抜きなら友達で、身体ごとなら…恋人ですか?」
「…そんなもんかな」
「小島さんは、リミット超えると心も萎えますか?」
「え…」
「勃たないから、もう好きじゃなくなるんですか?」
「さあ…な」
「勃ったら、心も好きになるんですか?」
「…かもな」
「勃起って大事なんですね」
それを聞いて小島さんはプッと噴いた。
「俺はバカか」
「いえ、そういうことじゃないです」
「はは…なんかどうでもよくなったわ」
小島さんはまた笑った。
「友達か。俺は友情も失くしてたんだっけか。いま思い出した」
「いろいろ失くしてますね」
「ああ。サヨナラだけが人生だっていうわ」
「いままでは、ですか」
「お…言ってくれんじゃん。偉そうに!」
「事実です。可能性は精査するべきです」
「お前って後ろ向きなのか前向きなのかわからねぇな。死にたがりのくせに」
「死はゴールですから、僕にとって。元は可能性じゃなくてそのものだったんですけどね。今は迷走中です。いえ、帰る過程です。目的に到達するにはどんな可能性も重要です。しかし、こんなに再現性に乏しい意識状態だったとは…生まれつきっていうのは努力で勝ち取ったものでないからしょうがないんですかね。僕の力不足なんでしょうけどね。死力を尽くさねば」
「いや、裕、その“死力”の使い方間違ってんぞ」
「突っ込むのそこじゃないですよ」
「ツッコミどころが多すぎるわ」
小島さん細かいな。その言葉好きなんだけど…。
「じゃあ、もう寝ます。待ち合わせはいつもの場所でいいですか?」
「ああ、着いたら電話するわ。じゃあな…おやすみ」
失くした友情について、また質問しよう、と僕は電話を切った後に思った。
ご閲覧、いつもありがとうございます。
さて、先日11話と12話を同時にUPしたのですが、11話だけPVがえらーく少ないんです。
気のせいだと良いのですが、11話を飛ばして読んでる方がいらっしゃる気が…
同時UPは危険かもしれないですね。今後は悔い改めて、1話づつUPします。