会ってみれば、最後というには普通の小島さんだった。ただ、目の下に濃いクマが出来てて、あんまり寝てないのかも知れなかった。
「もう入学手続き済んだのか?」
「ああ、はい。振込も終わったんで、あとはオリエンテーションです」
「卒業式とか入学式とか…忙しくなるな」
「ええ。でも問題はその後です」
「そうだな」
「約束守って下さいね。寺山さんの件」
「はいはい。寺岡な、裕」
「あっ…寺岡さん。山じゃない、岡でした」
「田んぼより近くなってるけど…あはは」
「そうです。質問があります」
小島さんはチラッと僕を見た。
「最近質問が多くなったな。いいこった」
「いいですか?」
「疑問もないのは良くねぇだろ」
「そうなんですか」
「前は、なんでも言ったようにしかやんねぇし、言われたらそのまんま受け取って、なんにも訊かなかったからな。進歩だぞ。この世に興味が湧いてきたか?」
「この世っていうか、小島さんのことなんで」
それを聞くと、小島さんから不意に笑顔が消えた。
「…俺のことなんか、いいじゃねぇか」
「友達のこと、聞きたいんです」
「え?」
「この前電話で聞いた、友達が友達じゃなくなった話」
「えぇぇ…マジかよ…お前…」
「ダメですか?」
「きっついな、それ。冷や汗出てくるわ…マジで。運転中はマジでやめろ」
ハンドルを抱えている。車体が左右にフッとブレた。事故りそうな感じがした。
「すみません。ダメそうですね」
「ああ…ダメだな。いつか話せたら、な」
そのまま悲しそうな顔をした小島さんと、ほとんど無言のまま30分くらい車で走った。いつもなら繁華街を通るのに、今日は郊外に向かっているようだった。畑が多くなり、空が開けてきた頃、住宅街の道路で車が止まり、砂利の駐車場にランドクルーザーがバックで入っていった。
「ほれ、降りろ。着いたぞ」
「あ、はい」
どこに着いたかわからなかったが、小島さんについて歩いていくと、オートロックもない古いマンションに入った。エレベーターに乗って4階に上がり、薄暗い廊下を進むと、一番奥の部屋で小島さんが鍵を出した。部屋番号の下に“小島”と書いてあった。
小島さんの部屋だ。初めての。
「まぁ、入れや」
「はい」
ドアを開けると、玄関には靴の類が乱雑に重なりあっていて、小島さんはそれを足でかき分けて入っていった。廊下にはゴミ袋と雑誌が積み重なり、幅が半分だった。部屋に入ると、ベッドが奥にあって、掛け布団も枕もくしゃくしゃで起き抜けのままだった。フローリングの床には脱ぎ捨てた服と酒瓶と缶が散乱していた。小さい座卓の上はいっぱいで、グラスと頭痛薬や胃薬であろう薬の箱がいくつかとビタミン剤の瓶とスマホの充電器が無造作に並んでいた。
「汚ねぇけど」
「飲んでたんですね」
「ああ…まぁ、そうだな」
部屋にはあまり物がなかった。6畳くらいだろうか。壁に付けたパソコンのデスクだけが機能している感じがした。キッチンは仕切られててここからは見えなかった。佳彦の部屋はとても綺麗だったんだということがこんなところでわかった。
「ベッドにでも座ってな」
「あ、はい」
小島さんはコートを脱いで無造作に床に落とした。エアコンのリモコンをパソコンデスクから取って、運転ボタンを押した。ピピ、という電子音が部屋に響いた。
「これでも片付けたんだよ。おかげでゴミ袋が廊下に溢れてる」
「それは大変でしたね」
「便所行ってくるわ」
小島さんは部屋から出ていった。通ってきた廊下のどこかにトイレがあるんだろう。僕は独りになった。最後の最後にここに連れてきたのはなぜなんだろうな? と、僕は不思議に思った。そう言えば佳彦は、自宅が好きだったな。思えば小島さんは外ばかりだった。ラブホとか、車内とか、例のバーとか。生活感のない部屋を見渡しながら、部屋に呼べないくらい散らかってたからなんだろうと今わかった。しばらくして小島さんがトイレから帰ってきた。
「散らかってるところ見たかったです」
「はは…お前の趣味か」
「ここ、落ち着きます。生活感なくて」
「じゃあ、無理して片付ける必要なかったなぁ」
僕の隣に小島さんも腰を下ろした。
「酔っ払った勢いで掃除しててよ。それから気がついたらベッドん中に倒れてたわ。いつ倒れたんだかちっとも覚えてねぇしなぁ。目ぇ開けたら明るくて驚いたわ」
そして僕に廊下に来いと言った。付いて行くと、マンションのゴミ置き場にゴミ捨てるのを手伝えと言われた。二人で10個くらい運んだ。ほとんど缶・瓶・ペットボトルの袋だった。
廊下は雑誌とビールのダンボール以外なくなって、結構広かった。ユニットバスの洗面台で二人で手を洗い、部屋に戻るとエアコンが効き始めて、暖かくなっていた。小島さんはベッドに座った僕を見下ろすと、いきなり押し倒した。僕の上に重なって手首をベッドに押し付けると耳元で囁いた。
「あはは…まだ好きだ…まだ好きだよ…」
「そうですか…」
「このまま…永遠に時間が止まればいいのにな…」
そう言うと、不意に小島さんは上半身を離して僕を上から眺めた。
「裕…」
「はい…」
僕が見上げると、小島さんはにっこり微笑んだ。そして、手首を離すと、ゆっくり僕の首に両手を掛けた。
「今日は先にイケよ」
大きな手がゆっくりと僕の喉を絞めていった。それは井戸の中の骨を見て以来だった。あのあと小島さんはそれをすることはなかった。いままで一度も。ずっと忘れていたその感触に、全身が震えた。
「んあっ…!」
「裕…気持いいか…」
「は…い…あ…ああっ…くはっ!」
頭の中が真っ白になり、張り詰めた股間が一瞬で射精していた。僕は痙攣していた。意識が落ちる寸前に小島さんが呟いた。
「…俺も、すぐいく」
僕にはそう聞こえた。視界が暗くなる。僕の頬にぽたりと何かが落ちた。いつもより僕は強く絞められていた。
「たか…し……」
もしかして
こっち来ちゃ…ダメだ……
ぼーっと、いつの間にか僕は天井を眺めていた。気がついたことに気がついていなかった。意識が朦朧としていて、夢の中のように、なにがなんだかよくわからなかった。どこからか水の音がする。雨かな……ここは…どこだろう…。スーッと眠りに入っていくような感じが何度も繰り返した。波の中で揺られているようだった。
しばらくして、僕は我に返った。ここ…小島さんちだった。僕はここに来て…押し倒されて…首を絞められて…あれ…隆は…?
やっとの思いで首を動かした。左右に首を倒し、あたりを見回した。だがベッドの上に小島さんの姿は見えなかった。どこ行っちゃったんだろう。そう言えば意識が飛ぶ直前に、小島さんがなにか呟いてたような気がした。なんて言ってたんだっけ…とても気になることを言ってた気がした。意識がはっきりしない。なんだったんだろう…気になる…
(俺も…すぐいく…)
急に僕の頭の中に、その声が再生された。それって、どういうことだろう。それって? え…あ…それってもしかして…
「隆…隆!」
自分でも声になってたのかどうかわからない。叫んだつもりだった。ベッドから下りようとしたが身体が上手く動かない。布団にしがみつき、仰向けの身体を俯せて、そのままもう一度回転するとベッドから落ちた。
「痛…」
床に這いつくばって目を挙げると、廊下のドアが開いていた。水がザアザア流れる音がして、咳き込む音が聞こえた。小島さんの声だった。立ち上がれなくて四つん這いで声のする方に這って行くと、ユニットバスの戸が開いていて、ゲェゲェ吐く音が聞こえた。
「隆…隆…」
呼びかけても声が小さいのか返事がない。ようやく扉の前に来た。敷居に手を掛けて中を見ると、ユニットバスのカーテンのレールが片方落ち、カーテンが掴めるところまで床を覆っていた。カーテンが動いている。
「ゲホッ…ゲェェ…」
カーテンの下に半分隠れて、トイレを抱きかかえ、顔を突っ込んでゲェゲェしてる小島さんがそこにいた。
「隆…どうしたの…隆…」
「あ…ウゲェェ…」
小島さんは僕の声に気づいたように、ちらっとこっちを見たが、すぐにトイレに顔を戻した。僕はカーテンを手で引っ張り、小島さんの身体から剥がした。
「ゆ…裕…」
便器に顔を埋めたままほとんどかすれてて声になってないが、僕の名前を呼んだ。
「どうしたんですか…なにがあったんですか?」
僕は四つん這いのまま浴室の高い敷居を半身だけ跨ぎ、小島さんの足を掴んだ。すると小島さんはそのまま腰を落とし、上半身をひねって浴室の壁に一気にもたれた。苦しそうに口を半開きにしてハアハア喘ぎながら、小島さんは僕の方に倒れ掛かってきた。横向きに床に転がった小島さんの背中を僕はさすっていた。
「生きてたか…ごめんな…ゲホッ」
「どうしたんですか…」
「はは…棒が落ちやがった…クソっ…吐き気が止まんねぇ」
「あれって? カーテンの?」
ふと見ると、小島さんの喉にはぐるっと一周赤い線がついていた。
「隆…もしかして…そこから…吊ったの…?」
「ああ…ウゲェッ」
小島さんは自分の口を片手で押さえて苦しそうに何度もえづいた。カーテンの端から、丸く縛った電気のコードが顔をのぞかせていたていた。カーテンレールはステンレスの直径2cmほどのパイプだったが、小島さんの身長と体重ではこの装備では無理だとすぐにわかった。ステンレスだとしても、この太さなら、重いものを下げればしなる。しなったら、こんな浅いポール受けは役に立たないだろう。
「一緒に逝こうって…思ったのにな…ゲホッ…上手く…いかねぇな」
「僕を…殺そうとして…くれたの…?」
「ああ…一緒に…もういいやって…思ってさ…もう…ずっと前から…考えてた…考えが離れねぇんだ」
「なんで…小島さんは生きるの…好きでしょ」
「もういやんなった…いやんなってた…もうずっと前からさ…」
「僕に…死ぬなって言ったのに」
「人には言える…言えるし…我慢してた…飲めば忘れるしな」
「それでこんなに飲んでたの?」
「最近は…飲んでもダメなんだわ…お前と死ぬことしか考えらんなくなってた」
「これじゃ…死ねません…隆は死ぬべきじゃない…だって…だって…僕とは…違うよ」
小島さんは僕とは違うんだ。僕は咳き込む小島さんの背中をさすりながら心の中でそう叫んだ。生きている世界の人間なんだ。それなのに。僕がいたからなのか。僕が誘発してるのか。死ぬのは僕だ。小島さんじゃない。それなのに…
愕然とした。僕は初めて自分の欲望が誰かの心に影を落とすことを知った。
(死神だな、お前は…)
耳の中で消せない音が響いた。奪っていく大事なもの…それがなにかはわからない。でもなにか僕は小島さんからそれを奪ってしまったのではないだろうか。佳彦はそうなる前に僕を遠ざけた。佳彦は自分本位だったからそれが出来た。でも小島さんは…
優しいから。助けを求めた僕を支えた。それは、しちゃいけなかったんだ。巻き込んだんだ。僕は佳彦と別れた時に、小島さんに電話してはいけなかったんだ。
これ以上、僕が小島さんと居てはいけない。僕が誘惑したんだ。死の世界に、少しづつ。僕は自分がどういう存在なのか、こんな風に意識したことはなかった。ではこれからどうすればいい? 小島さんとこれから友達で居続ける約束をしたまま僕がここに存在していいのだろうか?
しかし、いまは小島さんがどういう状態なのかわからない。どこをどれくらい損傷しているのか、病院に言ったほうがいいのか。そう、僕が手首を切った時みたいに。小島さんが手当しろと言ってくれたみたいに、僕は現実的にいまここで吐き気が止まらずに起き上がることも出来ない小島さんをどうしたらいいかを考えなければならなかった。
「隆…救急車呼ぼうか?」
「いや…やめてくれ…このまま時間が経てばどうにかなる」
「だって、起き上がれないじゃないですか」
「ああ…まぁな」
そう言うと小島さんはゆっくりと両手で頭を抱えた。
「だって俺…お前を殺そうと…した…お前のこと…ほんとに…」
頭を抱えた指が自分の髪の毛を掴んで握りしめていた。固めた拳が震えるほど。
「許されない…俺は…俺はァァァァァ!!」
最後は叫び声に変わっていた。
違う…それは僕のせいだ。そんな苦しんじゃダメだ。僕は小島さんの拳を掴んで、自分の髪の毛を引きちぎろうとする指を引き剥がそうとした。死神は、僕なんだ。
「ええ…ええ! いいじゃないですか! それは僕が叶えてほしいことなんだから! いいじゃないですか! 隆のせいじゃない! 隆は悪くなんかない! 僕のせいだ…全部僕のせいなんだ!」
「そんなこと…あるかよ…俺は人殺しだ…俺はやっちゃいけないことをやっちまったんだよ!」
「違う! 隆、違う! 違う!違うんだ!違うんだってば!」
僕はどうしていいかわからなくなって、小島さんの背中に抱きついていた。
「救急車ダメだったら誰か呼んだほうがいいの? 誰か来てくれそうな人いるの? 僕だと、隆とどんな関係だとか訊かれたら説明出来ない。どうすればいい?」
「病院には…行けねぇよ」
「ダメだよ。お願い…病院に行こうよ…首の神経とか骨とか靭帯とか…やられちゃうんだよ…僕のほうが…詳しいんだよ。隆だって僕が手首切って病院行けって言ったでしょ? あれより隆のほうが重症だよ。事故だって言えば保険だって利くよ。だから行こう」
「裕…お前なんで…ウゲェ…ゲホッ…ゲホッ」
言ってるうちに泣けてきた。吐き気も止まらないのに病院に行ってくれない小島さんをどうすればいいのかわからなくなった。僕は背中にすがったままわんわん泣いた。しばらくすると、不意に僕の頭に温かいものが触った。小島さんの手だった。
「スマホ…持って来い…コートのポケットん中…」
その言葉を聞いて、僕は夢中で部屋に向かった。廊下で立とうとしてふらついてひっくり返った。そのまま四つん這いで部屋に行き、床に落ちているコートをつかんだ。小島さんの頑丈なスマホがポケットから出てきた。転がるようにして小島さんのところに戻り、スマホを手渡すと、小島さんは電話を掛けた。
電話の相手は寺岡さんだった。
「寺岡?…ああ…俺…小島…ああ…声…風邪じゃねぇよ」
寺岡さんはすぐに電話に出たようだった。小島さんは横になったままそれに受け応えた。
「死に損なった…ああ…あんたの心配してたこと…そう…そのまさか…やっちまったわ…吐き気が止まんねぇんだわ…ああ…いるよ…ここに…ああ…生きてる…俺…人殺しだ…」
寺岡さんが怒鳴ってる声がスピーカーから漏れてきた。なんて言ってるかはよくわからなかったが、とにかく怒鳴っているみたいだった。
「ああ…うん…わかった…悪いな…いや…その通りだ…そうだ…うん…よろしくな」
それからスマホを切った。話が終わったみたいだった。
「寺岡さんだよね、来てくれるの?」
「来るって…怒られた…まぁ…当たり前だ」
そう言うと小島さんは僕にスマホを手渡した。僕はそれを聞いて脱力した。安堵というやつだった。
「どっか、置いといてくれ」
手渡されたスマホを握りしめて、僕は小島さんに言った。
「ベッドに行く?」
「ああ…行けるかな」
小島さんはゆっくりと身体を起こし、四つん這いになった。動けるみたいで僕は安心した。咳き込みながらバスタブの縁につかまって立ち上がると、そのまま浴室の壁を伝って廊下まで歩いた。
「歩けるね」
「なんとかな」
僕も小島さんについて立ち上がろうとしたが、またふらついて廊下の壁に肩をぶつけて床に倒れた。その音で小島さんが振り向いた。
「裕!」
「大丈夫…立たないほうがよかったみたい」
「お前、さっきスマホ取りに行けただろ?」
「這ってった」
「大丈夫かおい!」
「先行って下さい。這って行けます」
二人でやっとの思いでベッドまで辿り着いた。小島さんに引っ張りあげてもらい、僕も小島さんの隣に横になった。小島さんはまだ気持ち悪いらしく、エビのように身体を丸めて横になっていた。僕は手渡されたスマホを枕元に置いた。
「お前が先に医者に見てもらってくれ…後遺症残るかもしんねぇ…寺岡が病院まで送ってくれる…」
「あ…はい…そうしたほうがいいならそうします」
「取り返しのつかないことしちまった…どうしたらいいんだろうな…お前これから高校行って…医者になるのに…」
「いいんです」
両腕で顔を隠している小島さんの腕に触って、僕はその言葉を制止した。
「もう言わないでよ。小島さん追い詰めたの僕です。寺岡さんがこの前言ってた通りです。どうしたいかちゃんとするべきだったんです。流されちゃダメだったんです。でもどうしていいか僕わかってなくて…だから…ごめんなさい」
「なにいってんだよ…お前のこと無理やり犯して言いなりにさせてたのは俺だ…最初から犯罪なんだよ…俺も松田も犯罪者なんだよ。なんで謝るんだよ…お前はなんにも悪くねぇんだよ」
「だって…あの時松田さんちゃんと言ったんですよ。なにが起きてもいいのかって。いいならここから君の責任だよって。だって僕、その時帰れたんだ…僕は帰らなかった。逃げても良かったんです。でも僕はなにが起きても僕の責任にしますって言ったんです」
「お前は…どこまでお人好しなんだ…それでも俺達のせいだろうが…」
「それでも…僕は帰れなかった…自分の中の熱が…身体が欲しがってたんです…僕はそれに抗えなかった…切り捨てることが出来なかった…僕はどこかでそれを待ってたんです…」
「もういい…お前は悪くないんだ…そんなのお前の歳の男子なら普通なんだって」
「でも僕はきっといろいろ普通じゃないんです。僕は、今まで生きてる誰かと一緒に居るっていう認識すらしないできました。でも今はこうやってひとつひとつ僕に欠けてる認識を埋めているんです。僕にはきっと…必要なことだって…おも…う…。それに…ぼく…は…」
それに僕は死にたがっていたんです…と言えたかどうだかわからないうちに睡魔が襲ってきた。どこから眠ったのかわからないが、いつの間にか僕は眠りに落ちていた。