ところで寺岡さんは凄い人だった。神経科と精神科併設の病院の副院長(院長の息子)と知り合いで、僕達はそこに寺岡さんの車で搬送された。日曜日だというのに、切迫した顔の副院長先生が直々に診察して、その日に6人部屋に入院。さすがにインテリの人脈は違う。そんなことが良く出来ると僕は不思議に思ったが、後から聞いてみると、その副院長先生は寺岡さんの元カレで、寺岡さんに弱みを握られていた。
「どんな弱みかって? それは秘密だよ、裕君」
「そうですか」
「だって僕は誰にも言わないであげるから、っていう恩義をもって彼にいろいろ便宜を図ってもらってるんだよ? 言ったら人としてダメでしょ」
もう、脅してる時点でダメだと思うが、僕もそれの恩恵に預かってたので、文句は言えなかった。
「君の親御さんに連絡するよ。自宅の電話番号教えてよ。明日にでもお母さんに迎えに来てもらおうか。うん、それがいいね。私は図書館の近くで君が倒れたって言うよ。たまたま通りがかって知り合いの病院に運んだって。同室の小島くんは赤の他人ですし、お互い無視してれば問題なし。良かったら、ここで知り合ったことにしてもいいよ」
こうやって、寺岡さんの策謀の中で僕はまず先手を打たれたようだった。上手いなぁ…頭のいい人は違う。きっと何手も先を読んで行動してるに違いない。僕は感心した。心配だった小島さんの症状は、吐き気止めを点滴してもらっているうちに治まってきたらしい。それより驚いたのは、小島さんが鬱だった、ということだった。
「まぁ、前から心配はしてたんだよねぇ。大学教授って鬱多いのよ。おんなじこと言ってるんだ、そいつらとさ。医者にかかれって言ってたのにガン無視だよ、彼。言ったこっちゃない。酒のんでごまかしてもごまかせるのは自分だけですよ。周りにはバレバレだって」
「ほんとですか…僕、わからなかった」
「君といるときは良くなるんじゃないの? だから一緒に居たかったんじゃないかな」
僕の診察の付き添いで車いすを押しながら、寺岡さんはそんなことを言った。
「あの…」
「ん? なに?」
「ありがとうございます。忙しいんですよね、この時期」
「いいのいいの。私ね、小島君に借りを返すタイミングをうかがってたんだよね。これでチャラにしてもらいますよ」
「一体どんな借りだったんですか? 助けられたのにボコボコにされたって」
「あー、それねー。恥ずかしい話、私、痴話げんかで刺されてね。待ちぶせだよ、すごくない? まぁ、私がその男の恋人寝取ったのが悪かったんだけどさ」
結構ハードな話が出てきて、僕はちょっと驚いた。
「刺されたって…どこを刺されたんですか?」
「よけたんで、太ももに刺さった。なんかガーバーみたいなミリタリーナイフだったみたいでさ。サクッと刺さったよ。驚いたね」
「そうですね」
「んで、そこをたまたま同じ店で飲んだくれてた小島くんが通りがかってさ。陸自辞めた後だったのかな。その店ではたまに見たことあったけど話したことなんかなくて、知らないも同然だったのにね。見事だったよー。パァン、ってナイフ叩き落として羽交い締めにして、その間何秒? って感じ。まぁ、相手は特に格闘技なんかやってないみたいだったしね。わざわざ私のためにナイフ買ったんだって。あはは…モテるよね私って」
これは両方ともトラブルメーカーっていうのかも知れない。刺す方も刺す方だが、寺岡さんも刺されて当然と言えば言える。
「それで応急処置までしてもらってさ。その時はもう殺されるって思ってたから、ほんとに小島君がナイトに見えたよ。マジで。それで事の次第を訊かれて答えたら、小島君酔っ払ってたから一瞬で怒り心頭になって、ボコボコにされちゃった。モモは痛いし、口の中は切るし、まあ、最悪だったよね。でも救急車呼んでくれて、もう、そういう卑怯なことはするな、とか言って去って行ったんだよ…なんか自分のことながら映画観てるみたいでね、ボコボコにされてたけど案外感動しちゃってさ」
ホントに映画みたいだった。陸自の実践練度を垣間見た気がした。そして、ボコボコにされながらもそれに感動してる寺岡さんも策士の割には奇特な人だと思った。
「三国志だったら、ここで義兄弟の契とか結ぶんだろうけどね。でも私はその代わりに他人様のものを黙って奪うのはやめようって思ったんだよ。いわゆる改心したってやつだ。まぁ、こんな目に合うっていうのがけっこう堪えたんだろうね。かなりな怖さだった。で、こんな奴をかばってくれる人もそうそうは居ないだろうってさ。2度めはないってどっかでわかってた。ある意味啓示だな」
病室に着いて、僕はまたベッドに横になった。ふらつきもかなりは治まっていた。小島さんは落ち着いたせいか眠っているようだった。寺岡さんは小島さんに聞こえないように、小さな声で僕に囁いた。
「でもこれで、恩返しは出来た。君、いい仕事したね。死に損なって君的には残念かも知れないけどね。小島君にはいいキッカケだった。もっと彼は自分の内面と直面しなきゃね。自殺未遂も場合によっては良いもんだ…君の後遺症が残らなければ、だけどね。ああ、そうそう、君のお母さんがすぐ来るって言ってた。ここ君の家から案外近いみたいだね。私が説明しておくから寝た振りでもしていてよ」
「あ…はい。ありがとうございます」
そのあとすぐに本当に母親が駆けつけてきた。僕の狸寝入りを見てから母親と寺岡さんはどこかに出て行った。これはまた思いもよらない方向に行ったなと僕は思った。
母親は明日の検査を待って再度迎えに来るということになり、僕と小島さんは病院という特殊な場所で初めてのお泊りとなった。寺岡さんは僕の母親を見送った後帰っていった。
夜中に不意に起きると、小島さんのベッドのカーテンが開いていて、もぬけの殻だった。僕はこっそり小島さんを探しにスリッパを履いて廊下に出た。トイレを探したがいないので、昼間車いすで通った談話コーナーに行った。小島さんは一番奥のソファの端に座っていた。ぼんやりと窓から街の灯を見ているようだった。そのうち僕のスリッパのパタンパタンという音に、ギクッとした様子で振り返った。
「なんだ…裕か…」
「びっくりしましたか」
「ああ…看護婦かと思った」
「眠れないんですか?」
小島さんはフッと笑ってうつむき、僕の問には答えなかった。
「もう…ちゃんと歩けるんだな」
「はい。歩けますね。気が付かなかった」
「危ねぇな」
「隆こそ」
「俺はだいぶ良いよ。心配なんかするな」
「あ…はい」
僕は小島さんの隣に座った。小島さんの顔が固まるのがわかった。
「なんで怒らねぇんだよ」
「なんで怒るんですか?」
「…当たり前だろ」
「ウツだって…隆のこと寺岡さん、そう言ってました。内緒だったんですか?」
小島さんは背もたれに身体を沈めてうなだれていた。
「いつから気づいてたんですか? 自分でもわかってたはずだって…寺岡さん言ってた」
「さぁな。陸自で嫌な目に遭ってた頃からじゃねぇかな」
「ずいぶん前ですよね」
「でも、考えてみれば…こんなふうな気分はオヤジとおふくろが離婚してからずっとだったって気もするわ」
「高校生の?」
「だな。この気分が濃くなったり薄くなったり繰り返し…繰り返して煮詰まって…ここにいるのかな…俺は」
小島さんは遠くを見るような目をしていた。
「まさかさ…自分の家族が壊れるなんて思ってねぇだろ。生まれた時から当たり前にそこに有ってさ…なんやかんやあっても、そんなことはどんな家でも当たり前にやっててさ…そんでそんな風に一生続いていくもんだって思うじゃね?」
「ええ」
「不倫だの離婚だのなんてドラマの中の話でよ。まさか俺の家がそんな風になるなんて…なんだか悪い夢でも見てるみてぇだったわ」
そう言うと小島さんは窓の外に目をやった。
「俺はそんな風にならない」
そして、小島さんはプッと噴き出した。
「笑えるよなぁ…俺はほんとにオヤジそっくりなんだわな…俺はそんな風にだけはならないって、本気で思ってたんだぜ。俺は一人の人を永遠に愛するって」
笑いながら小島さんは宙を見上げた。
「無理だったんだ…俺にも」
「隆…」
「たったそれだけだったんだぜ…俺が望んでることは…沢山じゃねぇんだぜ…裕…ケンカしても、すれ違っても、誤解しても、それでも寝て起きればなんとかまた一緒にやっていけてさ…謝ったり、怒鳴ったりして、それでも結局壊れねぇ、普通の関係がさ…俺は…ほしか…った…それだけ…だったんだって…」
笑っているうちに、小島さんの言葉が涙で詰まっていた。
「お前を永遠に愛していたかった…俺が望んだのはただそれだけだった。だから愛してるまま死んじまえばいいって、いつからかそんな妄想に取り憑かれちまってた。お前が望んでいる死を、俺がお前に与えたかった。松田がやれなかったそれを、お前を止めたはずの俺がお前に与えるって…滑稽過ぎて今なら反吐が出る。でも、俺はもう終わる愛なんか見たくなかった。すべての符牒が、完成したパズルみてぇにはまって見えた。死にたいお前と、死にたい俺。俺が死んだ後、あっちで待ってたお前が、死んだ俺を愛するんじゃねぇかなんてことまで思ってた。そしたら俺はお前の好きな死の世界の住人になれる。そしたらお前が初めて俺を見る…そう思ったら泣けてきた。俺は死んだら永遠に愛するだけじゃなくて、愛されるんだ…って。もう俺は終わりを見ることは…ないんだって…」
永遠…永遠…えいえ…ん…
それは小島さんの言っていることが正しいよ。そう僕は思った。生きている世界には始まりがあるんだ。だから終わりが必ず来る。死にはそれがない。必ず終わるように出来てるから、生きてる世界は淋しいよね。僕もそう思う。僕はそれを教えられた。佳彦や隆に。でも、死の永遠の世界は生きてる人からは遠いんだ。本当に行こうとする時、その体の中の熱を自分から断ち切ろうとする時、人はどれだけの決心と思い込みと絶望がいると思う?
僕の脳裏に『Suicidium cadavere』がよぎった。それらはほとんど決意とか願望とかいう心の意志や感情を超えていた。それはいわば狂気に近いなにかなんだ。すると狂気という言葉に合わせて、井戸の中の二人がそれに取って代わった。入水の瞬間、二人は互いに目を見開いて笑った。それはもうオーガズムと言っても過言ではなかった。狂ってるんだ…この世の熱を超えていけるのは、もうそれしかないと。
だから僕は狂うんだ。その姿を見ただけで…
「隆…もっと…狂ってよ」
「え…?」
「それじゃ…永遠に…届かないよ…生きてる世界からは遠いんだ…熱のある人は…狂わなきゃ…辿りつけないんだよ…あそこにはさ…」
僕の口から死人の声がとぎれとぎれに響いた。ああ…僕はまだ片足を残してる…!
僕はまだ…あれとつながってる!
「隆…ぼくは…戻っても…いいかな…」
「裕…どうした?」
「扉…見つかった…?」
僕はいつの間にか意識を失っていた。