起き抜けの夢のなかで僕の首に指が巻き付いていた。
ずっとこうだったんだと夢の中で僕はまったく当然のように受け止めていた。
過去、一度たりともこの指が外れたことはなかったと。
長い長い長い時間、僕が気がついた時にはこの指は僕の喉元を覆っていた。
誰が僕の首に手を掛けようと、この指の代わりをしているに過ぎなかった。
僕が生きて誰かと関わると、この指は僕を絞めて落としたんだっけ。
僕がこの世で透明に存在を殺していくために。
本当は肉体が存在することを許さなかったんだ。だけど…
ふたつの想いが交錯して僕はこの世で肉体を持ちながら死んでいる。
それはせめぎ合っていた。死に守られている。肉体には制御装置がある。
それがなぜそうなったか、それはわからなかった。
扉…戻っていく…制御装置…また僕は静かな世界で…
ゆっくりと僕は夢から覚めていった。
僕には頸動脈洞過敏症候群という病名がついた。それは小島さんの言ったように、首を絞められて落とされているうちにそうなってしまったのか、それとももともとそんな病因が僕にあったのかはわからなかった。絞められないのに落ちたのは初めてだったが、自殺遺体を見て気が遠くなるような感覚になるのがその前駆症状とも考えられた。
しかしそれから僕は、故郷に戻れるような確信に似たなにかを感じたことは間違いなかった。いままで迷子として彷徨った世界を振り向く気が失せていく。肉体の感覚が曖昧になり、意識から消えていくような感じがした。佳彦と出会う前の僕。
検査が済んで僕は退院した。脳は脳波も器質的にも問題がなかった。認められたのはただ過敏な自律神経の症候だった。失神を繰り返すようだったらペースメーカー治療をしなければならないという。今は経過観察だから、頚動脈洞圧迫につながる急激な頚部回旋、伸展などの行動は避けるように言われた。特にネクタイ締め、着替え、自転車の運転、荷物の上げ下ろしなどの行動に伴って症状が出やすいので、それらの誘因を避けるようにと指示が出た。高校の制服はネクタイだ。
小島さんは鬱の希死願望が再燃しないように、もう少し長く入院させられることとなった。鬱の薬も出て、酒を飲まなくても夜眠れるように睡眠薬も処方された。仕事は病休で休むことになった。初めて仕事に穴を開けたと小島さんはぼやいていた。
退院の前に、病室では失神した僕をナースセンターに運んでくれた小島さんに母親がお礼を言っていた。僕の母親を見る小島さんは、申し訳無さそうな不思議そうな困った複雑な顔をしていた。僕も、こんなところで母親と小島さんが言葉を交わしていることに驚きを覚えた。小島さんに他人行儀な挨拶をして、僕は病室を出た。
失神のおかげで今後も僕は、経過観察としてこの病院で月に一回ほど診察を受けなければならなくなった。またここに来る。小島さんは退院しても、ここの外来で鬱の治療をする。今度会うのはこの病院かも知れない。
僕は母親に連れられて帰宅した。迎えに来た時から母親はいつもと少し違っていた。思いつめているような感じで、それは僕の見たことのない顔だった。寺岡さんがあのときなにか言ったのだろうか。それとも僕の症状が案外深刻なんだろうか。
すぐに卒業式が来て、僕は中学校を卒業した。4月になれば僕は高校生になる。そして僕はもう一度考えな直さねばならない。本当に小島さんに僕が必要かどうかを。
春休みだった。昼下がりに僕はひとりで町の郊外にある廃墟を歩いていた。
ひとり。
ずっとひとりだった僕は、佳彦と出会ってから、いつも誰かと居た気がした。だから今日は久しぶりのひとりだった。
廃墟は戦後すぐ建てられた公営の小さな団地だったが、老朽化して住めなくなり、そのまま放置されていた。4棟あるうちの1棟だけ屋上に出られる棟があり、僕はたまにそこに登ってぼんやりとするのが好きだった。フェンスの破れ目から入り、建物の中に入る。割れたガラスの破片を踏み、パキンと音をさせながら階段を上がる。土埃と砂の上に僕の足あとが付いていく。5階を上がって行くと、少し息が上がった。屋上に出るドアを開けた。
曇り空が一面に広がり、風がうすら寒かった。ダッフルコートのポケットに手を入れて、僕はドアの前の階段にうずくまった。錆びついたフェンスが風で震えている。土ぼこりとススにまみれたパラボラアンテナが何も受信しないまま放置されていた。
受信しなければ全ては静寂だ。だけど僕はいつの間にかノイズを拾うようになっていた。耳元で囁かれているうちに僕の鼓膜は震えることを覚えた。そしていまや僕は無音の音を聞かされるまでになった。
死神だな…おまえは…
僕はあれから隆のことをずっと考えている。いまだに好きかどうかなんてわからないのに。隆は深く罪悪感を持っているんだろうが、殺されかけたことも、殺してくれなかったことも、僕の心にある隆の印象を変えるものではなかった。考えはまとまらず、あちらこちらに飛んでいった。
僕はあのとき、この期に及んで隆を死へと誘惑していた。もっと狂ってくれと。永遠はそこにしか無いと。あんなに永遠を望んでいる隆に、僕はその願いを叶えてほしいと思った。だが僕の語ることは死の世界の言葉だ。僕はその言葉以外持ち合わせていない。それが隆を幸せにするんだろうか。
たとえ僕のことをもう好きではなくなったとしても、友達として付き合っていくだけでも僕は隆の衝動を誘発する触媒になる。本当は自分から死ぬような人じゃない。嫌なことが長い間続きすぎて、疲れてしまったのだ。僕を好きになったのも疲れすぎてたからなのかも知れない。無意識に死に場所を探していて、死にたがってる僕を道連れとして選んだだけなのかも。
そうしたら僕は高校に入学したら隆にさっさと会って、気持ちが萎えたのを確認して、友達として付き合うという約束を反故にして、二度と逢わないようにすればいい。隆もそのあとを続けることを望んでいたわけじゃない。僕が可能性を見出して、それに賭けているだけのことだ。
僕はどこかで確実に感じている。死と呼ばれるものが僕を満足させていることを。そして生きていることがあんなに淋しいと。
誰もが生きることを称賛することを僕はいつも不思議に思っていた。でも僕は生きることが好きな人のことをやめろとは思わない。人が死に抗っているのはなぜかと僕は考えていた。それはもしかしたら僕が佳彦の誘いを断れなかった理由と似ているのかも知れない。寄生虫に似たものに快楽の根っこを押さえられて、それを貪るためにこの身体を維持しているとしたら。僕の嫌いな“熱”に潜むもうひとつの側面。あの焦燥に満ちた性感の渦。僕がもし死の静寂を知らなかったら…僕はあの焦燥に駆られて生きていくのだろうか? そしてあの淋しさを埋めようともがくのだろうか?
思い出すだけで、肉体の感覚が甦ってくる。扉が遠のく。僕は立ち上がってあたりを見渡した。錆びたフェンスから向かいの棟の割れた窓ガラスが見える。誰もいない。シーンとした無音の世界が僕の熱を冷ましていった。以前よりその熱は容易く冷めたような気がした。
僕は風を避けるために屋上を後にした。階段を降りながら、僕はまた隆のことを考えていた。
(お前を永遠に愛していたかった…)
永遠に誰かのことを愛し続けたい。でもそれって…結局死ぬまで、ということなんだよね。それは永遠とは言わないんじゃないか?
一生、という言葉がたぶん正しい。やっぱりそれにも始まりがあって終わりがある。この世の理の中にある“長い有限”のことなんだと僕は思考の前提を修正した。それなら狂気しか連れていけない永遠ではなく、淋しさを抱えながら誰かと生きていく、普通を選べばいいだけのことだ。僕が隆を見ないから、僕が条件の中に入っているから、死という選択が現れてくるんだ。だって隆は、本当はずっと愛されたいんだから。
それでも隆はあの壁を打ち破らないとどんな先へも行けない。もともとは隆はそんな壁はなかったはずだ。だから自衛隊時代のトラウマさえ解消すれば、その問題は解決するんじゃないかと僕は思った。そうすれば、僕よりずっと年上の人をただ新たに好きになればいいだけだ。僕である必要はない。それを隆はわかっているんだろうか。それをわかっていれば本当に僕はもうなにもすることはなくなる。
すべてが僕がいないほうがいいという方向を指している。早く僕から気持ちが去ってしまうのを確かめて、すぐに僕がいなくなるのが一番いい。そして、カウンセリングでもセラピーでもちゃんと受けて、トラウマを解消して、隆の本来の人生を歩んでいけばいい。
望みを叶えればいい。
なにかが僕の中で収束した。理由も行為もすべて合理的な結論に納まった。うん。そうだ。これでもう隆から大事な何かを奪わずに済む。
気がつくと僕は1階の出口にいた。出口だ、隆。もう苦しまないで欲しい。僕はそのまま敷地を歩いてフェンスの破れ目から外に出た。そろそろ家に帰ろうと思った。
入学式が終わり、その足で僕は病院に向かった。何教科かの教科書を抱えていてそれが少々重かった。そう言えばあまり重いものを持たないようにと言われていたのを思い出した。高校は自宅から電車で通う。病院にはその帰宅する路線で自宅を通り越して、2駅行ったところにあった。その駅でロッカーに教科書を入れて、バスに乗った。
慣れない新しい制服のネクタイを少しゆるめた。ネクタイもだが、ワイシャツも襟を絞めないようにと、少しゆるいものを母が買った。濃紺のブレザーにダークグレーのスラックス、濃い臙脂色のネクタイ。ごく標準的なデザインのようだ。髪は少し伸び、度が進んで見えにくくなったメガネを授業のために春休みに新調して、母親に少し印象が大人になったと言われた。それは好都合だった。これから会いに行く人にとって、それはひとつの壁だから。
廃墟に行ったあの日の夜に、久しぶりに僕から隆に電話をした。だが、電話は電源が切られていて掛からなかった。いつも隆からかけてくる夜中の電話も、病院で別れてから掛かっては来なかったので、まだ入院しているのかなと推察した。
仕方がないので事情を訊こうと寺岡さんに電話した。かなり長いコールの後、寺岡さんが出た。やはり隆はまだ入院中だった。自殺未遂で入院の場合は、大抵の場合1ヶ月くらい入院して服薬し、様子を見ると寺岡さんは説明してくれた。携帯はナースセンターに没収。許可を取ればその時間だけ返してくれるらしいが、隆がそれをしなかったのだろう。どおりで電話がないはずだと思った。
「それでなにか彼に用事?」
と、寺岡さんは僕に訊いた。
「はい。高校の入学式が終わったら会おうと思ってます。小島さんの気持ちがどう変わってるか確認したくて」
「うんうん。そうなら面会に行けばいいんじゃない? 月・水・金は診察とかカウンセリングがあるっていうけど。いつ行くの?」
「4月の一週目の月曜日です。入学式なんです。午前中で終わるんで、午後から僕も予約取ってあるんです」
「あ、そっか。君も患者さんだっけね。どうなの? 具合はいいの? 夜中に失神して小島君にナースセンターに担ぎ込まれたって聞いたよ。小島君に聞いたらなんか難しい病名だったなぁ…」
「頸動脈洞過敏症候群とかって」
「絞め落とされすぎたせいじゃない? よってたかって壊されちゃったね。まだ人生これからだっていうのに」
壊された…と聞いて、僕は少しゾクッとした。
「そう…ですか」
「他人ごとみたいに言わないの。ああ、君はそのほうが萌えるんだったっけ?」
「ええ、まぁ」
「へぇ、正直だな。まぁいいけど。そうだねぇ…小島君の例のビョーキがどうなってるかだよねぇ。いや、ウツじゃない、もう一個の持病ね」
「相手が高校生になると気持ちの萎える病気のことですかね」
「単刀直入にそういうこと」
「発病してて欲しいなと思ってます」
「おや、なんで?」
「だって…僕が一緒に居るとまた死にたくさせるから」
寺岡さんは一瞬沈黙した。僕は続けた。
「治療の妨げになると思うんです。色々な意味で」
寺岡さんは少し黙っていたが、ゆっくり口を開いた。
「…言いたいことは…わかるよ…うん…君、いろいろこの前のことから考えたんだね」
「はい。トリガーなのかなって…僕が」
「言えてるといえばそうだけどね。うーん…どうだろ。とりあえず、会ってから考えたら? 小島君けっこう君のこと心配してるからさ。たまに元気なところ見せてあげたほうがいいのかもよ。まぁ…流れ次第だけどね。あの病院カウンセリングとか精神療法のプログラムとか充実してるから、持病が治っちゃうこともあるかも知れないし。案外もう治ってるかも知れないし。どうする? 君の思惑通りにはなんないかも」
「それも考慮済みです」
「ほう」
「そしたら、小島さんに必要な人間が僕である必要が更になくなるんですが」
「まぁね」
「僕じゃなくて、小島さんを愛する人がいい」
「…君はどうなの?」
「僕は、好きかどうかわからないんです」
「まだそこか」
「それは変わりません」
「会えなくなっていいの?」
「どうでしょうか」
「彼が君以外の人間を抱いていいの?」
「さあ、そうなってみないとわかりません」
「まぁね。でも後悔するかもよ」
「後悔したら、それが好きってことですか?」
「そうかもしれないね」
「じゃあ、今わからないから、後悔する方を選びます」
「君って…勇敢というか…まぁいいや。そのときは後悔しなよ。それもまた人生だ。うん。君はまだ若いから僕はそう言える。若いから言えるんだよ。30面下げた大人には言いませんよ」
「そういうもんですか」
「そういうもんですよ。裕君。君はまだ青くて酸っぱいからね。果実は熟していくものさ。季節の試練を受けながらね。でも君はさ…」
「ええ」
「小島君のこと…大事なんだね」
大事…? 僕は意表を突かれた。
「どういうことですか?」
「君が小島君のためになるように一生懸命考えてるからさ」
「そうなんですか」
「うん。気づいてない?」
「苦しまないで欲しいって思います」
「うんうん。いいよ。それって君は小島君のこと大事なんだよ。そうなると…好きとか嫌いとかなんて…どうでもいいのかな。それより深いかもな…愛だな、愛」
「愛…ですか」
「そうかもねって話。君にもわかんないんだろ? 想像してみるしかないじゃん。裕君は面白いな」
寺岡さんは楽しそうに笑った。
「君も自分を確かめるといいよ。小島君には前もって言わないで、いきなり行ったほうがいい。逃げるかも知れないしね、今の彼なら。いやー、その会合見たいなぁ。どうなったか、あとで教えてよね」
そのあと少しして僕達は話を終えた。話せてよかったよ、また話そうと言われたが、寺岡さんからは僕を狙っているとか言う雰囲気のカケラも匂っては来なかった。とても大人なんだなということをいつもよりも感じた。
下車するバス停が近づき、誰かが降車ボタンを押した。病院の前に停車すると何人かがバス代を運転手の脇の支払い口に入れながら降りて行き、僕もそれに倣った。この白い建物の中に隆がいるのが不思議に思えた。