※この作品はR-18です。

僕を止めて下さい   作:架空線

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Ⅱ.『Suicidium cadavere』    【画】

「いえ…持ってないですが…」

「貸そうか? 利用者の忘れ物で1年経ったのなら貸せるよ? あと10分で閉館だから」

 

 それを聞いて、ようやく僕はこの人が図書館のスタッフなんだと気づいた。

 

「あ…ありがとうございます。助かります」

「まぁ、傘があってもこの暴風雨じゃあ無駄かもね」

 

 彼はそう言うと笑った。そうかもですね、と僕は相槌を打った。

 

「では今日は本を借りないで帰ります。濡れるといけないので」

「ああ、それは助かります。たまに本濡れは買いなおさないといけないこともあって。ちょっとここで待ってて。傘もって来てあげる」

 

 そういうと男の人はカウンターの中に消えていった。こんな風に人と話すことが殆ど無いので、僕は不思議な気分だった。再び出てきた男の人は真っ黒なこうもり傘を腕にかけて僕の前に現れた。

 

「はい、これもう壊れかけてるから、もしこの風で骨が折れてもいいよ。そっちで処分しても」

 

 壊れかけていると聞いて、僕は少し傘に親近感が湧いた。僕が差して帰ったら風で完全に壊れるのかも知れない。男の人が傘を開いて見せてくれた。パッと見て、どこが壊れているか見当がついた。

 

「閉まらないんですね、このワンタッチの…ここ壊れてますね」

「よくわかったね。だからベルトで止めないとジャンプして開いちゃう」

 

 閉館の音楽が鳴り始めた。

 

「今度、とっておきの本貸してあげる。君は絶対好み。晴れた日にね」

「え?」

「僕の本だ。図書館の本じゃなくて…」

 

 なぜそんなことを言うのかよくわからなかった。でも、何かを貸してくれるらしい。とりあえず社交的に、ありがとうございます、と、お礼を言った。そして雨の中を帰った。

 

        

【挿絵表示】

 

 

 

 

「終わるまで待ってて!」

 

 晴れた日の夕暮れだった。館内には蛍の光が流れている。約束通り本を貸してくれるという。約束だったのか、と、僕はぼんやり思った。ロビーの椅子に腰をおろして窓の外の夕焼けをぼんやりと見ていた。なんでこんなことになるのかよくわからない。

 

「ごめんね。遅くなった。じゃあ、出ようか」

「はい」

 

 僕と彼は非常口から図書館を出た。

 

「こっち。車の中にあるんだ」

 

 彼はそう言うと、建物の裏手の駐車場に僕を手招きした。黒いシボレーのワゴンがぽつんと一台停まっていた。彼は助手席のドアを開けた。

 

「どうぞ。座っててよ」

「ああ、はい」

 

 そして彼は反対にまわり運転席のドアを開けた。座席の上には黒いトートバッグが置いてあり、彼はそれを取って僕に手渡した。

 

「中見てよ。これだよ」

 

 バッグの代わりに彼がそこに座った。僕はカバンの中から大判の本を取り出した。B4の変型版。写真集? 表紙はどこの国の言葉かわからない。ドイツ語? ギリシャ語? 真っ黒なツヤ消しの表紙に、白抜きの細い文字で『Suicidium cadavere』とあった。僕は表紙を開いた。

 厚手の紙をめくり、作品が見えた瞬間、僕は無音の世界に放り込まれたような気がした。モノクロの画面を真ん中から切り裂くように、人が吊るされていた。

 

 縊死。

 

 どこかのビルか何かの吹き抜けの階段の手摺だった。そこに白い太いロープが結んであった。太いロープは不自然なほど白かった。屍体の顔は男。彫りの深い外国人だった。床には黒いものが滴って、それが溜まっていた。僕の中でなにか言い知れない感情が蠢くのを感じた。瞬きを忘れた。いままで沢山の死の写真を見てきた。だが、この画像は僕の見てきたものの中で、特別に感じた。不意に下腹部が熱くなった。これはなに? この感覚はなに? 無音の世界が、僕の熱で赤く染まる。嫌だ。静けさが壊れていく。壊してるのは自分だ。なぜ熱くなってるの? 無音の世界にたった独り、僕の存在だけが生々しく感じた。そして途轍もない違和感に襲われた。僕が生きているのが変なんだ。そう気がついた時、僕はこの写真の中の誰かに、凄まじいほどの羨望を感じていた。

 

「気に入ったかい?」

 

 彼が耳元で囁いた。僕は我に返った。なにか意味もなくすごく気まずい感じがして、僕は答えも出来ず、慌てて次のページをめくった。

 頭の潰れた屍体が地面に固まっていた。

 やはりモノクロで、それは多分飛び降り自殺の現場写真だった。関節がありえない方向にネジ曲がった脚、地面に広がる体液。また、僕の下腹部でドクンと何かが蠢いた。それに身震いした。

 

「どう?」

 

 言葉が出ない。僕はまた彼を無視してページをめくった。自分の身体が反応していることをわかられたくなかった。

 ページをめくると、黒い水の張られたバスタブに胸まで浸かって絶命している女の人が現れた。黒いのは多分血だろう。バスタブの中で手首を切ったのだ。風呂場のタイルの壁に顔をあずけ、目を閉じていた。半開きの口もと。水を吸った色の薄い西洋人の髪の毛が顔にまとわりついている。タイルの床に落ちているカミソリ。これも白黒の写真だった。

 

 次のページをめくった。ベッドで目を見開いて身体をよじって死んでいる女。口元から黒いものが溢れ、顔を汚していた。服毒死だろう。枕元に空の薬瓶が転がっていた。息が少し上がる。呼吸が早くなってる。次のページをめくる。少しづつめくるスピードが増していく。興奮しているから、そしてそれは読めない言語で解説してあるこの写真集がどんなテーマなのかを確かめるためでもあった。3ページめくった時点でもうわかっていたけれど。

 

「すごく、熱心に見てくれてる? だったら嬉しいなぁ」

 

 何度話しかけても無視されてるのをそんな風に彼は思ったようだった。実際それもあったが、どう答えていいかわからなかった。だが、確信を持った僕は、早くその答え合わせがしたくて、5ページ目を見ながら彼に確かめた。そこには右のコメカミを銃で自ら撃ちぬいた若い男が椅子に座っていた。

 

「自殺…全部…自殺の現場…」

「そう! そうなんだ! よくわかったね。さすがだよ!」

 

 彼はとても嬉しそうに叫んだ。その声を聞いて、僕は初めてこの人も屍体が好きなのかということに思い至った。それは初めて他人というものが存在するのを知ったような気分だった。それは僕にとって、まるでヘレン・ケラーが水を手に受けた時に、物には名前があるということを知った瞬間のように。

 

 「東欧の…もう今は分裂してなくなった国だけど、そこのある街の警察署にあった古い現場写真らしいんだ」

 

 と、彼は言った。分裂前のクーデターや内乱が激しかった時代に警察署が銃撃されて、管理者も逃げ、荒れ放題になって物盗りが横行し、そこの資料室から盗まれた現場写真が流出してこんな本になったという。ロシアのウェブのブラックマーケットのオークションでたまたま出たものらしく、それを落札したのは猟奇的な趣味の本や動画や写真などを揃えているコレクター向けの裏サイトで、そこは彼の知り合いの店だと言った。

 

「僕の好きそうな本が入荷すると、連絡を入れてくれる。ちょろいお客さんだよね、僕は。でも、君に出会って、その本屋のオーナーの気持ちがちょっとわかった気がするよ」

 

 そんな話を聞きながら、僕はまた彼から画像の方に目を戻していた。6ページ目7ページ目と、白黒の画像は続く。死斑の浮き出た美しい凍死の遺体にも、水を吸って樽のようになってしまった水死体にも、僕は蕩けるような感覚を覚えた。腐爛屍体の剥きだした肋骨、焼死体の黒く糜爛した皮膚に、僕は陶酔し続けた。

 気がつくと彼が、少しづつ身体を密着してきていた。その意味が僕には最後までわからなかった。

 

「この本、貸してあげる…君、気に入ったでしょ?」

 

 なぜか僕の耳元で彼は囁いた。僕は黙って頷いた。

 

「僕も君が…気に入っちゃった…」

 

 彼はそんなことを言って僕の背中に手を当てた。気に入ったから貸してくれるのか、と僕はそのまま受け取った。指が背骨をなぞるのがわかった。なにしてるのか、よくわからない。椎骨を数えてるのかな? そんなことを考えながら、僕は写真に釘付けになっていた。彼のことなどどうでも良かった。この本を貸してくれることだけが重要だった。

 

「貸してあげる代わりに、僕のお願いを聞いてくれる?」

 

 更に耳元に近づいて、まるで耳に口をつけるように彼はまた囁いた。そんな事しなくても聞こえるのに、と僕は不思議に思った。僕は画像を見つめたまま答えた。

 

「なんでしょうか?」

「いまから僕のうちに来てよ」

 

 行ってどうするのかとかすかに思いながら、僕は写真集をめくりながら、ええ、と言って頷いた。

 

「いいの? ありがとう! 嬉しいなぁ。じゃあ、シートベルトしてね。車出すからさ」

「はい」

 

 車は静かに滑りだした。その20分後に僕は彼のマンションのリビングに居た。

 

 ソファに座る僕は、よくわからないまま、隣りに座った彼のしゃべるのを聞いていた。彼の手は、また僕の背中に回され、その手は僕の皮膚を服の上から撫でていた。これは癖なのかな? と僕は想像した。

 

「こんなに早く、僕の家に来てくれるなんて思わなかった…ありがとう、君のことずっと見てたんだ。きれいだよ…雰囲気も、身体も、声も、とてもいい…メガネが似合うね…それも好きだな」

 

 変な趣味だ。僕のことを気に入るなんて。僕は写真集の続きを想像しながら、その声を聞いていた。だが、どんなことを言っているのかあまり興味がなかった。

 

「なにか飲むものを持ってこようか」

 

 そう言うと、彼は僕の背後に回った。キッチンに行くのかと思った。しかし、彼は静かに僕の後ろに立った。その時いきなり僕の首に、背後から彼の腕が回された。そして、急にその腕が僕の首を絞めつけた。気管は潰れないので苦しくはなかったが、いきなりの行為に僕は驚いて、彼の腕に自分の指を掛けた。しかしそれはいわゆる“スリーパーホールド”と呼ばれる絞め技の一種で、左右の頸動脈だけを腕で圧迫して、それがキレイに決まれば約7秒で、後遺症なく脳酸欠で失神する。

 それはとても見事なスリーパーホールドだった。僕は教科書通り、10秒経たないうちに気を失った。

 生まれて初めての失神だった。だが、落ちるまでの数秒、僕は遠のく意識の中で、生まれて初めてのものすごい快感を感じていた。その快感は容易に性感へと変換した。殺される、と思った。正確には“壊される”と思った。自分が壊される。それを思うと、さらに快感は増大した。僕は意識を失う瞬間、初めて射精した。それが射精だとはその時は自分では気づかなかったのだけれど。

 

 気がつくと、ソファに寝ていた。着ている服は脱がされ、彼も裸だった。意識が朦朧として、なにが起きているのかよくわからなかった。彼は僕の上に乗っていた。両脚をいっぱいに開かされ、股間には変な違和感があった。彼が僕の唇を舌で舐める。身体が上下に律動していて、違和感はそのたびに感じた。排泄孔に灼熱感があり、僕の身体は失神前の快感を残して、性器は固く尖って上を向いていた。

 

「ああ…ああ…良い…良い…」

 

 彼がのけぞって陶酔したような変な声を出している。ああ、これが本で読んだ強姦というものなんだ、と僕はその時初めて認識した。彼と目が合った。僕が意識を取り戻したことを、彼も認識したみたいだった。

 

「気がついたね…ごめんね…もう我慢できなくなっちゃった」

 

 彼は微笑みながら、僕を犯すのをやめずに話しかけた。

 

「好きなんだ…君が好き…でも、意識があると萎えちゃうんだ…ごめんね」

 

 彼は僕の首に両手を掛けた。また僕は落とされるのだろうか。さっき初めて知ったあの瞬間の快感を思い出した。たまらない。頸動脈が再び圧迫される。ああ、やめないで、また僕を壊して。とても久しぶりに、僕は本気で他人になにかをねだった。

 

「絞め…て…やめちゃ…だめ…」

 

 彼が目を見開いた。その言葉に驚いたようだった。彼の指に興奮で震えが走る。スーッと意識が遠くなっていく。

 

「あはぁぁ…」

 

 再びやってきた強烈な快感に、僕はよがり声を出していた。彼はとても嬉しそうに笑った。

 

「ああ、ステキだ…君はとっても良い…いいよ」

 

 落ちる瞬間にまた射精したようだったが、それも定かじゃない。再び僕は意識を失った。彼は失神した僕を凌辱し続けていた。だが、2回目の失神からは、僕がそれを求めたために、それはもう強姦ではなくなっていた。

 

 自殺の写真集、そして失神。それは生まれて初めての激しい感覚と感情を僕にもたらした。僕は彼に犯されたことよりも、いままでにない強さで自分の感受性を揺さぶるそれらに、動揺し、混乱し、そして再びそれを体験したいという欲望に戸惑った。

 性欲というものが僕の中で産声を上げた。その声は赤子のような生の感動とはかけ離れていて、それはまるで冥府の亀裂から吹き上げてくる死者の叫び声に似ていた。

 

 再び意識が戻ると、僕はまだソファに仰向けに横たわっていた。手足が泥のように重く、身体全体が疲れ切っていた。彼の姿はなく、僕は部屋に取り残されていたが、僕はそのまま仰向けで身動き出来なかった。脚を動かそうとすると、肛門から内股にかけて皮膚の感覚が麻痺したみたいに変だった。がしばらくすると彼が部屋に戻ってきた。バスタオルで髪を拭きながら僕を見下ろした。シャワーでも浴びていたんだろうか。

 

「起きたね。気分はどう?」

「…え…あ…身体…重いです」

「君もシャワー浴びてきて。起きられる?」

「体中重くて、なんか股間が痺れてます」

「ああ、ごめんね。キシロカイン塗ったの。痛くないようにね。初めてだから痛いかも知れないし。痛いと目が覚めちゃうでしょ。大丈夫だよ。失神してると変な力が入らないから、肛門が痛まなくていいんだよ。ちゃんと見たけど、傷は付けなかった。血も出てないしね」

 

 彼はすまなそうにそう言った。

 

「起こしたげるよ」

 

 彼は僕の背中に手を入れると僕の身体を起こした。関節があちこち痛かった。不思議なことに、彼に対する気持ちはあまり変わらなかった。僕をどうこうしたいその気持ちがわからなかった。でも、屍体が好きなことはわかった。唯一それが認識の変化だった。起き上がって、彼の顔を見た。笑顔が消えていた。とてもつまらなそうな顔だった。

 

「なぜ…殺さなかったんですか?」

 

 僕は突然沸き起こった疑問を口にしていた。

 

「えっ…? あ……あは…あっははは!」

 

 それを聞いて彼は意表を突かれたような顔をしたが、その後すぐ笑い出した。そして笑いながら僕にキスして言った。

 

「捕まっちゃうよ! 僕はまだ刑務所に行きたくないもん」

「ああ…そうですね。それは当然です」

「ほんと、変わってる、君。こんなことされて、なんでそんな冷静なの?」

「でも、ほんとは殺したいんでしょ?」

 

 彼の顔が一瞬固まった。図星なのかも知れない。

 

「あはは…わかる…?」

 

 彼は極力平然とそう言った。正直な人だと思った。ずっと首を絞め続けていれば、失神した後、うまく死ぬのに。そう思ったら、頭の後ろから引き込まれるような、気の遠くなるみたいな快感が襲ってきた。

 

「死んだ僕のほうが、もっと気持ちいいと思いますよ」

 

 僕は真剣にそう言った。それを聞くと彼は、大きく息を吸って、目を閉じた。

 

「うん。君の言うとおりだ。言うとおりだよ…」

 

 そう言うと彼は両手で顔を覆った。どうしたのかな。なにかマズイことを言ったのだろうか。

 

「…我慢してるんだ…もう…それ以上…言わないで」

「ごめん…なさい…」

 

 僕はちょっと悪いことをしたような気分になった。謝ると、彼は不意に我に返ったみたいに覆っていた手を外し、顔を左右に振って、もう一度深呼吸した。

 

「君は…思った以上に、強敵だ」

 

 そう言うと、フッと鼻で笑った。それは自嘲的な笑いだった。

 

「さ、シャワー浴びて、服着て。家まで車で送ったげる。今日のこと、わかってると思うけど内緒だよ。誰にも内緒ね」

「はい。言いません」

「なんてまた…いい子だ。もしかして僕のこと逆に脅迫するのかい?」

「出来なくはないけど、僕にそんな気は無いです」

 

 彼はとても変な顔をして、僕をマジマジと見た。そして僕の手を引いてソファから立たせた。

 

「こっちね。お風呂場」

 

 シャワーで身体を流した後、服を着て、メガネをかけ直した。来た時と同じ姿に戻った。その日起こったことが夢か何かのような感覚に襲われた。

 

 

 

 

 

 

 





*『Suicidium〈自殺〉 cadavere〈屍体〉』 


 久々に読み返してみたら、佳彦の声がCV宮野真守で聞こえてきた。
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