「…君は味だけじゃなくて匂いにも興味ないのか。食の楽しみが人生にないということが私には実に驚異的なんだがね」
「空腹感はありますから問題ないのでは?」
と、蕎麦屋から帰る道すがら、寺岡さんと僕が話し、それを不思議そうに隆が眺めながら寺岡さんのマンションへ歩いていった。寺岡さんは匂いの話を分析し始めて止まらなくなっていた。
それは僕が午前中にした“警察犬のように嗅覚じゃない匂いをたどる”という話から始まっていたが、それを気にすることが僕にはよくわからなかった。
部屋に帰ってジャケットを脱ぎながらも、寺岡さんの頭の中はフル回転らしく、ブツブツ独り言を言っていた。
「でも、想像の中の匂いとか言うんだよなぁ…なんで日常の中で匂いを感じようともしないのに“想像の中の匂い”とか言うんだろう。あれ? もしかして嗅覚野をイマジネーション領域に乗っ取られちゃったの? 嗅覚って大脳辺縁系じゃない。それなのにそこを新皮質が乗っ取れるのか? でも、嗅覚野は海馬とつながってるから、あながち間違いでもないのか…想像と記憶、イメージや色を統合して強調するのに嗅覚野を使っているとでも言うのか? ということは…」
と、寺岡さんはいきなり黙った。そしてハッとしたように僕を向き、午前中の“我れ発見せり”みたいなときと同じように、立ったままいきなり僕を指さした。
「裕君! 君、なんの匂いが一番気になる?!」
僕は困った。特に思い当たらないからだった。
「気になる匂いって…ないんですが」
「嫌いな匂いは?」
「さあ…」
「じゃあ、匂いの記憶は?」
「記憶?」
「匂いで記憶に残っている思い出ってない?」
「思い出…」
「なんでもいい。鼻で嗅いだ匂いの思い出だよ。なんでもいいから」
僕はそう言われて、ふとあることを思い出した。考えてみれば奇跡的な記憶だった。何しろ僕がそんなことを覚えていたからだった。
「あの、ひとつだけ」
「あるの!?」
「おい、お前ら、いいから座れよ」
隆が呆れたように、ひとりだけソファで足を組んで座っている。だが寺岡さんは隆を制止した。
「いま、大事なとこ! 立っててもいい」
「あっそ」
「どんな記憶? 聞いてもいいかな?」
「ええ、大したことじゃないです。小さい頃、寝る前の歯磨きで、歯磨き粉を鼻の穴に詰めちゃったことがあって」
「おーい、なんだそりゃあ」
こらえきれずに隆が噴き出した。
「理由は…よくわかんないです。多分…チューブの口から出てきた歯磨き粉が鼻の穴にちょうど入る太さだったんじゃないかな」
「ぴったりだったから入れたの?」
「…そんな感じかも」
ぶははは…と寺岡さんも笑い出し、大人が二人で腹を抱えて大笑いする中、僕は続けた。
「なにをしててもミントの香りしかしなくて。そのうちに鼻水と涙が鼻腔に溜まってきて鼻の穴から白い粘液と泡がダラダラ垂れてきたんで、母親がびっくりして僕の鼻の穴を見たら真っ白だったんで、さらにびっくりして夜間診療の小児科に連れられて行って、洗ってもらった記憶があります」
二人はまだ笑っていたが、寺岡さんが急にマジ顔になって僕を指さした。
「それだ! 嗅覚野にイメージの構成なんかさせておかないで、現実の匂いを嗅がせて本来の働きに戻す! 君の嗅覚野は、嗅覚の仕事を放棄させられて、イメージの統合をやらされてる可能性がある! ミントだ、ミント!」
「えっ…また歯磨き粉詰めるんですか!?」
「いやいやいや、歯磨き粉は界面活性剤入ってるし身体に悪いだろ。たしか、去年の猛暑で使ってたのがまだあったはずなんだけどな」
そう言いながら寺岡さんは、ミントを探しに廊下に出て行った。
「ミント、なにに使うんだ? あいつ」
「話の経緯からすると、僕にミントを嗅がせながら画像を見せるのではないでしょうか?」
と、僕は隆の隣に座りながら答えた。
「え? なんで?」
「うーん…それは帰ってきたら寺岡さんに聞いてください。多分発作防止アイテムです」
「凄いな…君の興味の一貫性は。僅かな匂いの記憶すら冷却作用なんだもんなぁ。もうさ、短絡的にミントをアレに塗っちゃえばいいんじゃないの? 熱下がるよ?」
茶色い瓶を指で挟んで振りながら、いつの間にか寺岡さんが部屋に戻ってきていた。隆が寺岡さんに尋ねた。
「ミント、エロ発作止めるんか?」
「ミントにそういう効果があるかは知らないけど、この場合、そうなる可能性ありだ」
「お前は何に使ってたの?」
「クーラー病対策」
「なんで?」
「去年の猛暑で夏バテした時にゼミの教え子の女子がくれたの。風呂に入れるとスーッとして冷えるって」
「お前、女子にもてるのか。で、効果は?」
「寒いくらい冷える。出たすぐはスースーしすぎて扇風機当たれない」
「へぇ。で、なんでそれで発作が止まる可能性があるんだよ」
「それはだね」
と、寺岡さんはようやくソファの元の席に座って、ミントの瓶を机の上に置いた。そこには“ハッカ油”とラベルに書いてあった。
「これは仮説なんだけどね、さっきオカルトな裕君の能力の話聞いたでしょ?」
「ああ、本人曰く“警察犬”な」
「その時に裕君は“匂い”って言ったの。でも、それは嗅覚で感じる匂いじゃないって。でも裕君は蕎麦屋でもわかったみたいに、嗅覚とか味覚とかの感覚意識が大変低いわけ。なのに想像の中のイメージは“匂い”という言葉で表現した。ここまでわかる?」
「ああ。とりあえずな」
「よろしい。でさ、共感覚や自閉傾向の人でね、やっぱりそういう風に偏りのある能力を持ってる人にあるのが、突出した才能を産んでる脳の機能が、他の機能を潰して発達してることがあるんだよね。つまり、例えるなら、パソコンでさ、飛び抜けた計算能力を出すために、本来セキュリティソフトに使うメモリを計算に使っちゃう、みたいなことしてるんだよ。裕君はもしかしたら嗅覚野をイメージの統合とかに使っちゃってるんで、本来の匂いを感じるっていう役目がおろそかになってる可能性があるってこと。ここまでわかった? 小島君」
「…なんとなく」
「裕君は?」
「だいたい」
「いいでしょう、いいでしょう! それにさ、このミントってのが一石二鳥なんだよね。熱を下げるからね。裕君の嫌いな熱をね」
それを聞いたとき、この寺岡さんの作戦はもしかして当たるんじゃないか、と僕は思った。
「で、ここからが本題。裕君は自殺の画像からとんでもなく多くの情報を受け取ってイメージしてそれを構成して、なにかのビジョンを見ちゃってるわけだ。で、それが発作の原因になってる可能性が強い。その超人的な構成力を統合してるのが“匂い”という言葉で表されてるなにかなんだけど、私はそれがその他の用途に使われちゃってる脳の部分である“嗅覚野”だと推測している。そこでそのイマジネーション機能を働かなくするには、そこから嗅覚野の働きを遮断してやればいい。とは言え、それを意識的に裕君に、遮断しろ、なんて言っても出来るわけはない。だけど、ここの機能は本来“匂いを嗅ぐ”ということに使われている部分なわけ。それじゃあ遮断は出来なくても、本来の働きをさせて、使用率をグッと下げてやることは出来るんじゃないかって、私は思ったんだ。でも裕君はその働きに対する意識が低い。これではいつものイマジネーション組が嗅覚野を従えてしまう。そこで、一計を案じ、記憶と結びついている匂いを嗅いで、記憶の想起と実際の匂いというセット仕様の働きを無理やり稼働させる。これによって裕君は意識的にその脳の領域を発作の方向から引き剥がすことが出来る! これは記憶と匂いの結びつきが強いという人間の脳神経学の特徴を利用した対策だな」
寺岡さんはそれを一気に語り、どうだ、と言わんばかりに腕と脚を組み直してニヤッと笑った。
「それがミントだ!」
ほぼ、勝ち誇っている寺岡さんだったが、その分析は推論にせよ見事だったので、僕は納得せざるを得なかった。寺岡さんには辛口な隆もさすがにここは納得な感じだった。
「なるほどな」
「わかりました」
「これは推論だからね。上手く行くかどうかはわからない。だから対策はもうひとつ。保冷剤で君のアレと下腹部を冷やす。対症療法的だけど、感覚の問題である以上、感覚に訴えるのはシンプル且つ速効性を期待できる…はず。保冷剤はうちのフリーザーの中にいくつか入ってるから、実験を始める前にセッティングしておこう…そして裕君、君はこれを嗅いでて」
そう言うと寺岡さんはミントオイルの瓶の蓋を開け、テーブルの上にあったティッシュを一枚取ると、瓶の口に付け、それを逆さにしてオイルをティッシュに染ませた。
「はい、これ、スーハーしててね」
僕はそれを受け取った。自発的に匂いを嗅ぐなんていつ以来だったか覚えていなかった。ティッシュを鼻につける。スーッとしみる匂いが鼻腔に充満した。ああ…歯磨き粉…思い出す。家の洗面所の鏡の前で鼻の穴に詰めた白いペースト。鼻の穴が両方白くなった。それが良かったのだ。なぜだろう。あ…
僕はそれをした理由をいきなり思い出していた。
図書館で初めて遺体の写真を見たのが小学生の低学年の時だったか。何の本だったかは記憶にない。お棺の中のその遺体には、鼻の穴に真っ白い綿が詰めてあった。その白い色が、家に帰ってもずっと頭の中に焼き付いていた。
それで自分の鼻の穴にティッシュを詰めてみた。しかし、ティッシュはザラザラしていて感触が悪かったし、鏡で見てもあの白さが再現できなかった。脱脂綿を探したが、救急箱の中には入ってなかった。寝る時間になって、歯磨きをしようと歯磨き粉のチューブを押したら、真っ白いペーストがニュルッと出てきたのを見て、あっ、白い、と思った。これを鼻の穴に入れたら、僕の思うようなイメージ通りの真っ白な鼻の穴になると思った。そのアイデアがとても良いと思ったので、後先考えずにいそいそと僕はチューブから直接鼻の穴に歯磨き粉を詰めた。
左右の鼻の穴に詰めて鏡を見ると、それは僕のイメージ通りの白さだった。僕はとても満足な気分だった。しかしそれも束の間、ミントの匂いと洗浄剤に刺激されて、鼻の奥から鼻水と涙が流れ落ちてきた。僕の鼻の穴から白い液体がダラダラ流れ落ちてくる。とても残念な気分だった。僕は予想外の事態にそのまま鏡の前で立ち尽くしていた。
母親がいきなり洗面所に入ってきて、僕の顔を鏡越しに見るなり、キャーっと叫んで僕の顔を手で挟み、鼻の穴を見た。母親は垂れてくる液体を指に取り、匂いを嗅ぐと、これ、歯磨き粉!? と、僕に問いただした。うん、と首を縦に振ると、鼻をかみなさい! 鼻をかんで! とティッシュを取りながら母親は叫んだ。その後は寺岡さんと隆に話したように、夜間診療の小児科に行き、鼻の穴を洗浄してもらった。
こんな思い出、まだ記憶にあったんだと、僕はちょっと驚いた。いままで一度も思い出したことがなかったからだ。記憶と匂いは結びつきが強い、ということが机上の空論ではないということが、この体験で僕にも理解できたように思った。学問が実際の経験に反映されるということを僕は知った気がした。
「匂いってすごいですね。僕、その歯磨き粉の件、これ嗅いでいるうちに細かいこと思い出してきました」
スーハーしながら僕がそう言うと、寺岡さんが両手を握ってガッツポーズを取った。
「イケる! イケるかも!」
そして両手の中には保冷剤の袋が握られていた。寺岡さんは保冷剤をテーブルの上にバラバラっと置いた。パックは4、5個はあった。
「じゃあ、そろそろ実験…いこうか? いける? 裕君?」
「ええ。いま、記憶とイメージが匂いに結びついてますから、嗅覚野がちゃんと働いてる気がします」
「そう! いいタイミングかもね。じゃあさ、小島君、心の準備はいい? 裕君がパニクっても平気で居られる? エロいことになっても理性飛ばさないでよね。いい? これは裕君が自分で制御できるかどうかの実験だからね。サポートは最低限、打ち合わせたでしょ? それと繰り返すけど、画像は見ちゃダメだからね」
「ああ、わかってるって。俺はお前のほうが心配だぞ。ドサクサに紛れて裕にエロいことしたらぶっ飛ばすからな!」
最後はマジな声になってた隆に、寺岡さんはびっくりしたように慌てて否定した。
「いや、ないってそれは! さすがにないよ小島くんの前でさ。心配しないでほしいなぁ、それ。心配なのは小島君だって。もしフラッシュバック来そうだったら、ここ入ると私の書斎だから、そこに自分を隔離してね。それからもっと向こうに座ってね」
寺岡さんはそのドアを開けた。部屋の3面が本棚で、奥に大きな木調のデスクと、高そうなリクライニングチェアが置いてあった。寺岡さんは書斎に入ると、デスクの上から10インチ位のタブレット端末をつかみ、それを持って戻ってきた。
「ここに画像が入ってる。今何時?」
「2時5分前」
「いいね。始めようか。裕君、もしして欲しいことがあったら遠慮なく言いなよ。私でも小島くんにでも。わかった? ちゃんと言うんだよ?」
「はい。わかりました」
そう言いながら寺岡さんは窓のカーテンを引き始めた。その間に隆は僕から離れて長いソファの端に移動した。そのうちにアイボリーの生成りのカーテンが素通しのガラス窓をすべて覆った。寺岡さんは自分の席に帰ってくると、僕と隆の顔を交互に見て僕達に声を掛けた。
「じゃ、皆んな、がんばろうね」
「はい」
「おう」
なにかチームのような結束感がその一言で出たような気がした。寺岡さんがタブレットの電源を入れた。ディスプレイの上にアイコンがいくつかあった。画面を僕達に見せないように隠しながら、そのうちの1つを寺岡さんはタップした。
「いくよ、裕君だけ見て…」
全員に緊張が走った。隆が大きく息を吸う音が聞こえた。
「はい、これ」
そう言うと、寺岡さんが僕にタブレットの画面を向けた。
「あっ…!」
僕は息を呑んだ。
どうしてこれが、ここに?
それはあの『Suicidium cadavere』の最初のページだった。