縊死。
白い…真っ白いロープ。
屍体を飾る吹き抜けと
優雅なカーブの階段。
床に広がる黒い排泄物…
佳彦の車の中で見た時の感覚がよみがえる。隣にマボロシが座っているようなそんな幻想すら浮かぶ。
どうして…どうしてこれが…ここに…? 呪い…佳彦の…まだ…ここで…生きて…る…
「な…なん…で…なんでっ!」
「探したんだ…君のために」
冷えきったようなその言葉を聞く間もなく寺岡さんの声が遠ざかる。いつもとおんなじ、静寂を突き放す僕の身体。イメージが錯綜してる。バラバラだ。いつもよりバラバラだ。自殺者との埋められない溝…僕は…ぼく…は…
モノクロの写真の中で、彼が死の寸前に不意に微笑んだ。めまいのような感覚の後、その微笑みのイメージの中で、僕の下腹部に熱の塊が叩きつけられた。いつの間にか、鼻を押さえていた強烈なはずのミントの匂いが一切消えていた。
「匂い…寺岡さん…匂い…しない…しなくなっちゃった…」
「乗っ取られたか」
「くああっ!」
「裕君…こんなになるんだ」
寺岡さんが呟くのがうっすら聞こえた。僕はソファの上で膝を丸めて、震える身体を両腕で抱いて押さえつけていた。ティッシュはとっくに床に落ちていたが、拾うことも出来なかった。
「熱いっ…やだ…」
「おんなじか? 裕…あの時と変わらないか?」
隆が僕に聞く。とても優しく、悲しげにそれが響いた。
「わからない…どうすればいいですか…どうすれば…」
「どうすればいいと思う? 裕君!」
寺岡さんが逆に僕に尋ねた。
「どうすれば…? あ…も…だめっ…」
ソファの背もたれに顔を押し付け、必死に僕は感覚に飲まれないように耐えていた。息が上がっていく。考えなきゃ…自分で…恢復しなきゃ…でもどうやって…
僕はギュッと目を閉じた。どうにかしなきゃ…やれることは2つ。もう一度取り返す。僕の嗅覚野…それから…熱を冷やす…身体に氷を抱いて…
「寺岡…さん…ミントの瓶…下さい…」
上がった息の隙間から声を絞り出す。わなわな震える手を伸ばし、その手に誰かがガラスの瓶を掴ませてくれるのを待った。
「これ…掴んで!」
寺岡さんの声がした瞬間に、僕の指に瓶が当たるのがわかった。僕は夢中でそれを握りしめた。
震える指で瓶の蓋をやっとの思いで開けた。瓶を落としそうになるほど、指がわななく。それを見た寺岡さんが、僕の指に手を這わせて、しっかり握らせてくれた。その手が堪えようもないほど感じて、僕はうっ…と呻きながら仰け反った。
「寺岡! お前、離れろ!」
それを見た隆が怒鳴った。
「バカ言ってないでよ! 瓶、落としちゃうでしょ! これはセーフだって!」
「隆…大丈夫…ホントに…力…入んな…い…」
「お前の手つきがエロすぎんだよ!」
「裕君、離すよ?」
「は…い」
やっとの思いで指にオイルを取る。さらっとした透明な液体が指を伝った。そのまま僕は鼻の奥まで指を突っ込んだ。右、左と、両方に奥までオイルが塗りこまれた。匂いは曖昧だったが、鼻の奥がツーンとして、眉間に痛みを感じた。その時、急に頭の中がスーッと冷えていくのがわかった。寒い冬の朝に息を急に吸った時のようだった。あの時も痛かったっけ…歯磨き粉の時も。
下腹部の疼きは変わらなかったが、全身のパニックみたいな焦燥感が薄れ始め、指先の震えが治まってきた。寺岡さんがソファに寄りかかってため息をついた。
「小島君…だってこれ…とてつもなくエロいじゃん。なんだよこれ…反則だよ」
「俺だって我慢してんだぞ…」
「ごっ…ごめんなさい…」
「いやいや、君のせいじゃないから。君のせいだけど」
それから…なにすればいいんだっけ? と、僕は疼く下腹部の感覚に耐えながら、少しだけ冷えた頭で考えていた。
保冷剤。そうだった。熱を直接冷やしてみるんだった。僕はテーブルの上にミントの瓶を置くと、その先の保冷剤に手を伸ばした。ソファから身体が滑り落ちて、そのまま僕は床に座り込んでいた。
「おい! 大丈夫か?」
ソファから落ちた僕に反射的に隆が手を伸ばした。
「大丈夫…保冷剤取ろうと思って…」
「うう…見てらんねーな」
「小島君、我慢だ、ここは」
「お前に言われたくねぇ」
ズボンのベルトを外し、保冷剤をつかんだ。そのままトランクスの中に直接突っ込んだ。ヒヤッとした感触にちょっとびっくりしたが、すぐに気持ちよくなった。すると頭の中のノイズがだんだんボリュームを落としていった。そんなすぐに効果があるなんて思わなかったので、僕は隆を向いて思わず報告した。
「これ…効くかも…」
「マジか、もっと入れろよ」
「ええ」
言われたように、1個づつ下腹部に入れて当てる。性感がうっすらと遠のいていく感じがした。
「なんか…落ち着く…」
「ほんとに? イケてる?」
訊かれた寺岡さんに、うん、とうなづいた。寺岡さんは目を細めて、僕を横目で見ると、急に無表情になった。
「じゃ、もう一度いこうか」
「え…なにをですか?」
「決まってるでしょ。小島君、こっち見ないで」
彼はそう言ったかと思うと、テーブルの上で節電モードでブラックアウトしていたタブレットを僕の前に滑らせた。
「はい」
画面が一瞬で明るくなった。あの画像が再び鮮やかに目に飛び込んできた。冷やしたはずの下腹部が、ドクン、と脈打った。
「ああっ…なん…で…」
「おい、寺岡、お前!」
「だって君、司法解剖、何時間かかると思ってんの? 屍体がログアウトしてくれるの? 違うでしょ? 2時間くらい君の前で横たわってるんでしょ!」
「あ…ああ…そう…で…す…」
僕は股間に保冷剤を両手で押し当てたまま床の上で再び震え始めた。
「じゃあ、どうするの? 裕君…」
「2…じかん…耐え…あぁ…」
「無理なら、諦めるんだね。進路考えなおしたら? そんなに無力だったら」
「そっ…それは…」
「解剖実習は早い医大では1年生から実習がある。あともう3年で君、大学生だよ? 無理なら無理で、早めに第二希望を考えたほうがいい。3年なんかあっという間だ。現実と理想を近づけるには、飛躍が要る時がある…」
「おいおい、いまここでそれ言わんでもいいんじゃねーか?」
寺岡さんの冷静すぎる言葉に反応して隆が僕をかばおうとする。でも寺岡さんの言うことも納得できる。
「でも裕君の為を思うなら現状を把握しないとね。なにがどう無理で、どんな可能性があるか…こんな激しい発作、こんな苦しんでまで現実をねじ伏せる必要があるかどうか…それと、裕君の…意志もね」
意志。その言葉くらい、自分にいままで問うことのなかった言葉は無かったかも知れなかった。
「ほら、目を離すなって」
寺岡さんが僕の後ろのソファに座った。耐え切れずにうつむいている僕の頭を後ろから両手で挟んで、前を向かせた。吊るされた男が目の前で微笑む。あっ…だめっ…匂いがまた…消えていく…
「まっ…待って…あっ…」
「ダメでしょ、見てなきゃ。君が実際どうなるのか自分で知らなきゃ。2時間見続けるんだよ? あんな忙しい仕事、目をそらしてるヒマな時間なんかないよ。震えた手じゃメスも握れないよね」
目を背けられない。また一気に熱とノイズが僕の身体を冒す。頭を固定されたまま僕はたまらずに身体をよじらせて身悶えた。
「うああっ!」
「どうするの? やめる? 君の人生だ…好きにしたらいい」
「あっ! 寺岡、寺岡、ちょっと待て! こいつの首、気をつけろよ! 失神するぞ!」
いきなり思い出したように隆が寺岡さんの肩に手を掛けて怒鳴った。
「あぁ…そっか。無理は禁物かぁ」
寺岡さんはゆっくり手を離した。隆が大きく息をつくのが聞こえた。そうだった。自分でも忘れていた。
「ごめん。具合悪くない?」
「だ…だいじょ…大丈夫…」
「難しいな、君は。いじり壊されてるからな」
「すまん…」
「ホントだよ…自分を突き詰めも出来ない。不幸だ」
「それは…僕の…せいです…から」
僕のことで二人が互いに責め合ってるのを聞いているうちに、僕は本気で自分を自分の力でどうにかしないといけないんだと気づいた。波のように襲ってくる性感に耐えながら、人は人に頼れないこともあるんだと思った。知らないうちに僕は人に頼ってる、というそれにも驚いた。
「始まってから…どれくらい…ですか?」
「40分…くらいかな」
「厳しい…ですね…でも…どうにか…しなきゃ」
「どうにかしたいの?」
「ええ…自分で…やんなきゃ」
「そうだ。裕君。君がそう思ってるとわかって良かった」
寺岡さんが優しい声で僕にそう言った。
「あのよ、対策不足じゃねーの? 効果は否定しねぇけどさ。もう少し決定打つーのかな。欲しいよな」
「ああ、そうだよね。それはそう思うよ」
隆が言ったことに初めて寺岡さんが同意した。
「焦ってもしょうがない時もあるわ。俺も一山越えるのに掛かったしな」
「ちょっと独断専行しすぎたかな…でもそれもまぁ…プロセスってことでさ」
寺岡さんが肩で息をしてる僕を後ろから覗きこんで言った。
「裕君、今日はここらへんでやめる?」
「どうでしょうか…やめて…成果…あります…?」
「うんうん、君、頑張ったから。少なくともいままでよりも自発的に対策しようって思えたでしょ?」
「はい…いろいろ…体質とか…わかったし…」
「やめようか、ね、小島君」
「ああ。いいんじゃね」
「裕君、どう?」
「寺岡さんの判断に…任せます」
じゃあ、と言って寺岡さんは僕の前に置いてあるタブレットのページを閉じた。目の前から縊死の男が忽然と去り、待ち受け画面の青空の壁紙が清々しくそれに取って代わった。僕は残り火を消すべく、残りの保冷剤を全部トランクスの中に入れた。少し痛いほど冷えてきたが、これは画像のないいま、明らかに僕の熱を冷ましていた。耳の中の音がクリアになっていった。
「それ、案外効くみたいだね」
「ええ…目の前に画像がないとわりと」
「良かった。はい、じゃあこれも」
寺岡さんは立ち上がってミントの瓶を取り、僕の前に置いた。ハッカと書いてあるが寺岡さんはミントと言うので、訊いてみた。
「ハッカとミントって…同じなんですか?」
「だいたい同じじゃないかな。日本産がハッカで、ミントは西洋種で、種類は同じだけど成分が微妙に違うみたいだけどね」
僕は再び瓶からオイルを指に取った。
「痛くない? ものすごく刺激があると思うんだけど」
「そんなこと…言ってられませんでしたから。痛いですけど、それくらいじゃないと」
「でも今後は薄めたほうがいいんじゃないかな」
「でも、本当に匂い消えるんです。あんな強烈なのが。寺岡さんの言ってたこと…当たってるかも。」
「それは凄いなぁ…君の脳は特殊にカスタマイズされてるんだろうね。いま、どう? 身体まだ疼いてるの?」
それはすぐには消えない。でも、保冷剤のせいか、いつもより冷静な気がした。
「ええ。でも…」
ミントを鼻に塗る。鼻から息を吸った。今度はまあまあ匂った。更にだんだんと残り火が萎えていく感じがあった。これなら絞め落とされなくても元に戻れる…と、僕は初めてそんな希望的な気分になった。
「画像がなくなってからの熱が冷めるのが早い気がします」
「そりゃ良かった…いやぁ…まいった。正直まいったよ」
そう言いながら寺岡さんがソファに寝っ転がった。冷静に分析してくれる人がいるというのも、僕の発作を緩和してくれる原因の1つなのかな、と僕は寺岡さんという観察者の効果を感じた。
あーっと言いながら伸びをして、寺岡さんは隆の座ってるすぐ横に頭を向けてぐったりと横たわった。隆が僕の前からハッカの瓶をスッとつまみ上げた。元の席に戻ると、蓋を開けずに瓶をクンクン嗅いだ。
「うわー、もろメンソールだな。接骨院の匂い思い出すわ。こりゃエロくないわな」
「小島君、よく耐えたね」
仰向けで寺岡さんが隆の顔を見上げた。
「ホントだぜ。キツかったぁ。でもまだ俺、勃ってるし」
「私もだよ。どうしてくれようとか思うよ」
「今日は裕には手出せねぇし…早く帰って抜くわ。クソ」
「しようか…小島君」
まるで飲みにでも誘うかのように、寺岡さんは自然に、とても自然にそう言った。
「は…?」
「抱いてよ」
「はあ?」
「聞こえないかな。私としようって言ったの」
隆はそれを聞いて一瞬絶句した。もちろん僕も。多少の沈黙の後、いきなり隆がバッと立ち上がって、そして叫んだ。
「おまっ…お前…なに言ってんだぁ!?」
「いいじゃん。皆んな欲情しきってるんだし…それとも私が裕君犯すの見てる?」
「ばかやろっ!! おっ俺がしないのに、お前がしていいわけないだろーが!!」
「独りで抜くのイヤだ…」
「お前は! 裕の前で言うかよ!?」
「裕君の前だから言うんだよ…ねぇ…裕君」
呆然とそのやりとりを聞いていた僕に、いきなり寺岡さんが振ってきた。
「やきもち妬いてみない?」
「僕…ですか?」
「いまどうなの? 私が小島君誘ってるの。裕君嫉妬しないの?」
寺岡さんは起き上がると、にっこり笑って僕に訊いてきた。嫉妬…というのはどういう感情でしょうか? と訊こうとしたが、そんなこと説明できるわけないな、と思い、僕は訊くのをやめた。
「嫉妬と言われても分かりませんが…寺岡さん、本気なんですか?」
「うん。本気だよ」
「隆のこと好きなんですか?」
「うん。好きだよ」
「お前、適当なこと言ってんじゃねーよ!!」
「適当じゃない」
いきなり寺岡さんの口調が変わった。もう寺岡さんは笑ってはいなかった。