一方、その夜に、母親が予定通り寺岡さんに電話をしていた…らしい。僕は夕飯を食べて早々に自分の部屋にこもり、休み明けの英語の予習をしていた。あまり昨日までのことを考えたくなかったというのもある。あんまりいろんなことがあって、逆にボーッとしていた。ボーッとしている自分に、夕方なんとなく危機感が芽生えた。曰く、勉強しなきゃ、という…
不得意科目の生物は受験勉強中になんとか打開策を見出したが、英語はまだ興味をそそるような決め手に欠けていた。だいたい僕がコミュニケーションのための他国の言語を興味を持って理解するということが、すでに壁だった。
しかしそうも言っていられない現状があるので、高校1年の教科書を開きながら、ただの概念であるはずの“時間”が擬人化されしかもそれに長々とされるもったいぶった説教とか、破産寸前の鉄道と猫の駅長のサクセスストーリー(猫にサクセスという観念はないだろう…今日はよく猫の出てくる日だ)をなぜ英語で学ばねばならないのだろうなどの感想を持ちながら、乗れないテキストにここでも結局ボーッとしていた。
もっと興味のある話題、例えば屍蝋化現象のメカニズムとか、いままで不明だった世界で最も美しい遺体、ロザリア・ロンバルドのエンバーミング(屍体防腐処理)についての最近発見されたレポートとかだったらいいのにとため息をつきながら一旦教科書を閉じた。そして電話を掛け、普段は防戦一方の隆から驚くべき痛恨の一撃を食らい、かなり呆然としたまま電話を切ることになった。その時にはロザリア・ロンバルドも猫の駅長も頭の中からすっ飛んでいた。
お前は自殺が嫌いなんだよ…
嫌いなのかな…そうかな。一撃を食らったとはいえ、まだ僕はそれをどこかで否定していた。それを証明するために、僕は自分が死にたくなった時系列を正確に辿っていく努力をし始めていた。まず僕は自分が死んでると思っていた。思っていたというか、当然過ぎて、意識化されてもいなかった。
そこで問題がある。僕はなぜそうだったんだろう? 母親が言った「死んで生まれてきた」という仮死分娩のせいだろうか? と僕は前にもそう思ったが、仮死分娩で死んで、生き返ってからもその死んでいる意識がずっと続いているなんていうケースは今のところネット上を探しても見つかってはいない。そして、脳に問題はない、と母親は医師の検査を信頼していたが、僕の脳は、寺岡さんの家で実験をして、かなり人と違う使い方をしているという確信めいた事実がある。もしかして脳には「生きている感覚を司る感覚野」というものがあるのではないだろうか? それが僕は機能していないとしたら? あの日、寺岡さんの分析方法を観察して、事実、反証、仮説を繰り返して結論を絞り込んでいく術を目の当たりにした。僕もそれに倣った。
生きている感覚というのは一体なんだろうか。逆に死んでいる感覚というのはあるのか? 死んでいる感覚…と考えると、その言葉はそれ自体で矛盾していることに気づく。なぜなら感覚器官は生きているものの機能だからだ。死んでしまったら感覚は無くなる。だから僕は死んでいることを知らなかったのではないか。では、生きている感覚とはなんだろう。死んでいるときは感覚がなかった。無いわけじゃないのだろうが、曖昧で意識していなかった。だが意識はあった。意識とはなんなのだろうか。
それとも、生きている感覚という特別なものはなくて、感覚そのものが『生きている』という概念と結びつき、それを認識させているのだとしたら…
死んでいるという無意識の認識がいつ生まれたのか。それは僕にはわからなかった。だが、生き返されたと感じた時(将に“感じた”のだが)、それは自殺の写真集によって自分の中に熱が生じた時だ。しかしそれまでの僕は死んでいたことを知らずに死んでいた。それを断固としていままで皆に“自分が死んでいたのに”と訴え続けてきた。しかしよくよく考えてみれば、どこをどう頑張っても、普通に生活し、食事を摂り脳が考え、音を聴き景色や本を見ている僕の身体は、《生きている》。
…え? なにそれ?
僕は…なんでそれを認めてる…?
僕は自分の認識に不意打ちを食らった。 いままで頑なに拒否してきた“生きている”と言う事実を、僕はなぜいまここで肯定しているのかと。
隆の一撃は思ったよりも深いところに響いていた。
僕はずっと佳彦に、隆に、寺岡さんに訴え続けた。“僕は死んでいたのに佳彦に生き返された。なぜまた死のうとしてはいけないのか?”と。しかし佳彦への恨みが薄くなり、隆に自分の論理矛盾を指摘された結果、僕の頑なさはいつの間にか可変のものとなっていたかのようだった。
僕は唖然としてその変化を眺めた。生きている身体を一切関知しないで死として存在していたとしか言いようがなかった僕から、生きていることを感知してしまった死んでる僕への移行。要約すれば、たったコレだけの話。たったこれだけの話なんだ。そのたったこれだけの話が、僕をここまで苦しめた。僕にとってこの葛藤と苦悩と焦燥の期間はなんだったんだろう?
(好きなんだ…君が好き…僕のことどう思ってるの? …君を…本当に…殺してしまうよ…)
ズキン…と心臓に痛みが走った。僕は、誰にも応えられなかった。
(俺は死んだら永遠に愛するだけじゃなくて、愛されるんだ…って)
僕の中に、優しくて淋しいあの人たちに応えられるものを、一切持っていなかった。僕が苦しんだだけじゃない。みんなが苦しんだ…僕のせいで。なんどもそれは僕の中で葛藤と共に繰り返されるテーマだった。でも、今なら理解できる。苦しみは増幅していた。僕の苦しみと、人の苦しみと、二つの苦しみがあった。だから余計僕は苦悩した。二つの苦しみの根はひとつだとしても。
僕には応えられない。だって僕は生きてる肉体に死んだ意識が入ってる見せかけの人間だから…でもなんでそんなちぐはぐな人間が存在してるんだろう…
その時、携帯が鳴った。見ると、寺岡さんからだった。
「ああ、裕君。私」
「あ……はい」
「お母さんからさっきお礼の電話来たよ。なんかすっごく恐縮させちゃってさ。参った」
「…そう…ですか」
「あれ…裕君、君、今日元気ないね」
寺岡さんは僕の呆然としているのをすぐに見抜いた。
「あ…まあ…はい」
「否定しないんだ」
「隆から…デカいの一発食らっちゃって」
「なにそれ! エロぉい」
「あ…電話で言われたんです。心配してるから電話しろって寺岡さんに言われたんで、電話しました」
「なぁんだ。まぁ、それは良かったけど…エロくないデカいの一発って怖いな。なに言われたの?」
「お前はいつも“なにかを壊そうとか殺そうとかって欲望はない”って言うのに、自身の身体にもそれを当てはめたことあるか、って」
「…おお…小島隆…一矢報いたね」
「びっくりです…ほんとにびっくりです」
「で、君の感想は?」
「その通りだって」
「まだ自殺したい?」
「なんか、わからなくなっちゃった」
「へぇ…すごいね。君にそう思わせたのってすごいな」
「…それから小島さんに“お前は自殺が嫌いだろ”って言われました。それで、それは違うって思って、いろいろ考えてたら…僕は松田さんと会うまで自分の身体が生きてることに気が付かなかっただけだった…って…でもなんで死んでいる意識が生きてる肉体と一緒に存在してるのか…僕にはそれがわからない…」
「そうか…君のお母さんが、気になること言ったよ、さっき」
「え…なんでですか?」
「あの子、自分が死んでるって言うんです…って。それで一度自殺未遂して。手首切って…そのあと失神するようになっちゃって。だから頸動脈洞が敏感で失神するのって、首吊りのまねでもしたんじゃないか…って」
「母がそんな話までしたんですか?」
「相談に乗るって私が言ったからね。お母さん、その気になったみたいだよ。でもさ、なんで“首吊り”なの? なんでそんな発想出来るの? 君のお母さん」
「わかりません…わからない」
僕は寺岡さんの話がにわかには信じられなかった。
「怖がってたよ。当たり前だとは思うけどね。自分の子供に自殺願望があるなんて、ほんと親にとったら気が狂いそうな恐怖だと思うけどね。でもねぇ…その恐怖だけじゃないんじゃないかな…って思ったよね、君のお母さんの怖がり方さ。なんて言うかなぁ…うん、怪談を怖がる感じかな…そうね、ホラー映画とかね」
「そうなんですか。母が今朝病院に来た時、あんまり元気じゃなかったんです。いつもと違ってとても暗い感じで。昼に寺岡さんの話が出たんです、母の口から。相談してもいいかなって。でも、いきなりその話、しますかね? 寺岡先生に失礼が無いようにってさんざん僕に言ってたのに」
「したよ。たぶんさ、なんか気持ちが煮詰まっててさ、誰でもいいから話してしまいたかったんじゃなかったのかな…この前の私みたいにね」
寺岡さんはそう言って、フッと笑った。
「それで…母にどう答えたんですか?」
「聞いてませんよ、そんなことは…って言っておいた。手首切った話は知ってます。死にたいのも知ってます。でも首吊りは聞かなかったですね、って。でもさぁ、変な符牒だと思わない? だって君、一番そそる画像って…首吊りだろ」
僕は思考が一瞬止まった。
「…なにがあった?」
寺岡さんは低い声で僕に言った。
「私がね、ゾッとしたんだよ。それに気づいてね」
平衡感覚が不意におかしくなった。僕は少し歪んでるような部屋の景色の中でそれに答えた。声が出にくかった。
「わかりません…わから…ないです…」
「じゃあ、お母さんに問い詰めてもいいかな。それとも君が聞く? それともそっとしておく?」
「どう…すれば…いいですかね…」
果たして明らかにすることがいいことなのかどうか、僕にはそのとき全く判断がつかなかった。視野はぐんにゃりとしたままだった。僕は言葉を失ったまま、電話口で呼吸だけしていた。
「わからないか…いまは」
「あんまりいろんなことがあって…処理が追いつかない」
「うんうん。わかった。また話そう。全部保留だ。まぁ、君がこれ以上私と話したいかどうかってのもあるけど?」
「だって…寺岡さんしか…いまんとこ話せる人いないです。隆にはもう相談できないし。でも、僕の話こそ…寺岡さん聞きたいんですか? 逆に。それに今はもう、母の相談なんてしてくれる必要ないんじゃないんですか? だって僕と関わってたら、寺岡さんが傷つくだけで…」
その言葉を途中で遮って寺岡さんが答えた。
「聞きたいよ、そりゃ。だって今私、キーパーソンだもん。重要参考人の二人の両方から情報引き出せるの私だけでしょ。それにこんなハンパなとこで連載終わったら、この気持ちどうしてくれんのよ」
「連載コミックですか僕」
「それに近いよ。君の存在はフィクショナルだからね。それにオカルトでエロで猟奇でしかもミステリーなんて、ドハマりだよ私の趣味にさ。早く続き見たいじゃん。ああ、深刻な話なのに茶化してごめんね」
「構いません…そんなふうに言われたほうが…客観的になれます」
たぶん、僕を気遣ってそんなふうにおちゃらけてくれたんだろうなと思いながら、そのあと僕と寺岡さんは“ではまた”と電話を切った。そのときすでに、隆の一撃すらどこかへふっ飛んでいたほど、寺岡さんと母の話は衝撃的だった。その前の懸案の英語のことなど存在すら忘れ果てられていた。
ベッドに腰掛けたまま、僕はしばらく動けなかった。認識が全く追いつかない。整理してるそばから崩壊と発見が飛び込んできては、僕の仮説や結論をなぎ倒していく。だが、その混乱してるはずのすべての標識は、一点を指しているような気がした。僕はそれを見なければならないだろう。今の大混乱と情報の錯綜を収拾するには、それしかないと思った。
《挿絵追加のお知らせ》
新しい挿絵の追加のお知らせです。
『Ⅳ.実験』の中頃とラストに挿絵を貼ってあります。よろしければご閲覧下さいませ。
絵師:あめふらし様
プロフィール:リリカルで夢のような線と色彩で美しい人物と情景を紡ぎだす絵師様。文字で書かれた人物を、まるでデルフォイの巫女のようにドンピシャなイメージでチャネルし魂を込める、錬金術系異能者。
*今後も随時、UPしていく予定です。本文更新のあとがきと活動報告にてにお知らせします。
*挿絵機能は初期設定でOFFになっています。画面右上の【小説閲覧設定】をクリック後、【表示機能管理】2行目の【挿絵表示】の【有】を押して頂くと本文中に挿絵が実装されます。
*挿絵のあるページには目次の章タイトルの後ろに【画】と書き込んであります。