約束通り写真集を借りて帰ってきた。
家に帰ると、母親がちょっと遅かったわね、と言った。図書館の司書さんと仲良くなって話していたと言うと、母親が驚いていた。友達がいないのを、いつも気にしているので、母親は驚いていたが嬉しそうでもあった。いつもの時間にいつものように夕食を母親と二人で食べた。父親は仕事が忙しく、いつも残業で遅い。もともと無い食欲は今日はさらに無く、ご飯を半分だけ食べて、おかずも残した。母親に体調を聞かれた。ダルい、と答えた。間違ってはいない。キシロカインのせいだろうか。
夕食後、いつものように2階の自室に上がり、学校の宿題を済ませると、例の写真集を開いた。見ている途中で彼の家で犯されたので、まだ半分も見ていない。胸がドキドキした。こんな感覚はまだ慣れない。だが、中断したページを探しているうちに、気持ちよさが膨らんでいき、性器が再び勃起してくるのがわかった。
椅子に座ったまま、机の上に写真集を開き、ズボンとトランクスを膝まで下ろした。僕は初めて、自分で自分の性器をしごいた。彼の家で出したみたいだったのに、僕のペニスはとても固くて、自分でも驚いた。だが、脈打つペニスを握っていると、生きている熱をそこに感じてしまい、いつもの違和感が生まれた。彼の家で失神した自分の方が自然に思えた。
自分で失神出来ないだろうか?
僕はこの熱を拒絶したかった。その為なら、自分で自分の首を絞めることも出来ると思った。
「ダメだよ、自分で絞めちゃ。それでオナニーしながら死んじゃう事故って多いんだからね」
彼はそう言って僕の質問に答えた。後日、再び図書館で彼に誘われて彼の部屋に行く途中、僕はずっと考えていた“自分で自分を落とす”方法を彼に聞いたのだった。経験豊かな彼なら、きっと知っているに違いないと思ったが、回答は僕の期待を淡く裏切った。
「それに恥ずかしいでしょ…下半身裸とかで、自分の握って射精した窒息死体が家族とかに見つかるんだよ?」
「いや、死んでしまえば恥ずかしいかどうかなんて関係ないです」
「ま…そうだけどさ。でも、死んでも良いわけ?」
「どうでしょうか…」
僕はちょっと戸惑った。自分の熱の違和感を思った。それなら死を望んでもいいはずだと。今まで僕は鑑賞の対象に対して死を夢見ていた。でも自分の死を夢見たことがあっただろうか。僕の嗜好からしたら当然持っているはずの、自死への希求を自分ではっきりと意識したことがないことに気づいた。
いや、ある。
僕は彼に失神させられた瞬間のことを思い出した。“壊して欲しい”。そう、僕は願ったじゃないか。彼の前で「殺したいんでしょ?」と聞いた時も。では、僕の人生で自分の死を望んだのはつい最近のことなんだな…と僕は自分でそれが意外だった。なんでだろうか。僕はそのことを彼に言った。
「あなたに絞め落とされて、初めて死ぬのは気持ちいいかも知れないって思いました」
「え…そうなの?」
「はい。もっと前から死ぬことに憧れていてもおかしくなかったはずなのに」
「うーん…」
彼は唸った。信号が赤になり、車がゆっくり停止する。彼がその隙に僕の顔を横目で見た。
「なんでこんな話してるんだろ。君って…変だね。変わってるね。僕のことなんで責めたりしないの? 僕に犯されたんだよ? もっと悩まないの? 苦しまないの?」
「そのほうが、いいんですか? すみません」
「いや…さ…謝らないでよ…」
彼は頭をかきながら青信号を見て慌てて発車した。僕は自分が彼によって苦しんでいることを考えた。何か言ってあげたほうがいいのかと思った。今一番戸惑っていること、それは自分が生きているという例の“熱”についてだった。
「僕…写真集見てて、すごく興奮しちゃって。そしたら、興奮してる自分が、自分が生きていることが、すごく違和感あって…そのあとあなたに意識落とされて…その瞬間も僕は壊して欲しいって思っちゃって…でも僕はこうして生きているんですよね。それがなんか…苦しいなって…」
「そっちか…はぁ…」
彼はため息をついた。
「斜め上の回答ありがとうね。気持ちはちょっとわかるけど…僕は壊したい方だから、完全な共感は無理だよね…あとさ…」
彼はもう一度ため息をついた。そう言ってる間に彼のマンションに再び着いた。
部屋に入って、また例のソファに座った。彼は僕にコーヒーでも飲むかと聞いた。はい、と僕は答えた。今回は本当に、アイスコーヒーがガラスのタンブラーに入って僕に手渡された。
「微糖だけど、甘いのが良かった?」
「これでいいです」
「あのさ、僕のこと“あなた”っていうのやめない?」
「名前、知らないです」
「ええっ!? だっていつも図書館で胸に名札つけてるじゃん!」
「そうでしたっけ…」
全く記憶にない。名札…だいたい、生きてる人間に興味がないのに、その名前に興味があるわけがない。
「すいません。見てないです」
「あ、そう。もう…やだな。松田です。覚えて下さい。松田佳彦です」
「まつだ…よしひこさん?」
「そうそう。佳彦って呼んで。君からあなたって言われたくない」
「人の名前覚えるのホント、苦手なんです」
「覚えるまで毎回言うよ。ほら、言って、まつだ…よしひこ」
「まつだ…よ…よしひこ」
なんだか口が乾いてきた。舌がうまく回らないので、アイスコーヒーを飲んだ。
「僕も君のこと、裕って呼ぶよ、いいね。ゆうって良い響きだ。呼びたいな」
「なんで僕の名前知ってるんですか?」
「あのさ! 毎回図書の受付してるでしょ!」
「ああ…そうですね。当たり前か…」
「僕のこと…どう思ってるの?」
「え…?」
「僕は君が好き。君はどうなの? 僕のこと、好き?」
意表を突いた質問に僕は一瞬絶句した。どうって…僕は…生きてる人間には…興味ないんだけど。
「あの…すみません…僕…わかりません」
「そ…そうなの?」
「はい…だって僕は生きているものには興味がないんで…」
それを聞いた彼…佳彦は、愕然とした顔をして僕を見下ろした。
「本気で…言ってるの?」
「嘘はつけないです」
「だって…だってあんなに気持ちよがって…僕のこと拒否しなかったし…もっと絞めてって…よがって…2回もイッて…」
「だって…気持よすぎて…たまらなくて…」
「マジで…?」
「本当です…嘘はつけないって言ったでしょ」
「僕のこと…どう思ってるの? ホントはどう思ってるの?」
彼は僕の肩を両手で掴んだ。好きって言って欲しいんだな、と、どこかでわかった。
「…わからないです。ごめんなさい。好きとか嫌いとか…生きてる人に思ったこと無くて…」
彼は脱力したように、僕の隣にどさっと座り込んだ。
「裕…嫌いじゃ…ない…よね…。少なくとも、嫌われてはないよね」
「はい。あの…」
僕はその時、大事な事に気づいた。
「嫌いって、どういうようなモノですか?」
「え?」
「嫌いって…どういう感情かなって…」
「なに…それ…」
「教えてもらえないですか?」
彼は僕の顔を凝視していた。少しの沈黙のあと、僕に小さな声で訊いた。
「嫌いな食べ物とかない? ほら…ピーマンとか納豆とか」
「さあ…」
もともと食事に興味がない僕には好き嫌いがなかった。
「もういい」
「すみません」
「君は…手強いね…憎ったらしいな…」
「だって、死体が好きなのに…僕に興味があるのって…変です。佳彦も変です」
「もういい…犯すよ」
僕は顎を上げて、のどを彼に差し出した。彼はそこに指を絡めて、そのまま僕をソファに押し倒した。指に力を込めながら僕の上に乗り、そのまま彼は僕の唇を彼の唇でふさいだ。僕の股間はすでに期待で固くなってズボンの前を押し上げていた。
「これでも…僕のこと興味ない?」
唇を離して、片膝を僕の固くなった性器にぐりぐりと押し付け、彼はそう僕に訊いた。
「あっ…あああぁ…」
あまりの快感に頭の中が真っ白になった。知らないうちによがり声だけ上げていた。ドクンと股間でなにかが破裂して、僕は意識を奪われていた。訊かれたことになんか答えられなかった。
その夜は家に帰っても快感の残り火のようなものが消えなかった。仕方が無いので、慣れない自慰をするしかなかった。自分の性欲がうっとおしい。脈打って熱を持つ固いペニスも好きになれない。彼に貸してもらった写真集の縊死のページを開く。いろいろな自死の中で、この写真がいちばん心が震える。そのことと僕が頸動脈圧迫でイクのと関係があるのだろうか? だが、どうにかして自分で自分を頸動脈で落とす方法を見つけないと、僕は“独りではイケない”という深刻な問題を抱えることになりそうだった。握った自分のペニスをやはり生々しく感じて、その違和感で、気持ちいいのにどうしても決定打が出ない。絞めてもらえば10秒足らずで触りもしないのに射精できる自分と比べて、この不自由さはいったい何なんだろう?
僕はため息をついた。
自分が自分の身体を無意識に無視してたのはこれをどこかでわかってたからだ。だから僕はいままでずっと“眺める者”だったのに。観察者には視点があればいい。自覚的な肉体は要らない。それをあの司書…名前なんだっけ…は僕に自覚させてしまった。自分が肉体という生きた容れ物に入っているということを。やっかいだ。もう一度無視しようとしても、この容器は勝手に呼びかけてくる。それも無視できないほどの大声で。迷惑な話だ。僕は生きてるものに、たとえそれが自分自身の肉体でも興味がないのだ。
とはいえ、この写真集は僕自身にとってなにか他のものと違うテンションをもたらしたことは事実だった。そのことは僕は嫌ではなかった。その事実と、この肉体の自覚といううっとうしい出来事は、いまのところバーターが成立していた。問題は目覚めてしまった性欲をどうやって解消したらいいか、そこだけだった。僕は自分のペニスを手の中で持て余しながら、途方に暮れた。こんなもの無くなってしまえばいいのに。そう思うと、机の上にあるペン立ての中にあるカッターナイフが目に入った。
切ってしまおうか。半分冗談、でも半分本気のような感覚で、僕はペン立てのカッターナイフを空いた手で取った。チキチキチキと音がして、刃がだんだんと鞘から3cmほど押し出されてくる。これでこいつを切り取ってしまおうか。僕は刃先を固いペニスの根本に当てた。陰嚢とペニスの間から上に削ぐように。陰嚢も削いだほうがいい。そしたらホルマリンに浸けて…瓶の中に標本として保存して…
「うっ…」
ガラスの標本瓶の中でホルマリン固定された自分のペニスと陰嚢を想像した途端、僕のペニスが張り詰めた。
そうか…これか…。なにかがわかりかけて、自然にストロークの早さが上がった。切るよ…切っちゃうよ…お前は血の抜けた灰色の肉塊になるんだ…もう固くなることも脈打つこともない、冷えた弾力のない肉塊に!
「うくっ…!」
イキそうになる。興奮して押し当てたカッターの切っ先が皮膚に食い込む。その感触と冷たさが僕を高みに押し上げた。
「くあああっ!」
ドピュッと勢い良く精液が自分の腹に飛び散る寸前に、僕はとっさにカッターを離して左手で亀頭を包んでいた。手の中に噴出した粘液が当たるのを感じた。初めて自分の手でイケた。正確にはカッターでイケた。
「う…つっ…」
ペニスをティッシュで拭こうとすると、ペニスの根本にヒリッとした痛みがあった。カッターを押し当てていた皮膚から、かすかに血が滲んでいた。それを見ると、急に気持ちが萎えた。でも、もう萎えたほうがいい、と思った。