深い海の底から浮かび上がるような感覚がかすかにしていた。遠い意識から認知できるものは極少なく、前後の記憶も定かではなかった。だが、不思議と安心感に包まれていた。
少しすると、自分がなにか柔らかいものの上にいて、なにかに包まれているような気がした。かすかに上下する背もたれ…背もたれっていうからには僕は何かにもたれているのだろうが、それを僕はよく知っていて、疑うことのないなにかだった。なぜかすかに上下するのか、僕はそのゆったりした波に身を任せていた。僕のお腹の辺りになにかが乗っている。そうだった。それに僕はよく触れていた。そう…こんな風に手を重ねて…
大きな手があった。僕は朦朧とした中でその手を確かめた。誰かに後ろから抱きとめられている。隆みたいなことする…こんな風によく座椅子みたいに寄っかかっていたっけ。懐かしいな…もう、ずいぶん会ってない。僕はうっすら目を開けた。やっぱり僕のお腹の上に大きな両手が組んであって、それは誰かに似ていた。いや、実際それはそのものみたいに見えた…
「あれ……?」
「目…覚めたか」
僕は目を見開いた。その…声…? 驚いて一瞬で意識が戻り、振り向いたその先に、隆の顔があった。
「…な…んで……?」
状況がまったくわからないまま、僕は驚きのあまり、隆の顔を見上げたままそう言って絶句した。
「寺岡のバカに呼ばれた」
それを聞いて僕は全部を思い出した。寺岡さんの部屋に来て、そこで起こったことを。いつもの押し問答と狂った小さい裕、縊死の画像は父の遺影…捨て子の僕。捨て子を拾って抱く人。そして、唐突に頸動脈を絞められて落ちた深い海。
僕は辺りを見渡した。知らない部屋に居る。僕と隆が乗っている、これはベッドだ。壁に本棚がある。
「ここ…まだ寺岡さんち?」
「ああ…あいつのベッド」
なにが起きたんだろう。僕は訳がわからなかった。寺岡さんはどこに居るんだろう? そして気づいた。一番居てほしくない人が、僕を抱いていることに。嫌な予感がした。
「なんで…隆がいるの? 寺岡さん…どこに居るの?」
僕はなにかとんでもなく僕の望まなかったことが起きている気がした。
「ソファで寝てるわ」
「なんでここに居るの? なにか寺岡さんから聞いたの?」
隆の顔を見られなくなり、僕は背中を向けた。そして一縷の望みをつなぐために、隆をごまかそうと平気なふりをして言い張った。
「…いやだな…僕は…僕はなにも…なにもない…心配しないでよ…なんでもないから…寺岡さん、大袈裟なんだ…」
「全部聞いた」
「えっ…」
「全部聞いたんだ…あいつから」
「うそ」
「ほんと」
あれだけ言わないでと言った約束を、あの人はその日のうちに覆したのか?
「全部って…なに…?」
「お前の…過去」
僕はショックで再び気を失いそうになった。頭から血の気が引いた。これを隆が知ったら…終わりだ。つまり、もう、終わっていた。
「言わないでって…言っちゃダメってあんなに…頼んだのに…頼んだのに!」
僕は叫びだしそうになっていた。
絶望感が押し寄せてくる。なぜ隆といると、この感覚を覚えるんだろう。絶望感…前にも味わった。これがもしや…置いてきぼりにされて捨てられた時の、あの感覚なのだろうか? そしてこれは単純な絶望感だけじゃなかった。深く僕の胸のそこにはびこる罪の意識…死神の刻印…誰かを死に追いやる僕という存在…
すると呆れたように隆が呟いた。
「…バカかお前」
「だって!」
「お前は…なんでこれを俺に言わない? 言えなかったのか…? なんで言えなかった? なんで俺が心配してるのを知っていて電話に出なかったんだよ」
隆は怒っていた。怒りながら僕を問い詰めてきた。
「俺はそこまで信用ねーのか」
あるわけがない。
「…ないよ」
だってあなたは…僕と死のうとした…
「まぁ…腹立つけど…仕方ねぇよな…前科1犯だからな俺は」
「もう…やめて…よ」
「俺の事考えてどうすんだ…傷ついてるのは…お前なんだぞ」
「違…う…」
僕がどれだけ隆を追い詰めたか、忘れたのだろうか?
「違わねぇよ」
「僕じゃ…ダメなんだ…って…」
どうしようもなくなって、僕はその腕から逃れようともがいた。
「行くなよ」
「離してよ」
「正直になれって!!」
いきなり僕は抱きしめられていた。やっぱりこうなるんだ。僕がいるだけでまた…
「ダメ…だよ…」
ものすごく切ない気持ちに、僕は胸を裂かれそうだった。言葉が喉から上がってくる悲しみの固まりに押しつぶされて、それ以上なにも言えなかった。唇が震えた。すると隆が不意に笑った。
「ばーか。いいんだよ…裕…俺はお前のオヤジだろ?」
それを聞いた瞬間、僕はそれまで我慢していたなにかがプツッと切れたような気がした。切れたところからその思いが止めどもなく溢れて、どこをどうかき集めようとしても、それは穴の空いた器から漏れていく水のように、その気持ちを元に戻すことは出来ないことだけがわかった。
ずっと、こうして欲しかったことに。こうして欲しかっただけだった、そのことに。
僕は自分に失望した。結局なにも変えられない。自分の気持ちが止められない。ダメじゃないか。こんなのダメじゃないか、と。涙が出てきたのに、胸が詰まって切れ切れな泣き声しか出てこなかった。
「辛かったって…言え。会いたかったって言え。俺に慰めて欲しかったって…言えよ…なぁ…裕」
そう言うと、隆は僕の頭に大きな手を乗せた。
「恋愛とか性欲とか関係なくな、俺はお前が辛いのは嫌なんだ。なんでそう大人になろうとするんだ…お前自分の年わかってんのか」
年? 大人? 関係ない。そんなの関係ない。僕はただ、あなたが傷つくのを見たくないだけだ。そしてなんで傷つくかというと、僕が傷つけているからだ。そしたらどうしたらいいか、わかるはずだ、隆。僕は隆の手を掴んで引き剥がそうとした。
「死神だって言ったの…隆だよ…なんで気づかないの? わかってるんでしょ? 逃げてよ。僕から逃げてよ!」
「それが裕君のトラウマだよ、小島君」
いつの間にか寺岡さんが正面のドアを開けて立っていた。左手は左の頬に何か四角いものを当てている。よく見ると、唇が腫れて切れていて、血糊が干からびて口元にこびりついていた。頬も腫れているようだった。隆が寺岡さんに気を取られている隙に、僕は隆の脚の間から抜け出した。僕はベッドの上で座ったまま隆に向かい合った。
「トラウマって…なんだ?」
寺岡さんに気づくと、隆はいきなり機嫌の悪い声に変わった。
「君が自分に追い詰められて自殺未遂したって思ってるんだ、裕君は。ずっとそれで裕君自身が追い詰められてるんだ。また君が死ぬほどの苦痛を自分のせいで味わうんじゃないかって、ずっと思ってるんだよ、裕は!…っつぅ…」
叫んだ瞬間、とても痛そうに顔を歪めて、寺岡さんは四角いものを当て直した。それは例のあのとき使った保冷剤みたいだった。寺岡さんは僕を見ると、それでも痛みをこらえた変な顔で笑った。
「起きたんだね…良かった」
「寺岡さん…それ…どうしたの?」
「見てわかるでしょ? そこの野蛮な筋肉バカに殴られたの。グーで」
「隆…!?」
「当たり前だわ…どこをどうやればお前を殴らねぇって選択肢が出るんだよ? この状況」
いろいろ寺岡さんにも問題がありすぎて、殴るなんてひどすぎるという非難はとっさに出てこなかった。まず、僕との約束を破ってるし、もう恋人の位置から僕が下りているからそこには非がないとは言え、隆に内緒で僕を抱くというのは、それがたとえ僕のためだったとしても、隆はよく思わないのは当然だし、そもそも僕を手に入れるためにこんな画策をしたんじゃないかとまだ隆が疑っているようにも思えるし、よく言う“梨下に冠を正さず”というような状況を敢えて積極的に地でいっていて、すべてを総合すると、隆にとって寺岡さんは限りなく黒に近い灰色だなのだった。だが、そんな誤解と偏見の中で、寺岡さんは勇敢にも隆に食って掛かった。
「状況が逼迫してんだろーが! このヘタレ! 君が裕君を強引にでも呼び出してたら私だって遠慮してたっての!…いっつつつ…クッソ…罵倒もろくに出来やしない」
それを聞くと隆は言葉に詰まり、そして黙った。
黙った隆に寺岡さんは畳み掛けた。
「わかるよ。君が裕君に近づけないのは。当然だ。殺しかけたんだから。罪悪感でまだ死にそうなんだろ? わかってるよ。だけど裕君はそれを自分のせいだって罪悪感で、これまた君に近づけない。そしたら、私が君に殴られるの覚悟で裕君との約束破ってでも損な役買って出るしかないじゃん! ああっ…痛いなぁ畜生!」
「覚悟してたのか…」
「それくらい予想できなくてどうするよ」
「でも…全部言うなんて…」
「その約束、破るよって前もって言ったんだけどな…」
「あ…あれですか? あのとき言ったのってそう言う…わかんないよ!」
約束を破ったことは別として、一言話すたびに顔を歪めて痛がってる寺岡さんが可哀想だった。色々問題はあるにせよ、僕の為を思って殴られてくれたことは間違いないだろう。僕は自分で切った手首の傷の痛みを止めるために、母に痛み止めを飲まされたことを思い出した。
「あの…痛み止めとか飲んだんですか?」
「あ…その手があったか。飲んでくる。歯茎まで痛くなりやんの…チッ」
クルッと背を向けて、寺岡さんはリビングであろう方向にスタスタ去って行った。その背中を横目で見て、姿が消えるのを待ってきまり悪そうに隆が僕に言った。
「お前がピンチだっていうのは寺岡の言うとおりだよ。俺よりもそれをよくわかってあいつがお前に色々やってるってのもわかるよ…」
「僕を落としたのは…もしかして…隆を呼ぶため?」
「ああ。そうだって言ってた。お前と押し問答になるのわかってたし、またパニクられると俺に電話も出来ねーってことでやったってよ。で、殴っちまった」
僕と隆は二人とも違う理由で寺岡さんに怒って、違う理由で寺岡さんを弁護していた。複雑怪奇なその現象に、僕達はだんだんわけがわからなくなった。
「歯医者の薬の残りがあってよかった…」
そう言いながら消炎鎮痛剤を飲んで帰ってきた寺岡さんに、僕は聞いた。
「あれを…言ったんですよね…」
「ああ。言ったよ…いい加減にしてくれ裕君。君にとっては約束破ったしおせっかいだって知ってても、譲っちゃいけない選択ってのがあるんだよ」
寺岡さんはいつになく怖い口調でそう言った。僕は黙った。
「裕、それはこいつの言うとおりだ」
隆が寺岡さんの前で、初めて彼の意見を肯定した。それを聞いた寺岡さんは、茫然と隆を見つめていた。
「わかってたよ…クソッ…お前のほうが見えてんだよ裕のこと…俺はコイツを振り回し続けた…拒否んねぇのいいことに俺はコイツを好きにした。どうせ俺のことなんとも思ってねぇならこれくらいしたって構わねぇって…どっか思ってた…そうなんだよ…お前にはそれがわかってて、それでいつもそれの尻拭いして回りやがって」
「ああ…したさ…」
「どうせ俺はヘタレだよ。陰謀マニアのお前に言われたくねーけど俺は裕を何度も捨てようと思ったヘタレだよ。でもそれでいいんだよ。俺はコイツをどうにかしちまうだろ。おせーよな。もう、壊しちまったから…もう俺は近づかないほうが良いんだ」
「君が必要なんだ…今の裕君には」
泣きそうな顔で寺岡さんが隆に言った。隆は苦笑した。
「俺もそう思ってた。でも今はどうかな…それは。こいつ、苦しがってる。俺見て苦しそうで…居たたまれねぇ」
「壊させない」
それは小さかったが、とてもはっきりと耳に響いた。寺岡さんの目が怖いくらい隆を見据えていた。
「寺岡…」
「君に裕を壊させない。君が自分の激情を操れないんだったら替わりに私を殴ればいい」
「寺岡さん…どうして!」
僕は叫んだ。何故そこまでしなきゃならない? だが、それを聞いて寺岡さんは僕を見て微笑んだ。
「言っただろう、裕君。私は聖人君子じゃないって。私は君のためじゃない、小島隆がこれ以上自分で自分を傷つけないようこの男を守りたいだけだ! だから私は君を壊すすべてのものから君を守る。君自身が君を傷つけるなら、私は君から君を守る」
そして寺岡さんは微笑んだまま隆を見た。
「君は頭は悪いが、人を癒やす力を持ってる。なのに怒りっぽくてすぐ何かしでかす。癒して壊してじゃプラマイゼロだ。頭悪すぎる。そこいくと私はなにをどうすればいいかとてつもなく良くわかる。でも残念ながら君の持ってる力は私にはない。君が薬なら私は医者だ。裕がいつどこで君という薬を必要としてるか、私が君の用量を守って正しく投与してあげる。だから…そこの二人! 四の五の言ってないで、さっさと私の処方を守って早くどうにかしろ!!」
そして寺岡さんは僕にツカツカと近寄り、僕のシャツの胸ぐらを両手で掴んだ。
「君は感情を切り離してて自分がどうなってるかわかってないからよくよく言い聞かせとく。きみ、気が狂う寸前…いや、もう狂いかけてたんだぞ! 手遅れかもって思ったけど、すんでのところで君を助けたのは小さい裕だ! 君は君の中の裕を世話してるつもりになってるけど、ほんとは君があれに救われてるんだからな! 君の症状がひどくなっていったら、二重人格か解離性障害だ。そしたらどうなる? 正気に戻らない君の崩壊を嘆いて、この男がまた自殺しかねないんだぞ! 今だってちょっと押せばまたウツに戻る! 君がまっとうに社会で成人して生きて仕事して、コイツが立ち直るまで普通に生きなきゃなんないんだって! ほんとにこの筋肉バカが大事なら、自分がどういう状態なのか、ちゃんと教えてやるからちゃんと受け入れろ!」
寺岡さんは一気にそう言うと、僕から両手を離し、僕の胸ぐらをつかんだ時に落とした保冷剤を床から拾い上げて、また赤く腫れた頬に当てた。一言言うたびに言っていた“痛い”をいつの間にか言わなくなっていた。
「…薬…効いてきたんですね」
「ああ、そうみたい。一気にこれだけ喋れたらまぁ満足だね…ってなに? 裕君それ新しいボケ?」
「あ…いえ…良かったなって思って。あの…なんか…わかりました。ごめんなさい…ずっと夢の中にいるみたいで…自分のことよくわかんなくって…隆のことも全然わかってなかった…」
「いやいやいや…見えてないことなんか怒ってないって。だいたいピンチだから見えなくなってんだし。絶体絶命なのに言うこと聞かないから」
寺岡さんはため息をついた。
「後は任せた。小島君、裕君の話し聞いたげて。私はあっちで寝る」
そう言いながら寺岡さんは押し入れからタオルケットを出し、それを抱えて出て行こうとした。だがいきなり彼はドアの前で振り向き、隆を睨んで指さした。
「言っとくけど、この私のベッドでだけはいちゃつくなよ! 親子なら親子らしく清らかに労り合え。このインラン親子!」
「しねーよ! お前じゃあるまいし!」
「は! あとでこの埋め合わせ楽しみにしてるよ、小島隆。借りの大きさに慄くといいわ!」
「ああ、楽しみにしとけ、倍にして返してやるよこのお節介クソ変態野郎!」
その隆の言葉を背中で聞きながら、バタン! と勢い良くドアを叩きつけて寺岡さんは出て行った。一応、これも売り言葉に買い言葉とはいえ、それなりに精一杯でお互い次につないだんだな…と僕は少しホッとした。
「ちっくしょう…ムカつく」
「お互い様だって…隆」
「悔しいんだよ。あいつの方がお前をわかってんのに…あいつはなんでお前じゃなくて…俺なんだよ」
「ううん…あの人って誰のこともよくわかってるよ。だから僕だけじゃない。あの人は…寺岡さんは…誰かをわかるより、誰かを本気で好きになる方が難しいんじゃないかな」
「わかったようなこと言うなぁ…いつもながらおめぇは」
「だって…本気なんだ…もう悲しくなるほど本気なんだ。あんなずる賢い人が、隆のこととなると、損得考えないんだ」
「いや、もうアイツの事はいい。今はお前のことが先だ」
そう言うと、隆は左右の手で僕の両手を取った。そして、唇を噛んだ。しばらく黙ってから、隆は口を開いた。
「…寺岡から…聞いた。俺は、お前に言わなくていいことさんざん言ったわ。戸籍も俺が余計なこと言わなかったら、お前はまったく眼中無かった。ごめん。ほんと悪かった。ほんとに…悪かった」
「ううん…いいんだ。どのみちいつかわかっちゃうことだったんだ。母親と父親が言わなくても、自分で戸籍を取れば、結局わかっちゃう。そんな状況、これからいくらでも来るよ」
隆は首を横に振った。
「もう少し大人になってからでも良かったんだ…まだお前…15だろ。一番多感なときに…これはねーよな」
「あのさ…隆言ったじゃない」
「なにを?」
「思いも掛けないところで望んでもいないのに、炉の中に放り込まれて溶かされて、打たれて、勝手に形を変えられていくって」
「…よく覚えてんな。俺、そんなこと言ったか?」
「うん。覚えてるよ。みんなそんな目にあってるよね。人生ってそういうものなんでしょ? だったら僕だけそれから逃げられはしないんだろうって…今はちょっと思ってる」
「可哀想だけど…それは、そのとおりだ。そんな目にあって欲しくねぇのは、俺が親バカだからだ。他のやつだったら『耐えられなかったらそいつが弱ぇだけだ。死ね』って思う。でもお前にはもう思えねぇな…」
「ああ…確かに最初に死ねって言われたよね」
「悪かったって…マジでやるやつだってまだ分かんなかったんだわ」
それは、あれ以来ずっと見ていた夢から覚めていくような感覚だった。だんだん認識が現実へと戻っていくのだろうか。ベールをかぶっているような感覚が薄紙を剥ぐように次第に晴れていく。だが、その下から最初に顕れたのは、紛れもない痛みだった。
「でも…あのとき…帰りたかったんだ…ほんとに…あそこに帰りたかったんだ…」
「裕…」
「僕が松田さんから見せられてたの…本当の父親の…最後の姿…僕ね、見捨てられたんだ…僕が先に行くはずだった死の世界に先にお父さんに行かれちゃった…僕はこの世に放置…だから僕は…あれを見ると…この世に引き戻される」
それを聞いて隆はゾッとした顔で呟いた。
「お…俺は…同じことしたのか…お前のほんとのオヤジとおんなじことを…」
ああ…そうか。僕はその時悟った。僕が本当に死神であることを。
「同じように…皆んな繰り返す…僕がお腹にいたからお母さんは死んだんだ。その次は父親…その次は…隆…寺岡さんだって…本気で死のうって思ってた…松田さんはそれで…逃げた…逃げてくれたんだ、僕から。でも…逃げた松田さんすら…もう少し…狂ってるって…」
僕は自分を自分で遮断していたことを正しいとその時思った。家でも学校でも誰にも見られず語られず、気配を消して見えないように過ごす。誰も僕がそこにいると気が付かないように。生きているものに興味を持てば、それは死の一瞥となるのだろう。僕は今の家族に興味がないことを理解した。興味を持てば、死んでしまう…僕という観察者の開ける箱は…死んだ猫しか入ってはいない!
「あっ…」
そしたら。
「母親が…いまの母が危ない…」
「裕、またそんなオカルトじみたこと言うなって!」
「オカルト? オカルトだろうがそうじゃなかろうが事実そうじゃないか! 皆んなそうなる…隆だって、またどうなるかわからないよ!」
隆は泣きそうになっている僕を引き寄せた。そしてまた、後ろ抱きに隆の脚の間に座らせた。
「じゃあ、俺をもう見るな…名前も忘れろ…得意だろ? でも俺はお前を見るのはやめねぇ。それでもあんまり今までと変わらねぇけどな」
そう言うと隆は後ろから僕を抱きすくめた。いつもの包まれている感覚に僕は胸がいっぱいになった。
「これがいい。結局このかっこうが一番しっくりくるんだ。お前は俺を見ない。でも俺はお前を抱いてやれる。お前が両親のトラウマ治して、自分が死神じゃねぇって気づくまで、こうやって抱いててやる。」
「隆は…バカだよ…なんで…やめないの?」
「ああ。お前がいっちょまえになるまではな。だって、お前の今の母親だってずっとそうしてるんだろ? 親ってのはそういうもんらしいぞ」
僕はハッとした。今の母も?…今の母も…ずっと…
「興味ないって違う世界見てるお前をさ、ここまで育てて、虐待のひとつもせずさ…俺もお前の母ちゃんも血がつながってるわけじゃない。でもさ、人間の遺伝子にはそういう機能が組み込まれてるんだよ。母性本能とか父性本能とか言ってさ。狼に育ててもらった子供までいるんだぜ? まぁ、子供虐待死させる親より狼のほうが優しいのかもな。いや、腹が減っていれば狼もそこで食っちまうかもな…てことは虐待親ってなぁ腹が減ってるんだろーな。腹っつーか心が飢えてるのかもな」
隆は笑った。
「はは…大丈夫だよ。お前の今の母親はお前にちゃんと餌くれるくらい飢えてねーんだよ。心配なら俺と同じように前みてぇに興味なくせばいいさ。お前の母親はもう慣れてるんだろ? それでもまだ母親が心配するのがいやなら、寺岡に言って言いくるめてもらえばいいんじゃね? どうやらお前の母親に取り入ったらしいしな。策士が」
僕は泣いていた。血が繋がってない母親が、僕をずっと見てくれていたそのことに。鼻に歯磨き粉詰めた僕を血相変えて病院に運び、わからないなりに考えて恐竜のソフビを買ってくれたり、僕の自殺未遂を説得し、進路を一緒に悩んで、僕の様子がおかしいと心配し、寺岡さんにまで相談して。
(見てるわよ…わからないかも知れないけど)
切った手首を見られたあのとき、ようやく僕は母親の存在に気がついた。そこで言われた母のあの言葉が、今の僕に突き刺さった。自殺未遂をした僕をどんな気持ちで受け止めていたんだろうか。僕は隆が自殺しかけたあの時のことを思い出した。どうしていいかわからないくらいの混乱と心配。それをあの時の僕に母親が感じていたんだとしたら。
「隆…お母さん…僕見るの…大変だったろうね…」
「ああ、困ったと思うぜ。色々なとこでお前、普通じゃねーから。でもな、お前普通じゃない割に、心を開けば人の心配するし、よく人のこと見てるじゃねぇか。俺を立ち直らせようと必死になってくれてよ…あれはお前の母親がそういう人間だからだぜ、きっと。お前、こんな変わりもんなくせに奇跡的に良いヤツに育ったのはさ、お前の性格もあるけど、半分以上は母親の努力の賜物だって俺は今なら思えるわ。俺、今話していちばん共感できんのって、お前の今のおふくろさんだけだと思うぞ」
涙が止まらなかった。もう言葉は出てこなくて、思いだけが溢れた。隆は黙ってずっと後ろから抱きしめてくれていた。不思議なのは…いつも不思議なのは、なんでこの人達は僕のことをこれほどまでに見ていてくれるんだろうかということだった。佳彦も僕を見続けた。隆も寺岡さんも、そして母も。感覚を遮断して、心を閉じ、死の世界に閉じこもって、死以外なににも興味のないこの僕を。
この人達を、死なせるわけにはいかない。僕はその時、心の中でそう決意した。
ねぇ、僕の本当のお母さん。僕をまたあなたのシェルターに入れて下さい。僕が誰かを死なせないように、あなたの死の胎で、僕を世界から隔離して。お願い。出来る事ならそこから出ないように、僕を止めておいて下さい。
僕は心から願った。帰れるかな…いや…帰らなくては…絶対に。
しばらくして僕はそのまま眠ってしまったようだった。
●新しい挿絵の追加のお知らせでございます。
今回、挿絵というにはあまりの完成度の高さに、思わず絵師のあめふらし様にコメントをお願い致しました(V.鍵と鍵穴のあとがきに掲載)。是非、挿絵と共にご閲覧下さいませ。作者感涙にむせびました(泣)。
『Ⅴ.鍵と鍵穴』の終わりの少し前、と、絵師様コメントの最後。
『XIX.懸案事項』の中ほど。 以上、計3枚の実装です。
絵師:あめふらし様
プロフィール:リリカルで夢のような線と色彩で美しい人物と情景を紡ぎだす絵師様。文字で書かれた人物を、まるでデルフォイの巫女のようにドンピシャなイメージでチャネルし魂を込める、錬金術系異能者。
*今後も随時、UPしていく予定です。本文更新のあとがきと活動報告にてにお知らせします。
*挿絵機能は初期設定でOFFになっています。画面右上の【小説閲覧設定】をクリック後、【表示機能管理】2行目の【挿絵表示】の【有】を押して頂くと本文中に挿絵が実装されます。
*挿絵のあるページには目次の章タイトルの後ろに【画】と書き込んであります。