堺教授…僕のたった1人の上司だが…がインフルエンザにかかり、高熱を出して倒れた丁度その日、図ったようにある遺体が運ばれてきた。タバコの灰の不始末による、2階からの出火で家屋は半焼。普通、火災は犯罪性が高いこともあり、検視率が高いことは常識的だが、その件の前後に、放火事件が相次ぎ、残念なことに消防も警察も人出が足りない時期だったらしいと後で幸村さんから聞いた。焼死したのは喫煙者の男性で、その時点で担当が保険金の照会をしていればすぐに司法解剖に回されたであろう事件だった。
こういう資料がある。《犯罪見逃し防止の指針と現状》。この中に、『犯罪死の見逃し事案・分析(平成◯◯年〜×△年)』というものが分析資料として記載されており、さらに詳しい資料として『被疑者が配偶者、親族の保険金殺人の見逃し件数』という大変お恥ずかしい統計と分析がある。こういう恥ずかしい身内の実態を研究できるようになったことについては僕は高く評価するけど。
さて、その事案の分析に「保険金照会があれば事件性を見抜けたもの」という分析結果が書かれていて、それに関して“14件中10件”という恐るべき間の抜けた捜査の現状が明らかになっている。そして毛色は違うが、そのような分類をされてもおかしくないであろう1件がこの事件だった。
幸村さんはその例の連続放火事件の指揮を取っていて、そのつながりで期間内の他の火災の報告を漁っていたらしいが、この昼寝中のタバコ不始末の火災報告を読んで、死体見分のみで検視が居ないことに気づいた。先程も言ったように、火災での遺体は基本的に検視対象になるのに、これは比較的珍しいケースだと言えた。連続放火には関係ないとわかってはいたものの慌てて保険金の照会をさせ、火災の第一発見者が受取人である妻だったと判明した。そのあと火葬の直前にギリギリのタイミングで検視を入れることが出来、そこからこちらに遺体は移された。焼死ではなく、“焼損死体”である可能性が濃厚となったからだ。
焼損死体とは、焼死以外の死因で死亡した後に、焼けて変化した死体のことである。死因が焼死である“焼死体”とは、同じ焼けている屍体でも意味が違うのだ。焼死以外の死因で死亡した、ということは、この遺体には犯罪性が隠されている可能性がある。つまり焼死と偽装された殺人だ。焼死に偽装する殺人は多い。焼けることによって殺人による遺体の損傷を隠すことが出来ると犯人が考える。それで、火災時の遺体における法医学的意義は、まず死因の特定、個人の識別情報、自殺、他殺、事故、過失の鑑別である。屍体が焼かれた場合の状態と、生きた人間が焼かれた場合では、異なる現象が起きてくる。
というわけで、検視時にこの遺体の男性は火災時にはどうやら生活反応がすでになくなっていた。血液中の一酸化炭素濃度の低さと、火傷の裂傷から血液の漏出がなかったのが決定打となり、ようやく事件性を認められて司法解剖の認可が下りた。堺教授の出番…のはずだった。
朝の8時頃、出勤の準備をしていると僕の携帯が鳴った。堺教授の奥さんからだった。
「すみません、岡本さん。うちの主人が今朝高熱が出てねぇ、布団から起きられないんですよ。多分インフルエンザだって思うんですが、今日は岡本くんにお願いしたいってうちのがね…」
「わかりました。病院に行って、病原菌の特定して早く治して下さい。先生によろしく」
僕が法医学教室のスタッフルームに着いた時、また電話が鳴った。今度は幸村さんからだった。
「岡本君? 俺、幸村だけど。これからそっちに遺体回すからよろしく。ごめん、詳しいことは調書見て。これから現場でさ。取り敢えず先入観なしで見てって堺先生に伝えて」
「わかりましたが、堺先生、今日はインフルエンザで休みですよ」
「あっそう。じゃ、岡本君よろしく」
「午前中は予定詰まってます。午後からになりますけど?」
「構わないよ。よろしく」
三回もよろしくと言われてはよろしくせざるを得ない、と思いながら、幸村さんの言う遺体の受け入れを補佐スタッフの菅平さんに頼んで、昨日から準備していた午前中の予定に移った。僕は遺体保管室へ向かった。
地下1階のフロアを右に曲がると、蛍光灯の入った表示灯がドアの上にぼんやりとクリーム色の光を投げる。遺体保管室。ここが僕のサンクチュアリだ。
保管室の空気はいつもひんやりとして心地良かった。ここの静けさは僕にとって無類の慰安をくれる。ステンレスのドアを開け、上から順に遺体を確認していく。名目は確認だが、僕にとっては里帰り…いや、それ以上の何かだった。ずっとここに居たいといつも思いながら、時間に追われ仕方なく作業を始める。冷蔵保管庫から台車の付いたステンレスの解剖台に遺体を移した。
屍体は語る…と僕は思わない。屍体は黙っている。黙ってるというか生から解放されている。誰にもそれを妨げることは出来ない。僕は屍体の言葉を聞いたことはない。しゃべるのは生きている者だけだ。屍体に何かを投影するのは生きた人間のすることだ。僕にはなにも聞こえない。永遠の静けさの中でただ存在するだけだ。そう、自殺の屍体以外は。
僕は仕方なしにステンレスの台車を押しながら隣の解剖室に移った。それでも屍体と一緒に居れるこの時間は僕にとって替え難い時間だった。
誰の投影もされないように、僕は彼らの沈黙を邪魔するファクターをひとつひとつ取り除いていく。この遺体は県境近くの林道からずっと奥に入った山中に埋められていた屍体で、測量の作業員が土砂崩れの中から偶然見つけたらしい。射創(銃による痕)があるとのことで、堺教授からX線による弾丸の探索を任されていた。寒い時期だったのと、埋められてからそう経ってないらしく、腐乱が最小限に抑えられていた。身元の割り出しが済んでいない。歯の治療跡があるので、データベースに照会中だとのことだった。
胸に貫通痕があり、おそらく弾丸は体内には無いだろうと思われた。金属片くらい出ると良いと思いながら遺体と共にレントゲン室に入った。X線、各種検査…と、様々な洗礼を受け、屍体はただの屍体として干渉を離れていく。生きた人間は彼に語らせたい。だがそんなヒューマニティを僕は感じたことがない。社会正義で僕はここにいるわけではないと、法医学教室で学生時代に学び始めてから、それを痛切に感じた。僕は屍体と一緒に居たいだけ。静かにさせてくれと言いたいだけ。生物の勉強と同じだ。僕は生と逆方向にしか動機を感じられない。僕が司法解剖をするのは、その生きている人間の営みから屍体を解放したい、それだけだ。
社会正義や遺族の悲しみとは明らかにズレた場所で、僕は一見有能な法医学者として存在する。法の番人ではなく死者の番人として。それは秘密だ。誰にも言わない僕だけの秘密。なんでも言ってしまうのは良くないというのを、僕は母から言われたとおりに守っている。
銃弾があれば剖出する手はずだったが、画像を解析してもそれは残留してはいなかった。ただ、射出口の直前の肋骨に弾痕があり、骨に弾丸の一部と思われる金属片が細かく付着していた。僕はそれを剥離し、ポリエチレンパックに入れた。それらを終えて報告を書き込むと、既に午前は終わっていた。
スタッフルームで軽い昼食を食べ、水分を補給した。菅平さん(すがだいらさんと読む…僕はすがひらさんと何度も言って怒られた)が途中で入って来て僕を見つけると例の遺体の件を報告してくれた。
「保管室の23番に入ってます。解剖室に移動しておきますか?」
「あ、すみません。助かります。お願いします」
「射創どうでしたか?」
「ああ…貫通です。でも肋骨で一回かすかに曲がってる。そこに金属が擦れてたんで。弾丸の特定範囲は少し絞られるかな」
「科捜研送りですか」
「午後の遺体の分と合わせて送ります。後でまとめておくんで、発送よろしくお願いします」
「わかりました」
必要最小限しか僕と話さない菅平さんにしては、よく喋っていった。この教室の唯一の女性スタッフ(パート)だ。堺教授が居ないからだろうか。気を遣ってくれているのかも知れない。
1時間の休憩を終えて、僕は手を洗い、解剖室に向かった。幸村さんが“先入観なしで”と言ったことが引っ掛かっていた。きっと鑑定の過程で色々な可能性が出たのかも知れないと想像した。事件性があるかないかの決定打はこの司法解剖に掛かっているということだろう。僕は解剖室のドアを開けた…
そこには顔と首が炭化した焼死体が横たわっていた。その瞬間、僕は猛然と白衣のポケットを探った。常に入っているはずのミントのスティック。それを立ち尽くしたまま両手で探した。なにがここで起きるか、容易に分かった。だが、事態は不測の状況を呈した。
…な…い。
頭の中が一瞬白くなった。数秒後に襲ってきたものは、紛れもない、例の発作だった。膝が折れた。瞬間的に僕はシンクの縁に手をついた。続けて腰が抜ける。
「あ…」
僕は振り向いて、震える手で戸を引いた。ピシャッと音を立て、勢いに任せて戸が閉まる。すでに息が上がっている。顔を上げられない。身体をくの字にして下腹部の熱さに耐えるが、唐突に始まってしまったそれに不意打ちを喰らい、僕はカウンターを入れられた格下のボクサーのように戸口に追い詰められていた。すべてが迂闊だった。僕は自分の迂闊さに深く失望した。
冷蔵庫…とにかく冷蔵庫のフリーザーの中に保冷剤が入っている。それを取りに行かなければ…
部屋の対角線にそれは置かれていた。しかし、部屋を再び見渡した時、すでにその焼死体は焼死体ではなくなっていた。焼けて黒くなっているその首の回りに電気のコードが巻かれ、天井からぶら下がっている姿が僕の脳裏をかすめた。その事件には高額の生命保険が絡んでいる。3年未満の自殺では保険の適応にならない。家族の誰かが現場の偽装をした…?
縊死…だめだ…これはだめ…これは…他殺じゃ…ない…自殺をカムフラージュするための…焼損死体…
僕はシンクの縁を伝って解剖室の反対側に向かった。誰か来る前に早く止めなければ…そう思えば思うほど身体の震えがとまらないほどの性感が襲ってくる。久々の不意打ちの発作に僕はうろたえていた。対処の手順が欠落しているのもそれを手伝っていた。なぜ? なぜミントのスティックがない? どこかに落としたんだろうか? カバンに入れた覚えもない…一体どこへ?
冷蔵庫の扉にしがみついた時には、立っていられずに、僕はその前で座り込んでいた。幸いなことにフリーザーが低い位置にあるタイプの冷蔵庫だった。僕は座り込んだまま引き出し状のフリーザーを開けた。僕の仕込んだ保冷剤が4つ、その中にあった。おぼつかない手でそれをつかむ。両手にひとつづつしか持てない。それをポケットの中に詰め込む。更にもうひとつ手に取ると、直にベルトの内側に押し込み、ボクサーブリーフの中にそれを滑りこませた。キーンと冷えきった感触が素肌を刺し、僕は思わず吐息を漏らした。
「くっ…はぁ…」
目を閉じて僕はしばらくそこで座り込んでいた。参った。それ以上に自分の不用意さを訝しく思った。なぜ今更このことを忘れてこの場に臨んだのだろう。あとで分析しなければ。まだ作業は始まってもいない。ここの職場に来てからは、自殺の遺体でもこんなひどい事態はそうそうなかったのに。
保冷剤のおかげでゆっくりと火が治まっていこうとしていた。立てるかも知れないと、冷蔵庫の取っ手に手を掛けて膝に力を入れた瞬間、いきなり後ろから勢い良くドアの開く音がした。
「岡本君、おつかれさん!」
「あ…え…?」
僕は振り向いたまま、茫然とその来訪者を見つめていた。それはなぜか幸村さんだった。
《挿絵追加のお知らせ》
新しい挿絵の追加お知らせです。
『Ⅸ.サディストの憂鬱』中ほどに挿絵掲載しました。
絵師:あめふらし様
プロフィール:リリカルで夢のような線と色彩で美しい人物と情景を紡ぎだす絵師様。文字で書かれた人物を、まるでデルフォイの巫女のようにドンピシャなイメージでチャネルし魂を込める、錬金術系異能者。
*今後も随時、UPしていく予定です。本文更新のあとがきと活動報告にてにお知らせします。
*挿絵機能は初期設定でOFFになっています。画面右上の【小説閲覧設定】をクリック後、【表示機能管理】2行目の【挿絵表示】の【有】を押して頂くと本文中に挿絵が実装されます。
*挿絵のあるページには目次の章タイトルの後ろに【画】と書き込んであります。