※この作品はR-18です。

僕を止めて下さい   作:架空線

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六、桎梏

 

 ドアノブに繋がれた僕の前の土埃の積もったコンクリ床に、彼は躊躇なく自分のコートを脱いで広げた。

 

「やってくれ、この上で」

 

 そう言うと彼はコートの上にしゃがみ、手の中の現場写真を置いた。

 

「俺の、君に対する信頼を返せ」

 

 茫然と立ち尽くす僕を彼は見上げた。その目が怒っていた。怒りながら何故か泣きそうな顔をしてる気がした。

 

「どういう…ことですか」

「俺の信頼を返せ!」

「どういうことですか!」

 

 繋がれていない僕の右手を幸村さんは乱暴に掴んだ。そしてその手を力いっぱい引き下げ、強引に僕を跪かせようとした。バランスを崩した僕はコンクリの床で膝を打つまいと、とっさに掴まれた右手で幸村さんのスーツの胸元にしがみついた。左手の手錠がビンと張り詰め僕をドアノブから吊るした。瞬間的に僕は幸村さんに抱きとめられていた。

 

「あの日、どうしたんだ君は?」

「あの日?」

「解剖の日だ」

「…」

 

 僕は何も言えなかった。そのことを言えることはない。幸村さんは僕の肩を押さえつけ、床に膝立ちにさせて自分は立ち上がった。今度は彼が僕を見下ろしていた。

 

「俺と君はこれまで上手くやってた。違うか? え?」

「わかりません」

「わからないのか! 君は俺の考えていた司法解剖をした! 最初からだ! 堺さんが前橋がやらなかった場所に君は踏み込んだ、最初から!」

「知りません…そんなの」

「君はここの以前の司法解剖を知らないのか!」

 

 それを聞いた時、僕は堺教授が幸村さんとやり合ったと言ったことを思い出した。

 

「どういう意味ですか…」

「君の前任の前橋准教授を知ってるか?」

「いえ…僕が来た時はもう居なかった」

「クズ野郎」

「え…?」

「あんな奴が俺達の仕事を左右するのかと思うと反吐が出る…そいつを庇ってた堺さんにもだ!」

「堺教授が…?」

 

 僕は自分の職場では決して語られることのなかった前任者の話を初めてこの時聞いた。怒りで彼の声が震えていた。

 

「ようやくあのクズ野郎がいなくなったのに…君が来て俺は…」

 

 幸村さんの臼歯が顎の奥でギリと音を立てた。

 

「君を信用してた俺がバカだったのか!? 被害者の遺体とふたりきりで部屋にこもって、そのときの怪しい行為をなんの説明もしないで逃げたと思ったら、手順も踏まずに浮足立った解剖しやがって! その説明をこっちから聞きに行ってやったのに、人が聞いたら頭おかしいんじゃないかっていう言い訳しか出てこねぇ! しかも逆ギレしやがって、自分には超能力あるんですってか? 僕の替わりを呼んで来いってか? 笑わせんじゃねぇ!」

 

 彼は僕の胸ぐらを両手で掴んだ。

 

「どんな事件でも起こったらそこからいろんな命が掛かってんだよ。お前の前任はそれを見ないようにしてナメた真似し続けた。堺さんはそのクズを庇った。いくら良い人だろうが俺には同罪だ。期待してたお前も結局その後釜かよ! まともなヤツは1人もいねぇのかよ!!」

 

 幸村さんは僕を激しい憎悪の目で睨みつけると、いきなり突き放すように僕の胸ぐらから手を離した。

 

「早く始めろ。時間がないんだよ」

 

 彼の言葉が冷たく響く中で僕は悟った。これは僕だけの問題ではないのだと。この問題は、うちの法医学教室全体の失墜した信頼の問題だったのだ。知らぬ間に僕は幸村さんの失くした希望を担っていたと言えた。それが失われたと思った時、彼は激しく憤った…信頼したはずの僕と、信じてしまった自分自身に。

 

 ここで僕が逃げたら。これは僕が逃げただけの結末ではなくなっていた。それは法医学教室が逃げたと同義であることがわかった。僕は膝の上で右手を握りしめていた。

 

 逃げることはもう出来ない。

 

 とうとう来た、この時が。寺岡さん…これをいつも貴方は危惧して発作から逃げる僕を厳しく叱咤してくれた。それは教育者であると同時に、法医学ってものが社会的に負う責任を、同じ大学という機関の中で生きるものとして知っていたからだろう。僕はこの桎梏を負いながらここに在らねばならない。それは僕がした選択だった。なぜならそれは僕を本気で殺したかった佳彦が、最後に僕に言ってくれた最後の言葉なのだから。

 

(君は法医学者にでもなればいい…)

 

 今なら僕は言える。その言葉しか、僕をここに連れてこれなかったのだと。僕はそこで殺されることを望んでいた。それが叶わなかった僕は、その言葉しか、もう生きていく術を持たなかったんだって。

 

 言ってみれば、これは貴方が見つけてくれた力だよね、佳彦…そして貴方が僕に嵌めた発作という桎梏…それがなんの意味があるのか僕にはまったくわからない。わかることができない。でもそれを隠すことがもう出来ない。そのことが絶望感以外のものをもたらしたことがない。それでもこれを負いながら生きていくことしか出来ないのなら。

 

「幸村…さん…」

 

 僕はコートの上の写真の束を見つめた。

 

「…なんだ…?」

「始めます。でも…今から僕に起きる発作のこと…見なかったことにしてくれませんか…」

「発作…?」

「ええ。僕が背負ってるトラウマです…僕は…自殺の画像見ると、正気じゃいられなくなる…お願いです…それだけはわかって下さい…」

 

 幸村さんは一瞬黙った。そしてゆっくり口を開いた。

 

「君が狂おうがどうなろうが…結果が全てだ。キレイに自殺とそれ以外を分けられるかどうかしか、俺には興味はない。君が本当に使えるヤツかどうか、それ以外のことにも興味はない」

「そうですか…良かったです……では始めます」

 

 僕は目を閉じた。手錠の下で左手首の古傷が不意に疼いた。僕は目を開いた。1枚目を見た僕は、自殺ではないとわかった。

 

 撲殺。

 

 僕は動かすことを許されている右手で、それを右上に分けた。いつの間にか見ているはずの幸村さんが意識から消えていた。

 

 2枚目…墜落事故…3枚目…庖丁による殺人事件…

 

 僕は機械的に手を動かした。9時まであと4、50分だろう。この写真の束は50枚以上あるような厚みをしていた。どこまで僕が耐えられるだろう。そんな考えが僕の頭をよぎった。よぎった瞬間に僕はそれを振り払った。雑念にかかずらわってる暇はない。

 

 4枚目…自転車とトラックの交通事故…5枚目…

 

「…っ!」

 

 その時目に飛び込んできたのは入水自殺の、膨化した溺死体だった。とっさに僕は右手の甲で口を塞いで目を逸らしかけた。声が出てしまいそうになった。身体を落ち着かせるために一度、目を閉じた。大きく息を吸って、それを吐き出した。そしてゆっくりともう一度目を開いた。

 

(終わり終わり終わり終わり終わりぃぃ…!)

 

 屍体が狂ったように僕に囁く。そうやって叫びながら車ごと海に落ちていったんだ。既に指先が震えていた。その手で僕はその写真を左側に分けた。

 

 6枚目…焼死体…放火?…7枚目…飛び…降…

 

 うっ…と声が漏れる。頭の下の血の海と見開いた目。挫滅した頭蓋骨と脳。顔にまとわりつく長い髪…顔とむき出しの脚に死ぬ前に生じていた内出血…全員呪われろ…と呪詛の言葉が響く。いじめられた女子中学生…校舎の裏手…リンチの後に階段を駆け上がっていく足音…その写真を素早く、さっきの溺死体の上に重ねる。息が上がってくる。浅い早い呼吸で過呼吸にならないように、僕はもう一度目を閉じ、息を殺した。下腹部の熱さが膨れ上がってくる。コートの下でもうそこは硬くなってしまっていた。

 

 8枚目…傘で眼窩を突かれた脳挫傷…9枚目…雪の中の凍死屍体…10枚目…

 

「ああっ!」

 

 僕はもう声を押し殺せなくなっていた。縊死だった。耐えていたものがすべて無意味に思えた。右手で額に手を当てる。身体の中の血のうねりのようなものをどうしていいかわからなくなってくる。屍体は3階のベランダから外に宙吊りになっていた。どうして…どうしてこんなに迅速に向こうへ逝けてしまうんだ…僕ですら押し止められている自分の死を、なぜこんな空白の中で…パジャマの裾がヒラッと宙に舞った。彼は笑っていた。笑いながらすぐに息が詰まった。目を逸らしながら左側に重ねると、知らないうちに涙が滲んできた。

 

 次…11枚目…縊死に見せかけた絞殺…次…12枚目…これも縊死に見せかけた絞殺…13枚目…頭を殴った後の絞殺…絞殺が5、6枚続く…そして18枚目…縊…死…

 

 はぁ…はぁ…もう目を閉じることが出来ない。眼窩を見開いたまま、右手を床についた。身体の力が抜けかけている。吊られて伸びきった左手で前に倒れるのを押しとどめていた。手首に手錠が食い込む。だんだん左手の指先が冷たく麻痺してきていた。

 

 まるで『Suicidium cadavere』の再現…否、これが本当のSuicidium cadavereだった。でももう、途中で意識を落としてくれる人はいなかった。この写真を、どうにかして左側へ移さなければ。だが、そのための右手がもう身体を支えるためにしか機能していなかった。コートの上に倒れられたら、まだ転がったまま写真を確認できる。でも手錠のせいで、僕の身体は膝立ちでそれ以上前にも下にも動けなかった。

 

「ゆ…ゆきむら…さん…」

「なんだ…?」

 

 喘ぎながら僕が彼を呼ぶと、かすれた声で幸村さんが答えた。見上げると彼は棒立ちになって僕を見下ろしていた。

 

「てっ…手伝って…くだ…さ…い…」

 

 時間がない。手が空いてるのはそこに立っている人だけ。 

 

「なにを?」

「このしゃ…しん…左側の山に…置い…て…下さい…」

「ここにか?」

 

 片膝をついて彼は僕の前にしゃがみこんだ。そして写真を取ると、僕の右に置いた。反対だ。僕は首を横に振った。向かい合っているのだから逆に言わなければならない。

 

「…いえ…幸村さんの…右…がわ…」

 

 幸村さんはそれを自分から見て右に置き、写真を揃えた。次…19枚目…刺傷による失血死…

 

「つぎ…ひだ…りに…お願い…しま…」

「こっちか」

「は…い…」

「つ…ぎ…うぁ…」

 

 20枚目…気が狂いそうになってくる。再び縊死。僕は床のコートを震える指で握りしめていた。

 

「み…みぎにっ…!」

 

 左手首が鬱血してパンパンになっている。指先が膨張して張り裂けそうな感覚が痒みを伴ってやってきた。このままいくと、手首から先に酸素が足りなくなりチアノーゼを起こす。手指の神経や血管に損傷が起こると、解剖の手先の仕事に左手が使い物にならなくなる。

 

「ひだり…て…手錠外し…血が…止まって…しびれ…て…」

 

 幸村さんは無言でポケットから手錠の鍵を出し、素早くそれを外した。もう逃げないと思ったのだろう。手錠を外された瞬間に、僕は反動で前のめりに倒れかけた。その身体を幸村さんが両手で受け止めていた。触れられたと同時に、ビクッと全身が震えた。

 

「んああっ…!」

「どうした?」

「さっ…触らないで…!」

 

 僕は受け止めた幸村さんを突き飛ばした。その反動で僕は後ろに倒れこみ、ドアに背中を打ち付けていた。僕はそのままドアにもたれ掛かった。

 

「なんでだよ! 止めなきゃ顔からツッコんでただろ!」

「触るな!…壊れる…気が狂いそうなんだ…触るな…」

 

 僕はハッとして両膝を立てた。勃っているのを見られてないかと思うと血の気が引いた。ドアに後頭部を押し付けて目を閉じ、襲ってくる性感に耐えながら、身体の両脇の床に手をつき、その姿勢でようやく身体を支えていた。僕が下がったせいで写真が離れた場所に遠のいていた。

 

「こ…こっちに…持ってきてくださ…しゃ…しん…」

「もしかして君の発作って…」

 

 どこか気づいたような幸村さんの言葉を僕は遮った。

 

「やめ…て…!」

「これか?…あのときのあれは…」

「見なかったことにしてくれって…言ったはずです…お願いだから…」

 

 荒い息の中で、もう隠せている気もしなかった。幸村さんがドアの際の僕の前までコートごと写真の仕分けた山を引きずってきた。怒りに満ちていたはずの彼は、眉間に皺を寄せ、何故か苦しそうな顔で僕を見つめていた。

 

「見えるか」

「見え…ます…つっ…続けます…つぎ…ひだりに…つぎも…ひだり……つぎ…うあああっ!」

 

 煉炭による一酸化炭素中毒自殺。体全体の震えが止まらない。さっき抱きとめられた時に触られた部分が刺すように熱い。僕は歯を食いしばり、写真から顔を背けた。

 

「みぎぃぃ…!」

「君…!」

「僕を見ないで! …つぎ…つぎを…」

 

 言いながら涙が溢れていた。感情と性感が混ざって目から溢れているみたいだった。そんなものを見ても、苦しそうな顔をほどかないまま幸村さんは途中でやめることはなかった。

 

「あぁ…あぁ…あぁ…みっ…みぎ…つっ…つぎ…くはっ…」

 

 あまりの辛さに僕は股間に両手を挟んで、座ったまま身体を前に折り曲げていた。あと…あと10枚足らず…それで解放される…

 

「ひだり…そっそれ…ひだ…り…それ…も…ひだり…」

 

 最後に差し掛かって、焼死体が続いた。朦朧とする意識の中で、僕は必死で仕分けを彼に告げ続けた。

 

「それ…ひだり…そ…あ…」

 

 その中からの、いきなりの焼身自殺だった。灯油をかぶり、着火した彼は自分のやったことを激しく後悔していた。苦しい助けてと、皮膚を舐める炎の中で気が狂ったように走り苦しみ悶えていた…今の僕のように。

 

「…助けてぇ…たすけて! …熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い!熱い!!」

 

 耳の中に響く言葉が知らないうちに声になって出てしまっていた。僕は頭を抱えたまま天井を向き、そう叫んでいた。

 

「どうした!?」

「叫んでるんです! この人叫んでるんです! 僕の耳の中で叫んで…ああああああっ!!」

 

 信じがたいほどの悶絶感。

 

「この人は生きたいのに! 生きたいのに! なんでこんななの!? 生きていたいのにぃぃ!!」

 

 僕は耳をふさいでコートの上に倒れこんでいた。まだ…まだ終わらない…あと少し…あと…少しなのに…

 

 幸村さんが床に転がっている僕の目の前に写真を置いた。45枚目…自動車事故…バンパーとブロック塀に挟まれた…

 

「ひだ…りに…」

「最後の一枚だ」

 

 46枚目…轢死体…これも自動車に轢かれた男の屍体だった。 

 

「ひ…ひだ…ひだり…に…」

「君。これは左なのか…自殺じゃないのか?」

「違…う…これは…ちが…」

「本当か? 本当にこれは自殺じゃないのか!?」

「違う…自殺じゃない…」

 

 幸村さんはそれをじっと見つめて、そのあと僕をじっと見ていた。そして、呟いた。

 

「そうだ…これが自殺なわけねぇよな…やっぱりそうだ…やっぱり…君は間違ってない」

 

 そしてあらん限りの力で、壁を拳で叩いた。薄い壁がバン! と大きな音を立てた。

 

「終わり…ですね…」

 

 震える身体を自分で抱きしめながら、僕は幸村さんのコートの上に胎児のように丸まっていた。

 

「こっ…これ…で…満足…ですか…?」

 

 幸村さんは答えなかった。僕は喘ぐ息の下から呟いた。

 

「かえり…ます…」

「待ってろ…これ返してくる」

 

 幸村さんは土埃にまみれたコートの上の写真を集めると、それをファイルに入れ走って部屋を出て行った。独りになった途端、一度止まった涙が再び溢れてきた。僕は倒れたまま、コンクリの床を拳で叩いた。何度も、何度も。怒りなのか、悔しさなのか、悲しみなのか、よくわからない思いが渦巻いて、拳は勝手に床を殴っていた。幸村さんに? それとも前任者に? 堺教授に? 佳彦に? それとも僕自身に? 力の入らない右手で僕は冷たい床を打ち続けた。思いもしなかった行為を繰り返している自分が不思議だった。だがそれをやめられなかった。しばらくすると遠くから誰かが走ってくる足音が聞こえた。ドアがバンと開いた。僕は床を叩くのをやめた。

 

「すまん」

 

 僕はもう何も言うことが見つからなかった。下腹部の火はまだ熾火のような灼熱の固まりを埋め込まれたままだった。幸村さんは僕を起こそうと、背中から僕を抱きかかえようとした。

 

「やめっ…」

 

 僕は再びその手を振り払った。触られたところから痺れが走り、頭の中がかき回されるような感覚に溺れそうになっていた。

 

「わかった。なにも見てない。俺は何も見てないから。だから俺を拒否るな」

「触らないで…気が…気が狂いそうだ…」

「発作の…意味がわかった」

「やめて…わかるもんか…わかるわけない…もう帰ります」

 

 わななきながら僕はかすれた声で頼んだ。力の入らない両手で身体を起こそうと半身を起こした。だがそれ以上もう動けなかった。

 

「わかったよ…なにも俺は見てない。…けどわかった。君がどうなるのか。あのときも、こうだったんだな」

「…もうやめて」

「いつから…こんななんだ?」

 

 僕の前に片膝をついて、悲しそうな声で幸村さんは僕に尋ねた。もう責めている口調は消えていた。僕は言いたくないことをなぜだか答えていた。

 

「…中2」

「なんでこうなった」

「自殺の写真集を…貸してくれた男の人がいた…本を見せられて…そのあと…首を絞められて…レイプされた…それから自殺の屍体がわかるようになって…もう…戻んなくなった…キッカケはそれ…でも…ほんとの原因は…もっと前…」

 

 僕は目を閉じた。

 

「…父親の自殺」

「わかった。もういい。もういい」

 

 そう言うと、性懲りもなく彼は僕を抱き起こそうと肩を掴んだ。僕はそこから逃れようともがいた。

 

「触らないで! わかってるならもう放っといて下さい! 早くどっか行ってくれませんか? こんなの見て…全部正解だったところでもう見損なってるんでしょ? こんな気の狂った人間が貴方の大事な仕事を左右してるって…全部わかったんならもういいでしょ? 僕は今後もまっとうに仕事する。前任者の分まで僕は信頼を取り戻せるまで責任持って仕事する! 貴方が何を怒ってたのかよくわかりました。誤解されるのもわかった…だけど誰に言えるんだ…誰に…こんなこと…僕は…狂ってるんだ…これと…引き換えなんだ…でもそれと引き換えに…僕がこの世にいても許されるって…僕は思いたいんだ…」

 

 肩を掴まれた手を振りきろうともがけばもがくほど、僕の身体は幸村さんの腕に拘束されていった。背中から大きな身体で羽交い締めされたかと思うと、彼は僕の身体を引き寄せて背中から抱きしめていた。錯乱するほどの痺れが僕を襲った。

 

「離して! 触らないで…こっこれ以上おかしくなったら、もう自分で止めらんなくなる!」

「じゃあ、俺が止める! 全部俺が止めてやる。だから…狂っててもいいじゃねぇか!」

「なんで…!」

 

 幸村さんは呆れたようにフッと笑った。

 

「俺は君が好きなんだ」

 

 言われた時、僕は呆気にとられた。驚きのあまりもがくのを忘れたほど。それくらいその言葉は見事なカウンターだった。

 

「う…うそ…だ…」

 

 ここまでしておいて、僕のこと…好き…って…

 

 意味がわからなかった。めまいがするようだった。ここまで追い詰めて、僕のことが好き? どうやったらそんなことが言える?

 

「嘘なんかじゃない……ずっと好きだったんだ。だから俺は、二重に君を許せなかった」

 

 彼が後ろから呟く声。今までの彼からは想像もつかない静かな声だった。

 

「そ…そんな…勝手な…」

「勝手だ。だからなんだ。君が勝手に隠してることを俺が知りたかった。勝手は同じだ。でも確かにこれは誰にも言えないな。俺以外には」

 

 俺以外、と聞いて、僕は今までされてきたことへの怒りがこみ上げてきた。そうだ。貴方以外は、僕にこんなことしやしない!

 

「そうですね…貴方だけです…僕をこんな目に合わせたのは!」

「そのとおりだ。責任は取る」

「いらない! そんなの要らないから」

「こんなになっててもか?」

 

 そう言うと幸村さんは、後ろからいきなり僕の首筋に唇を押し当てた。

 

「んあぁ! なにす…る…ん…」

 

 抵抗する言葉はハァハァと喘ぐ息の中に紛れて声にもならなかった。抗っていたはずの全身の力が抜け、僕は不本意なことに幸村さんの腕に全身を預けていた。ほんとにこうなった僕は誰でもいいんだな…そう思うだけで、再び絶望的な気分になった。期待されちゃ、困る。だって僕はあなたのこと…

 

「僕は…生きてる人間を…好きになったこと…ないですよ…」

「死姦じゃないとダメなのか?」

「そん…な…ありえ…な…い…」

「じゃあ行くぞ」

「…どこ…?」

「君んちだ。自転車回収してってやるから…安心しろ」

 

 幸村さんは恩着せがましくそう言って、僕を抱えて立たせた。色々な意味で頭が狂いそうな僕は、その強引さにいつもの通り簡単に押し切られて、元来た道を無抵抗のまま彼に引きずられていった。

 

 

 

 




●桎梏:「桎」は足かせ、「梏」は手かせの意。


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