※この作品はR-18です。

僕を止めて下さい   作:架空線

44 / 128
九、リフレイン

 

 ・幸村さんに会いたくない気持ちが88%

 ・現場写真の46枚目の概要を確認せねばならない義務感が12%

 

 …というのが翌日からの僕の気持ちの内訳だった。会いたくない気持ちが7.3倍ほど勝っていたので、取り敢えずここのデータベースで自殺の轢死体を、文字だけの閲覧で検索してみた。画像はパス。

 

 自殺は僕に最も影響を及ぼす「縊死」が手段として最も多い。男女ともに自殺者全体数の60%前後をいつもキープしている。それに比べ電車や自動車などに飛び込む「飛び込み」自殺は2〜3%前後しか無い。データベースには死因の検索機能があり、自殺は更に手段別に検索できる。

 

 とは言うものの、自殺の解剖率は全国で4%だ。全体の解剖率は11%、日本は先進国でも無類の解剖嫌い国家と言える。自殺とみなされる異状死体は検視段階で色々と理由を付けられて解剖されないことが多い。犯罪の見逃しを危惧する声も法医学者の間から出ているが、異常なまでに低い予算を増やそうとしないのがそもそも司法の親玉の警察庁なのだから、意図を疑ってしまう。死因が特定されないこと、それを操作できることを裏で重要視しているのではないかと。

 

 スウェーデンやフィンランドのように異状死なら100%解剖する、予算も潤沢、となったら、偽装殺人などはなかなかハードルが高くなってしまう。我が国の司法の番犬はそんなことを危惧しているんじゃなかろうか。密かにこのいい加減な現状は巧妙に維持されている…などと勘ぐりたくなる。そうでなければ、先進国とか何とか言われているこの国のこの現状が放置されている合理的な回答が見つからない。

 

 先日の46枚目の現場写真はそんな状況の中で息をひそめているのかもしれなかった。そして該当するようなデータは、文字の中からは見つけられなかった。ここにない…それはもしかしたら解剖すらしていない、という可能性も大いにあった。いつものように幸村さんが食い下がっても、検視段階で強引に「自殺」と処理された可能性も否めなかった。

 

 鉄道や車への飛び込み自殺は前にも言ったように、せいぜいが全体の2〜3%に過ぎない。これはなぜかというと、致死率が他の方法に比べて圧倒的に低いからだ。しかも自動車は自殺の中でも圧倒的な致死率の低さを示している。電車のほうがやりようによってはまだ死ねる。高速で走り抜ける電車にきちんと当たればいい。もしくは線路にきっちり寝ていればいい。それでは飛び込みとは言わないが、それも飛び込みのカテゴリーで括られる。しかしその結果、遺族に鉄道から億単位の倍賞を求められることもある。家族の死のショックと、賠償金の支払いという重いカセが同時に降りかかってくる。遺族としては地獄のような事態となる。

 

 自動車への飛び込み自殺には、“特攻”と呼ばれるものがある。これは何かというと、自ら当たって死に、相手の車の自賠責保険から高額の補償金を取り、遺族に遺そうとするもので、保険金自殺と同じ、金銭的な問題で自殺を考える向きの行為である。しかし、保険金を自分にかけて免責期間およそ3年を過ぎて自殺するのと、相手のドライバーを巻き込み事故と見せかけ、その人を犯罪者にしつつ死と引き換えに遺族に保険金を遺す当たり屋特攻自殺とは、赤の他人への迷惑の掛かり方が全く違う。しかし特攻も失敗すれば、死ねないし障害が一生残るなんてことも多く、発作的でもない限り車への飛び込みを考える人は、非合理的で狂気的な“自殺”という手段を取る人の中でも、更に合理性に欠ける主観的な人間であるということが示唆されよう。

 

 これが自殺かどうかという警察の判断は、この飛び込みした人の遺書の有無や、生前どんな言動をしていたかとか、預貯金はどのくらいあったかとか、家族関係、交友関係、男女関係、仕事上の問題など多角的に判断して、自殺かどうかを決めなければならないのだが、この生活身辺状況調査を怠り、警察は事故現場の状況だけで判断する場合も多い。通常、交通事故のケースでは検視のみで、司法解剖に回ってくることは殆ど無い。ひき逃げの時くらいである。しかし最近はドライブレコーダーが普及し始めているので、運良く(運悪く)ドラレコ搭載の車に当たった場合、不審なな飛び込みは判断され、ドライバーは不起訴になる。事故の偽装を防ぐためにも、ドライブレコーダーの義務付けとかすればいいのに…とこの件についてはよく思う。

 

 話を元に戻すと、つまり自動車への飛び込み自殺は率が少なく、しかも事故偽装が多く、警察は自殺という特定までの調査が少ないし、致死率が低い。従って、純粋な自殺や特攻自殺と判明する遺体数自体が少ない。そして確実な致死率や、他人に掛かる迷惑にもこだわらないほどの狂気的な精神状態の中で自殺を選んでいるという、自殺者の特殊性もある。この様々な条件を満たさなければ、「自動車への飛び込み自殺」という希少な自殺は成立しない。

 

 ざっと計算してみた。最近の全国のある年の自殺総数は30,229人だった。その中で飛び込み自殺率は2.5%なので総数に2.5を掛けて755人がその年の飛び込み自殺者数だ。そこから国土交通省が公表している鉄道自殺者数の647人を引けば自動車飛び込みの自殺者数が出る。

 

 108人。

 

 これがその年の自動車飛び込み自殺数だ。煩悩の数と同じなのが偶然とは言え意味ありげに見えた。1年間で全国で108人。首吊り自殺の20000人と比べると、実に圧倒的少数派だ。しかも自動車飛び込み自殺は事故に偽装するのがセオリーといえる。それを逆になぜ自殺に偽装したのかということになる。殺人はもちろんだが、事故という落とし所にも出来なくてこの希少な自殺方法に偽装しなければならなかったというその理由は一体どんな理由なのか? と、僕はこの1年間に全国で108人という数を見ながら考えた。

 

 関係者は2人? それとも3人? 死者、運転者、そして犯人? この犯人と運転手はかぶっている場合もある。事故だったら過失でドライバーが罪に問われる。殺人なら過失ではなく犯罪だから隠蔽したいのは当然だろう。自殺だと証明出来ればドライバーの責任は回避される。とは言え、突発的な事故を起こしたドライバーの証言のみで自殺であることを主張して通るはずもないだろう。自殺であることを調査し特定出来るのは警察以外には存在しない。目撃者が居たとか、遺書があったとか。

 

 そこまで考えて、何か僕の脳裏にザワザワと嫌な感じが広がった。それはいくつかの可能性の中のひとつの推論に過ぎないが、その結論を僕は快くは思わなかった。少なくとも推論を埋めるには考え得るその他の可能性を排除していかなければならない。この感覚…いや思考のざわめきが事実確認によって否定されてくれることを僕は願った。事実確認…幸村さんと会うしかないのか。僕の心の中の88%の拒絶を凌駕する動機が12%の義務感の中に生まれるかどうか…全てはそこだった。

 

 よくよく考えてみれば、もう終わっている事件かも知れなくて、写真の選別以外、特になにか頼まれているわけでもないということにその後気づいた僕は、わざわざ会いたくもない人にこちらからアプローチしなくても問題ないと判断し、例の轢死体の件を一旦忘れることにした。

 

 とはいえ県内15ある警察署から、1週間に2〜5体くらいの遺体が運ばれてくるが、ここは県庁所在地であり人口も犯罪も集中していて、うちの医大もこの市の端っこにある。忘れることにしたとしても、面倒なことに幸村さんの居る**警察署からの移送が最も多い。目と鼻の先だが県警本部はまた別にある。幸村さんは刑事課の強行班の班長なので、結局月に3〜4回は確実に会うことになっていた。強行班というのは、殺人、強盗、放火その他の凶悪犯の捜査をする班だ。変死体は殺人の可能性上ほとんど強行班のお世話になる。つまり検視で司法解剖の必要あり、と言った場合、そこの署の警部補がだいたい立ち会うことになっていた。つまりそれは幸村さんのことなのだった。

 

 おまけにインフルエンザ後の堺教授は体力の回復が遅いようで、なんだかんだと理由を付けて解剖が僕に回ってきていた。遅かれ早かれ、望むと望まぬとに関わらず、ここにいるだけで幸村さんと顔を合わせる可能性に満ちていた。

 

 逃げられないって…厳しいな。

 

 それを考えた時、逃げるというのはある種「想像力」の才能に依るものだと思った。この職場を逃げてその先が想像できたら勝ちだ。想像できない場合はどうだろう。目をつぶって飛べる人は勝算がある。現実がどうなるかは賭けに属する。想像力の才能も結局はギャンブルに属するのかも知れない。その想像に全賭けしてるわけだから。僕は想像力は貧困なので、論理的な推論に頼る他ない。つまり賭けは確率論に差し替えられる。差し当たって逃げるためにすることは、法医学者の求人募集を検索しまくることかな…と現実的に考えてみた。地方公務員である警察官は、国家公務員Ⅱ種以外は他県に移動は出来ない。巡査から叩き上げの幸村さんは当然越境出来ない。僕は一人で移動出来る。ただし、求人があれば、だが。

 

 今日の午前中は、ここからは遠い海岸線の地域の市の警察署から搬送されてくる遺体があった。水死体とのことだった。地形上、海岸線のある地域の変死体は溺死体が多い。海と河口がある。上流から流れてきた遺体が、海まで流れてくることもある。死因は溺死なのか、死後水中投棄なのかが問題になってくる。入水自殺も考えられる。水中落下時の外傷が死因の場合もある。何はともあれ、対応は万全にしておかないと…と、前回の反省を活かす方向で僕は動いていた。

 

 

 ふやけて真っ白い皮膚が魚についばまれて毛羽立っている。膨化はまだないが死後硬直は解かれていて死後48時間以上は経っている。角膜は完全混濁。手足は漂母皮化(ふやけることの専門用語)していて、すでに剥離脱出寸前だった。このことから、死後3日前後であると推測される。3〜4日経つと、手足の表皮は手袋、足袋状に剥離して失われる。ギリギリでこれが残っているし、死後硬直が解け終わるのが3〜4日なら、間を取って3日だろう。遺体の状況を頭の先からつま先に向かって記録者の田中さんに述べていく。

 

 すべての準備を入念に施したにも関わらず、僕はすでに息が上がり始めていた。手が震えないように、それがバレないように遺体の表面に集中する。ヴィジョンが視界を不意に遮る。やめろ。もう侵入してくるな。僕はいまここにいるんだ。

 

 彼女は口の中でごめんねと呟いた。誰に謝ってるんだ。身体を支えられない。心も。もう自分で立っていたくない。防波堤。明け方のまだ薄暗い海風の中。日本海の冬の風は強い。長い髪が煽られて顔を覆う。防波堤の端で脱いだ茶色いスニーカーを手で揃えている。濡れたテトラポットの上に降りていく。高い堤防に高く砕ける真っ白い波濤。叩きつけるように落下する水しぶきに吸い込まれるように身を落とした…

 

「靴が揃えてある…」

 

 いつのまにか僕は呟いていた。田中さんが聞き返した。

 

「え?」

「…あ…いえ、すみません。擦過傷…右下腿後面中央から真下に55mm」

 

 体表面の観察記録が終わり、警察側が全身写真を上からとっている間、僕はもう一度ハッカを鼻腔に塗りこんだ。少し視界が覚めた。だが三体腔開検に移る頃には、下腹部にはすでに赤々と燃える熾火のようなものが入っていた。ひどいもんだ…まだ午前中なのに。だが、意識を集中しなければならない。少なくとも、あのことがあってから、僕は自分に腹が立っていた。つけ込まれるのは僕の脇が甘いから。幼い頃の無意識の記憶に飲まれた自らの無防備さ…話にならない。淫火に嬲られた、あの屈辱的な夜が僕の中の怒りを増幅していった。頭蓋に水をかけながら電ノコで開頭していく。水が僕の手元に飛んできてラテックスの手袋の上から手首に掛かった。不意に左手に食い込む手錠の冷たさが甦っ…

 

「…!」

 

 誰にも気づかれてはいない。でも一瞬左手の力が抜けかけた。ドクンと血が逆流した。どうして? それは屍体じゃない。手錠は…関係ないでしょ? あの夜のことがまだ忘れられないのかと、僕は暗澹とした気持ちになった。

 

 頭部から胸腔、腹腔へと移る。今日、最も注意して所見をしなければいけない肺、胸腔だ。Y字に切り開き始める。気道にはやはり白色細小泡沫が充満。溺水肺の膨大所見。肋骨圧迫痕、Paltauf氏斑がある。肺を取り出す。胸水貯留、溺死の判定材料が次々と増えていく。本当は溺死のなかでも入水自殺だ。でも今はそれは言わないでおこう。ただ脱いだ靴がほんとに見つかっているのかどうか、とても気になった。

 

 肺の解剖で水性肺気腫が見られた。あとは各臓器のプランクトン検査と、血液の薬毒物検査、歯科での身元確認だ。肺のプランクトン分布と、各臓器のプランクトンの分布で溺死の確証が出来る。そして入水地の海水中のプランクトンのスペクトルを突き合わせて、どこで溺死したかどうかの検証をする。入水地がわかっていればの話だが。

 

「入水したのはどこですか?」

 

 僕は海水の採取を頼もうと管轄署の刑事に尋ねた。

 

「海流が早いんでねぇ。ちょっと離れてる可能性があるね」

「まだ全くわかってないんですか?」

「遺留品も不明だなぁ。まだ特定できる家族が居ないんでね…心当たりの2組ほどに見てもらってはいるけどダメだったわ」

「靴…履いてました?」

「いや、ストッキングだけだったけどね」

「自殺の可能性もありますので、堤防なんかに靴が揃えて脱いであったような目撃証言とか…3日前ですから…月曜日あたりですが。海洋研究所に頼んで、海流のアルゴリズム計算で、この重さでこの容積の物体が3日かかって発見現場に着くあたりの場所をシュミレーションしてもらって下さい。先にプランクトンの種類特定しますから、ざっとわかったら候補地の海水の分析してみると、逆にある程度場所が判るかも知れませんし」

「ああ、そうしますわ」

 

 開始が9時、警察側が撤収し、片付けが全部終わったのが12時半だった。終わった途端に僕はトイレに駆け込んだ。個室のドアを閉めた瞬間、抑えつけていた感覚が一気にほとばしり、腰と膝の力が抜けた。僕はドアにもたれたまま、ズルズルとしゃがみこんでいた。性感に脳を占拠されて思考が飛ぶ。喘ぐ唇を肩口に顔をうずめて耐えた。腕の付け根に押し当てた自分の吐息が熱い。

 

「く…う…」

 

 震える手で引きずりだした保冷剤はすっかり生ぬるくなり、用をなしてはおらず、仕方なくポケットのミントのスティックを鼻に突っ込んで痛いくらい塗りつけた。

 

 変だ。こんなんじゃなかった。もっとマシになってたんだ。前回と違い、今回は万全を期していた。それなのにこれほど切迫して喘いでいるのは久しぶりだった。大学での法医学講座の初期の頃見た自殺屍体の画像が一番やっかいだった。それでもここまで身体が言うことを聞かなくなったのは、最初の何回かだった。頭を両手で抱え、小さく丸まって耐える。もうない。もうあの遺体は目の前にはないんだって。すでに午後の解剖が予定されていた。片付けの時に菅平さんが通達してくれていたが、有り難いことにそれは堺教授が執刀してくれることになっていた。僕はサポートで計測と記録を受け持つ。だが問題は、その管轄署が幸村さんの強行班だったということだった。

 

 そのとき左手の手首が疼いた。僕は思わず右手で左手首を掴んでいた。さっきの解剖中にもこれが疼いた。なぜだ。こんなこと今までになかったのに。そのとき僕は自分の心の中でずっと無意識に呟いていることに気づいた。

 

(…僕はちゃんとやってる…逃げてない…僕は逃げてない…無責任な解剖はしない…疑われるような不用意なこともしない…貴方の仕事を妨げるようなことはしない…自殺屍体を避けることをやめる…だからこれで…これでいいでしょ…幸村さん…)

 

 そうだ。僕は初めて一切の逃げを封じた。ではこれは自殺屍体から逃げずに自分を全投入した結果なのか。初めて意識を全部開いて自殺の屍体に集中したことの反動なのか。今まで避けていたことを一切やめて、幸村さんとの約束を守っていることを、僕はそのときようやく気づいた。切れた皮膚は点状の痂皮になり、赤かった内出血は青くなって、傷そのものは癒え始めている。でもそこには見えない手錠がまだ嵌っていた。僕はまだ繋がれている。“それ”から逃げないように。掴んだ手首の皮膚の凹凸がにわかに指の神経を尖らせた。

 

 この桎梏を負いながらここに居続ける。逃げない決意をしたのに、こんなに苦しいものなのかと驚く。この焦燥、この狂乱、この感覚は佳彦と別れたすぐの、あの初めての狂躁と何ら変わりがなかった。僕は初めてのあのとき、どうやってそれを止めたんだろう。ずっと忘れていた。気がつけば意識から追い出してすでに10年余り経っていた。ささくれだつ右手の指先の神経に橈骨動脈が脈打つ。脈動を感じたくなくて逃げたその中指に、よく知った傷口が触れた。

 

 ああ…あの時僕はここをカッターで切ったんだ。

 

 とすると疼いてるのはカッターで切った傷なのか、手錠の傷なのかはもう判別はつかなかった。焦燥に負けて隆に初めて電話を掛けた。手首を切って母親に見つかった。隆に発作を止めるために何度も落としてもらった。焦燥を止める…それはただ死のうとすればいい。結局僕は一緒に連れて行ってくれなかった本当の父親にいまだに連れて行かれなかったことを悔やんでいるだけなのかも知れない。僕はそのとき以来狂っている。自殺の遺体はそれを思い出させるに過ぎない。僕が捨て子だってことを。そこから僕は抜け出すことが出来ないのか…

 

(全部俺が止めてやる。だから狂っててもいい) 

 

 望まない声が不意に耳の奥でこだました。やめろ。僕はその声を制止した。やめてくれ、関わるなって言ったろ。あのときどうしようもなくて隆に電話した、そのことを僕はずっとずっと後悔し続けたのだから。誰でもいい僕など、誰にも必要はない。

 

 僕は焦った。こんなところ、あの人に見せるわけにいかない。それだけはどうにかしなければ…と。

 

 午後は殺人の可能性が大という男性の遺体が運ばれてきていた。所轄の幸村さんだけでなく、県警本部からも1課の刑事さんが来ていて、物々しい雰囲気で解剖が始められた。県警の警部さんのおかげで、幸村さんが個人的に僕に話しかける時間はほとんどなく、僕らは小さくよろしくお願いしますと挨拶を交わしたに過ぎなかった。時折幸村さんの視線を感じたが、僕は無視した。

 

「角膜透明。死後硬直、高度。腐敗無し…」

 

 体表の観察と記録、写真撮影のあと、早くも遅くもない、淡々としてケレン味の一切ない、いつもの安定感で堺教授の執刀が続く。

 

 堺教授の執刀の特徴は、一見全く特徴のないそのさり気なさにある。多分、たらいで一心不乱に洗濯物を洗っている人と、堺教授の執刀を並べたら、洗濯物を洗っている人の方に注目が集まるとさえ思う。遺体がそこで切り開かれているのに、だ。菅平さんがいみじくも言っていたが、堺教授にかかると、遺体の皮膚が布切れに見えてくる…という。この人には遺体はただの物体にしか見えていないのではないかと思ったりする。しかも日常の。普段の堺教授の常識的で温厚な部分を突き詰めて精製すると、このような異常なほどの普通さ(言っていて矛盾していると思うが)が非日常を凌駕して普通に現れてくるのだとも言えた。

 

 本当はそうじゃないのかも知れない。どこかでそれを感じる感受性を完全なまでに閉じきっているだけなのかも知れない。遺体というものの特殊性、非日常性を抹殺できるほどの。しかし閉じた自分だけではなく、その影響を他人にまで与えられるというのは、魔法使いか妖怪のようではないか。

 

 だが、この非日常を閉じる力が、執刀中に僕を少しづつ正気に誘ってくれた。途中から幸村さんを前にしていることも忘れた。淡々と一定のリズムを持って臓器が切り刻まれ、僕に渡される。それを僕も淡々と量り、記述し、淡々とパックに入れていった。凶器は現場にはなく、損傷は背部と腹部に合計3箇所、形状は鋭器損傷、つまり鋭利な刃物かなにかでの刺創であると判明した。それにしては防御創(生前に腕などで刃物をよけた痕跡)がない。創傷の生活反応はあるのに、どういうことかというのが論点になっていた。殺害当時の意識状態が問題となり、アルコールに依る酩酊や睡眠薬、ドラッグなどの服用の可能性も出てきていた。

 

 その後、尿と血液を採取し、技師の鈴木さんが毒薬物検査に入った。そこではアルコールや眠剤、麻薬系といった薬物や毒物の反応は出なかった。

 

 脳の病変や意識を奪うような殴打痕、失神させるような頸部の扼痕や索状痕もないこの遺体を見ていて、ふと、検査に出ない薬物の可能性が頭をよぎった。最近のはやりの危険ドラッグというやつだ。尿検査や血液検査でも簡易のものは素通りしてしまう。しかし乱用者は横紋筋融解症などで腎障害などを起こしていたり、CPKという筋肉が破壊される時の酵素や、ミオグロビンという筋肉の細胞に含まれている成分が血中に放出され、値がすこぶる高くなっている可能性もある。

 

「検査に出ない危険ドラッグ…可能性ってあります?」

 

 僕は堺教授に囁いた。

 

「…ああ。それは無いとは言えないかな」

「CPK値とか血液の病理検査したほうがいいと思いますが」

「そうだね…うん、そうしようか。関連するかもね。警部、科捜研に危険ドラッグの鑑定依頼どうしましょうか?」

 

 県警の警部に堺教授が尋ねた。

 

「可能性は?」

「ありです。なければ消去法でいいんじゃないですかね」

「今年からテコ入れがあってね。国が科捜研のサンプル増やしたそうです。そこに入っていればだけどね。まぁ、捜査上で関連性が浮かんだらその時点で科捜研に送って下さい。まだそこまでの情報はないし。1県あたりのサンプル少ないらしくてね。慎重に使ってくれって上から言われてる」

「結構…広がってますからね。危険ドラッグ」

 

 幸村さんが口を挟んだ。警部がそれを受けて答えた。

 

「まぁ、今の段階ではなんとも言えん。可能性だけは考慮して捜査だな」

「了解です」

 

 幸村さんがチラッと僕を見た。間違えて一瞬目を合わせてしまった僕は、慌てて目線を記録紙へ移した。一瞬ドクンと心臓が鼓動を主張した。なんなの? 僕は心臓をたしなめた。折角収まってきてるのに、熱が熱を呼ぶんだ。注意しろ、いいか…う…

 

 ダメだと言ってるはずのことが、逆に強調されて来るのはどうしてなのだろうと僕は下を向いたまま唇を噛んだ。だがもうすぐ終わる。もうすぐ終わるんだ。

 

 3時間半の解剖が幕を閉じるまで、最後の30分はとても長く、幸村さん達が帰る頃には堺教授の魔法が切れかけていた。片付けをしながら、僕は自分の震えを抑えていた。それでも昼休みにトイレで気が狂いかけていた時より、まだマシだった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。