※この作品はR-18です。

僕を止めて下さい   作:架空線

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十一、防波堤

 前日の午前中の溺死体のプランクトン検査と、午後の刺傷遺体の詳しい毒薬物検査がこの日は同時に始まった。その日は1日遺体の受け入れがないので、二班に分かれてそれぞれ違う検査を並行して進める。当然ながらそれぞれの班長は執刀者なので、嫌でも僕は溺死体…入水自殺者の担当とならざるを得なかった。もちろん、刺傷遺体…これはほぼ刺殺で決まりのようだったが…は、堺教授が指揮を取った。替わって欲しい替わって欲しい替わって欲しい…と心の中で堺教授に10回くらいお願いしたが、結局1回だけ「29番遺体はどちらが?」と控えめな質問をして、「わ〜た〜し〜」と楽しそうに堺教授が答えるのをがっかりした気分で聞いていた(堺教授はなぜか刺創とか切創、つまり刀傷が好き)。だが、プランクトン検査は臓器の切片を主に扱うので、うまくすれば発作を回避できる可能性は高かった。

 

 十全な準備のもと、冷蔵保存してある臓器をそれぞれ容器に入れ、タグをつけ、パイプ洗浄剤で溶かして珪藻類の殻を抽出する。これを“壊機法”と言って、アルカリ液で臓器の溶けた液体(壊機液)を遠心分離機にかけて沈殿させ、取り出したものを顕微鏡で見て、珪藻の種類を特定する。最近はこの方法だけではなく、藍藻などのDNAを検出するPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)法というものも検討されている。この方がいちいちパイプユ◯ッシュでタンパク質を溶かして遠心分離機にかけて云々のしち面倒な手間をしなくてもいいので、早く結果を出したいときなどにはいいと思う。でも、機械が高い。予算出ない。方法も研究段階ではある。

 

 昨日よく寝たせいか、今日は比較的意識も明瞭だし、臓器を触っても大幅に取り込まれることはなかった。ざわざわする程度は大目に見ようと、僕は大事を取って臓器から分離するクリーニングを鈴木さんに頼み、なるべく珪藻殻を見ることにした。珪藻は単細胞の植物性プランクトンで、アルカリにも酸にも強い外殻を持っている。それはいわゆる二酸化ケイ素で出来ている。

 

 二酸化ケイ素SiO2はガラスの一種で、石英いわゆる水晶もその仲間だ。珪藻殻はガラス質の微細な構造物で、まぁだから珪素の藻と呼ばれているんだが、とにかくその殻はとても美しい。巻き貝の黄金比、雪の結晶、万華鏡やクリスマスのガラスのオーナメントのような宝飾品にも似た芸術的な美しさがある。しかしその美しさは、珪藻のタンパク質などの軟部構造を洗い流さなければ顕微鏡には映し出されない。死んだ珪藻こそが美しい。小学生の頃、かの有名な日本初の珪藻図鑑と言われている『林弘志珪藻図鑑』を図書館で見つけて僕はよく眺めていた。法医学という分野で再びこの珪藻の美しさに出会えるというのはとても感慨深かった。

 

 とにかくこのプランクトン検査は急いでも2日は掛かる。早く特定してあげれば、倉持警部補の入水地捜査の決め手になるかも知れないので、海洋研究所で漂流予測を同時にやっていてもらえれば、身元の判明は早まると思われた。

 

 海洋研究所は海上保安庁の海洋情報部の管轄の日本海側の研究施設で、太平洋側と1箇所づつ設置されている。以前は太平洋岸のみだったが、近年危惧されている大地震による津波の被害を想定して、ひとつが壊滅しても、反対の沿岸の研究所で緊急事態にも指示を出せるという、地震・津波災害を想定しての比較的新しい研究所だった。

 

 特徴的なのは、日本海側の海流と沿岸の特徴を網羅しつつある点で、以前から改善点になっていた太平洋岸の方に比較的データ集積が偏っているという事態を改善してデータを上方修正できたというのは、日本海側の自治体の治安維持にとっても福音だと言える。より正確な漂流予測を可能にするため、アルゴリズムの改良が何年かごとに行われ、データは様々なソースからの同時的複合的データの最適化により投影された海流メッシュデータ…地域を格子状に区切った単位で、その範囲内に各種の情報を格納したデータ…の詳細化正確化の方向に常に改良されている。

 

 漂流予測は、当然のことながら漂流開始位置から漂着地点を割り出すものである。しかし、今回僕が要求していたのはその逆算データで、漂着地点から漂流開始位置、つまり屍体の入水地点を割り出すものだ。これはよく海洋投棄された漂着ゴミの投棄地点を割り出すのに使われる。一般に拡散していくものを追うのは簡単だが、拡散された一点からその開始地点を割り出すことのほうが難しい。

 

 だが、近年の漂流ゴミのコンピュータ・シュミレーションなどの官学共同研究が確立し、逆算のアルゴリズムがだんだん確立してきているのを海洋研究所の漂流予測と組み合わせて、海流メッシュデータを利用し、適応できる海域の沿岸が網羅されつつあった。

 

 2年前、ここの県の沿岸部のデータが、不完全ながらもざっくりと全域をカバーしたという情報が海上保安庁のHPにレポートされた。日本海側は某国の密航や拉致や麻薬の密売ルートが豊富で、それに伴い末端価格にして大変高価な漂流物や、それにまつわる殺人の水中投棄屍体が多い。ここの県もご多分にもれず、沿岸部の闇深い浜辺を擁している。海上保安庁的には逆算アルゴリズムはゴミ投棄よりもそのために必要で、大変に複雑なその計算式をこの2年間で、ある程度運用できるまでに持ち込んだらしかった。せっかくそのようなものが試験的にでも運用されているのだから、使わない手はないし、どのくらいの精度が期待できるのか自分の扱った事件で見てみたいというのはあった。

 

 さて、その“アルゴリズム”とは一体何かというと、それは「計算方法」のことに他ならない。わかりやすく一般的なものの言い方をすると、「問題の解き方(解く手順)」ということになる。簡単だ。なんでわざわざアルゴリズムなんて知ったような言葉で言うのかわけがわからない。

 

 例えば、沢山のリンゴを数える時に、「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10」と一個一個数えていくやり方と、2個づつ「2、4、6、8、10」と数えていくやり方がある。どちらもアルゴリズムだが、より簡単で計算量の少ないものが優秀なアルゴリズムとされている。となるとここでは2個づつ数えていくのが1個づつ数えるよりも優秀なアルゴリズムと言える。

 

 アルゴリズムはコンピューターの計算を担う。計算はなるべく手順が少ないほうがコンピューターの負担にならない。負担にならなければ、処理が早くなる。早くなれば時間が短縮される。例えば処理が遅いとネットのウェブブラウザ画面はなかなか立ち上がらないが、処理の早いパソコンは一瞬でトップ画面が表示される。処理が早いと遅いのでは、早いことのメリットは大変大きい。早いからこそ「情報を画像に変換してリアルタイム表示」などということが実現可能になる。しかしコンピューターには人間の言葉はわからないので、その計算方法をプログラミング言語というコンピューター語に訳してやる。それをプログラムと言う。

 

 そんなこんなで、その海上保安庁の逆算アルゴリズムというのは、ある物体が漂流開始地点から漂流していくであろう可能性のある無数の点のうちの漂着地点という1点だけがわかっている場合、その1点から遡って漂流開始地点をコンピューターで予測する計算方法のことだ。言ってみれば「帰納法」といえる。多くの観察の結果から類似点をまとめ上げることで、結論を引き出すという論法だ。

 

 この帰納法の欠点は、すべての観察結果を網羅するか、それと同等の論理証明をしない限り、たどり着いた結論は必ずしも確実な正解ではなく、ある程度の確率を持ったものに過ぎないこと、というものである。

 

 同じように、逆算漂流予測もすべての観察結果を網羅することが重要となっていた。その結論は確率的にここが最も有力である、といった回答になる。つまり、漂流シュミレーションの実験回数とその出発位置が増えれば増えるほど、正確さが増すのである。それはとても面倒臭い現場の実地シュミレーション観察とデータ収集が待っている。つまり、GPSの着いたブイをいろんな場所で、しかもいっぺんに何個も投下して、この時刻のこの海流でこの風向風速での条件下で、時間ごとにブイの進路を記録していくといった類のことだ。

 

 シュミレーションの膨大なデータから導き出された漂流開始地点の推測計算のアルゴリズムは大変に複雑だが、それをまとめてプログラムを組み立て、出来たプログラムに各種のパラメータ…例えば「流れ着いた地点の緯度経度」「風向き」「風速」「海流の方向」「海流速度」「特殊条件(満潮・離岸流・その他)」等々…を計算式に放り込んでやれば、漂流開始地点の予測、つまり確率的に高い場所が座標上に何点か示される。そこを中心に捜査をすれば、手間も人材も削減できるし、無駄が省かれる。

 

 日本海の海流は対馬海流で、南から北へと北上する。遺体もそれに乗って北上する。ざっと調べたところ、海流は1ノット前後の比較的緩やかな早さで北上しているらしい。それでも湾港などでは速度は5分の1ほどにグッと落ちる。自然を数値化するのは、大変手間のかかる作業である。

 

 新しいシステムはまだ粗いが、この件においては人海戦術よりもそのほうが効果的で迅速と言えた。あとはその候補に上がった場所の海水をいくつか分析し、屍体の臓器から出てきた珪藻殻のスペクトルと比べて根拠を裏付ける。そこから彼女の身元を捜査、特定し、事件の全容を解明する…まぁ、自殺なんだけど。つまり、早く自殺だと捜査で特定してあげて。早くここから出してあげて下さい。あの人を。

 

 備品の在庫確認だとか、こういう時に限って在庫僅少につきの発注品が色々出たり、まだ書き上げていない鑑定書を仕上げたりと、雑務と検査をこなしながら3日が過ぎ、ようやくプランクトン検査が終わった。多い方から順番に、Triceratium revale(トリセラティウム)、Cocconeis scutellum(コッコネイス)、Fragilaria vaucheriae(フラジラリア)など、大方は海生の珪藻が出たが、3番目に多かったフラジラリア科の珪藻は淡水の珪藻で、主に河口付近で採取されるものだった。このような海生珪藻と淡水珪藻の混在は、比較的大きな川の河口に近い海岸が入水地である可能性が考えられた。これで少しは場所の特定に結びつく資料になると言えた。菅平さんに倉持警部補への連絡と資料の送付を頼んだ。

 

 プランクトン検査が終わるやいなや、休日の土曜日の朝に電話が来て、緊急の解剖の予定が入り、僕は休む間もなくそれを担当することになった。今週の休日担当は臨床検査技師の鈴木さんなので、プランクトン検査前からずっと鈴木さんとコンビで仕事しているように思った。

 

「なんか最近僕の休日担当の日っていつも緊急解剖入ってる気がする。なんだか3、4回連続で当たってる気がするんですけどぉ」

 

 と、準備中になにやら疲れた様子で鈴木さんがボヤいている。堺教授と僕は週交代で休日の臨時出勤に対応している。それと並行して他のスタッフの3人は、3人で週替りのローテーションをしている。3週に1回は回ってくることになる。

 

「実際3回連続です」

「やっぱり」

「田中さんも先月は2回連続です」

「菅平さん…運がいいなぁ」

「先週堺教授と日曜日解剖」

 

 疲れているのは鈴木さんだけじゃないと暗に言ってみた。週末は解剖が多い。土日休みにしている意味がない。遺体の受け入れの多寡を曜日ごとにカウントして、統計的に少ない日を休みにすればいいのに…と思うが、教授もスタッフの家族も週末休みだし、大学も休日なので、そういうことには出来ないようだ。僕のように曜日感覚がない生活は皆送っていない。

 

「容器とか備品の消費多いから発注量増えたよ。去年より解剖数増えたからね。ああ、岡本君は前のこと知らないかも知れないけど」

 

 鈴木さんは検体採取容器の種類の確認をしながら僕に話し続けていた。相槌も打たないのによく変わらないテンションで話しているなぁと感心した。

 

「…でも、岡本君と解剖入ってると面白いね。前ならツッコまなかったとこに検査入るよね。経費かかるのに警察もねじ込んでくれるし…特に強行班だとさ」

 

 いきなり僕の話になった。鈴木さんはなぜかいつもより饒舌だった。

 

「それに幸村警部補から気に入られてるでしょ、岡本君」

「はい?」

 

 執刀用具が揃っているか確認をしている最中に、いきなり微妙な話が鈴木さんから振られた。不穏な話をいきなり振られたせいで、僕はつい聞き返してしまった。

 

「君が来てから幸村さんほんとによく来るし…」

「前からなんじゃないですか」

「前ね…いやぁ…大変だったんだよ。合わない前任がいて」

 

 前任…前橋という人のことだろうか。

 

「いなくなった人のことあんまり悪く言うの良くないんだけどね…」

 

 ということは僕に言うんだろうな…と思いながら、鈴木さんの言うに任せて僕は聞かせてもらうことにした。

 

「まぁ言われても仕方ないよね…なんて言うか…警察と検察の手先? みたいな」

 

 そっち側のバイアス掛かった先生だったのかと、僕は幸村さんの激怒っぷりを思い起こしていた。幸村さんもその警察側なんだけど。そうこう言っているうちに解剖室の準備が出来たので、僕達はスタッフルームに待機に入った。午前中の眠気覚ましのコーヒーを飲みながら、珍しく僕は人の話を聞いていた。

 

「…でね、薬毒物検査もね、そんなのトライエージで何が判るかって、知っててやってるんだろうなぁ」

 

 トライエージは尿検用の簡易薬物検査キットのことだ。検出できる薬物群は、フェンシクリジン、ベンゾジアゼピン類、コカイン類、アンフェタミン類、大麻類、モルヒネ系麻薬、バルビツール酸類、三環系抗うつ薬の8種類だが、最近の薬物はこれに反応しないものが多い。出回っている薬物の半数は引っかからないとも報告されている。

 

「見るとわかるんですよ…ああこれわざと科捜研回さないんだなぁって」

 

 呆れた顔をしながら鈴木さんは苦笑した。

 

「だってわかっちゃダメなんだろうなって。多分ね…まぁ噂だけど、いろいろお上から便宜があってここに入ったんだろうって。ほら、堺教授は部下に対してはことなかれ主義だし。無視できるでしょ。お金で動ける学者って御用学者っていうの? 前橋…いや、その前任の先生」

 

 あーあ。名前言っちゃった。やはり例の前橋さんだ。

 

「だからさ…わかるでしょ? 幸村警部補とはもう険悪で険悪で、そのとばっちりで幸村さん堺教授とも険悪になっちゃって。それまでは色々あるにしても双方とりあえず折り合ってたんだよね。でもその先生のせいでまぁ、その頃は教室全体が雲行き怪しくなってたよ。それでも堺教授のなぁなぁなとこがそこだけは幸いして、なんとか保ってたけど…何て言うか、教室の黒歴史だねあの時期って。法医学者なんてみんなカツカツで貧乏だから、お金に困ったらああなるんだって、まったくわからないでもないけど」

 

 と、鈴木さんはちょっと諦めたような口調になった。ここのスタッフは堺教授以外は全員薄給だ。大学が法人化して以来、全体的に経費削減されて、法医学教室はポストも給料も減っていて、ここに勤めながら家族を養うのは大変だ。

 

「借金があったとかなんか噂で聞いたけど。別の噂だとそうじゃなくて、そういう都合のいい鑑定を売ってるんだとか…で、必要な県警だか検察だかがポスト作って呼ぶんだって。だから短期間で請け負った仕事こなして去ってくらしい…とかね。ここにも2年弱しか居なかったしね」

 

 いわゆる“仕事人”的なことなんだろうが、上はそんな画策出来るのかと逆に感心した。本当にただの噂かも知れないが。

 

「で、そのとばっちりはずっと続いてたんだよ、岡本君が来るまで」

 

 これが失われた信頼のことかと、僕はこの前タイヤ置き場で聞いた幸村さんの言う“クズ野郎”という蔑称の意味を把握できた。

 

「いやー、でもあんなに機嫌の良かった幸村警部補がこの前キレてた時は焦ったよね。遺体確認で堺先生が色々説明してたけど。僕サポートでその時そこに居たじゃない? あの剣幕見たらまたあの大変な時代に戻っちゃうのかと思うとゾッとしたよ」

「焼損遺体の件ですか」

「そうそう。『また好き勝手させるのか』とかなんとか息巻いてたよ」

「あれは…すみませんでした」

 

 思わず僕は謝ってしまった。その前任者の遺した禍根が、こんなにスタッフのストレスになっていたとは。堺教授が「私はある意味諦められてる」と言った意味も判明した。

 

「でもさ、あのあと良く回復したよね。いまなんかもっと好意的じゃない? 話し合いでもしたの?」

 

 と、鈴木さんは好奇心丸出しで僕に聞いた。話し合い以上の充実した時間を持ちましたよ、忘れられません…トラウマで。と僕は心の中で呟いた。

 

「まぁ…それなりに」

「どうやるとあのしつこい幸村警部補を懐柔出来るの?」

「真剣に、捨て身で現場資料と遺体の解説を…」

 

 と、僕は鈴木さんの好奇心を鎮静させるような、嘘ではなく且つ当たり障りのない答えを返した。

 

「納得したんだぁ、幸村さん」

「大変に苦労しましたが」

「そうかぁ。でも良かったよ。ほんと君にかかってるから。ね、わかるよね! 頑張って防波堤になってね!」

 

 鈴木さんは僕の肩を、コーヒーと反対の空いた手でポンポン叩いた。防波堤って…幸村さんは津波扱いなのか。まぁ、わかるけど。自分はさして違わないのに前の職場とはまたえらい立場の違いだな、と、僕は鈴木さんの話を聞いて認識した。

 

「努力します」

「よろしく頼みますよぉ」

 

 鈴木さんのホッとした顔を見ながら思った。これって軽く人身御供ってやつかな…と。実際食われたし。いや、生きた人間ならいけにえにもなるが、死んでるのに僕。そう思うと食ってるほうも食われてるほうも妙に滑稽だった。

 

 

 

 

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