※この作品はR-18です。

僕を止めて下さい   作:架空線

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十二、アルゴリズム

 

 その日の解剖は昼からで、独り暮らしの男性の高齢者の不審死だった。子供もいないし、兄弟もすでに他界していた。姪御さんにようやく連絡が取れたらしく、遺体の引き取り人となってくれるようだった。

 

 死因は餓死だった。普通ならこの遺体の状態では検視の段階で犯罪性がないと判断されるのだが、窓ガラスが割られて鍵が開いていたのを不審に思った近所の主婦が警察に届け出たそうだった。部屋が荒らされていて、畳に土足の足跡と、通帳や現金が全くなかったので、強盗の疑いがあったようだった。事件性は無いと言ってよかった。推測するに、彼の死後、たまたま窃盗犯がその家に入り、金目の物を盗んでそのまま逃げたのかも知れない。

 

 彼はにっこり笑っていた。僕はその顔を見て、おかえりなさい、お疲れさま、と心の中で言った。

 

 お疲れ気味の鈴木さんには早めに帰ってもらい、僕はそのご老人とゆっくり片付けをした。ここのところの解剖の遺体の中で、最も静かな人だった。一緒に居るだけで雑音が消えていくようで、遺体保管室に運びこむと、僕はそこを出る気がしなかった。少し一緒に居させて下さい。僕はしばらくなにもすることなく壁にもたれ、その静けさに浸っていた。

 

 解剖室を閉め、スタッフルームに行き、検案書に使う記録をまとめた。正式な記入は月曜日に送った。その日の日誌を書きながらコップで水を飲んだ。いつのまにか4時になっていた。そろそろ帰ろうと鍵と消灯の確認をしてもう一度スタッフルームに帰ってきたとき、廊下に誰かが立っていた。

 

「あの…すみません。岡本さん…ですか?」

 

 控えめな若い男の子の声だったが、目の前3mほどのところに居たのはスカート姿の女の子だった。僕は後ろを振り向いたが、人は誰もいなかった。

 

「あの…ボクの声です。すみません」

「え?」

「岡本裕さんですよね」

 

 知らない人だった。知らない人で、声が男の子で、姿は女の子だった。これがもしや男の娘というやつだろうか。それよりも、なぜその男の娘が僕の名前を知っているんだろうか。

 

「ええ。そうですが。なにか?」

「ボク、佐伯陸って言います」

 

 さえき…りく…意外なことに、どこかで知ってるような気がした。名前だけ。どこで見たんだろう。名前は記憶に残りにくい情報なのに、どこかで見たらしい。僕が見るものなんて、本かインターネットのどこかだろう。佐々木陸…

 

「佐々木さん?」

「いえ、佐伯です」

「あ、すみません。名前覚えるのすごく苦手で…でも本かネットでお名前を見たような気がするんですが」

「ああ…ボク…隣の大学で情報システム工学の講師やってるんで」

 

 あ…そうか。僕は珍しくその人が誰か思い出した。

 

「逆漂流予測のアルゴリズム作った方ですか」

「ええ」

 

 若き天才数学者と謳われた佐伯陸がそこにいた…しかも女装で。

 

「僕に…なにか…?」

 

 佐伯陸はもじもじしていた。記事には若いと書いてあったが、まさかこんな内気な男の子…いや男の娘だったなんて。

 

 隣の大学というのは、1県に1校ある国立大で、うちの医大とは創立当初から隣接している。隣の大学は医学部がない。それはうちの医大があるからだということだった。佐伯陸はその国立大の情報システム工学の特別講師に一昨年着任した。元々数学者だったが、アルゴリズムの研究者でもあることから、この分野の教鞭をとっている。高校と東京の最高学府を飛び級して卒業して、まだ20歳だけど。華奢で背が低くて童顔で、女装してることもあってか、とてもじゃないが20歳には見えなかったが。

 

「誤差…修正中です。もう少し待ってて下さい」

「誤差?」

「はい。夏季のデータと冬季のデータで…少しズレがあるので」

 

 変に恥ずかしそうに、小さな声で僕のことも見れずに佐伯陸はそう言った。

 

「漂流予測プログラムの、ですか?」

「はい」

「それを言いにわざわざここまで来てくれたんですか?」

「えっと…あの…それもありますが…」

「え…だって…僕に言いに来て頂く用件じゃないですよね。倉持警部補とか、海洋研究所の担当者とか…」

「だって……会ってみたかったんだもん」

「…はぁ?」

「どんな人か見たいじゃないですか…浩輔の新しい彼氏」

 

 待て。それはなんだ?

 

「こーすけって?」

「イヤだな…知らないふりですか」

「状況が…わからないんですが」

 

 僕がそう言うと、佐伯陸は不思議そうに首を傾げて僕を見つめた。

 

「幸村警部補の新しいカレシでしょ?」

「かれ…し…」

 

 一瞬立ちくらみがした。ふらつかないようにと、思わず廊下にしゃがみこんだ。そのまま額に右手を当てて、ため息をついた。そしてその格好で佐伯陸に尋ねた。

 

「えと…それは生け贄と書いてカレシってルビ振ってあるんですかね?」

「生け贄?」

「人身御供でも同じ意味ですが」

「え…?」

「うちのスタッフには防波堤とかって言われました。幸村さんは津波と同程度の破壊力っていう意味ですかね。オランダの堤防少年を思い出すんですが…捨て身ですよねー。決壊しそうな堤防の穴に自分の腕を突っ込んで止めて、いやあれフィクションらしいですけどね、僕はフィクションじゃないし…職場の存亡がかかってますからね……カレシだって? 冗談じゃないです。どこからそんな悪い冗談聞いたんですか、佐伯君」

 

 しばらく佐伯陸はそのまま黙っていた。そしておもむろに口を開いた。

 

「電話掛かってきた。浩輔から」

「こーすけって、幸村さんのこと?」

「あぁ、そう。知らないんですか?」

「知らない。聞いてるかも知れないけど忘れてる。覚えらんない」

「気分悪いんですか?」

 

 さっきと変わらず、額に片手を当てたまましゃがみこんでいる僕に、佐伯陸は心配そうに聞いた。

 

「悪いです。相当悪いです」

「すみません…あの…どこか腰掛けるとこ…あります?」

 

 気分も機嫌も悪い。2分後、僕達はスタッフルームの来客用ソファに座っていた。

 

 渇いた喉に水を一杯流し込み、僕はソファにぐったりもたれていた。さっきまでとても静かな時間を過ごしてたのに。なんのフラグでこんなハメになったのだろう。僕は今朝からの記憶を反芻し、フラグの位置を検索した。鈴木さんとの会話を思い出した。“努力します”だろうか? どんな努力を強いられるのかという今後のサンプルなのか? ソファでぐったりしたまま顔も合わせずに遠い目をして宙を見ながら、僕は佐伯陸に質問していた。

 

「…で、どんなこと言ってたんですか、幸村さん…というか幸村さんとどういうご関係なのでしょうか?」

「前カノ」

「つまり言い換えると…生け贄の前任?」

「ボクはお供え物になったつもりはないです」

「好きだったんですね」

「…ええ」

 

 下を向いて恥ずかしそうに佐伯陸は答えた。

 

「で、その前カノさんがわざわざいらっしゃったのは、幸村さんから電話があったからということですか」

「ええ。久しぶりでした。とても久しぶりに電話あったんで」

 

 そう言って右手で髪の毛をいじった。

 

「“海保の仕事そろそろ仕上がるのか?”って。ちょうどその直前に県警からボクに確認があって新しい逆漂流予測システムがおおむね今のプログラムで出来るかどうか聞かれて。カッコ仮だったから調整中だって答えたら、調整中でも動かせるんならちょっとサンプルまでにやって欲しいって依頼が来て。倉持警部補って人が大学まで来たんですけど。その時に司法解剖の話が出て」

 

 それはつまり例の入水自殺の件だった。

 

「そのことでなんで浩輔から電話が来たのかって思ってたら…今度は浩輔から岡本さんの話が出たので」

 

 そこでか。

 

「ボクがちゃんとやってるかとか…元気かどうかとか…心配してるのもわかるけど。嬉しそうに君の話してた。そしたらボクのシステム使えって倉持警部補に言ったの岡本さんだって。ああ、いい仕事してる人見つけたんだなって思ったけど。だいたいそれで好きになる…浩輔の悪いクセです。仕事仲間に手ぇ出すなって思うけど。ボクは好きになっちゃったからひとのこと言えないけど…もう別れましたよ」

 

 大学教授ってなんて物見高いんだろう…と、僕はその共通な性癖に感心した。これじゃ、隆が好きになった中学生を見に来た寺岡さんと変わらない。しかも変態だ。寺岡さんも女ぽいとこあったけど、佐伯陸は更にその上を行ってるし…いや、物見高いんじゃないのか…二人共嫉妬深いというのか、これは。

 

「ああ、幸村さんとは付き合ってません。僕は生きてるものに一切合切興味が持てない変態なので。だから法医学者になったんです。死んでる人といつも一緒に居られる職場なんてなかなか無いですけど…ここは僕の聖地ですから」

「え…もしかして岡本さん…ネクロフィリ…」

「死姦はしないですよ…なんでみんなすぐそういう発想するかなぁ」

「フツーしますよ」

「あ、そうですか。でも僕は性行為には興味ないんで」

「岡本さんも同性愛?」

「いえ、ですから僕は生きてる人間には興味を持てないんです。分かります? ここ重要なとこですよ。同性愛も異性愛も僕には関係ない。だから生きてる時点で幸村さんには興味が持てない。だいたい僕自身が死んでるんですから。住んでる世界が違うんです。あの世とこの世は世界が違うの…わかるでしょ?」

「…それって…どういう…?」

「僕は物心ついた時から生きてるって感じが無いんです。肉体だけが生きてることに気づいたのが中2のとき。男の人から首絞められて失神してるとこ無理やり犯されて…まぁ犯されただけじゃないですが。でも僕はゲイでもヘテロでもないです。死人です」

「岡本さんって…」

 

 そう言うと佐伯陸は再び押し黙った。

 

 黙ってしまった佐伯陸を眺めながら、僕は初対面でずいぶん自分のことを言ってしまったことに気づき、ちょっと驚いていた。こんなに自分のこと最初から言うのって初めてなんじゃないのかな? 何故だろうと考えてみた。答えは簡単だった。佐伯陸がさらけ出してるからだった。最初から女装子の自分を隠してない。異種格闘技的だが、少なくとも同じリングには上がってるというその共有感に依るのかも知れない。

 

 でもそれだけじゃない。なんだろう、この全体が消え入りそうな感じは。存在が希薄だというか。熱の低さが半端ない。内気なだけじゃない気がした。すると下を向いたまま佐伯陸が呟いた。

 

「…ボクも最初はレイプだったんです…中2の時…カテキョーの先生から」

 

 偶然にも新たな共有感がそこに加わった。

 

「何度も犯されて…ショックだったけど…でもボクは好きになっちゃった…ドMなんです…きっと」

 

 言いにくいことを自分から言って、羞恥で更に身を固くしている。言わなけりゃいいのにと思いながら、消え入りそうにしている佐伯陸のことを僕はフォローした。

 

「僕も…僕も言われるまま流されて…犯され続けてましたよ。その行為が好きか嫌いかも興味なかったし。断る理由が見つからないし。でも好きか嫌いかなんて生きてる人に感じたこと無いから…そのうちその人が僕から愛されないことに嫌気が差したみたいで…でもその人が居なかったら僕はここで法医学者になってなかったから。複雑な心境ですけど、感謝もしてます」

「なんか…わかる」

「そうですか」

「ボクが自分が男っていう性別に違和感があったのがその時はっきり言語化されたんです。だから犯されてるの分かってても、その人の前で初めて女の子みたいになってく自分を…たまらなく好きになれた」

 

 そこらで僕は話を本題に戻した。少しは理性的に話が出来るようになったろうと。

 

「あの、話を元に戻しますが、結論として僕は幸村さんのカレシじゃない…というかこの世の誰とも僕が付き合いようがないということは分かって頂けたでしょうか?」

 

 佐伯陸は、まだ自分の話に浸っているような潤んだ目で僕を見つめてた。分かってるのかな…

 

「そっかぁ…じゃあ浩輔は片思いなんだ…それもちょっと切ないな」

 

 おいおい。同情されるようなタマじゃないですからあの人。どんだけセンチメンタルな人なんだと、少し僕は佐伯陸に呆れた。天才数学者というくらいだから、もっとドライで理屈っぽいイメージが意味もなくあったが、それはこの時点ですっ飛んでいった。

 

「でも…カレシじゃないなら…そしたらボク……岡本さんに友達になって欲しいって…思っちゃった」

「え?」

 

 話聞いてた? と僕は一瞬ツッコミそうになった。

 

「あの、恋人だけじゃなくってね、生きてるものに興味がないっていうのはわかってますかね?」

「だってボクの心…もう……死んでるし…心だけでも死んでたら、興味持ってくれるかな…って」

 

 ああ、それでか。

 

 僕は途中から気がついてたことの確信が強まった。消えそうな残像のような実体、この世では低すぎる体温…つまりそれは。そしてそれを佐伯陸に尋ねた。

 

「とても…とても死にたがってる…よね…佐伯君」

「え…どうして?」

「消えそうな感じしてた。なんか普通じゃないって」

「…なんでわかるの?」

「僕が死んでるから。死にたがってる人…わかる。本当に死に近い人は、わかる」

 

 それを聞いて、佐伯陸は膝に置いた両手でスカートをギュッと掴んだ。その手がかすかに震えていた。

 

「わかってくれるんだ…そう…だよ…ボクもうこの世界に……ホントは生きてたくない。でも、心が死んじゃってから…身体を殺す気力がない…!」

 

 その言葉を聞いて僕は自分の希死を押さえてる留め金が一気にふっ飛びそうな衝動に見舞われた。佐伯陸が気管支から肺を絞りだすよう言ったそれ。これはヤバい。この人はヤバい。自殺の遺体でもないのに、僕の自殺衝動を煽ることが出来る。僕は、刃物を握る時と同じ焦燥が湧き上がるのを感じた。止めなくちゃ…と、僕は右手で左の手首を握りしめた。

 

「やめよう。僕まで死にたくなる」

「岡本さん、死にたいんですか」

「もう聞かない。だから言わないで下さい」

 

 佐伯陸の目が潤んだその瞬間、いきなり彼は向かいのソファから立ち上がったと思うと、低いテーブルを一瞬で乗り越えて僕の胸に飛び込んできた。白衣の襟を握って僕を見上げる佐伯陸の目から涙が伝った。

 

「だったら…一緒に死んでください!」

「だから! 言うなって!!」

 

 僕の白衣にすがりついて泣きじゃくる佐伯陸の両肩を掴んで引き剥がし、僕は怒鳴っていた。それにハッとしてすぐ謝った。怒鳴られて佐伯陸は怯えた目をしていた。

 

「ごめん。でも、わかるでしょ。死んだまま生きてるの、辛いって」

「ええ、だから…」

「じゃあ、もう言わないで。僕は死ねない理由がある。だからいつも自殺願望と戦ってる。自分で掴んだメスを手から自分で叩き落として耐えてる。その努力と忍耐を無駄にしたくない…努力してるから…すごく我慢してるから」

「わかった…ごめんなさい」

 

 泣きそうな声で佐伯陸は言った。そしてつけえ加えた。

 

「じゃあ、その替わり友達になってください。ボクも死んだまま生きてるのツライんだ。共感してくれる人いたら…ボクは…もう言わない。言わないように…努力する」

 

 それもダメなんだよ…と僕は自分の不自由さと、それを説明するのに少しうんざりした。

 

「だめ。僕と一緒に居るとほんとに死ぬよ。僕の回りにいる人は皆んな死ぬんだから。僕は生きてる人と関わっちゃいけない人間なんだ。だから解剖する屍体の中に自分を閉じ込めてる。僕が誰かを意識したら…その人が死ぬんだ。幸村さんにも再三言ってる。あの人、人の話聞かないからとても困ってる」

「一緒に居ようが居まいがボクはどのみち早々に死ぬ。もうすぐ節目がやってくるんだ。区切りっていうのかな。ボクには生きてそこを超える意味も理由もこの世界には存在しない。逆に岡本さんといたら死なないかも知れない。マイナス×マイナスはプラスでしょ?」

 

 もう少し天才数学者らしい喩え方は無いものかと素人の僕が思うくらいの安直な言い様に僕は更にイラッとしたが、泣いてる彼を見るにつけ、僕にもわかるようなことを言ってくれたのかも知れないとちょっと思い直し、僕のレベルでの反論を試みた。

 

「都合よく掛け算になればいいよ。でも足し算かも知れないでしょ。マイナス+マイナスはもっとマイナスだ。君だけじゃなくて僕も死ぬかも知れない。それを僕は望んではいない」

「なんでダメなの? じゃあ、友達になってくれなかったら、これから死ぬよ」

「だから…!」

「ボクだって、頑張ればいつだって死ねる」

 

 佐伯陸の声のトーンがいきなり変わった。その声はすぐさま狂気に転換しそうな絶望に満ちていた。彼は僕の膝から下りて僕の前に立った。まるで幽霊のように。言葉通り彼の死のベクトルと角度が見えた。何故そこまで…と僕は佐伯陸に心の中で尋ねた。なぜか声にはならなかった。それは聞いていいことのように思えなかった…心が死ぬほどのそのなにかを。すると彼はほんの少し微笑んで首を傾げながら僕に言った。

 

「殺されちゃったんです…ボクの好きだった人。それからボクの心も死んじゃった」

 

 あまり抑揚のない声でそれは告げられた。絶望的なことがごく普通にあっさり告げられた。あまりの喪失感だけが目の中に見えた。空っぽの心の中の窓から。

 

「警察は自殺だって断定したけど、ボクは絶対に信じなかった。警察は多分知ってるんだよね。でも自殺だって捜査もしたフリしてすぐ終わっちゃって…ボクは…気が狂いそうになった。浩輔とはその時に出会った。強行班のヤマだったのに、上司の意向で他の事件の班長にさせられて浩輔外されちゃって。多分浩輔が司法解剖回そうとしたから…あの人は自殺は変だって掴んでた。浩輔が久しぶりに電話くれたのも、多分それを知らせたかったんだろうな。彼、自殺じゃないって…岡本さん自殺の遺体は判るんだって。岡本さんに会いたかったホントの理由はそれ。自分の耳で聞いて確かめたかったんです」

 

 立ち尽くしたまま佐伯陸は語り続けた。まったく意図しないところで、幸村さんに見せられた最後の46枚目の現場写真の理由がわかった。

 

 消え入りそうな声で佐伯陸は僕に訊いた。

 

「…自殺じゃ…ないんですよね」

「ええ。自殺じゃない。多分、君の言う通り。他殺だと思う」

 

 何も言わずに小さく何度も佐伯陸は頷いた。その度に頬から顎に伝った涙が床に落ちた。

 

「浩輔、ああ見えても緊急事態に陥った人にはほんとに優しいから…事件の時にボクがおかしくなってたの見て、放っとけなくなったみたい。それでしばらく慰めてくれてた。それに死んだ彼、海保の情報部のプログラマーだった。すごく優秀な人で…そういう仕事できる人が謀殺されたの、浩輔はものすごく残念で、怒ってた」

 

 幸村さんが壁を殴った理由も。

 

「折れて死にそうだったボクは浩輔のこと好きになった。でも浩輔は人生のすべてが仕事だから。ボクが海保の漂流予測プログラム作ってるから、Nシステムのセキュリティプログラムとか、消防のバックドラフトとか粉じん爆発のシュミレーターのアルゴリズムとか、軍事衛星の制御プログラムとかステルス機体探知用の新型レーダーの画像解析アルゴリズムとか作ってるから…だからボクの能力と業績を愛してる。ボクが数学者やめたらボクは愛されない…仕事ばかりで普段のボクとのデートもしてくれない。それが淋しすぎて死にそうになって、別れた」

 

 なにか身につまされる話だった。佐伯陸でなく、幸村さんに微妙に同情してる自分がいた。

 

「じゃあ、僕にも期待しないで下さい。何度も言ってるけど僕は生きてる人に愛着を持てない。その人に友情を感じるかどうかも分からないから。いや…ごめん。その前に僕、友達は今まで1人もいないんだ。何が友達なのか僕は知らない。幸村さん以上に僕は生きてるもののことには何にも興味がない」

「ボクだって友達って知らないです。でも岡本さんは恋人じゃない。だからたまに会って話して。どうせ忙しくて月に1回会えるかどうかわかんないです。でもそういう人がいるって…なんか良いなって思う。恋人じゃないって、期待しなくていいし、そうすれば自分が許せるから…」

 

 そして僕の足元に座り込んで両手で顔を覆って泣き続けた。

 

「淋しいのは…もう耐えられないんだ…愛とか…恋とか…ボクはもう期待したくないんだ…」

「期待…するのは君だよ」

「生きる希望って…こっそり侵入してくるんだよ。まるでウイルスみたいに…」

 

 その感覚はとても良くわかった。

 

「うん。そうだね。その度に気が狂いそうになる。だから僕は生きている人の世界が良いとは思わない。あの世界は淋しい。みんな淋しい」

「1ヶ月に1回」

「え…?」

「それならいい? 岡本さんは…岡本さんはそれ、無いんでしょ? ボクにこれっぽっちも期待なんかさせないんでしょ?」

「だから期待するのは君だよ。僕が合理的なことを言うとそれが優しさだって誤解する。それは違うんだ。人はみんな期待したいんだ。僕が優しいこと言ったって思いたいんだ。それが分かってるならいいけど、わかってないなら無理だよ」

「じゃあ、期待しない練習だね…岡本さんと一緒に居ると」

「そうしないとホントに君は自殺する。僕は心中未遂を起こされたことがある。いまだにその場面が焼き付いてる。それから多分君が自殺したら僕もなんだかスイッチが入りそうだから…自殺はやめといて。病死ならいい。僕が承諾解剖してあげる」

 

 言いたいことを言って、ふと目を上げて窓の外を見ると、もうとっぷり日が暮れて夜になっていた。これ以上用もないのに来客と一緒に居るのもセキュリティ上マズい。ここで話してるわけにもいかないので、そろそろ出ようと思った。

 

「ずいぶん時間が経っちゃった。もうここ閉めないと」

「ご…ごめんなさい」

 

 佐伯陸はしゃくりあげながら僕に謝った。

 

「帰ろう」

「もう少し…もう少し一緒にいても良いですか?」

「ここはダメ」

「ボクのうち…近いんだけど…来てくれませんか?」

「え」

「マニュアルが要りそうで…岡本さんの」

「取説ならザックリしたのあるけど」

「準備いいですね。ボク、作ろうと思って」

「ちょっと待って…いまプリントアウトする。幸村さんには警察手帳に入るの作んなきゃ」

「読まないよ…浩輔」

「たぶんね」

 

 プリンターの電源を入れて、その間に白衣を脱いでロッカーに掛け、デスクトップのフォルダから“岡本裕取扱説明書”を開いた。100%自ら配るものだが、これを要求されるというのは僕にとってエポックであることには間違いない。さすが数学者だ。ロマンチスト過ぎるきらいはあるが。

 

 コートを着て窓の鍵を確認しながら、プリンターの稼動音を聞いていた。佐伯陸はデスクの下のプリンターの前にしゃがみ込み、それを出て来るごとに1枚づつ手の中で揃えて、鼻をすすりながら読んでいた。読みながら佐伯陸は僕にまた聞いた。

 

「家、ホントに近いんです。これの質問とかしたいんで、お願いですから来てくれませんか?」

 

 その声を聞きながら、僕はなにか懐かしい感覚になっていた。年下…しかも7つも下の後輩…いや後輩の面倒など見たことはない。いつも構ってくるのは年上ばかり。でもなぜこれが感覚的に懐かしいのか。

 

「あ」

 

 その記憶を思い出した僕は、思わず声に出していた。

 

「なんですか?」

「いや…なんでもない」

 

 これは、小さい裕だ。

 

 あの時、僕はその子が可哀想で一緒に色々としてあげていた。書類を作り、市役所に行き、質問に答え、不安にさせないようにいろいろ話してあげた。戸籍謄本や除籍謄本の紙を持って市役所の中を歩いた。ここの古いプリンターの音は市役所のそれと似ていたことをいま気がついた。

 

(ほんとのことをしりたい)

 

 小さな裕はいつもそう言って僕に真実が明らかになることをせがんでいた。もしかしたら佐伯陸も…

 

 愛する誰かが死んだことを受け入れるのはとても大変なことだ。僕が自殺の屍体で狂うのも、結局は父親の死を受け入れてないだけで、それを言ったら今の佐伯陸と同じなのかも知れなかった。だから小さい裕なのか。

 

 僕が一緒にいて大丈夫なのか。それだけが心配だったが、それ以上に、いま佐伯陸を死なせないように一緒に居なければならない。そう言えば薬理学の教授が言ってた。毒も薬なのだ、と。それでも投薬量を間違えたら死ぬ。また綱渡りだ。やれやれ。

 

 駐輪場で自分の自転車を見つけていると、佐伯陸も自転車だった。ビアンキのスポーツバイク。さすが能力値が高く収入の多い人は備品も違う、と、僕は寺岡さんのマンションを思い出した。寺岡さんの車もシトロエンかなんかだったけ。もう今は教授だからもっと良い車に乗ってるんだろうな、今頃は。

 

「5分です。うちまで」

「僕んちもだけど。北側に」

「ボクは西側です。来てくれるんでしょ?」

「…少しだけですよ」

「良かったぁ」

 

 また流されてる。しかも年下に。仕方なく僕は真っ赤なビアンキの後ろを9800円のママチャリでキコキコ着いて行った。

 

 

 

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