※この作品はR-18です。

僕を止めて下さい   作:架空線

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十五、完遂者

 翌日、午後から倉持警部補と一緒に2つ目の遺体が運ばれる予定となっていた日の朝、一本の電話があった。倉持警部補と一緒に司法解剖に当たる井上警部だった。用件は言葉にすれば簡単なものだった。電話を取った田中さんから担当する僕に指示があった。

 

「移送するお母さんの遺体と娘さんの遺体と並べて見せて欲しいって、井上警部から伝言です」

 

 それは予想していた。そう、それは当然だと僕も思った。流れ着いた娘さんの遺体を写真でしか見ていない井上警部は、当然そう言ってくるだろうと。そう思っていたけれど、万一、なにもコメントがなくお母さんの遺体だけ今回は司法解剖すると言われたら、そのままなにも言わず、そのようにしようと思っていた。

 

 到底、この二人を並べたくなかった。だが、当然、並べられて然るべきものなのだ。その時その遺体達はどんな風に見えるんだろう。それを思うと、僕は震えた。隆達から離れてきた今までの僕の遮蔽された生活の、その暮らしを選んだ根源に近い動機がそこに見えるのだろうか。

 

 逃げてもここにいる。見えている。どこに隠れても無駄なのに、僕はそれを知っているのに。それでもやれることはこれひとつ。自分を世界から隔離する。それも誰にも気が付かれないように。その隔離壁がこじ開けられると同時に、その世界を一時だけ映して崩壊した僕のフィルムが回ろうとする。封印した思いが横隔膜の辺りを押し上げる。その軋んだ音がする。胸腔の中にそんな不協和音が響きこだまする。その音にカブるように浴室に響く止まらない水音と嘔吐の音が繰り返す。

 

 押し殺したものを見せつけるように顕れたあの強引で勝手な男は、自分で「痛みを吊るして迫る係だ」と言って笑った。こじ開けられることをもう望んでいなかったはずなのに、僕はいつのまにか天災のようにその作用を受けていた。そしてその男の出現を機に、次々とそれはもう有無を言わせないような力が働くのを僕は感じていた。有無を言わせずに閉じたその反作用のように、質量保存の法則のような因果応報を僕に突きつけるつもりなのだろうか。佐伯陸も、そしてこの二人も。

 

 だが、なにかを考えている悠長な時間ではすでになかった。菅平さんに頼んで、娘さんの遺体をメインの解剖台の隣に準備してもらわなくては。そして僕は僕のプロテクトを完璧にしておかなければ。完璧にしておいても今日は修羅場だろう…僕にとっては。

 

 井上警部と倉持警部補が到着してすぐに母親の遺体が運び込まれた。僕は詰まる胸の中を深呼吸で広げた。一緒に解剖室に降りていく。そしてドアを開けた。

 

 彼女は少し笑っていた。意味もなく笑っていた。

 

「では…始めます」

 

 二体の遺体に一礼し、皆でいつもの通り合掌した。胸の奥が灼けつくように痛い。二度目なら慣れてもいいはずなのに、そんなことは決してない。せめて視線の中に入らないよう、僕は2つの遺体の間に入り、彼女に背を向けた。

 

 外表検査の所見を記録係の菅平さんに告げていく。やはり背後から彼女の気配がする。クスクスという笑い声と共に、背を向けたうなじからざわざわと虫の這うような禍々しい感触と音が湧き、それが背骨に沿って下に降りていった。椎骨を数えているようにひとつひとつ…それはまるで『Suicidium cadavere』を初めて読んだ時に、隣で僕の背骨をゆっくりとなぞっていた佳彦の指のように。頭部の所見が終わると同時に目の前の遺体の首に着けられた指の痕に、僕は言葉を奪われていた。ヒクッと息の塊が気管を鳴らした。誰かに聞こえただろうか…僕はゆっくりと目を逸らした。心臓の音が頭の中に膨れ上がった。

 

 それは想像をはるかに超えるほどの激しい羨望だった。それをすれば僕は一瞬でイケるそれをすれば僕は向こうに戻れるそれをすれば僕は…僕は…僕は…羨望をその中に取り込んで増長した虫が尾骨を超えて性器にまで到達しつつあった。もう飲み込まれる。意識を保つことだけに集中するしかなかった。

 

 死斑は腐敗によって不明瞭と成りつつあった。冬季の遅い腐敗もそれなりに進んではいたが、体表はミイラとまではいかないが乾燥も進んでいて、死後20日はゆうに経っている感じだった。両手両足に拘束痕があった。幅広のバンドのようなもので縛ってあったような。解剖を始めると、脳はすでに液状化していた。頸部は舌骨と甲状軟骨の骨折が見られた。腐敗が少なく乾燥していた皮下には内出血痕が見られた。これは扼殺の重要な決め手になる。内臓の自己融解が進んでこれも液状化していた。液状化したものをサンプルとしていくつか試験管に取った。落とすな…指に力が入らない…取っただけであとは菅平さんに渡し、封をしてもらい、シールも書いてもらった。

 

 ようやく腐敗屍体の解剖が終わり、遺体の本人特定と、親子鑑定のためにDNA検査をすることになった。資料を取り、菅平さんに科捜研用にまとめてもらう。そしていよいよ、井上警部に娘さんの遺体を説明することになった。頭の中でクスクスという彼女の笑いがずっと回っていた。身体の焦燥感とその笑い声で、僕はすでに気が狂いそうになっていた。そう言えば井上警部は、解剖中ずっとなんとも言えない困った顔をしていた。その顔でこの遺体の前に佇んだ。

 

「実はね、この方、青木三穂さんて言って…私の高校の先輩だったんだよ」

 

 思わぬ事実が警部の口から出た。倉持警部補が下を向いた。その顔つきは僕のせいではなかったようだった。

 

「私のいた野球部のマネージャーさんで、よく世話になった。明るくて賢くて面倒見の良い男子部員の憧れの先輩だったんだが…こんなところで再会するとはね…仕事とは言え…今回はなんとも言えないな」

 

 井上警部はため息をついた。そして両手を合わせて、少しだけ黙祷した。

 

「お母さんが早くからアルツハイマーで、最初の頃よく徘徊してたらしい。近隣の交番ではどこも青木親子を知らない巡査はいなかったていうくらいだったらしいね。介護疲れで何年か前から鬱になって…」

 

 胸に何かが刺さるような感覚がした。もうこれ以上乗せられたら崩れそうな気がした。

 

「心療内科で薬を飲んでたようだが、もう最近は通院もしてなかったそうだ」

「なにか…ご質問はありますか?」

 

 僕はどうにかしてこの時間を早めようと、プロセスを追った。

 

「他殺の可能性は?」

「全くないとは言い切れませんが…他殺の痕跡もいまのところはありません。争った形跡は無いですし、生活反応のある皮下の打撲痕もなく、血液の薬毒物なども検出はなかったです。今回現場の海水と遺留品と思われる靴を鑑定しますので、結論はそれを待ってからですが…保険金などはいかがですか?」

「特にないな…土地もない、財産も殆ど無い。父親の借金で全部持って行かれちまったからね、青木さんところは…おかげで結婚も出来なかったみたいだから。父親は脳卒中で50歳で急死。そのあと40代から母親の介護…10年もね。あんなに男子に人気のあった青木先輩がこんな生活送ってるなんて、卒業後誰も予想しなかっただろうな…」

 

(からっぽだわ)

 

 頭の中に笑い声と共に声が響いた。

 

(支えるものなんてなんにもない…は…あはは)

 

 耳の中の音と現実の音が混じってくる。膝から落ちそうになりながら僕は撤収に入った。

 

「よ…よろしいですか…?」

「ああ、特に違和感はないな…報告書の通りだ。ありがとう」

「それではこれで終わらせていただきますが」

「倉持警部補は?」

「ああ、大丈夫です」

「4時39分…です」

 

 僕が終了時間を告げると、菅平さんが「はい」と答えた。

 

「ごめんなさい…ちょっとトイレに行ってきますんで、片付けてて下さい」

「分かりました」

 

 僕は震えを抑えながら手袋を急いで外し、歩きながら白衣を脱ぐと、そのままトイレに直行した。もう耐えられる限界を超えそうだった。トイレまで走りながら僕は涙ぐんでいた。どうしよう。どうしたらいい? 激しい性欲の中でそれを超えるほどの羨望。

 

 なぜ僕はああなれなかった…?

 

 首の中の壊れた骨…黒くなった指の痕…溢血斑…あれは僕のものだった…だったはずなんだ…この衝動ごと殺してくれるはずだったじゃないか…! なのに…

 

 僕にはその機会が二回あった。そして二回その機会を失った! 僕なら…僕ならそこを触るだけで…触るだけで逝ける…触ってほんの少し指を立てれば僕はもうそれで逝ってしまえるんだそれなのにそれなのにそれなのに!!

 

 トイレのドアがバタンと大きな音を立てて閉まった。お決まりのようにドアの裏にもたれた背中がタイルの床目掛けて滑り落ちていった。

 

 扼頸の痕などこの仕事では日常茶飯事だった。何度も何度も見て、記録して、切り開いたそれ。なのにまた再びここで僕は悶えながら無様に泣いている。こんなことで僕はここまで滑り落ちるのかと。もううんざりだ。小さくしゃがみ込んで顔を両手の中に埋めた。だが、どこをどうしてもこの羨望から逃れるすべがなかった。あの空虚さ…からっぽ…この世を超えられる狂気…支えるものなんてない…笑ってた…青木三穂は意味もなく笑っていた…ごめんねと囁きながら、母の首に手を掛けた…そして舌骨が折れるまでその手を離さなかった…なぜ僕にはいないのか…本気でこの世界を超えるために、僕を息の根を止めてくれる人が…!

 

 そんなことをここで思うなんて全く予想だにしなかった。いつもなら耐えて持ちこたえる意志のある自分が今日はまったく使い物になってなかった。なにかの留め金が緩んでいて、いつもより少し重いものを持っていたからか、そしていつもより少しだけ早く歩いていたからか…僕は自分で希死を制御できると思っていた。出来る、ではない。しなければならない、と。だが今、僕ははいつも持ちこたえられるところで、脚が砕けたかのように転ぼうとしている。ゆっくりと、地面が近づいてくる。このまま抗わなければいずれ僕はそこに叩きつけられるだろう。そして…

 

(だったら、一緒に死んでください)

 

 唐突に声がした。佐伯陸の声が。僕は反射的に顔を挙げていた。そして僕はわかった。なぜあそこまでヤバいほどに持って行かれそうになったか。佐伯陸は首を傾げた。そして微笑んだ。意味もなく微笑んだ。空虚に犯された佐伯陸がそこでからっぽのまま笑った。もうこの世に居る意味がわからないんだ…と。

 

 だから佐伯陸は僕を送り出せるだろう。佳彦にも隆にもなかった、ボーダーを超えることが可能な狂気と今僕はつながっているのではないか。僕は再び肉体の死に逢えるのではないか。ほんの少しでいい…佐伯陸。頸動脈をその指で押さえるだけでいい。取説の通りにすればいい。細くて子供のような指が僕の首に絡まる。きっと笑っている…あの無邪気な顔で。へぇ…岡本さんて…まだ生きてたんだ…とかなんとか言って…

 

 教室に戻ろう。僕はそう思った。なぜか少し頭が使えるような気がした。力の抜けた指先でポケットからミントを取り出す。その先端をかじった。欠片を鼻の穴に詰め込む。シャツの袖口で涙をぬぐった。便器につかまって立ち上がる。息は上がってるけど…これで片付けも…できるかな…目をつぶって深呼吸した。

 

 幸村さん、ごめんなさい。約束できないって言ったから、許してもらいたいな。仕方ないことってあるんだ。僕にも、佐伯陸にも…それが耐えられないなら…あなたが止めることも出来ないほど、この世にはもう居る必要がないって…わかるかな…

 

 あなたにはきっとわからないね。でもわからなくても、いいよ。あなたはわからなくていい。そのほうがいい。

 

 誰のためにいままで死なずにきたか、それをなぜかすべて無視していた。その動機を潰したのは、同じ行為を成功させた青木三穂の屍体だった。自死に失敗した彼の記憶がまるで成し遂げられたかのように上書きされたみたいだった。もう聞かなくて済む。水の流れ続ける音…嘔吐の音……もう…しない?…かわりに…波の音…そして…嗤う声……

 

 トイレの洗面所で顔を洗ったあと、気力を振り絞ってスタッフルームに戻り、倉持警部補と井上警部を送り出した。その後、教室の後片付けに入り、検査用の試料の確認と科捜研送りの準備をした。教授会が終わった堺教授が教授室に帰ってきたので、ざっとの経緯を話し、日誌を書きにスタッフルームに戻った。6時にはスタッフも帰宅し、堺教授が施錠を確認してくれるというので、そのまま部屋を出た。ふわっとした感覚が今までと違っていた。勃起は治まらず、身体の芯も熱いままではあったが、焦燥感は少しマシだった。ただ、どこかでなにかが抜け落ちたような感じがした。自分の名前を忘れたような感覚だった。

 

 フラフラしながら自宅に帰ってきて、カバンとメガネを床に落とすと、そのままベッドに倒れこんだ。熱さで服が鬱陶しく、まとわりつくものを排除しているうちに、気がつくとなぜか全裸になっていた。頭は依然としてフワフワしていて現実感がなく、独りでに勃起した性器を両手で掴んでいた。体の感覚は普段より更に鈍麻していて、掴んだ指はなにかを掴んでいるが、なにを掴まれているのかと言う認識が曖昧だった。不思議に思い一旦性器から片手を離した。そして空いた手で内股の皮膚を指でつねってみた。痛みだけではなく、触覚もあまり感じなかった。自分の手も自分の手ではないみたいだった。誰かが誰かをつねっている…というのが近い認識だった。性感だけがあって、それ以外は脳が感知をやめてしまったような。どこを切ったら、そしてどこまで切ったら痛みが出て来るだろうか? 僕はその答えを知りたくなった。メス持って帰るの…忘れてたな。

 

 仕方なくそのまま落ちるようにベッドから離脱した。床に倒れたまま裸で手を伸ばし、机の上のペン立てを倒した。ガシャーンと音がして、テーブルの上にボールペンやものさしがばらまかれた。身体を少し起こして手探りでそのばらまかれたものを探った。金属の平たくて細長いものが手に触れた。

 

 それを掴んだまま再びトカゲみたいにベッドに這い上がり、もう一度仰向けに倒れた。そしてそれを目の前にかざした。

 

 チキチキチキチキ…

 

 聞き慣れた音が部屋に響く。この前切ったところはこの前は痛かった。では今はどうだろうか? この前切った内股の反対の脚を体幹に引き寄せた。メスじゃないから、この前よりは痛いはず。フツーの僕だったら。そしてカッターの尖った切っ先を引き戻して調整した。鞘の先に5mmくらい刃が出るように。これなら刃は折れない。叩きつけても5mmの深さを保つ。表皮は0.2mm、真皮はその15倍から40倍の厚さ。つまり3.2mmから8.2mmの間…この刃渡りだと真皮の真ん中かな。真皮の上方には神経終末がある。痛覚もそこで受け取る。僕の神経は働いているのかな。 僕は逆手にカッターを握った手を内股に振りおろした。

 

 振り下ろしたカッターが内股の真ん中に勢い良く当たった。圧痛が鈍く内股に生じたが、刃が刺さっている刺痛の感覚はなかった。あれ…なんだかなぁ。これじゃ、夢も覚めないじゃないか。フワフワ感もこれでは拭えない。いや、拭うためにやってるんじゃないけど。じゃあ、もう一度。少し股関節に向かって上目に振り下ろした。今度はブツッという皮膚を切る感触があったが感覚の結果はほぼ同じだった。ただ少し痛みが増えた気はした。でも鈍痛だった。

 

 右は左より感覚が鈍いのかも知れない。では、前回刺痛のあった左の内股はどうか? 前回の傷口は治りかけているが、そこを避け、二回目に叩きつけた右の大腿部の傷と同じ高さに再びカッターを振り下ろした。予想は当たった。左のほうが鈍痛の中に少し刺痛のようなものを感じた。それは僕の脳の偏りを表してるのかは定かではなかった。しかし、この前ほどの声が出るような痛みはなかった。へぇ、何が起きてるんだろう、これって。自分で自分に問いかける。でもこうしてると性感が紛れるからいいか…この前は切った瞬間に死ぬ気が無くなって性感が突発したのに。

 

 あまり意味のない実験は続いた。下半身と上半身を比べた。右の前腕の内側中央にに、利き手じゃない左手でカッターを突き立てた。利き手じゃない割には上手く刺さった。右前腕の痛み=左大腿部内側、か。持ち手を変えて左前腕…そんなに痛くないな。なぜ上半身と下半身で痛覚の閾値の交差が起こっているんだろうか。運動機能の交差性って上行性伝導路にも関与するのかなぁ…下行性ならわかるけど…じゃあ、次、体幹…

 

 体幹は更に鈍かった。臍傍を斜め右下に3cmくらいのところ、少し腰をひねって右臀部側方…いづれも鈍痛しか無かった。体幹も左右差があるのかな。なるべく左右対称に…ああ…やっぱり臍から下の腹部と臀部は下半身に分類される…と。左の痛覚が閾値が低いな…次…臍より上……

 

 カッターを振り上げた時、なにか目の端に黒いものが視界をかすめた。カッターを握ったままぼーっとそちらを眺めると、ベッドの脇に幸村さんが立っていて、呆然としながら僕を見下ろしていた。また鍵を閉め忘れてたのか、あーあ、と見慣れた侵入者を僕は黙って眺めていた。

 

 

 

 

 




 風邪引いて執筆自粛してたはずが我慢できずこそこそ書いていたなどとは言いません…ええ。
バカですねー。でもとりあえず治りました。
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