例の佐伯陸のメールに、次の約束の打診が入ったのはそれから1週間くらいしてからだった。ごく簡潔に『次の土曜日お暇ですか?』とあった。そんなフツーの文章も書けるのかと、正直あれらの文面を書いた人と同一人物とは思えなかった。特に用事もないので『緊急の解剖がなければ午後からは暇です』と書いて送った。土曜日くらい昼まで寝ていたい。『では1時頃またうちに来てくれませんか?』と返信があったので『了解です』と打つと、『やった♪ では土曜の1時に来てくださいませ(*´∀`)』でメールは終了した。
積極的に佐伯陸と会いたいわけではなかったが、確かめたいことがあった。佐伯陸の家でないと確認が出来ない。
Devotion&Triggerの瓶がまだあのベッドの枕元の棚にあるかどうか。
どこかで見たそれは、僕の記憶が正しければ、そこにあるはずだった。瓶の画像を資料で見てから、どこで見たか思い出すまでそんなに時間は掛からなかった。だいたいそんなものを持ってる人間のあてなんて佐伯陸以外にはない。僕の生活動線の中にもない。スーパー丸屋で売ってでもいない限り、そんなもの見るような生活ではないのだった。
やれやれ…こんな厄介な話はない、と僕はため息をついた。幸村さんに相談しようかと思ったが、あれを持っている佐伯陸が幸村さんにどう扱われるのかよくわからないし、幸村さんがそれを知ってどうするのか考えてみると、知ってしまってしらばっくれるのも職務上問題だし、しらばっくれなければ佐伯陸は処罰対象になる可能性は高い。だが、あの瓶を危険ドラッグだとわかっているのか、もう常習者なのかどうかすらまだ不明だ。とりあえず事情を聞いてから判断するしか無い。本当に厄介なことだった。
取り敢えず危険ドラッグについての法律をきっちり押さえておいたほうがいい。堺教授からもらった意見書の資料の中にそんな項目もあるはずだった。
法律を確認してみると、「製造」「輸入」「販売」「授与」することを禁止していたが、最近は法制が厳しくなり、新たに「所持」「使用」「購入」「譲受け」も禁止され、罰則が設けられていた。最初からそうしておけば良かったのに。ということは、誰かが持っていることを知っていて届け出ないことに法規制はないと言えるだろう。これを罰則化したら、タレコミが減ってしまうし、相談もできなくなるだろう。その点は僕はまだこの件で刑法上の不利になることはないだろう。不意打ちで使用されちゃったりしなければ、だが。
Devotion&Triggerはいわゆるキメセク系のもののようだ。「キメる=クスリが効いていて、きちんとエロくぶっ飛んでいる」状態での「セク=セックスやオナニー」ということらしい。こんなことをしてエロくなる必要があるとは、つくづくこの世の中は暇というか飢餓というか救われないものだ。
寺岡さんが僕が犯された時に薬物の使用を危惧していたが、ゲイの世界でも乱用されているという実体は、この司法の世界に関わってから実際に屍体や事件を通じて目にする。行きずりの男たちとやりまくってたど淫乱と言われている佐伯陸が薬物に手を出していてもおかしくはない。あのハイテンションとエキセントリックな振る舞いが、その影響だったりすることもあるのだろうか。それともその前から常用者なのか。少なくともあれがいまだに堂々と枕元においてある時点で、法律改正は知らないのか、それとも無視してるのか、事実は本人に訊かなければわからなかった。
土曜の昼近くに起き、洗顔、歯磨き後、牛乳を飲んでから着替えた。もうだいぶ暖かい日が続いていて、だんだん気温の上昇が苦痛になってくる。大学は春休みだが、法医学教室にはそんなものはない。普通に土日休を淡々と休むのみだった。
薄手のコートを羽織って自転車で例のタワーマンションに向かった。道なんかわからなくても遠目に見ながら適当に向かっていれば到着できる。程なくして到着し、エントランスでメールで送ってきた部屋番号を壁のプレートのテンキーに入力すると、すぐにオートロックが解除された。エレベーターで上に上がっていき、長い廊下を端まで歩いた。部屋の前でインターホンを鳴らすと、タイムラグなくいきなりドアがスッと開いた。
「いらっしゃいませ」
そこに立っていたのは男の娘ではなく、性別不明な高校生くらいの白っぽいスエットの上下を着た細い人だった。
「あれ…佐伯君?」
「もちろん。上がって下さい」
「ああ、はい」
熊の居るリビングに通されて、ソファに座るよう言われてそのようにした。以前と変わらない部屋だったが、そこに居るのはこの前のような化粧までしてキメてた佐伯陸ではなく、すっぴんのどちらかといえば男の子寄りの人物だった。
「声と姿が一致してる」
「そうですか。なんか今日はスカートはく気分じゃなくて」
「一瞬誰かわからなかった」
「まぁ、そうですよね。ボクも人に会うときはこの格好あんまりしないし」
「なんで今日?」
「岡本さんに会うのに女装する気ないみたい」
苦笑しながら佐伯陸は俯いて照れた。
「カレシじゃないしね」
「ええ。そう。そんな感じ」
「しゃべり方まで違うんだ」
「なんか…性別にこだわる気分じゃないんですよね。ねぇ、岡本さんのこと裕さんって呼んでいいですか?」
「良いですが。なんで?」
「親近感と音節の省略」
「言いやすいかも知れないね」
「ボクのことも陸って言ってくだされば」
「リクくんは言いにくい。佐伯君でいい」
「陸って呼び捨ててくれていいんですが」
「佐伯君が呼びやすいです」
「えー…いいけど」
ちょっと不服そうな顔で僕を見たが、まあいいか、といった顔をして話を変えた。
「なんか…あれからボク、ちょっと変わったみたいで」
「お節介な幸村さんから聞いた。男取っ替え引っ替えするのやめたって」
「ああ、それそれ。あれからけっこう夜早く寝られるから深夜過ぎてミッドナイト・ハイで気が狂うことなくなったし」
「それはそれは」
「なんだボク、ぜんぜん落ち着いてるじゃんって。結局、なに? ボクは相手の欲望を満たそうって気を遣ってただけ? って感じです」
「自分のした事の責任取ってたってことですかね」
「まぁ…そう言われたらそうかも。でも向こうが岡本さ…いや…裕さんみたいになにも反応してこなければ、ボクってあんな程度のオイタしかしないんだってわかったし、結局欲しかったのって人肌だけなのかって」
呆れた顔で佐伯陸はため息をついた。自分に対してなのか。
「大人が2人いて肌寄せて済むって言う訳に行かないし。でもセックス好きだし気持ちいいから敢えて求めちゃうし、なんかいろいろ混じってて分けわかんなくなってたのかなって…なんか自分の変態性に疑念が生じるよね。ただのおこちゃまだったっていう結論でしょ。でも覆しようがないんで、それを」
「少なくとも、この前の君とはかなり違う気はする」
「でしょ? なにこの感覚。メス猫インラン共同便所のボクどこ?」
「自分で言うかな、それ」
「だってそうだったんだもん」
向かいのソファで脚を組んで、その脚の上に頬杖をついて佐伯陸はまたため息をついた。
「最初から…彼の気持ちに応えたかっただけなのかもって…最初に犯された時から…」
「中学生の?」
「うん…相手に合わせてボクは変わるんだろうな。それは不可抗力なんですけどね。自分が無いのかな…でもほんとにしたかったのはただ肌合わせて抱き合うことだった。セックスでもエロいことでもなくて、ただのスキンシップでした…チャンチャン」
「それがこの前わかったの?」
「そうなの。裕さんエロくないから、合わせることもなくて。ボクは安心したかっただけの抱っこされ損なった赤ん坊なんですかね。ボクのお母さん、母性が乏しくてね。大学の研究に明け暮れててボクを抱くことが殆どなかったって…ああ…物理学者なんです、ボクのお母さん」
「血は色濃く引いてるみたいだけどね」
「うん。あの人から産まれたのは間違いない。お父さんはピアニストなんです。音大の教授で。お父さんはたまに遊んでくれたけど、でもピアノのレッスンが厳しくて嫌だった。音楽の才能より、お母さんの理数系の才能を受け継いじゃったみたいで。お母さんはボクが小学校の時に三角関数とかフーリエ解析を勝手に解いてたのを小学校の先生から指摘されて、ようやくボクの存在に気づいたらしいですよ。お母さんが放っといたから、お父さんが音楽の方面に行かせようと思ってたのに、それ以来今度はお母さんのスパルタが始まったんです」
親がいても、いないも同然ということもあるようだ。僕の血のつながらない母親のほうが母親らしいと言えた。そんな昔話の中でそろそろ例のドラッグについての質問をしようと、僕は機をうかがっていた。
「でもその時期に僕がアスペって診断が出てね。お母さんはそれが嫌で、すごく厳しく躾けられたんですよ。世間体が悪いって、医者の言うことなんか全然聞かなくて。アスペルガーって認めたくなかったっていうのかな。でもよくよく観察してみればお母さん自体がアスペっぽい人なの。笑っちゃうよね。だってそのアスペ気質のお陰で世界的にも有名な物理学者になれたんだし。そういう脳の偏りって理数系の天才には多いんですけどね。でもそんなこと言ってみても怒るだけで話しになんない。そのうち僕を世界に連れだそうとして、英会話の家庭教師雇って僕に付けたんです。それが間違いの始まり」
「ああ、例のね」
「ええ。イギリス人のハーフで日本語も英語も両方堪能な人だったですよ。お母さんの大学で通訳の仕事してたらしいけど。それだけじゃ生活できないからカテキョバイトもしてた。で、仕事で忙しい親がほとんどいない自宅で彼にしたい放題エロいことされて、こんなインランになっちゃったんで」
そろそろいいかなと、僕は気になることを訊いた。
「そう言えば、この前君のベッドの棚にドラッグ置いてなかった?」
「ああ…あれね。誰だったかな…うちに確か3人くらい来て輪姦されたときに多分使ったんじゃないんですかね。知らないうちに置いてったみたい。使われたからだと思うけど記憶が飛んでてあんまり覚えてないんですよね。なんか長い時間メチャクチャヤラれた気がする。でもキメセクなんてしなくても、ボクなら果てしなくインランになれるのに…ナメられたもんです」
そう言って佐伯陸は笑った。
「その上ね、多分そのせいで後からすんごい鬱っぽくなっちゃって大変だった。前にも一回誰かに使われてまぁまぁ気持ち良いんだけど、そのあとドッカーンて精神が落ちるからヤバいんですよね、ボク。けっこうその鬱が何日か抜けないの。だからクスリは使わないんです。ああ…その鬱んときに浩輔から電話があって、なんかその勢いで裕さんに凸しちゃったんじゃなかったっけ…」
記憶を思い出すように佐伯陸は天井を向いてソファの背もたれにパフっと身体を預けた。その姿勢のまま彼は僕に訊いた。
「クスリ漬けかって思いました?」
「いや。最近あれのサンプルが回ってきててね。そういえばこれ見たことあるって思ったら、君んちだった。事件も多発してて、死人も出てて、法律改正されて、持ってるだけで捕まっちゃうの、知ってるかなって、一応聞いとこうかと思って」
「あ…そうなんだ。どうしよう。あれ、空っぽなんだけど」
「使いきったの」
「空のビンがベッドルームに落ちてたんです。3人来て、ボク入れて4人だったから、皆んなでキメてボクを輪姦してるうちに1本使いきっちゃったんじゃないかなぁ。あの日は、夜来て昼くらいまでずっとしてたから…ノンストップで…えと…12時間くらい?」
「ハードだね」
「うん。ハードだった。縛られて口輪されてイキまくって、あとから量ったら2キロくらい体重減ってた。でも途中からあんま覚えてない…もったいないよねー。キャミソールとかパンティとか破れたり切られたりしてたけど、そんな美味しいとこ覚えてないんだよなぁ」
佐伯陸はさも残念そうに口をとんがらせた。ヤラれたことの割に余裕ある態度だった。
「前向きだね。死ぬかも知れなかったドラッグですけどね」
「言ったでしょ。犯されるのが一番好きだし。それにそのころはもうなにがどうなろうとどうでも良かったから」
「誰が持ってきたとかわかんないね、じゃあ」
「ええ。それにあの人達本名も知らないし。出会い系の掲示板で連絡取ってフタ開けてみたら3人だったの。1人で来るって言ってたのにちょっと驚いた。でも今でも同じ名前でよくそこの掲示板で漁ってるよ。男の娘系の初心者の子」
「なんで空ビン取っといてあるの」
「ラベルがキレイだから」
「幸村さん、そのリキッドの線捜査中なんだけど…しかも殺人事件で」
「ええぇ〜! やだなぁそれ! 捜査線上にボクの名前上がっちゃったりするの?」
さすがにそれは嫌だと見えて、佐伯陸は素っ頓狂な声で僕に訊いた。
「自分で買ったり、譲ってもらったりしてないから大丈夫じゃない? 無理矢理使われちゃったんでしょ?」
「うん。間違いない」
「捜査の情報としてその掲示板のこと佐伯君から幸村さんに言う? というか、そういうこと言って幸村さん君のことどうするかわかる?」
「浩輔の役に立つなら教えてあげたいなぁ…」
「幸村さんは君のことどう扱うかな」
「あ…裕さん、もしかして心配してくれてます?」
「ええ。逮捕とかマズいでしょ。仕事柄」
「もっちろん」
「じゃあ、ビン捨てたほうがいいかもね」
「ボクのこと心配ですか?」
嬉しそうにそこを突いてきた。だが、いまの重点はそこじゃない。
「あの…心配です。君と関係してる政府などの皆さんも心配です」
「ああ…そうだよね…気が付かなかった。ごめんなさい。裕さんとか浩輔にも迷惑掛かっちゃうよね」
「まぁね。確認したら僕はいまんとこイリーガルではないからいいけど」
立場上の心配として見られてたことにだろうか、佐伯陸の顔が曇った。立場上当たり前だ。僕は追い詰めるように畳み掛けた。
「だいたいクライアントが機密系なのに、そんな人間関係ユルくちゃマズいでしょ」
「…ええ。わかってます」
「わかってないよね。チューリングの失脚した理由とか知っててやってるの?」
アラン・チューリングの伝記に書かれているが、その当時、ゲイの科学者はスパイにそのようなハニートラップを仕掛けられて、機密を盗まれるという噂が立っていた。実際チューリングはゲイの犯罪者に自宅に泥棒に入られて、同性愛が犯罪だった当時のイギリスでそれがバレ、犯罪者扱いされ、その研究者生命を短縮することとなる。それは今の佐伯陸にも当てはまっていた。生まれ変わりと豪語するのも頷ける。佐伯陸は顔を伏せて独り言のように呟いた。
「…その時はどうでも良かった。防衛省も警察庁もみんな破滅しちゃえばいいって思ってた。でももう…やめたんだ」
「それは良かった」
「裕さんに抱いて貰えればいい」
不穏なことを呟いたあと、顔を上げて僕をじっと見つめた。ちょっと待て。
「それ…なんかこの前と雰囲気違うと思うんですが?」
「違わないです」
そう言うとソファから立ち上がり、僕の右隣にマジな顔つきで移動してきた。これは…マズいかも知れない。
「あの。わかってます?」
「わかってます」
「ほんとに?」
「確認して下さい」
スッと彼の腕が僕の頸に回され絡みついた。右肩に佐伯陸の顔が乗せられ、互いの身体が密着した。耳元で吐息と一緒に囁かれる。
「裕さんも…両手、余ってるのに、ズルい」
「雰囲気の危険度を演出しないでくれます?」
危うい感じを払拭するべく、全てをなぎ払う系の発言をぶつけてみた。
「バレた」
「負荷試験じゃなくて誘ってるよね」
「テヘペロです」
「僕には欲情しないって言ってたじゃないですか」
「欲情できるかなーと」
「したいの?」
「一線を超えるときのドキドキに中毒してるんで、ボク」
「ああ…なるほどね。無駄なことをするなぁ」
「ほんっと丈夫な人だなぁ…裕さん」
「死んでますからね」
「悔しい…あはは…めっちゃ悔しい」
言いながら悔しがる割には笑っていた。変な人だ。
「どうすれば勝てるのかな…あんまり負け続けてるとやっちゃいけないことしたくなる」
「勝ち負けって…穏やかじゃないですね佐伯君。方向性そろそろちゃんと修正しようよ」
「裕さんの弱点…あっ、首弱いんですよね、裕さん。取説によると」
それを聞いた瞬間、一瞬背中がゾワッとした。そして首筋が思い出した。青木三穂の解剖の時に見た妄想の中の佐伯陸の指を。