しかしだからといって、一旦開いてしまったドアは簡単に封印されるわけもなく、僕は佳彦がこじ開けた“性感”という部屋に独り取り残されたみたいだった。自分の手元にあの写真集がなくて本当に良かったと、僕は震えながら思った。
夜中、ベッドの中で眠れない時間に不意に思い出してしまう。あの指の感覚、あの全身を走る痺れ、殺しちゃうよ…と囁く声。僕はなぜこんな生々しい思い出を大事に取ってあるんだろう? もっと乾いていて、もっと動かない、冷えきっていて、もっとずぶ濡れでただ朽ちていくだけのあれを僕に…返してくれ。
それは、僕が生きているからだといつもいつもそこで思い出す。もう一度なにも話さない屍体に戻りたい。そう思ってもいなかった、自分を世界の外側に置いていた、自分という意識すら無かったあの頃に僕を返してくれ。
上がっていく息、上がっていく体温、熱…
やめて。もういいから。そこから僕は生まれつき転落していたんだろ? なぜ今ここで僕はこの熱を感じなきゃなんないんだ。
「やめて…もうやめて…」
殺してくれたのに。もうちょっとで彼は僕をその冷たい立ち位置に戻してくれたのに。なんて皮肉なんだ。あんなに望んだことを僕も彼も僕も彼も僕も彼も僕達は正真正銘鍵と鍵穴だった差して回してくれたら二人で天国に行けたんだよ…違うの? 佳彦?
今頃きっとあなたも気が狂ってるんじゃないの?
僕は起き上がって机の上のカッターを握りしめた。
自分で逝くことを今まで想像したことがあったろうか? カッターで自分のペニスを切り取ろうとした時に、僕はそれを想像しただろうか? 自分の首を自分で絞めようと方法を模索していた時に、僕は自分で自分の熱を絶とうと思っただろうか?
もしかして…僕は…死にたい…のか…
チキチキチキ…乾いたような湿ったような不思議な音が暗い部屋に響く。どこをどうすればどんな風に逝けるか全部わかってる。だからここでこんな頼りない固定すら出来ない薄いなまった刃を握りしめて自分を傷つけたってどうにもならない。だけどそんなものすら握りしめて僕はいま、はっきりと自分をこの世から消す欲望にまみれ始めていることを感じていっている。死んでた僕は死ぬ必要がなかった。でも今は違う。まるで殺すために生き返らせたようなあなたの仕業だ。弄んだんだ。そして勝手に消えていった。恨むよ。なんでこんなひどいことを。帰り方がわからない。わかんないよ。
眠れない夜がずっと続いて、もうどうにもならなくなったある深夜、僕は不意に野島さんのことを思い出した。別れたから、電話していいのかな。無理やり教えられた電話番号に携帯から電話した。呼び出し音が鳴る。僕はそれを聞きながら思っていた。
抱いて欲しいな。なんでだろ。よくわかんないや。抱いてもらって…そうだ…彼なら僕を“屍体だ”って…言ってくれるかも知れないな。
それを思った途端、僕は胸を押さえて呻いていた。出て。出て。お願い。出て。なんでだよ…僕が生きてる人間に何を期待してるんだ?
(はい…誰?)
心臓がドクンと胸の真ん中で打った。僕は何を彼に言うのか、全く考えていなかった。
よく考えたら真夜中だった。寝てるかも知れなかったのに。野崎さんの声を聞いた途端にそれに気づいた。
「す…すみません…寝てましたか?」
(誰だよ)
「裕…です」
(ゆう?)
「あの…松田さんの…」
(あっ…ああ、裕か、お前)
「すみません。真夜中ですよね」
(起きてたよ。いいよ。どうしたんだよ?)
「え…と…」
僕はなんと言って切り出したらいいかわからなくなった。
(松田と別れたんだろ)
助け舟のように野崎さんはそう言った。
「はい…そうです。松田さんから聞いたんですか?」
(いや。聞いてないな。だって松田と別れたら電話しろって言ったじゃん)
「ああ、そうでした」
(お前は言ったようにしかやんないだろ?)
よくわかってるな、この人、と思った。
「ええ、そうですね」
(で? なんで好きかどうかもわかんない俺に電話してくるのよ)
「あの…どうしていいかわかんなくかっちゃって」
(なにが?)
僕は佳彦との別れを彼に話した。屍体だったのに生き返らされたこと。その結果性的な欲求で自分が苦しんでいること。元に戻る方法がわからなくて困っていること。死にたくてどうしようもなくなっていること。
「…そのうち寝られなくなっちゃって。それで野崎さんのこと思い出したんです」
(のざき?)
「野島さん、ですか」
(小島だよ。腹立つなぁ。まぁ、松田が名前覚えないって言ってたけど、どこをどうすれば小島が野崎になるっつーの)
「…すみません…ごめんなさい」
怒らせたようだった。申し訳なく思った。少しの沈黙の後、小島さんが会話を再開した。
(で? どうしたいんだよ。死にたいなら死ねば?)
いきなり小島さんはそう言った。僕は衝撃を受けた。
そうだ。なぜ本当に死のうとしてないんだろう僕は。こんなに死にたいのに僕は少しもそれを行動に移していないじゃないか。
「考えてませんでした」
(考えたら? 死ねばいいんじゃない?)
そうだ。粗末なカッターのせいで僕はそのことをすっかり失念していた。なぜだろう。僕はもっと確実な死に方をいくらでも知っているのに。
「そうですよね。一回考えて、僕、それを忘れてました」
(ああそう。じゃあもう一回考えればいいよな。現実的にさ)
「そうですね。ありがとうございます。電話してよかったです。これからちゃんと考えます。遅くにすみませんでした。おやすみなさい」
(ああ…おやすみ)
僕は電話を切った。それから、なぜ僕はあれから自分を殺すことを考えるのをやめてたのか考えた。そのために、もう一度カッターを握った。チキチキチキと再び独特な音と共にカッターの薄い刃渡りが長く伸びてくる。これでは死ねない。頸動脈は切るのに3cm以上深くえぐらないといけないし手首の橈骨動脈もこの固定できない刃ではだめだ。なんで僕はそのあと自分を殺すことを忘れたんだろうか? もっと確実な方法を考え続けるべきだったのに。そのあと、僕は、僕は彼を恨んだ。恨んで…そして…なぜ次の日に縊死のための丈夫なロープを買いに行かなかったんだ…?
なぜだ。僕はどこで迷い込んだんだろう。頭が朦朧とする。寝てないからかな。考えがまとまらない。色々な考えや記憶が入り乱れてる。こんなこと今までなかった。なにを糸口にしたらいいのかわからない。身体の感覚が不意に佳彦を思い出す。もうやだ。消えてくれないか。この感覚が頭をかき回すんだ。死を忘れるほど? そんな強烈なものなのかこれは。もしかしてせめぎ合ってるのだろうか。この熱、この欲望、この感覚、この性感が僕の中の死を貪っているのだとしたら…これがこれがこれがもしや死を忘れるほど、この熱は僕を支配するのか? そしたらもしかしてこれが…
これが生きるってことなのか?
僕は唖然とした。まるで化け物を自分の身体に産み付けられたみたいに。
(いや…だ…そんなのいやだ…)
するとその時、不意に彼の声が頭の中に聞こえた。
(嫌いなものって…ないの?)
ないよ…なかった。なかったんだ。あなたに逢うまでは。
(でもある…あるんだ今は。見つけちゃったんだ…わかったんだ佳彦…僕はこれが…いやだ…あなたがくれたこれが!!)
そしてその瞬間僕は、手の中のカッターを自分の手首に振り下ろした。
「あああっ!!」
鋭い痛みの直後、当然のようにカッターの刃がパキンと音を立てて折れて暗闇のどこかに飛んでいった。そしてその暗闇の中から、携帯の鳴る音がした。
(もしもし…俺だよ。なんだ…生きてんじゃん。今なにしてんの?)
僕は自分の手首に痛みと生暖かいものを感じながら電話の向こうにいる小島さんの声に答えた。
「手首…」
(手首…どうしたんだよ)
「切った」
(マジか!? おいおい嘘だろ?)
「僕、やっぱり生きてたくないです」
(ほんとかおま…嘘だろ)
「暗くてどこまで切れたかわかんないですけど…痛い」
(ちょ…部屋か? 暗いって、電気つけろよ)
「あ…はい」
明るくなった部屋の中で自分の手首を改めて見た。衝動的に切っただけのことはあって、どう見ても動脈が切れたような血液の噴き出し方ではなかった。
「あーあ…絶対これじゃ成功しないってわかってたのに」
(お前、その手首写メ撮って送れ。どうせお前、嘘つきのかまってちゃんだろ)
言われたように電話を切り、写メを撮って送った。送信成功のテロップが出た直後にまた着信音がなった。
(ほんとにやりやがったなお前)
「いえ、失敗するってわかってたんですけど…なんかもう衝動的に…やっちゃったんで…ダメですね僕。今度はちゃんとロープで首…」
全部言う前に低い声で小島さんが唸った。
(血を止めろ)
「え?」
(手当しろ!)
「なんでですか?」
(このバカっ! 死ねって言われて死ぬ奴がどこにいるんだよ!)
「言われて死ぬわけじゃないです。小島さんに言われて思い出したんです。ありがとうございます。なんか僕、混乱してたみたいで、もう何日も寝てないんで頭が働かなくて…死にたいって忘れてたみたいで…人間ってすごいですね。身体って生きようとするんですよ。寄生虫みたいで気持ち悪くて…」
(しゃべってねーで早く血ぃ止めろよ! 電話一回切るぞ。手当したら電話掛けろ!)
死ねって言ったり手当しろって言ったり、小島さんはなにを僕にさせたいんだろうか。でも、この傷では死ねない。確かにその時点で手当して、次の手を考えて準備をするべきだ。
「わかりました。では一回切ります」
ティッシュペーパーを何枚か重ねて血を止めながら誰もいない居間に下りて行き、救急箱を開けた。血を拭うと1cmにも満たない傷口が現れた。ウレタンのパッド式のキズテープがあったので、それを貼る。その上から包帯を巻いた。すると、背後で音がした。振り向くと母親が立っていた。
「何してるの?」
「手当」
「なんの?」
「切った」
「どこ切ったの?」
「手首」
母親はそこで黙った。そして僕の直ぐ側まで近づき、僕の包帯を巻いた手首をそっと持ち上げた。
「なんで怪我したの?」
「怪我じゃない」
「じゃあ、なに?」
「自分で…切った」
母親は僕の顔を見た。その顔が恐怖で歪んでいるので、僕は驚いた。
「どうして自分で切ったの?」
「死にたかったから」
「どうして…」
母親はそう言うと絶句した。
「生きてるのが…嫌だ」
「…なんかあったのね。学校? もしかして、裕、いじめとか」
「違うよ」
「じゃあ、なに?」
「死んでたのに…」
「えっ?」
「僕、ずっと前から死んでたのに…生きてるって最近知った。それで元の僕に戻りたくて死のうと思って…」
「やめて」
思いも掛けないような強い口調で母親は僕を制した。そんなことをそんな調子で僕に言う母親を初めて見た気分だった。
「なんでやめなきゃなんないの?」
「それだけはやめて」
「なんで?」
「なんででもよ!」
「そんなの理由になんない」
「お願いだからやめて…」
「言わなきゃよかった」
「ダメだって言ってるの! 言うことを聞きなさい!!」
母親が叫ぶように僕を制止した。僕の腕を母はいつの間にか強く握っていた。
「最近、なんか変だって思ってた。なにかあったんでしょ? 何があったの? 言えないようなこと?」
意外にも母はそんなことを言った。色々見てるんだな、と、僕は母親が気が付かないと思ってた認識の修正をした。きっと頬を腫らして帰ってきたことも何も言わないけど知ってたんだ、と。
「僕のこと、見てたの? わかんなかった」
「見てるわよ…わからないかも知れないけど」
そうなのか。僕はまた新しい認識をした。でもなにがあったかはさすがにこれ以上言えないな、と思った。男の人に犯されたり、首を絞められて射精したり、自殺の写真集でオナニーしたりしたことを。
「でも、死にたいのは変わらない。もともと僕は生きてるものに興味ないんだ」
「なに、それ…」
母親はまた絶句した。こんな話、母親としてるなんて自分でも驚く。こんな会話、生まれて初めてだった。佳彦のせいで、また人生初めてを経験してる。
「とにかくダメ。絶対に死んじゃダメ。あなたを産んだお…」
そして何か言いかけてまた黙った。じっと何かを考えてるようだった。僕もそれを黙って見ていた。すると意を決したように母親が僕の目を見てこう言った。
「お母さんが一生懸命産んだのよ。死ぬために産んだんじゃないから。それだけはわかってね」
びっくりした。それは本当に想像もつかない言葉だった。それを聞いたら、いますぐ死ぬのはためらわれた。少なくともそういう気持ちになった。なにがなんだかわからない。でも僕は母親に言った。
「わかった」
わからないのにわかったというのも変だった。でも僕は理由のわからない抑止力のようなものを母親に感じた。そんな風な有無を言わせないなにかを母親は語ったようだった。
「また、ちゃんと話をしようね。寝られる?」
「わからない」
「起きててもいいわ。私も起きてる」
「部屋で寝るよ」
「じゃあ、お母さんもあなたの部屋で寝るわ」
「いい。僕一人でも今は死なないから。一人にして」
「ほんとに? ほんとに大丈夫なの?」
「なんか今は死ねない」
「ホントなのね? 明日になったら病院に行くからね。傷は痛くないの?」
そう言われた途端、手首がズキズキしてきた。
「痛い」
「痛み止め飲みなさい」
そう言うと母親は救急箱から痛み止めを出した。汲んできてくれたコップの水を手渡され、僕は言われるままにそれを飲んだ。そして部屋に帰った。
机の上に置いた携帯には何件も着信が入っていた。小島さんからだった。母親とやりとりしてる時間が長かったのでかけたんだろう。こちらから掛け直した。
「もしもし」
(ああ、ちゃんと生きてたな)
「母親に見つかりました」
(えっ)
「死ぬなって釘刺されました。とりあえず、なんだかわからないけど今死ぬのはやめます」
(まぁ、そうしろ…死ねとか言って悪かったよ。本気で死のうとするなんて思わなかったぜ)
「いえ、ですから、ありがとうございます」
(嫌なこというなよ。俺が殺したみたいじゃねーかよ、お前死んだら)
「そんなことないです」
(まぁ、見つかって良かったかもな。俺とか松田のこと言うなよ)
「わかってます」
(じゃあ、ちゃんと寝ろよな)
「はい。おやすみなさい」
それからすぐに、なぜか眠れた。何日も眠っていなかったからだろう。
母親が僕に無関心だと思ってたのは、僕が母親に対して無関心だったかららしい。目が覚めたら、母親が僕の机に突っ伏して寝ていた。僕が眠っている間に監視に来てそのまま寝落ちしたんだろう。時計を見ると9時を回っていた。学校には連絡してくれたんだろうか? 僕は病院に行くらしいから、学校を休まなければならないのではないか? そんなことほとんどなかったから、こういうイレギュラーな事態にどうしていいかよくわからなかった。それで母親を起こした。
「あ…起きたの? お母さん寝ちゃってたわ」
「学校、もう遅刻だけど」
「病院行くから朝に担任の先生に連絡しておいた。あら、9時回ってるわ」
母親はパタパタと動き始めた。僕はパジャマのままぼーっとベッドに座っていた。まだ眠い。だが手首が痛いことに気づいた。
死に損ねた。しかも母親に見つかった。そんな状況なので、眠れないほど張り詰めていた緊張が緩んでいるのがわかった。ある意味なにもかもがどうでもいい。意識が佳彦に向いてないことが大事だ。母親が関与したことで、なんだか日常が戻ってきたような気がする。自分の世界に対する無関心さも回復してきたような感覚があった。考えてみれば強力な効果だった。しかも母親がこんな効果を運んでくるとは。なんという意外性だろうか。傷が痛い。
「あのね、お医者さんに“自分で切りました”は言えないかと思うのよね」
母親が出かける支度をして僕の部屋に入ってきた。
「保険きかないみたいよ。だからなんか言い訳を考えなきゃ」
そんなことがあるのかと、僕は面倒くさくなった。この傷はリストカットのような一文字ではないので、うっかりやったことにすればいいわけが出来ないことはない。
「例えば…机の引き出しからしまい損ねたカッターの刃がちょっと出てて、そこに手をぶつけたらこんな傷になるかも」
「え? どんな風に?」
「こう…」
僕はカッターの刃を出して一番上の浅い机の引き出しの隙間から刃先がこちらに出るような状態でしまった。
「やだ…これ危ないじゃない」
「だから、危ないから僕がここに手首をぶつけちゃったんでしょ?」
「そうね…これいいわね。よくないけど」
「夜中に起きて暗くて見えなかったってことでいいかな」
「わかったわ。裕、頭いいわね。じゃ、早く着替えて」
「うん」
二人で口裏を合わせて近所の外科病院で手当をしてもらう。医療費の支払いが済んだあと、玄関を出たあたりで、母親が大きく息を吸って吐いた。歩きながら母親が安心したように話しかけた。
「ああー、些細なことでも嘘つくのって疲れるわ。でもうまく行ったね。痛くない?」
「痛い」
「縫わなくて良かった。神経も腱も大丈夫だったから良かった」
「がっかりした」
「なんで…よ」
「指が動かなくなったりしたら良かったのに」
「バカなこと言わないの! 怒るわよ」
「バカなことじゃないよ」
「そんなこと言わないの」
「わかった。言わない」
言わなければいいのだろう。なんでも言うのはよくないかもなとその時思った。