1m手前に立って、幸村さんは黙って僕を見ていた。なにを言っていいのかまったくわからなかった。それは幸村さんも同じなのか、だから黙っているのかも知れなかった。1mを僕から詰めることも出来ず、僕はバカみたいにただ幸村さんの顔を見つめていた。見慣れた顔を見ていると、状況が険悪そのものなのに、僕はどこかで安堵するような感覚を感じていた。緩んだのは初めての人に抱かれた精神の緊張だけじゃなくて、身体も同じだったみたいだった。
「あ…」
急にめまいのようなフラつきが平衡感覚を曖昧にした。切られて出血したせいだろうか、慣れないことをして疲れたせいだろうか…斜めに身体が傾いでいくのが遅ればせながら分かって、僕は慌ててバランスを取ろうとして足を出したが、その膝の力が抜けていた。フッと身体が落ちる感覚がして、僕はとっさに手を伸ばした。その瞬間、僕は抱きとめられていた。伸ばした手は勝手にスーツの襟を掴んでいた。
「……ごめんなさい」
つぶやくような声しか出せず、僕は幸村さんの腕の中で固まっていた。支えさせてごめんなさいなのか、心配かけてごめんなさいなのか、自分でも何を謝ったのか確定は不能だった。まだこうやって受け止めてくれるのかと思う一方で、この後に及んで身体を支えられていることに、自分のバカさ加減が嫌になった。それでも幸村さんは無言で脱力した僕の脇を腕で抱え、エントランスホールを引きずって行った。エレベーターが開いて幸村さんは僕を抱えたまま乗り込み、上に上がっていった。
部屋に着きドアを開けると、僕を廊下に座らせたあと、幸村さんは玄関先に立ったまま珍しく上がって来なかった。
「上がって…下さい」
僕は座ったまま靴を脱ぎながら、初めて幸村さんに部屋に入ってくれるよう声を掛けた。
「良いのか」
初めての幸村さんの言葉に、僕は自分の耳を疑った。思わず目を上げて幸村さんの顔を見つめた。
「そんなこと…今まで…一度も訊かなかったでしょ」
「…良いんなら、上がる」
いつもとまったく違う幸村さんに僕はとまどっていた。穂刈さんと電話でなにを話したのだろうか。あの時怒号しか聞こえてこなかった。僕は幸村さんが怒り狂って待っているとばかり思っていた。実際その方がまだ幸村さんらしかった。
部屋に入り、僕はとても立ってはいられずに、ベッドの脇のラグマットの上にへたり込んだ。幸村さんは部屋の入口で立っていた。づかづか入って、好きなところに座るでしょ…いつもは…そう思っても、今の幸村さんがなにを考えているのか見当もつかず、へたり込んだまま僕はまた幸村さんに未だかつて出したことのない指示を出した。
「立ってないでベッドにでも…座って下さい」
「…ああ」
僕はベッドに腰掛けた幸村さんの足元で、膝を抱えてベッドに寄りかかった。顔を見ないで話せる位置だった。なにを言っても不毛にしか思えず、僕も幸村さんもしばらく黙っていた。
「…タバコ、吸うんですね」
くだらない質問しか思い浮かばなくて、それでも黙っている幸村さんに僕はこらえきれずに話しかけた。
「…1年くらい、禁煙してた」
「禁煙してたのに…吸ったんですか」
「ああ…待ってる時間が手持ち無沙汰で…タバコでも吸わんと間がもたなかった…」
そして、はぁ、と溜息をついた。
「…俺には一度も自分から電話も掛けないのに、アイツは誘ったのか」
ようやく出てきた本音が、それだった。それでも喋ってくれたからいいと思った。
「ええ。後腐れなく、一晩だけって言うんで、それなら都合がいいって思ったから」
「知り合いか」
「いえ。初めて会いました。佐伯陸の使ってた出会い系サイトに書き込んできた人です」
「え…お前、そんなことしてたのか!」
僕がそう言うと、幸村さんはいきなり大声を出して僕の顔を覗きこんだ。今日初めて幸村さんらしい声が聞こえた。“お前”になってるから怒ってるんだろうと推測した。圧迫感を避けながら僕は目を合わせずそっと頷いた。
「…ええ」
「ええ、じゃない!」
「ではなんと言えば…」
「なんでそんなこと…ええっ? ホントかよ! そんなこと出来るヤツだったっけ? お前は!」
「あ…えと…出来ないって思ってました。佐伯君は無謀だなぁって」
「それなのに、なんで!」
「後腐れなく一晩ってところがすべてです…あと20代で無口なマゾっていう条件に僕がマッチしたので」
「マッチじゃねーだろ!」
「いえ…奇跡的なマッチングでしたので…」
「なんだそれは!! もしかして、これからもお前は同じことやらかすつもりか!?」
幸村さんは信じられないといった顔をして自分の額に手を当てて上を向いた。結局大事なところはわかってくれてない。何度言ったら良いのかと、僕は何度目かの同じことを説明しようとした。
「…わかってないんですね…僕といると…死にますから…好きになられたら…困るんですから…一晩だけで、見ず知らずの人とやれて、それで発作が終われば、それがベストなんです…」
だが、いつものマニュアルを口にしながら、僕は味わったことのない違和感に襲われていた。
(大事なことは強く願うことだ。望んでないんだろ? 君は人の死を)
自分を棚に上げて人を説教した、違和感の元凶である淋しい男の顔が目の前に幻のようにチラついた。そうだ。よくよく考えてみれば、穂刈さんが僕にそんなこと言えた義理か。自分だって願えばいい。そんな切ない声で、もう少し一緒に居たかったとか言うくらいなら!
さっきまでのことが走馬灯のように目の前を駆け巡った。それを見ているうちに、違和感に加えて僕のみぞおちのあたりから理不尽な怒りがこみ上げてきた。
「…それなのに…なんなんですか…自分じゃ後腐れなく一晩だけとか言ってる見ず知らずの男に、カレシ作ってしてもらえ、とか…愛さえあればそんな呪いなんか乗り越えられるとか…勝手なことさんざん言われて…説教されて…自分が何してるって思ってるんだ…ふざけてる…ホント…ふざけてる」
「おい、お前が怒ってどうするんだ。俺が怒ってるん…」
「冗談じゃないですから!」
幸村さんが口を挟んだが、そんなことどうでもいいほど僕は怒っていた。
「どうすればいいんですか! 僕の呪縛そのままで僕がカレシなんか作れるわけ無いでしょ! 強く願えば叶うって…いつ叶うんですか! 僕が何人の死人を見送る間にそれが成就するんですか!? 恋愛感情は持ち合わせてない、生きている人に興味はない、それでも関わって大事にしてた人は僕のせいで死に急いで世界から消えていこうとする、そんな中で誰と僕は一緒に生きていけるんですか!」
「…おい…岡本…」
驚いたような声で幸村さんが僕の肩を掴みかけた。指先が触れた途端、それだけで触れた部分に痺れが広がり、くすぶっていた疼きが頭をもたげた。慌てて僕はその手を払いのけた。払いのけて、ハッとした瞬間、僕は幸村さんの顔を見てしまった。拒絶されて苦しそうな顔を初めてした幸村さんの顔を。
「やめてよ…一番分かってないのは幸村さんでしょ! なんでわかんないんだ! 幸村さんが死ぬのを僕は見たくないんだ! それがどれだけ悲しくてやりきれなくて死んでしまいたくなるのか、これ以上誰にどう言ったら分かってもらえるんだ!!」
僕は自分の両手に顔を埋めた。今日は涙腺のゆるい日だから、それだけで泣いてしまいそうだったから。
知ってる。僕のなにかがどこかで間違ってるんだ。だけど、それがどのピースなのかわからない。穂刈さんはその何かを僕に見せた。それはナイフで切られるより痛かった。その傷は深くてとても古いような気がした。その痛さを僕は感じなくしてる。感じなくしてるからこそ僕の感覚は鈍くて人と違っている。人が感じて幸せなものを、僕は苦痛に感じている。
でも、もしそれが傷であるならば、それが癒える気が到底しなかった。いままでそれを傷とすら思ってはいなかったのだから。僕は顔を上げられなかった。感情に耐えながら息だけが上がっていく。今までなら拒否して拒絶し続けることになんの躊躇いもなかった。だが今は…。穂刈さんの言葉が、僕の拒絶の根底を揺るがせた。だが、それを盲目的に信じるには、見知らぬ異国の神を何の説明もなしに信じるくらいの、暴力的な信仰心が必要だった。
サーッと雨の音が窓の外から響いてきた。音のない部屋の中に、急に降り始めた雨の音だけが満ちていた。そして幸村さんが、その音に紛れて口を開いた。
「今、お前のこと…抱いたら…お前が傷つくんだろうな。わかってない、って俺が…でも今、こんなお前を…俺は放って置きたくない」
わかってないはずの幸村さんが言ったその言葉は、僕の問題を正しく理解していなければ発されない言葉だった。理解した上で僕を助けようとしてくれている、今までにない幸村さんに、僕はどうしたら向き合えるのかわからなかった。
僕は答えられなかった。今、抱き締められたら…僕は…どうなるんだろう。どうしていいかわからなくて、錯乱するのだろうか。だが、ほんとに? どうなるんだ……僕はいま、どうしたらいい? 絶望と信仰の間の谷間に墜ちて、身動きが取れない足を折った臆病な鹿のようだ。元の山にも戻れず、新しい山に登る道も知らない。差し伸べられた手を握った後、どうなっていくのかもわからない。
だが、他の男に抱かれた僕をこんな夜遅くまで待ち、傷つきながらここに座らされて、それでも僕をどうにかしてくれようとしている幸村さんを、今までのように関係ありませんから帰って下さいなどと今の僕に言えるわけもなかった。だからといって不確実な未経験のゾーンに突っ込んでいけるほど、僕の抱えている問題は僕にとって軽いものではなく、それなのに僕は、この墜落した谷間で言える最高の意思決定を強いられていた。
僕は今まで何を基準にしてあれらの行動をしてきたのだろう。思い出せ…考えろ…確実なものは何かってことを…何を?
そう、エビデンスを。
エビデンスとは、一般的には「科学的根拠」という意味だ。つまり実験の結果を基に「根拠がある」と考えられる事柄を指す。医療行為においては、治療法を選ぶときに、少しでも多くの患者にとって安全で効果のある治療方法を選ぶ際に指針として利用される。
問い…いま、幸村さんが望む行為を取ったとして、それが早急に最悪の事態につながるのか? 答え…僕の死神の働きが発揮される1年ほどの期間には、まだ届いていないということは言える。問い…1年という期間とは? 答え…単純な平均値の計算による。僕の産みの母がもし僕のせいで出産の直前に死んだとしたら、280日、それは月に直すと9ヶ月と10日ほどになる。父は僕が産まれてちょうど1年で自殺した。隆は付き合い始めてから1年3ヶ月、寺岡さんは手段が曖昧なので、期間を正確には測れない。それでも自死にベクトルが向いたのは1年弱くらいだった。
それならば…次は現状認識…この今日という日を僕は猶予期間内として妥協できるか? 妥協できるなら何を幸村さんに告げる? 今後の対策と行動…現在の僕の状況の認識をし直してもらったのち、その件について再考を促す…その後僕はこの件に関して、合理的な修正を行う。穂刈さんの示唆と提案を検討して、それが信じるに足るかどうか、今までの方針がなにが間違っていて、なにが正当であるかを、リミットの手前までに明確化し、新たな方針とマニュアルを確立する…それで…それから? それからどうする…?
考えながら僕の顔はいつの間にか両手から離れ、指先は口元だけを覆っていた。揺れる土台。その上で青ざめる僕。こんな日が来るなんて思ってはいなかった。出会いとは残酷なものだ。いつでも僕は足元から覆される。きっと盤石などというものは思考上の概念に過ぎない。足の下に大地があるなんてただの希望的観測なのだ…きっと。だが僕の人生はいつだってそれに襲われる。だから考えなくては。
僕は30秒ほどで、ここまでのことを一気に考えた。ここで僕は根底が揺らいでいることを幸村さんに告げなくてはならない。それをどのように言うか、僕は何の勝算もないまま口を切っていた。差し伸べられたこの手を…僕はいまどうするか。
「幸村さん…僕のことわかってて言ってくれてるんですね…ありがとう…ございます…どうやって僕、あなたの好意を受け入れたらいいか…考えました…すごく考えた…それは、あの…僕がずっと前から人間関係で決めてたことが今日、なぜかガタガタになっちゃったんで…僕はいま宙ぶらりんです…どうしたらいいのか…ほんとうにわからない…でもリミットはまだ猶予がある。だから僕は後から考えます…明日からどうするか…ええ、明日からです…あ…多分こんなこと言っても…なに言ってるかわからないですよね…すみません」
考えたことがすべて無駄になったんじゃないかというくらい、僕の説明はしどろもどろで、自分でもなにを言ってるのかわからなかった。だがその混乱を断ち切るように、幸村さんは僕に言った。
「ああ。わからん…わからんよ。わからないけどな、でもお前が今ここで俺にどうして欲しいか、言ってくれればいいんだ。それだけだ」
「なんで怒らないんですか…」
「知らん」
幸村さんはいつもの強引さがなくて、それに僕は言い知れぬ罪悪感を感じた。追い詰めてるのか…僕が…また僕はこうやって。
僕はなにも見えない霧の中で幸村さんに言うべきことを探した。考えて出てきたそれは、それは誤解されたら命取りのお願いだった。僕はためらった。言いよどんでも話しあぐねても、それを言うしか答えはなかった。僕は観念した。言うしかない。
「…わかり…ました」
「…なんだ?」
僕は大きく息を吸った。それでも唇は細かく震えていた。
「明日から死にものぐるいで考えます…だから…幸村さん…今夜だけ…僕と…僕と一晩限りで…ここにいて下さい…今は僕…ほんとにどうしていいかわからないんです。関係を積み上げたり、期待をさせたりとか、それはいつものように僕には出来ません。でもそれでもいつものように…幸村さんが勝手に…いつもみたいに僕にしたいことしてくれれば…僕はそれが今は多分…それがいちばん救われるのかもしれません…ダメ…ですか?」
僕がそう言うと、幸村さんはベッドから降りて僕の横に片膝をついた。
「それでいい…それでいいんだ。今のお前にはそれでも120%だ…」
大きな手が僕の肩を抱くと、僕は身体ごと引き寄せられた。そして僕は、幸村さんの腕の中にいた。
「んっ…」
「どうした?」
穂刈さんから受けた傷が、幸村さんの腕の中で少し疼いた。僕は慌てて否定した。
「な…なんでも…ないです」
「え…?」
そのとき幸村さんが、僕の首筋の傷を目で捉えた。
「なんだ、これ…お前また自分でやったのか!」
「いえ、違います…これは…されました」
幸村さんはハッとした顔をすると、いきなり僕のシャツのボタンを外し始め、前をはだけた。
「なんだこれ…お前、なにされたんだ…」
幸村さんの顔色がさっと変わったのがわかった。
“お清めセックス”という用語を昨日初めて知りました。そのあと調べたら、英語ではMHC (Magical Healing Cock)というらしい。マジカル・ヒーリング・コック…魔法のような癒やしのイチモツ。