母親がどういう人間かなど、いままでまったく知らずにいた。知ろうともしなかったし、これからも別に深く知ろうという気はなかった。でも、母親が僕と普通に話をしたことに僕はちょっと驚いていた。初めて“母親が現れた”気分だった。嫌な気はしなかった。死ぬことを制止されたことは最初は迷惑だったが、むしろそのことで意識が佳彦に逢う前の僕に引き戻されていったので、この事件のあとは、死ぬことに対して自分が気が狂うような執着をしなくても良いと思えるようになった。僕は安堵していた。
夜に部屋で次の日の授業の予習をしていると、携帯が鳴った。小島さんだった。
(ああ、俺、小島だけど)
「こんばんは」
(医者行ったかよ)
「はい。母と行きました」
(どう?)
「どう…って」
(ほら、縫ったりとかさ、したのかよ)
「いえ、消毒と検査と、あと薬が出たぐらいです」
(ふぅん。まぁ、良かったな)
「別に」
(あっ、そ)
「どうしたんですか? 僕に何か?」
(どうって…一応心配してんじゃん)
「ああ…ありがとうございます」
(お前さ…なんであの日俺に電話してきたの?)
それが聞きたかったのかと、僕は今夜の電話の意味がわかった。僕はこの前の“死ねば?”の会話の続きを話していた。
「えっと、小島さんなら僕を“屍体だ”って言ってくれると思って」
(それでかよ)
「そう言って抱いて欲しいかもって思って」
(あ…そう。俺に?)
「はい」
(誰でもいいんだろ?)
「わかりません。でも“殺したい”って言ってくれるから」
(気持ちよかったのか?)
「はい。ただ絞め落とされるより、ずっと感じます」
(ふぅん…なんだかねぇ…じゃあ、今から抱かれに来るか?)
「いえ、もう気が狂いそうなのは終わったんです。母親に見つかって気が紛れました。僕また死んでた時に戻れましたから」
(なんだよ…もういいってか。あっさり言うよな、バカにしてんのか)
「いえ、もうご迷惑かけないで済みます。この前は夜中に電話してすみませんでした」
すると小島さんはまた唸った。前にもこんな風に唸った気がした。
(戻って済むのかよ、お前が)
「え? なんでですか?」
僕は意表を突かれて思わず理由を尋ねた。小島さんは楽しそうに笑いながら言った。
(ククク…淫乱だからな、裕は。どうせまた落とされたらイクんだろ? そんときは俺がリクエストどおり耳に口つけて囁いてやるよ。殺してやるってな)
受話器にそう囁かれた瞬間、ゾクッと背筋に痺れが走った。
(何度でもそうやってお前に摺りこんでやるよ。松田はお前のこと実はよくわかんなかっただけだろ。俺は違うぜ。お前のツボをきっちり押さえて狂わせてやれる。お前から松田に電話したりしたか? しねぇだろ? お前は俺に電話してきたんだよ。忘れらんなかったんだろ。俺のことがさ)
なんか怒ってるのはわかった。なぜみんなこんな怒りっぽいんだろうか。
「違います。僕は松田さんとは噛み合い過ぎたんです。でも松田さんは犯罪者になりたくなかったから、僕も松田さんを犯罪者にしたくなかったんです。だけど僕は死の世界から僕を引きずりだした松田さんを恨んでます。殺すために生き返らせたなんて、酷すぎます。それで小島さんに迷惑かけて…すみません」
(じゃあ、俺のほうがお前のことわかってるよな。俺はお前を引きずり出したりしねーよ。お前を屍体のまま抱いてやる。お前は生き返んなくていいから。戻ったってお前は俺から離れらんなくなるんだぜ?)
「そうですか?」
なんだか詭弁に巻き込まれてる気がした。でも、ゾクゾクが続いている。
「松田さんとあんまり変わらない気がしますけど」
(そうか? 会って抱かれたらわかるけどな。迎えに行ってやるからまた日曜日、会おうぜ)
「……」
僕は迷った。死とゾクゾクとを秤にかけている。そんな自分にも戸惑った。まだ佳彦の呪いが解けていないのか? 僕は黙ったまま答えなかった。小島さんは畳み掛けてきた。
(お前と俺のどっちが正しいかわかるぜ。会えばな。考えても答えは出ねぇだろ? 抱かれて感じなきゃもう会わなきゃいいじゃん)
「誰でも感じるのは小島さんもわかってるんでしょ」
小島さんはまた不敵に笑った。
(まぁ、俺がそれでもいいかってことも知りてぇしな。うん、そうだな。それだわ。俺も自分を試したいわ。やっぱ迎えに行くから、日曜、空けとけよ)
「あ、ええ……まぁ…」
(じゃあな)
そう言うと電話は切られた。また約束が出来てしまった。はっきり言って乗り気じゃない。またあの焦燥の中で気が狂うのかどうか不安だ。だが、母親の例の魔法がそのあとも効くのか、ちょっと試してみたくなった。全部ダメなら僕はしっかりと、確実に死ぬ計画を立てるまでの話だった。
小島さんの詭弁は僕の中に産み付けられた“生命”という名の寄生虫に栄養をもたらしたようだった。隙あらば僕を生かそうとするそのしたたかさは驚嘆に値する。その証拠に小島さんの電話を思い出すと、僕の中の狂気が芽吹いてくる感じがした。佳彦の呪いが伝搬していく。でも僕はその呪いを完全にシャットアウトできないでいる。それが出来ないから“呪い”と名付けるんだけれども。その呪いと寄生虫はイコールなのだろう。
日曜までの数日間、僕は息を潜めて過ごした。その間に、手首の傷は痛くなくなり、僕は痛み止めを飲まなくても良くなっていた。包帯はまだ取れなかった。
秋の気配が次第に色を増してくる。僕は死に向かってすべてが枯れ始めるこの季節が好きだった。空気も風も色を失い、気温も太陽も衰えていく。涼しさと空虚さが生い茂る草木から水分を奪い、命を維持する装置である葉緑素が分解を始め、次第に自分を養う枝や幹から落下を始める。道に積もっていくその美しい死骸を踏みしめると、形を留める力のなくなった炭素の有機結合が物理的に破壊される乾いた音が、耳に響く。その音は、ともすれば頭をもたげてくる熱を冷まし、違和感をいつの間にか緩和して、僕に束の間の居心地の良さをもたらした。約束の日曜日はちょうど10月の最後だった。
ランドクルーザーの助手席のドアがバタンと音を立てて閉められた時に、僕は罠にかかった虫のような気分になった。待ち合わせた公園の端に止まった車の中で、運転席の小島さんは全身に冷えた謀略のような冷気をまとっていた。今まで僕は、気さくで暴力的でいい加減で率直な、戦争映画で見たアイルランドの下級兵士みたいな彼しか知らなかった。こういうのをモード2発動、っていうのか、と思った。でもその冷気は全部僕のために発せられているのだと、僕は捕らえられた鎌の下で思った。まるでルネッサンス期の銅版画によくある“死神と大鎌”。もしくは捕食するカマキリとか。
僕はその冷気に、小島さんの途方もない好意と支配とを感じた。
「来ない…って手もあったんだぜ、裕」
会って口を開いた最初の言葉がそれだった。僕の目も見ないで。
「でも、約束しましたし」
「お前はほんとに言ったようにやるんだな」
「どうしていいかあんまりよくわからないんで。人とあまり話さないし」
それは本当だった。人と約束したり、どこかに出かけるなど、親ともあまりしてはいない。人が何を考えているかなどと、いままでどうでも良かったのだ。だが、佳彦と出会ってから、生きている人間が考えたり思ったり感じたり欲したりすることを少しづつ意識するようになった。それは意識せざるを得ない、といった感じもした。僕が無視しようが、黙ろうが、逃げようが、それは追ってきた。大きな声で僕を呼んだりした。母親までもがその中に加わった。最後にそこに僕の肉体が加わった。
そして他人がいろいろなシグナルを発していることを僕は次第に認識し始めた。うるさいから聞かざるを得なかったとも言える。しかしそれでも聞いているのは僕の中に寄生している熱のせいだと言えた。僕はそうやっていま、小島さんのシグナルを読み取ることも出来るようになっている。僕の熱を操り、多分自分の欲望を果たそうとしている。でもその中には、私欲とも違う僕にもつかめない何かの動機がある気がした。
「いいようにされてさ。お前はそれでいいのかよ」
「なにか問題でも?」
「それ、口癖な。お前の」
「ああ、そうなんですか」
「よく知りもしない男に犯されてよ。そもそもお前ノンケだろ?」
「え…ノンケって」
「ゲイじゃねーだろ」
「…知りません」
すぐにどこかに連れて行かれるのかと思ったのに、変な会話が続いた。不意に話題が変わった。
「まだ包帯してんのか」
「あ、はい」
「俺のせいか?」
「わかりません。でも多分、松田さんのせいです」
「別れて、悲しくて切ったとか?」
「いえ、それで切ったんじゃないです。説明しましたよね」
「お前の考えてることは普通じゃねぇから、説明されてもなにが原因か、はっきりわかんねぇんだよ」
冷気が遠のく。モード1の小島さんに変わっていく。なんか残念な気がした。
「え…僕のこと“屍体だ”ってわかってるんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、僕が生き返らされたら苦しいってことわかりますよね」
「普通はわからねぇよ」
「小島さんはわかってくれてると思ってた」
「そんなに…死んでる自分がいいのか」
「はい」
「生きてるのは、そんなに苦しいか」
「はい。どうしていいのかわからなくなります。でも小島さん、死ねって、僕に死にたいんだろ、って言ってたのに」
「言ったよ」
「なぜ、わかってるのに聞くんですか?」
小島さんは顔をしかめた。そして会ってから初めて僕を見た。
「そんなこと、すぐに信じられっかよ」
人は案外自分自身の言ったことを理解してないもんだな、と思った。
「さっき、小島さん、大きな鎌を持った死神みたいだったのに。優しい小島さんに戻っちゃいましたね」
「や…優しい…って、なにそれ」
「あ、いや、死神の小島さんはもっと優しいかも。僕を刈ってくれそうでしたよね」
小島さんは眉毛を寄せて変な顔になった。そしてプイと向こうを向いた。
「やなヤツだお前。ほんとに13か?」
「はい。ホントです。学生証見せますか?」
「松田の気持ちが今頃になってわかるわ。どうすりゃこんな中1が出来上がるんだよ。親の顔が見てみてぇわ」
「親のせいじゃないと思いますけど。それと僕中2です」
「あっそ」
それを聞くと小島さんはのろのろとエンジンを掛けた。無言でハンドルを切って大通りに出た。
「どこいく?」
「小島さんが行きたいところに行くんじゃないんですか?」
「なんかどうでもよくなった」
「電話で言ってたことを試しに行くんじゃなかったんですか?」
「ああ、言ったよ、色々言ったよ俺がさ」
小島さんはマジな顔になった。
「お前さ、もっと自分を大事にしろよ」
「どういう意味ですか、それ」
「…いや今の…なし」
「え?」
「いいから、聞こえなかったことにしろ」
「なんか…変ですね」
「お前がな」
どうやら実験はやらないみたいだ。それなら僕が行きたいところをリクエストしていいのかも知れない。
「じゃあ、国立科学博物館」
「中学生らしいな。なんか新鮮に感じるわ」
「今、発掘人骨の標本コレクションの特別展やってるんです。会期があと1週間で終わるんです」
「…あっそ」
小島さんは呆れた顔をしたが、そのうちプッと笑った。
「いいよ。まだマシだわ」