※この作品はR-18です。

僕を止めて下さい   作:架空線

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9.やましい半休

 布団に倒れこんですぐ朝になっていた。ベッドに磔にされたみたいに身体が殆ど動かなかった。この状況で仕事に行けるのか? 無理だ…と、また堺教授に病欠の電話を入れることを考えた。トイレに行きたくて、ようやくベッドから這い出したが、立った途端、立ちくらみがしてもう一度這いつくばった。吐き気がしてきた。這ったままトイレに向かい、吐き気をこらえて便座によじ登る。小便を出す間に耐え切れなくて、手で口を塞いでえづいた。吐瀉物は出なかった。幸村さんはちゃんと仕事に行ったのだろうか。3時間くらいしか寝られないだろうに。寝不足で辛くて仕事にならなければいいんだ…少し反省したほうがいい…幸村さん。と、空えづきの後便器に座り込んだまま強くそう思ったが、これくらいの寝不足で潰れるような人だとは到底思えなくて、それならやはり僕が潰れたほうがあの人の反省材料としては説得力があると思い、部屋に戻ってすぐに上司に電話することにした。反省材料でなくても、この状態では実際使い物にならないようだった。

 

「すみません…吐き気と立ちくらみで動けなくて…今日休ませて頂くことは可能ですか? 明日には回復していると思うんですが」

 

 教授はうんうんと心配そうに僕の話を聞いて、僕の状況を確認した。

 

「風邪? 熱はないの?」

「風邪ではない…と思います」

「昨日の後遺症ってやつかなぁ?」

「あ、ええ…それもあると思います。明け方まで寝られなくて…」

 

 嘘ではない…が、良心が咎める言い訳だ。

 

「ああ、それはマズイねぇ。どうだろう、昼までちゃんと寝て、その時点で体調が戻ってたら午後イチで出勤てのは?」

 

 なんと的確なサジェスチョンだろう、と僕は堺教授の状況的バランス感覚に心底感心した。なんだか昼には動けそうな気すらしてきた。

 

「ああ、それは助かります。良くなってるかも知れません」

「じゃあさ、いづれにせよ12時くらいに私に電話してよ。その時点で動けなかったら1日休んだらいいよ。とにかく昼に判断ね。いいかな?」

「それでよろしくお願いします。ご迷惑お掛けして…申し訳ありません」

「まあ、具合悪いのに仕事したらそのあと長引くでしょ。ちゃんと回復するほうが後々合理的ですよ」

「恐れいります。ありがとうございます」

「それじゃ、早く寝てね〜。起きたら電話してね〜」

「はい。では失礼致します」

 

 甘やかされていることが後ろめたくなった。僕はこの待遇に見合う仕事をしているんだろうか? 僕はそれほどの人材なんだろうか。そんなことを考えているうちに吐き気がぶり返してきたので、思考を停止して僕はもう一度布団に潜り込んだ。気がついて11時半に目覚ましをセットした。

 

 気がつくとなぜか耳元でアラームが鳴っていて、セットした目覚まし時計を手に持ったまま寝ていたことにも気づいた。目覚ましを止めた途端に今度は枕元に置いていた携帯がいきなり鳴り響き、僕をギョッとさせた。堺教授かと思い、焦って電話口に出た。

 

「はい、岡本です」

「ああ、俺」

 

 その声は堺教授ではなかった。今日の半休の原因の人物だった。

 

「午前中休んだって聞いて」

「あ…ええ。お陰様で」

「玄関先にいるから開けてくれ」

「は?」

「ドアの前だよ。岡本んちの」

 

 そう言うといきなりチャイムがピンポンと鳴った。

 

「何の用ですか…」

「昼飯持ってきたから開けろって」

「はぁ?」

「食ってねぇだろ? 昨日から食ってねぇんじゃね? 開けろって。時間ないんだから」

 

 仕方なくフラフラと起き上がり、携帯を切って玄関に向かった。吐き気は治まっていた。鍵を開け、ドアノブを回した。外側から誰かが引っ張ってドアが半開きになった。

 

「はい、これ。食って」

 

 ドアの隙間からにゅーっと大きな手が伸びて、その先にベージュ色のレジ袋がぶら下がっていた。そして遅れて幸村さんの顔が覗いた。

 

「来る途中、ベーカリーしか寄れなくてすまんが、メニューは気にしないんだろ? 米じゃなくてもいいんだよな?」

「あ、え…まぁ…」

「あとこれ、牛乳」

 

 そう言うと反対の手から200mlのパック牛乳が出てきた。

 

「あ…はい」

「残ってるかも知れんが、まぁ無いと困ると思って。いつも飲んでるだろ?」

「あ…えと…切れてます。昨日アレする前に飲んじゃったんで」

「あー、じゃあやっぱり昨日から牛乳しか飲んでねーんだな?」

 

 僕はしばらく記憶を辿った。残ってた牛乳を飲み干した。空のパックは…シンクか床に放置したままだったっけ。

 

「まぁ、そうですが」

「空のパックが床に転がってたからな。オナホと共に」

 

 まったくもってよく見ているもんだ。で、牛乳は切れているはずだと推理されたわけだ。

 

「じゃ、行くぞ。仕事中でな」

「…でしょうね」

「これから県警で会議だ。絶賛移動中なんだ、いま」

「寝てないのに、元気ですね」

「アレくらいはまぁ俺はなんとかなる。でも……ほんとにすまん。あとで埋め合わせするから」

 

 ほんとにすまん、ともう一回早口で言って、幸村さんはパンと両手を合わせて僕に頭を深々と下げた。ちょっと驚いたが、いや、謝ったって半休は帰ってこないし、それよりも関わらないで静かに僕の幸せを遠くから願っていてくれたらどれだけ助かるだろうと思ったが、この人にそれを言って何になるとも思った。謝ってる幸村さんは哀れに見えたし。

 

「要りませんから」

「じゃあな。食えよ」

 

 パタンと勝手にドアが閉まった。僕の両手はこのほんの数分の間にベーカリーの袋とパック牛乳でそれぞれ塞がっていた。これも勝手な埋め合わせの一つなのであろう。仕方なくそのまま僕は居間のテーブルに直行した。袋を開けると、サンドイッチが出てきた。なにか食べてる余裕なんてなかったな、昨日の夜から。サンドイッチの他にまだなにか入ってると思ったら、この前もらったドリンク剤の朝飲むヤツが2本入っていた。まぁ、取り敢えず歯を磨こう。そう思って僕はキッチンに立った。

足元には昨日の空の牛乳パックが転がっていた。食べてないことを幸村さんが来るまで気が付かなかった。このだるさはもしや低血糖? 朝の吐き気も空腹でか? 確かに食べずにただ寝ていたわけじゃない。あの激しい行為でカロリーも水分もタンパク質もかなりの量を失ったはずだ。エグゾーストと言うべきだろう。具合も悪くなるわけだ。寝不足だけじゃなかったんだな、と、歯磨きのあと空の牛乳パックを潰してゴミ箱に捨てた。

 

 サンドイッチを食べ終わりドリンク剤を1本飲むと、だるさが3分の2ほど回復したような気がした。本当に低血糖だったんだなと感慨深い思いで、食べた後のゴミを捨てにキッチンに行った。ガラス瓶は洗って分別しなければならない。回復はしたものの、幸村さんの勝手な埋め合わせが体調面で効果を上げていることに僕は複雑な気分になった。そのあとすぐに堺教授に電話して、今から出勤します、出来ます、と告げた。着替えながら、そう言えばなんで幸村さんは僕が午前中休んでたって知ってたのだろうと不思議に思った。教授に業務連絡ついでに僕のこと聞いたのかな?

 着替え終わってからスエットのズボンを床から拾い、尻の辺りを調べた。生地が多少毛羽立っていたがどこもほつれてはいなくて、あのプチプチいう音を幸村さんがどのように立てたのか見当もつかなかった。見終わったスエットを上下まとめてベッドの掛ふとんの下に突っ込み、残業も予測して残ったドリンク剤をカバンに入れ、部屋の電気を消して出勤した。12時半頃だった。

 

 職場に着いた僕を待っていたのは、先日の老女の鑑定結果の整理だった。昨日の今日ではさすがに写真はマズい写真は…ということで、いつものように写真の整理と確認は一緒に解剖した菅平さんにお願いした。僕は解剖時に取ったメモを記憶の中で補足しながら、パソコンで規定のフォーマットに入れ込んで行く作業に終始した。警察の捜査はどこまで進んでいるのか、昨日の今日ということもあり、まだ報告も問い合わせもない。午前中に鈴木さんが珪藻の検査をしてくれていたので、溺死か否かのおおよその判別は着いた。珪藻は検出されず、だった。僕の中では当然と言えたが、溺死の線は表面上の可能性が低くなったとなる。

 薬物検査は腐乱死体ということもあり難しいところだが、今のところ睡眠薬や向精神薬などの検出はなかった。ヒ素や農薬などの検査はまだ出てはいなかった。引き続き鈴木さんが分析中のようだった。

 デスクで作業を続けていると、目がだんだん疲れてきたので、メガネを外してレンズをティッシュで拭いた。その隙に向かいのデスクの菅平さんが写真整理の中で不明な点を質問してきたので答えた。その後、菅平さんはまた席を立ち、自分の分と僕の分のインスタントコーヒーをマグカップに入れて持ってきてくれた。疲れているように見えたのだろう。皆、ほぼ自給自足で飲み物を作っているが、菅平さんは忙しい時に限ってだが、スタッフにたまにそういうことをしてくれる。いつもありがとうございます、と礼を言うと、ニコリともせず、ついでです、と自分のマグカップを少し持ち上げた。そして珍しく僕に業務以外の話をし始めた。話し始めても、菅平さんのいつもの感情を削ぎ落したような口調には変わりはなかった。

 

「最近、自殺者の解剖は減ってますよね」

「ええ」

「正確な検案をする新入りの警察医の影響だそうです…駅南の市民病院に勤務してるみたいですが」

 

 つまり、自殺の鑑別をそこで行えているからここまで来ない…ということなのか? と、僕は推測した。そして、こんなに減っているにも関わらず、自殺遺体で具合の悪くなる僕のことを暗に非難しているのだろう。それも仕方ない、僕のことで菅平さんには迷惑をかけているし、ひとこと言いたくなるのもわかる。きちんと謝罪して置いたほうがお互いのためだと、僕は菅平さんに向き直った。

 

「その件では解剖でご迷惑をお掛けしているのは重々承知です。僕が不甲斐なくてすみません。その方の検案で済んでるってことですね?」

「自殺の遺体の件は堺先生からの説明は受けていますよ。私は納得しているので岡本先生に謝られる必要はないですが、ここは以前から検視官の臨場率がとても低かったですから助かります。その臨場率も少しづつ改善されていますが」

「確かにそうですが…」

 

 警察における例の『犯罪死の見逃し事案・分析』などの通り、日本の検死制度は現時点では責任の所在が不明瞭で、我が国の他の科学分野と比較しても、検死と死因究明の分野は体系的でなく、とても先進国とはいえない状況となっている。

 あの、幸村さんとの不幸なタイヤ置き場での実証実験を生み出した、保険金目当ての焼損屍体の事案のように、警察において犯罪性が認められないものとして取り扱った死体のうち、後に犯罪行為による死亡であることが明らかとなった、いわゆる犯罪死の見逃し事案は、この十数年で、保険金目当ての殺人以外にも50件近く発覚していた。なにしろ検視官は少ないから臨場率は7〜8年前までは15%を切っていたし、検視官がいない警察に対する臨場での警察医の発言力もたかが知れている。

 しかしあるスポーツ選手の集団暴行殺人事件の見逃しをキッカケに、その翌年あたりからだんだんと政府がその死因究明の制度に、ようやく手を付け、死因究明推進協議会というものが各自治体ごとに発足し始めたという流れにあった。検視官を増員するとか、予算を増やすとか、法律を変えたりとか、その推進効果はまず検視官の臨場率の改善という効果として現れていた。それにしても、僕が謝る必要がないという菅平さんは何を言わんとしているのだろうか? 菅平さんは続けた。

 

「岡本先生が幸村さんとの関係を友好にして頂いてるのも含め、お陰様でこの教室も近年まれに見る平和で死因解明率の高い日々となっています。ですがそろそろ堺先生も定年に差し掛かっていますよね」

「まあ、そうですが」

「岡本先生はなぜ講師に就かないのですか?」

「あ、え?」

 

 そこ!? と、僕は自転車に乗っているとたまにある、飛んできたカナブンにいきなり額を打たれたような唐突な無茶振りに思わずポカンとした。

 

 




《近況》

 職場(薬店)の環境が激変してストレスフルな勤務で上向き始めた体調が悪化してる架空線です。主力の社員さんがいきなり退職してしまった…番頭さんみたいな人だったのに。仕事の質がモロかぶっているので、これからは激務か?と今から戦々恐々としてるところです。手術事件の1週間後にこれですよ…勘弁してくれ…
 だが、先日の研修で、風邪における小柴胡湯の使用範囲と鑑別がわかってちょっとageてる。風寒の傷寒論処方は得意だが、風熱と咳嗽をイマイチ把握しきれてなかったので、掴んだ感が嬉しいわ。
 あと、実験用のネズミやラットは全部オスなんだと聞いて複雑な心境です。ストライクゾーンの狭い話題でスミマセン。今回もご閲覧ありがとうございます!
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