※この作品はR-18です。

僕を止めて下さい   作:架空線

91 / 128
21.掴める掴めない

 低くてとぎれとぎれで、まるで別人のような声…そしてドクター清水はなにかに激しくショックを受けているようだった。なにそれ。なんでそうなるの? ぐったりとソファの背もたれに身体を埋めて、ドクター清水は放心したように僕の後ろの壁を見つめているようだった。その反応は僕のまったくの予想外のもので、僕の思考は再び混沌の中に戻っていった。

 特殊感覚については面倒なんでそんなに詳しいことを誰にも彼にも言ってはいない。今までの職場スタッフには表面に見えている「熱いものが苦手、猫舌」とか「大きい音に過敏」とか、もしくは「味音痴」とか言って済ませている。ドクター清水が知らなくても当たり前で、なんの不思議もない。逆に知りすぎているのが不可解なのに。すると、放心のドクター清水が口を開いた。

 

「それ…いつ気づいたんですか?」

「は?」

「ですから…感覚の特殊性っていうの」

「ああ、たしか中学…いや、高校生でしたか」

「そうですか…そのころなんですね…知らないわけだ」

 

 ふと僕は、佐伯陸に渡した岡本裕取扱説明書のことを思い出した。

 

「佐伯君に僕の取説見せてもらわなかったんですか?」

「トリセツ?」

「僕の取扱説明書です。人と違うのを説明すると非常に長くなって…お互い面倒なんで、職場のコミュニケーションを円滑にするために作りました。皆さん僕にはたいがい困惑されるんで。予め僕の注意点を箇条書きに…」

「えっ? そんなものあるんですか? なんだ。佐伯君まったく教えてくれなかった。なんでかな。忘れてたのかな…そんな大事なもの。先に見せてくれたら良いじゃないですか。ヒドイなぁ。岡本先生の重要な情報、自分は知ってて僕には教えないって…ヒドイなぁ」

 

 その言い方は、明らかにちょっと変だった。言い方だけじゃなくて言ってることも変だった。僕の取説を見せる見せないなど、そんなの佐伯陸の勝手で、見せないだけで2回も「ヒドイ」と言われなければならないかがまったくもって不明だった。明るくて穏やかな話し方はさっきから消え失せ、抑揚のないイラッとした低い声に変わっていた。初めのドクター清水とまったく印象が違う。もしや二重人格者なのかと疑ってしまうほどの変わりようである。

 

「あの…読んでもらえるなら差し上げますよ。もらって頂いたほうがこちらも助かります。印刷するのでちょっと待ってて下さい」

 

 そんなに欲しいんならこちらも願ったりだ、と、返事も待たず席を立ってデスクのパソコンを立ち上げた。

 

「いいんですか!?」

「ええ」

 

 背中から嬉しそうなドクター清水の声が聞こえてきた。さっきの地の底から響くような呪詛ではまったくない、いきなり嬉々とした明るさに変わっている。その落差がものすごい違和感を醸し出していた。それには構わないふりで、久々に岡本文書館謹製のフォルダを開き、作成した文書を開く。佐伯陸以来だ。佐伯陸も大概だったが、ドクター清水もオカシイ。オカシイ人間にあげる書類じゃないんだが。

 トリセツを印刷し終えたら、明らかにオカシクなってるドクター清水をここから追い返そうと、作業をしながら僕は画策していた。

 椅子に腰掛けてパソコンに向かっている僕の背後からさっきより落ち着いたドクター清水の声が聞こえた。作業を見に来たのだろうか。

 

「あ、岡本先生、髪の毛に糸くずが付いてますよ。取りますから動かないで下さいね」

「え…あ…はい」

 

 プリンタが作動し始めた。印字の音が聞こえてくる。ドクター清水の手が僕の後ろ髪に触れている。

 

「へぇ、サラサラですね…岡本先生の髪」

「はあ」

「シャンプーってなに使ってます?」

「トニックシャンプーですが」

「冬でも?」

「回答はいま印刷してるトリセツに書いてあります」

「えぇ? そうなんですか…はい、糸くず取れました。ゴミ箱…ここに捨てますね」

「すみません」

「へぇ、こんなの作ってあるんですかぁ。岡本先生ってマメなんですね」

 

 僕の両肩にドクター清水の手が置かれ、背後から僕の肩越しに画面を覗き込んでいるようだった。声はだいぶ最初の印象寄りに戻ってはいる。そのすぐ後にプリンターが仕事を終えた。彼の手に構わず僕は立ち上がった。ドクター清水の手が僕から離れた。

 

「印刷出来ました」

「すみません」

 

 古いプリンターのラックまでトリセツを取りに行く。低い排紙トレーから印刷物を屈んで拾い、振り向くと真後ろすれすれにドクター清水が立っていた。距離がなくて驚いた。

 

「わ」

「これ? じゃ、ありがたく頂きますね」

「あ…あぁ、ええ…」

「へぇ、これだったのかぁ。佐伯君の言ってたのって」

 

 彼はそう言いながらトリセツを手に取ると、立ったまますぐにそれを読み始めた。僕はドクター清水を置いて、パソコンに戻り、フォルダを閉じ、そして電源を落とした。ドクター清水は立ったまま無言で熱心にトリセツを読んでくれている。僕は応接ソファに戻った。

 

「そろそろ閉めて帰りますが、なにかまだ検討するべき事案は他にありますか?」

 

 少し間があって、ドクター清水は急にこちらを向いた。やはり間は変なままだ。

 

「すいません! だいぶ遅くなってしまいました。楽しくてつい長居しちゃって」

 

 楽しい? どこが楽しかったのかよくわからない。

 

「あの、折角ですからこれからご飯食べに行きませんか? 僕、おなかすいちゃった。これからお時間あります?」

 

 面倒くさい大人の付き合いを申し込まれ、僕は暗澹とした気分になった。

 

「トリセツによると岡本先生、食べられれば何でもいいんでしょ? なら僕の行きつけの店、付き合ってくださいよ。美味しい中華料理屋があるんで…僕の車出しますから行きましょうよ」

 

 なにもなかったようにニコニコしながら、ドクター清水は僕に提案した。さっきの文書はちゃんと読まれてはいる。だが、何も無かったようなのが却って異常な気がする。

 

「僕は自転車があるんで…」

「ああ、食事が済んだらここまで送りますよ」

「面倒掛けますから…」

「いいですいいです! せっかくお会いできたんですから…Aiセンターのことだけじゃなくって、まだお話ししたいです。世間話っていうか、そうそう、コレの解説が要るし」

 

 そう言って、ドクター清水はさっきのプリントを僕の前にピッと立てた。

 

 押し切られる形で、食事に行くことが決まった。本当は断りたかったが、取説の説明を要求され、無下にも断れなくなった。それになにか有無を言わせぬ圧力のようなものを感じた。各所の施錠を確認して鍵を事務室まで返しに行く。その間にドクター清水は車を入り口まで回してくれると言って先に出て行った。

 コートを着てカバンを掴み外に出ると、白いプリウスが玄関先で待っていた。助手席がガチャっと開く。

 

「どうぞ!」

「あ、はい」

 

 ドクター清水の隣に座ると、かすかにミントの香りがした。車の芳香剤なのだろうか。ゆっくりと音もなく車が滑りだした。

 

「いつも自炊なんですか?」

 

 運転をしながらドクター清水は僕に訊いた。

 

「ええ、簡単ですが」

「味にもこだわり無し、ですか?」

「あ、はい」

「好き嫌いが無くて、味にもこだわりがないって、食材、どんなふうに決めるんですか? まさか闇鍋みたいな?」

「いえ、栄養士の指導を参考にしてます」

「へぇ、やっぱりそこは医学的なんですね。知り合いに栄養士さんでもいらっしゃるんですか?」

 

 質問は続き、僕は「脚気」になった概要を行き掛かり上かいつまんで話した。

 

「…病院の診断でわかりました。それ以来栄養士さんの指導通りに食材を選んでます」

「真面目なんですねぇ。岡本先生は」

「さあ。自分ではわかりません」

「確かに、そうですよね」

 

 僕が相槌も打たなかったので会話が途切れたが、構わずドクター清水は話を戻した。

 

「いやぁ、今、若い人の脚気割りと多いですよね。でも岡本先生みたいに、ジャンクフード中毒とかアルコール中毒とか無くてもなるんですね」

「ええ、まぁ」

「1960年代までは膝蓋腱反射は健康診断では必須項目だったらしいけど、今はしませんよね。やっぱり現代こそ復活させるべきなんじゃないかなぁ」

 

 ドクター清水は医者らしいまっとうな話をしている。さっきのはなんだったのだろう? 彼自身、自分で自覚はあるんだろうか?

 それからも脚気の話からビタミンB1の吸収率についてなど、栄養学的な話を一方的にドクター清水がしているうちに、車は街灯の少ない郊外のエリアに入っていくようだった。行きつけの店ってこんなところに有るのか? と思っていると、信号を曲がって左側に広い公園のようなものが見えてきて、車はなぜかその駐車場に入って行った。

 

「すみません。ちょっと後ろの席だと思うんですが、変な音がするんで車止めて直しますね」

 

 ドクター清水はそう言うとパーキングに車を止め、そそくさと運転席を出て後部座席に入った。座席の下を確認してるようだった。

 

「あれ? これかな…よいしょ」

 

 音の原因でも発見したのだろう。独り言のようにブツブツ言う声が聞こえた。なにかいじっているらしく、カタカタ後ろで音がしている。僕は前を向いたまま、その音だけを聞いていた。

 フロントウィンドウから景色をなんとなく眺めていると、ぽつんとある水銀灯に照らされて、公園の看板がうっすら見えた。視力が悪い上に、暗さと疲労ではっきりは見えない。だが、目が慣れてきたのか、だんだん文字にピントが合ってきた。…メモ…リアルパーク…白百…合…霊園…。ああ、ここは死者の公園か。名前は新聞広告やマンションに入ってくるポスティングのチラシでたまに見ていた。このあたりでは大きめの霊園で、駅から遠いので割安らしい。スタッフの田中さんだったか鈴木さんだったか、ここに墓を買ってあるとかいつだったか話していたっけ。

 

 だがそんなことより、自分の目の先の一面の地中に何百何千人という死者の骨が眠っていると思うと、数日来のゴタついている気持ちがスーッと冷却されて落ち着いてくるのがわかった。ただの公園では感じられないこのシーンとした音のない空間、低いエネルギー、沈静。早くこの中の一人になりたい。その日が来るまで、せめていま車を降りてしめやかな墓石が規則正しく林立した静寂の野をずっと眺めていたいと心から思った。

 それにしてもサービス良いな…偶然なのかな、清水先生がここに車を停めたのは、と思い、ふと気づくといつの間にか後ろが静かになっていた。しかし運転席に彼が戻ってくる様子もない。僕はなんの気無しに後ろを振り向こうと顔を横に向けた。

 その瞬間僕の身体は唐突に座席の背後から抱きすくめられていた。ドクター清水の手は僕の胸元で交差していて、その指はコートの襟をギュッと握りしめていた。

 

「あ、あの…ちょっと清水せんせ…」

「裕くんごめん……もうこれ以上…無理」

 

 彼は僕を“裕くん”と呼んだ。まるで以前から知ってるみたいに。突然の出来事に僕は驚きのあまり固まっていた。僕を抱きしめているドクター清水の呼吸音だけが静まり返った車の中に響いていた。とにかく状況の理解をしなければ、と、僕は努めて冷静に彼に尋ねた。

 

「あの…これはどういう…?」

「変な音なんてしてない」

「は?」

「ごめんね…ウソついた」

「あ…え?」

「お願い…もう少し…このままでいさせて」

 

 途切れ途切れの囁きが僕の耳元で鼓膜を震わせる。このままでと言われ、仕方なく僕は言われるままに抵抗もせず抱きしめられていた。そして、ドクター清水は幸村さんを狙っていたのではないということがたった今、僕にもわかった。僕だったのだ。ウソをついてでも人気のないところに車を止めたのは僕にこうしたかったから…それでも、初対面の人にこんな風にされるのは、まったくもって意味がわからなかった。

 

「ようやく見つけたんだよ…どれだけ探したって思ってるの?」

 

 そのドクター清水の言葉に僕は耳を疑った。見つけた? 探した…!?

 

「えっと…あの…意味が…」

「13年…13年探した。13年間、ずっと君のことばかり考えてた」

 

 ドクター清水の声が震えている。その生々しい声は、今日初めて会ったばかりの人である僕にとって、違和感以外の何ものでも無かった。

 

「あの…すみません…わからない、です」

「うん…そうだね。わかるわけがないと思うよ、僕も」

 

 すると彼は、後ろから抱きしめられたままになっている僕の耳元で小さく囁いた。

 

「やっぱり…拒否しないんだね、君」

「え…?」

「普通、振りほどくでしょ…こんな、初めて会った人に抱きしめられたら」

「そう…なんですか? このままでと清水先生に言われたんで」

「やっぱり、誰でも、いいんだ」

 

 やっぱり、誰でも良い? 僕はにわかにはその意味がわからなかった。

 

「どういう…ことで…すか?」

「わからない?」

「ええ」

「わからない…そうだよね。好きも嫌いもわからないから…あの人がそう言ってた。裕は、拒否も愛することもしない。でも、誰にでも抱かれてイクって」

 

 あの…人…?

 

「だっ…誰ですか!? あの人って誰!?」

 

 僕は思わず彼の手を振りほどき、後ろを振り向いていた。めまいがした。振り向かずにはいられなかった。衝撃で世界がぐんにゃりと歪んだような気がした。そんなこと言う人なんて、あの人しかいない…この、すべてを始めたあの人以外。

 




《無駄にステマな近況》

 年の瀬もいよいよ押し迫り、除夜の鐘が響く大晦日となりました。色々ありましたが、執筆に戻れて本当に良かったと感慨深く今年も暮れていきます。餅の美味い季節になりました。
 清水センセと裕が話していたビタミンB1の吸収率ですが、いわゆる安いビタミンB群のサプリやドリンク剤に入っているチアミン(チアミン塩酸塩・チアミン硝酸塩)は、吸収に限度があり、容量の5%〜10%くらいしか吸収されないのです。吸収の良いビタミンB1は《フルスルチアミン》《ベンフォチアミン》というビタミンB1誘導体というヤツ。アリナミン系、リゲイン系、エスファイトゴールド、ビタシーゴールドなんかに入ってます。リポビタンシリーズは値段高いのには入ってます。錠剤ではアリナミンA、キューピーコーワiプラスあたりですね。アメリカのサプリ会社のドクターズ・ベストでもベンフォチアミンをお安く売ってます。
 疲れたり、甘いもの、寿司、餅、酒の摂取後、感染症(風邪とか膀胱炎とか)はビタミンB1が消耗してますので、ぜひ吸収の良いビタミンB1を取って、健やかな年末年始をお過ごしください。B1は糖質の吸収や、神経の健康を維持する重要なビタミンですので、欠乏しないようにお気を付け下さいませ。マジです。慢性的なダルさ、下肢のむくみ、末梢神経の異常感覚など…ああ、これは裕が脚気になった時に書きましたね(僕止め『八、イレギュラーな土曜日』参照)。
 フツーのビタミンB1はネギ・ニンニク類と一緒に摂ると吸収が良くなるので、御参考に。豚肉のビタミンB1は吸収は良いですが、水溶性なので煮汁にB1が流出します。炒めるとかスープ、豚汁などが良いでしょう。上記商品の製薬会社の各広報担当者の皆さんはぜひ私になにかしらの付け届けなりなんなり考えたらどうだ。

 では、本年もご閲覧ありがとうございました。皆さまの良いお年をお祈り申し上げます。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。