※この作品はR-18です。

僕を止めて下さい   作:架空線

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26.灰色の走馬灯

「でも僕は君を見つけた…信じられないけど、今、君が、ユウくんが…僕の目の前にいる……」

 

 自然にドクター清水の指が僕に伸びようとした。

 

「や、や…め…」

 

 ショック状態の中、全身に伝わるおぞけに僕は身をすくめた。それに気づいた彼は、悲しそうに微笑んでその手を僕に届く前に下におろした。そしてその手を握りしめ俯向いた。息が早く浅くなっている。頭の中はまだ這いずる虫で掻き回されたままだった。

 

「長かったんだ…ほんとに長かったんだよ…」

 

 そんな僕に構わずそう言うと、彼の目が再び潤んできた。僕の恐慌はまったく彼の話を遮ることはないのか? その無神経さが更に僕の震えを増幅した。胸が苦しい。力が入らない。震えが止まらない。首を絞めて落として欲しいくらいに。その慄きをようやく察したのか、ドクター清水が慌てたように僕に言った。

 

「ごめんね…また震えてるね…当たり前だよね、あんなこと。でも僕と君にあのとき何が起きたか、もう言葉で説明できる気が全くしなくて…あんなもの見せて本当にごめん…もしかしたら君はあの動画の存在を知ってるのかもってほんの少しだけ思ってた…でも違ったんだね。震えてる…それなのに僕は君を抱きしめてあげられない…でもそれも僕の自業自得だ…ごめん。僕がもっと忍耐が出来てたら、もっとゆっくり近づいて行けたら、もっと時間を掛けて関係を作っていけたら…もっと君が安心できる人間で僕がいられたら…」

 

 そんなこと思ってるなど知る由もなかった。それは言い訳なのか本心なのか全くわからなかった。

 

「でももう君の姿を見てから僕は止まれなくなってしまった…君を見つけられたのは、ほとんど偶然なんだよ。取り憑かれたみたいに君を探し始めてからというもの、学業との並立はとてもじゃないけどキツかったんだ。でも医師免許もなんとか取れたし、どうにかこうにか君を探しながら仕事もしてなんとか暮らして、でも10年目くらいにはもう精神的に参ってしまっていて、鬱に近い状態だった。もう自分がダメになる、壊れかけてることもわかってる。壊れきる前にどうにかして諦めなければって思い立って、アメリカに法医学の研修をしに渡米した。君の居る日本に居たら、諦めきれずに寝る間も惜しんで探してしまう自分が苦しくて辛くて、それならいっそ他の国に行けばいいと。誰も僕を知らない国で、愛する死体を毎日見て暮らせば君への恋慕も少しは紛らわせるかって…父親と険悪だった僕は故郷に帰ってくることはないって、大学受験でここを離れてからずっと思ってたんだから。でもその父親が癌になってさ。早くに僕の母親は亡くなってしまったし、僕は一人っ子だったから一人っきりの父親を放ってはおくわけにいかなくて、親戚からも毎日国際電話が掛かってきて、それでアメリカからこっちへ帰ってきたんだ」

 

 いつの間にか彼は遠い目になって過去の経緯をたぐっていた。驚いたことにこの人は自分が壊れかけていることを知っていた。幸福とは決して言えない過去の回想は今までの告白の中で、唯一まともに聞こえた。するとそのまともさが、不意に僕に、「この人が不幸な原因が僕にある」という感覚を呼び覚ました。

 僕が今まで引き起こしてきた、僕が僕であるがゆえの避けられない罪の意識。ドクター清水の行為が極めて一方的で独善的なストーカー行為であっても、その罪悪感に呼応する心苦しさを僕は少しづつ感じ始めていた。その身に馴染んだ罪悪感が動画のショックを少しずつ覆っていくと、少し苦しさが和らいできた。毒を以って毒を制すというのはこのことだった。罪悪感のいたたまれなさの方があの動画の汚辱よりもまだマシだった。その感覚に僕は無意識にすがった。

 

「父親の癌が発見されたのがもう末期で、膵臓癌だったから進行が早くてね。帰国した僕が今の市民病院に取り敢えずで就職してから父はすぐに寝たきりになって、手術も出来ない、抗癌剤も結局効かなくて骨転移しちゃって、それから3ヶ月で最期はモルヒネ漬けのまま逝ってしまった。看護の疲労感と、遺産相続とかいろんな手続きとかしばらく掛かって、アメリカに帰る気力もすっかり失せて、でもここの警察は死因解明に力を入れてるってのがわかって、空虚な時間を埋めたくて警察医になった。忙しければ日本にいても君のことを考えなくても済むと思った。この家は父が亡くなった後、実家を建て替えたんだよ。いつか気が向いてアメリカに帰ったら、ここを貸家にしようって思ったりしてた」

 

 そしてまた僕の顔をじっと見た。

 

「検案を始めたらさ、自殺か他殺かって難しい遺体が出ると、警察医の仲間が変なこと言うんだ。岡本先生行きだな、とか、警察まで、岡本先生は見ただけで自殺の鑑別が出来る変人…自殺リトマス紙だ、とかなんとか。変だろ?」

 

 そう言うとドクター清水はクククと笑った。

 

「その頃僕は、君のことを考えないために、Aiセンターの構想というプロジェクトで頭の中をいっぱいにするよう努力中だった。検案時のAiの使用について警察医会の皆から意見を集め始めていた。それで法医学教室のホームページを見てた。でも岡本って名前がないんだ。それで夏の懇親会のときに法医学教室も合同でって企画を立てた。君は来なかったけど、堺教授に岡本先生の話を聞いた。忙しくてホームページを更新してないって。講師でも准教授でもないからそれでどこにも載ってなかったんだなってわかった。そのあとAiセンター構想のメンバーのリストを作るんで、大学側の関係者のプロフィールを堺教授から送ってもらった。法医学教室と放射線科のね。そこに『岡本 裕』という人物の名前が書いてあった。そのふりがなに、“オカモト ユウ”って…」

 

 ドクター清水は両手で顔を覆った。

 

「僕はまさかって…思ったよ。ユウって名前に過剰に反応してしまうだけなんだって、昂ぶる自分に繰り返し言い聞かせた。今まで何度も何度も名前から実物を確かめようとユウと付く名前の人には必ず会いに行ったけど、誰一人としてユウくんじゃなかった。ユウ、ユウイチ、ユウキ、ユウヤ、ユウジ、ユウト、ユウリ、ユウマ、ユウスケ、ユウタ…でも動画の君が何歳なのか、中学生なのか小学生なのか高校生なのかもわからなかったし、あの男から淫乱とか、誰にでも抱かれるとか聞いてしまっているせいで、児童ポルノとか出合い系サイトとか売り専の店とか…そういう関係のところばかり探していた。月日が経ってきて、年齢的にもハッテン場とか出合い系サイトに来てやしないかとか、児童ポルノじゃなくて、ゲイビとかに出てないかって勝手に範囲を決めてしまってた。でもユウくんはそんなところにはいなかった。まさか自分と同じ法医学を目指してるなんて、思いもしなかった…しかも…捨てたはずの自分の生まれた街に居るなんて…カケラも考えちゃ…いなかったよ」

 

 彼は脱力したように顔を覆ったまま背もたれに沈んだ。

 

「やめたはずなのに…諦めようって決めてたはずなのにね…僕はその名前からまったく目が離せなくなってた。そして自分がこの法医学教室の岡本先生に逢いに行ってしまうことも、もう時間の問題だった。結局僕はなにひとつ諦められちゃいなかったんだ。自分の渇望から逃げただけ…いや…逃げてすらいないかもね。目を逸らしただけ…ダチョウが砂の中に頭を突っ込んで逃げた気分になってるっていう、そのまんま」

 

 彼の両手が膝の上に落ちた。頬も指も涙で濡れていた。彼は話しながら、斜めにズレた眼鏡をほとんど無意識に指で押し上げた。

 

「でもそれはどうしようもない衝動に支配されていた。その支配はあの動画以来、いつもいつも僕の中心に居た。いつものように僕はその直後、君がいるかどうか業者を装って法医学教室に電話を掛けていた。女性が電話に出た。あれは今なら菅平さんだってわかる。『岡本先生は解剖中です』と言われた。それを聞いたとたん僕は挨拶もそこそこに電話を切り、適当な言い訳をでっち上げて夕方には病院を抜けだした。次の日すら待てなかった自分が滑稽で哀れだった。でも僕は…君の大学に向かった…オカモトユウという人を一目見たくて…ただそれだけのために」

 

 途切れなく、吐き出すように話し続け、彼の声がだんだんかすれ始めていた。だが水を飲むことも忘れて、かすれた声のままドクター清水は取り憑かれたように話し続けた。

 

「法医学教室の出入り口を訊いて、僕は門の見える校外の路地の陰に隠れて待った。着いたのは5時頃だった。それから日が落ちてきた。街灯が点いた。顔が見たいのに、暗いのは嫌だなと焦ったよ。そのうち親睦会で顔を知っているスタッフの皆んなが出てきた。でもユウくんと思える人はその中には居ない。しばらく僕は待った。もう彼らより先に帰ってしまったのか、それとも他の出口から帰ってしまったのかも知れないと僕は絶望的な気分になってきた。でも僕はどうしてもその場を離れられなかった。すると30分ほどして駐輪所から音がした。ハッとして路地から覗くと、誰かが自転車を引きながら門の間から出てきた。その顔を見た瞬間、僕は雷に打たれたようにその場で硬直したまま動けなくなってしまった。だってそれは…」

 

 さっきまで泣いていたとは思えない、クククッという場違いな笑いが聞こえた。

 

「ユウくん、そのものだった」

 

 ドクター清水はそれからしばらく我慢できないといったような顔で笑っていた。途中から笑うのを止めるために手の平で自分の口を塞いだが、その手の平の下からくぐもった笑い声が溢れてきて、どうしても止まらないようだった。そしてそれが止まった時に、彼はまた泣いていた。

 

「ユウくんは大人になってた。でもあの動画の中のユウくんはその大人の身体の中に失われていなかった。声を掛けるすべもなく、僕はその場で君が去っていくのを隠れたまま見てた。なぜだろう、苦しかったよ。狂おしいほどの愛しさで心が押し潰されそうだった。でも放心したまましばらく僕は動くことすら出来なかった。奇跡のように君を見つけて、駆け寄って抱きしめるはずの僕は、動くことすら出来なかった。どうやって君に近づいて良いのか、君を現実に目の前にした時、僕は全くわからなかったことに気づいた。その日以来僕はもっともっと苦しくなった。ずっと、ユウくんさえ見つかれば、歓喜や幸福な高揚感で包まれるって思ってたのに、実際は苦しみと焦燥の渦に叩き落とされたみたいだった。眠れなくなった。朝から晩まで夢の中に居るみたいだった。現実が非現実に変わった。日常がどこかへ消え去って、何をしていようが僕は君のことを考え続けてた。仕事場ではまるで何もないかのように振る舞っていても、家に帰った途端に気が狂ったみたいに一晩中悶え苦しんでた。食べることさえ忘れるほどね。そしてどうしたら君に近づいて、そして今までのことを言えるのか途方に暮れた。君が僕を拒絶したらどうしようと思うあまり、怖くて怖くてそのたびにパニックになった。それでも君に逢いたくて逢いたくて、岡本裕がどんな人なのか用事にかこつけて知ってる人に聞いて回った。佐伯君に話が聴けたのがいちばん僕にはありがたかった。彼は職場や警察関係の誰より、君のプライベートについて深く語ってくれたから…嫉妬で頭が割れそうになるほどね」

 

 ドクター清水の異常な感情の失禁を目の前にして、僕はまた胸のどこかに潜んでいる罪悪感を思い出した。佳彦に悪魔と言われた日のこと、隆が自殺未遂した日のこと、寺岡さんが自爆みたいに隆に告白した日のこと、佐伯陸に首を絞められた日のこと、トミさんが車で谷底に突っ込みそうになった日のこと…そして、今。

 

「そして唐突に僕は理解した。君をAiセンターのメンバーにすればいいって。僕は無駄なことはひとつもしてなかったことに気づいた。なんて僕はバカなんだろう。動転していてまともに考えられなくなってただけだって…僕は自分で布石を打っていた。仕事上の関係で君に近づき、そしてだんだんと打ち解けていけば、僕はいつか君が僕にとってどんな存在かを打ち明けられるだろうって。僕はどんなタイミングで君に会いに行けるかを計画し始めた。ゆっくりでいい…ゆっくりで…そうだよ…僕だって君とこうやって会うまでは、もっとまともに今日っていう日を考えていたさ…でもダメだった…途中まで平気なフリしてた。必死でね。でも法医学教室のあの部屋で君が僕に話し掛け、君が僕を見ているだけで、僕は頭がおかしくなりそうだった! それでこのザマだ…呆れると良いよ…ダメだったんだ…ダメだった…ほんとにどうにも出来なくて…ほんとうに頭がオカシクなった…嘘をついてしまった…抱きしめてしまった…君をここに連れて来てしまった…あの動画を無理矢理見せてしまった…それでも、僕が君に触れられないとしても…君が震えて僕から逃れようとしていたとしても…! 僕はいまこの瞬間が最高に絶望的なのに、最高に幸せなんだよ!」

 

 馴染んだ感情がいつもの僕を意識上に押し出した。気が狂いそうなのは僕も同じだった。どうにかしてこの人の陶酔に亀裂を入れなければならない。僕も砂の中に頭を突っ込んでいるダチョウだった。目の前からいなくなればいい…この人もあの動画も古い記憶も何もかも。

 

「あなたは…しらないから」

 

 いつもの警告が発せられようとしていた。

 

「なに? 裕くん? 僕に…僕になにか言ってくれるの? なにか君が話してくれるの!?」

 

 ドクター清水はすがるような目で僕に尋ねた。あなたの期待するようなものでは決してないそのことについて。

 

「清水先生…聞いて下さい…僕に関わると、みんな不幸になるんです。最悪、死んでしまう」

 

 それを聞くと彼はうっすらと微笑んだ。

 

「だから…?」

 

 と、彼は言った。

 

「だから、早く、離れて下さい」

「いやだ」

「それでも、僕に関わらないで下さい」

「いやだ」

「なぜですか?」

「当たり前でしょう? だって僕は今まさにもう十分、絶望してるんだよ、裕くん」

「先生、死にますよ」

「ああ、死ぬかもね…このままじゃ。そんなこと言われたら僕は死んだほうがマシ」

「なんで…そんなこと言うんですか…!?」

「だって…何を今まで僕の話を聞いたんだい? 君が僕の人生なんだよ? なんでわからないの? 人生の意味が僕に『関わるな』って言うんだよ? 僕はそんな人生、死んだほうが幸せだ」

 

 ドクター清水の目が僕を見下ろした。だがその目は、自分の言っていることが何もかも無駄ではないかと思わせるほどの圧倒的な暴力が滲んでいた。死なない…この人は死ぬと言ってるけど、絶対に自分から死ぬ人じゃない…佐伯陸の危うさとはこの人は真逆であると、威圧で満ちたその目を見た僕は瞬時に理解した。抵抗する気力がほぼ萎えるような。

 

「救われるべきは君なんだよ…わからないの?」

「ぼ…くが?」

「僕がなんで君を探してたのかわかってるんでしょう?」

「…わか…りませ…ん」

「話、聞いてたの? 僕はなんのために今まで君に語りかけてたの? ねぇ、裕くん?」

 

 それは“支配”という力だろうか。ドクター清水は今や感情的ではなくなっていた。もしくは感情は無かった。この威圧感に屈したら、僕はすべての自由を奪われていいようにされてしまう、そんな風に思うほど、彼は微笑みながら静かで脅迫的だった。

 

「き…聞いてます…聞いてしまったから…僕に関わることの意味を知らないで僕に会っちゃいけないんです!」

 

 支配に抗うように僕がそう叫ぶと、ドクター清水は微笑むのをやめた。

 

「知ってるよ…佐伯君が教えてくれたから。黙ってたけど。友達思いの佐伯君が悲しんでたよ。君は自分を死神だと思ってるって。でもそれで苦しんでたのは誰でもない、君自身でしょ…? あの男に生の快楽を植え付けられて…君の中の死はそうやって周りに拡散していくしか無くなった。君に帰っていくはずの死が君に帰れないでいるから周りに感染していくしかないだけ…君のせいじゃないのに…全部あの男のせいなのに…君が苦しんでる。それに僕は耐えられない。だってそれを僕しかきっとわかってあげられないから…!」

 

 彼の感情が戻ってきた。威圧でなく悲嘆。そして僕はまた受け入れたくない事実を再度突きつけられた。彼が僕の最大の苦痛を完全にわかっている、そのことを。黙ってしまった僕からドクター清水は目を逸らした。そして悲しげにゆっくりと僕にこう言った。

 

「僕は…知ってるんだよ。君が自殺の屍体で…どうなるかってこと…」

 

 頭の中が真っ白になり、脇から冷や汗が伝うのを感じた。どうやって…知った…?

 

「僕しか君を救えない。幸村さんじゃ、ダメだよ」

 

 僕は再び陵辱されたフィルムの中に戻されたような気がした。

 

 

 




《近況など》

 1月末で薬局の仕事を辞めて、マッタリした2月を送るはずでしたが、今まで会えなかった方々に会ったり、行けなかったイベントなんかに行ったりしているうちに、矢のような速さで過ぎ去った2月でした。そして今回のUPは久々に6000文字超えです。一段落するまでに長かった。多分清水先生は双子座に水星か火星が入宮してるんじゃないかと思います。そして8ハウスにリリスですかね…
 
 今回もご閲覧頂き感謝です。

 
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